2020年12月31日木曜日
20201231
2020年12月30日水曜日
20201230
2020年12月29日火曜日
20201229 口なし
2020年12月28日月曜日
20201228 ザクロ、不明、年の瀬
2020年12月27日日曜日
20201227
2020年12月26日土曜日
20201226 微睡み
2020年12月25日金曜日
20201225 澱粉
2020年12月24日木曜日
20201224 ゴミ
2020年12月23日水曜日
20201223
2020年12月22日火曜日
20201222
2020年12月21日月曜日
20201221 毛長川
2020年12月20日日曜日
20201220
10:00 現在、コーヒーはすでに一杯。ミャンマーのブラック・ハニー。中深煎りらしいコクと香ばしさの第一印象が、しかし湯と分離して粉状に舌にざらついたり纏わりついたりするようなことはなく、すっと甘く纏まる。
もはや文字ってなんだっけ、という状態だ。文字とは、着膨れを許さない形象の一群だ。それは常に何かしらの芯をその奥底に持っており、その芯へと描線は絶えず収斂していく。この運動の残像こそが文字の姿だ。私たちはそれを例えば漢字ドリルのあの大きな薄文字のうえで、嫌となるほど確認したはずだ。
発生した瞬間に文字はすでに多であろう。消える間際まで文字は頑なに多であろう。終に消滅の瞬間のその一点において、文字は一斉に点と化す。
2020年12月19日土曜日
20201219
2020年12月18日金曜日
20201218
2020年12月17日木曜日
20201217
2020年12月16日水曜日
20201216
9:30 現在、コーヒーはすでに二杯。
冷たい朝だ。窓を締めていても指と手足頭の首と気管が鈍麻する。iPad の充電がこんどは10%から先上がらない。冷たい鉄板のようだ。ひとまず最近放置していたchrome book を引っ張り出したので誤字が多い。
昨夜布団の中でアームウォーマーを検索したら軍放出品の類いが出てきた。フランス軍のダーツもなにもないミニマルな作業用革グローブとか、イタリア軍の三又トリガーフィンガーのミットとか。結構安く売られているので気になる。以前メルカリかどこかで、マルジェラの三本指の革手袋を見たことがある。当時は足袋ブーツの延長かと思っていたが、背後にこうした文脈があったのか。
甘酒甘茶ちゃちゃちゃと朝
2020年12月15日火曜日
20201215 良い夜を持っている
2020年12月14日月曜日
20201214
2020年12月13日日曜日
20201213土手
2020年12月12日土曜日
20201212
9:00 現在、コーヒーは一杯。コロンビアのウォッシュト。
ここしばらくまた眠りにつくのが下手になってしまった。布団を打って跳ね返る鼓動が煩い。何もなかったかのように眠りに落ちたい。
昨夜は小林真樹『食べ歩くインド 南・西編』を少し読み進めた。
階下がおぞましい。
2020年12月11日金曜日
20201211 肉、毛髪、芸術
2020年12月10日木曜日
20201210
2020年12月9日水曜日
20201209
2020年12月8日火曜日
20201208
2020年12月7日月曜日
20201207 オリオン、ササミ
2020年12月6日日曜日
20201206 埃
2020年12月5日土曜日
20201205 洪水、修復、懸隔
"Florence: Days of Destruction" (University of Maryland Digital Collections)
イタリア文化の中心であるほどに、それは潜在的にその喪失、忘却、そして復古、修復の中心でもある。記事中には現地で指揮を取ったウンベルト・バルディーニやウーゴ・プロカッチ、近代修復学の祖チェーザレ・ブランディといった名があらわれる。そういえばブランディの所属する国立修復研究所は、遡ればファシズム政権下の文化政策の中心を担ったジュゼッペ・ボッタイが設立を指揮したものだった。
ボッタイの名を知ったのは鯖江秀樹『イタリア・ファシズムの芸術政治』(水声社、2011)でのことで、党首ムッソリーニの、ともすれば「キッチュ」になりかねない古典主義への偏執に苦言を呈するボッタイの姿勢が印象的だった。「復元よりも保護」を。始源と現代との間に横たわる隔たりを、明っけらかんと無みしようとする「キッチュ」を断固として拒絶し、むしろその懸隔、裂け目をこそ、いわば作品への遡行可能性の架橋として死守すること。
寒い。油が冷えて固まるように鈍い身体の循環だ。昨日届いたヘッドフォンを試した。Sony のWH-1000X M3 、ノイズ・キャンセリング機能が付いている。音楽なしでこの機能だけを有効にしてみているが、なかなか良いかもしれない。聞こえないというよりはむしろ無用に気をもっていかれることがなくなる、という感覚だ。距離が確保できる分、むしろよくそれを聞くことにすらなるかもしれない。テフロン加工の感覚器。
寒い。階下から響く物音への恐怖の中でこれを書いている。キーボードのバネの金切り声。ヘッドフォンをしてより低い打撃音に気付くようになる。硬直した指が押し返される。吸気が鼻腔をざらざらと擦り上げる音が響く。Da, Da. Halt.
2020年12月4日金曜日
20201204 夜
2020年12月3日木曜日
20201203 投函可能
2020年12月2日水曜日
20201202 垂水
13:15 現在、コーヒーはすでに二杯、甘酒も飲んだ。
大きく寝過ごした。これを書き出すのはもっと遅れた。曇り空がしっとり冷気を湛えて、年末を感じさせる空気だ。今日は注文した品が多分まとめて届く予定だ。Amazonが「置き配」をデフォルトに設定してからだいぶ経つけれど、タイミングの読み合いが不要になって大変喜ばしい。それに物言わず玄関先に置かれた箱というのは枕元のクリスマス・プレゼントのようで夢がある。
ゴミのような昨日よ。強いて言えばすこし動く練習をしたか。あとは日曜の夜に行ったばかりだったが、また買い出しに出た。日曜の子望の月が、見逃した満月の月曜を挟んで昨夜はまた僅かに欠けて十六夜の月となり、東の方にけらけらと光っている。すでに重いコートを引き出して、前は首元まで閉じてただしマフラーは巻かずにマスクから靴までが月の下に黒い。ひしゃげた洋梨、5個一袋で投げ売りのグレープフルーツ。くるみとレーズンのパン。
マスクを外すと住宅街に下水の匂いが薄く漂っている。夜の冷えた空気に標本のように封じられて変に他人事な顔をしておりなんだか可笑しい。世間の誰もが気付かぬうちにいつの間にやら世界の匂いは全く変わっているかもしれぬと思う。花弁が変に赤紫だ。
荷物はまだ届かないけれどこうしたサスペンションが生だと思う。キリキリ張り詰めるばかりがテンションではない。綱それ自体が自重に苦しみ弓なりにしなる。綱渡りの男が落ちる。アレシボ天文台のパラボラ崩壊の報を聞く。京都のアーチ。不織布の垂れ幕。ソクラテスとブランショ。
畳の面を冷たい空気がずるずる這い流れている。12月も2日目の昼過ぎである。
2020年12月1日火曜日
20201201
2020年11月30日月曜日
20201130 薄暗がり
8:30 現在、コーヒーはすでに一杯。それと甘酒を飲んだ。酔わないように蓋なしでしっかりと煮立てた。
今朝は少し早く目が覚めた。朝の薄暗さは視神経に深くまとわりつくようで、寝覚の思考の曇りと区別が難しい。電子秤の太陽電池が反応しないのでこれは前者の暗さなのだろう。
昨晩の買い出しの夜道も暗かった。最近買った布マスクは息苦しく、呼吸のたびに眼鏡が曇って街灯の光が虹色の暈を背負う。視界が狭まり、全てが鈍く暗がりに沈み込んで判然とせず、音も毛布を被っているかのようにくぐもって聞こえる。暗い夜であるのかはたまた思考が渋り切っているのかわからない。電柱にぶつかりかけながら歩いた夜勤明けの朝に少し似ている。軽く短い上着は背筋を丸めて呼吸を浅くする。脳の昏酔と区別がつかない。
スーパーを出た帰途、マスクを外すと半ば満ちた月が煌々と明るかった。どうやら明るい夜であるようだった。すでに熱を夜空に放ち切った空気が鼻先から上唇にかけての空間に渦を巻き、顎を敲き、こめかみをすっと透かして抜けていくのを感じる。眼鏡が鼻筋に座り良い。住宅街のそこここから希釈され切った下水のような臭いが漂っている。植木の葉が街灯に晒されてあちこちまだらに黄色く変色し、ぶら下がっている。一月ばかり前に街工場が取り壊されてできた空き地の片隅の小さな土山がいつのまにやら無くなっていた。すぐ傍らに隣家の窓があって、そこから漏れる薄黄色い光はいつもその山の片側をすっぽり照らして、反対側には山の影が平たく延びきっていた、それもいまはもう単に投げやりに濁った薄暗がりだ。土は黒かっただろうか、それを見るのはいつも夜であったので判然としない。重機の軌道に沿って路面に押し付けられた土塊もすでに洗い流されている。
久々に晴れて明るい陽だ。工事が始まる。甘酒のアルコールに脈が詰まる。眠い。西向く士、明日からは12月である。
2020年11月29日日曜日
20201129
12:00 現在、コーヒーはすでに二杯。ボリビアとタンザニアのウォッシュト。前者は昨日のリベンジ。今度こそ、なるほど白い花のパウダリーな香りが口蓋をわずかにくっと押し上げる。そしてその香りからは少し意外なとろりと濃い印象(はちみつと表現されている)、そしてかすかにバターを塗って焼いたトーストを思わせる甘く香ばしい芳香。
今朝も遅く起きたが、昨晩は訳あってそもそも就寝がかなり遅かったのでまあ妥当だと思う。目覚めとしてはわりと綺麗にすっと目覚めた。寝癖はひどかった。深夜の空気はさすがに縮むように寒かった。
一年ほど前に書いたメモ書きをいくつか拾い読んだ。薄いノートにゲルインキボールペンの殴り書き。他人の言葉をこちらの言葉に翻訳した痕跡がある。矢印が縦横に走っている。主線と同じ線でところどころザクザク塗られた図解がある。どこからか流れてきた湯の香りほどに朧ろにはためくイメージを追っては散らす焦燥、絶望、数々の詐術の痕跡に満ちている。どうしてああもあることができたのか、いまとなっては全くわからない。
木漏れ陽は単に記憶の羽触れであるかのようだ。遠く目のおもてを一瞬掠めては過ぎ去って、たどり返そうにもその記憶はすでに別の布置に上書きされてしまっている。すでに陥っている私たちのこの状況それ自体が時間なのであって、私たちの外部やら内部やらに時間はない。すべては喪失の味だ。この肌寒さが過去の記憶、未来の不安だ。首に当てた掌に頸動の脈が跳ねる。立てた襟のこのだぶつきが現在だ。
2020年11月28日土曜日
20201128 笑顔
2020年11月27日金曜日
20201127
10:30 現在、コーヒーは一杯。エチオピアのウォッシュト。
UNIQLOで赤いマフラーを買った。ワインレッドか。
近くの公園にサザンカが咲いている。分厚い葉は街灯の光を押し殺して黒々と、そこに細かく散すように葉の縁が白くぎらつく。赤い花弁に雄蘂(ってこんな字を書くのだな)が眩い。
人混みを避けて夜に買い物に出るようになってから、花の色が今までになく目に鮮烈だ。殊に赤、白。街灯にぽっと照らされているのもそうだが、暗がりに飲み込まれて半ば青く沈んでいるものも。
先日買ったシクラメンはまだつぎの花を覗かせてはいない。
2020年11月26日木曜日
20201126 how how no tea
2020年11月25日水曜日
20201125 高層、廃道、無国籍
9:00 現在、コーヒーはすでに二杯。タンザニアのウォッシュト(キリマンジャロ)と、コロンビアのウォッシュト(ゲイシャ)。
タンザニアはキリマンジャロと名乗るも酸味は控えめ。華やかさとも豊潤とも刺激とも距離をおく、どこか枯れて鄙びた印象。コロンビアは口にすると一瞬の空白ののち、ゲイシャ種によく言われるような紅茶というよりはむしろ中国茶のような、少し湿って微発酵した葉っぱのような風味が、すこしバタつきつつもふっと口の中に広がり、そこに加えていくらかの渋みを舌に残して去っていく。
昨日は銀座に最近できたUNIQLOに初めて入った。地下2階の「ビゴの店」にパンを買いに行くたびにずっと工事やってるなあ、とは思っていたが、既存の建物の1階から4階にかけての床をぶち抜いて吹き抜けにした改修はヘルツォーク&ド・ムーロンのデザインによるものらしい。近くのSONYビル跡地下もそうだけれど、正直私はコンクリートのこういう切断面に弱い。マッタ=クラークが好きなのもその幾らかは案外そんな理由によるものなのかもしれない。
高層ビルの吹き抜けというのはなんとなく妙だ。平面を高さ方向に連続的に操作する能力というのをもとより私は人間に期待していないのかもしれない。同じ平面を判で押したように反復するので精一杯だろう、と。しかし「高層 multi-story」とはいうけれど、それって並行世界ではないよなあ、と思う。それらのストーリーは無数の水道管に貫かれている。
そういえばコールハースの『錯乱のニューヨーク』、読んでないな。
八重洲の飲み屋街一帯で大々的に再開発が始まっており慄く。いくつもの街区を鉄板がまるっと囲い込んでいる。聳え立つ屏風状の扉の奥に閉鎖された道路が見える。道が潰れるというのは、建物が潰れるのとは全く別種のインパクトがある。なんだかんだで私たち(少なくとも、現代日本に住んでいる私たち)はやはりどこに行くにもあらかじめ道の存在を前提してしまっているし、その上を歩き、それに区切られた有限の範囲内でそれを捉えることに慣れてしまっている。そうしたフレームそれ自体が操作の対象として、オブジェクトとしていざ眼前に現れてくると途端に目が眩んでしまう。そうしたフレームは同時に私たち自身を定義するフレームでもあるから。経験として、私たちはどうしようもなく世界と相関しているから。
この平面=計画 plan の内側でなんとかやっていきましょう、そういう話だったでしょう、それが私たち、そういう私たちだったでしょう、それを今更、どうして、流石にそれは私たちの手に余る、手に負えない、もう沢山だ!
上野はアメ横でコーヒー豆と紅棗夾核桃を買う。ナツメの実を切り開いて中にクルミを挟んだお菓子で、昔バイト先の中国の方にお土産に頂いたことがある。どのくらいの歴史をもつお菓子なのか、私は知らないけれど、これはミニマルに悪魔的なお菓子だと思う。ここで「悪魔的」というのは「手段を選ばない」「なんでもあり」「こんなの美味いに決まっている」くらいの意味で、 「ミニマル」というのはそれがしかし味付けも何もなく、ナツメとクルミというわずかに二つの食材だけで構成されているからだ。これはズルい。最大効率にズルい美味しさだ。
私たちは常に何かしらのルールの内側、何かしらのリングの内側で戦っている。フランス料理ならフランス料理、和食なら和食、トルコ料理ならトルコ料理の内側で。ひとつの評価軸、ひとつのフレームの内に留まる。それが良識=常識 bon-sens というものだ。
それを横断するのは両方向に危うい行為だ。リングの外側に放り出されて、評価する側も、される側も、どう身動きをとっていいかわからない。まるで砂漠に投げ出されたかのようなものだ。最高に自由で、最高に道無しだ。先に「こっちだ」と言ったもん勝ちのような気もするし、そうして迷って野垂れ死ぬのもまたそいつの勝手だ。それはとてもとてもズルい、美味しい行いだ。それはあまりに手に余る、あまりに滅法な、それはあたかも空虚=バカンスのごとき豊かさだ。
朝は雨が降っていた。薄暗くて投げやりに寒い。ユニクロのダウンを買おうかと思っている(+J のダウンはいまだに実物を拝めていない)。冷蔵庫のスペアリブをどうしたものか。腹腔を支えるアーチ。11月も終盤だ。
追記
途中からフォントが妙になっちゃったけれど許してほしい。
2020年11月24日火曜日
20201124 口腔
2020年11月23日月曜日
20201123
9:00 現在、コーヒーは一杯。エチオピアのウォッシュト。極力じりじり淹れてみる。4:6メソッドベースでしかし落とし切らないぎりぎり。穏やかで優美な酸味、予感を誘うに留めて良しとする、節度ある甘味。上品なみかん、いやむしろさっくりと歯切れの良い八朔を思わせる。
昨日は気分が良いと書いたが、あれは嘘になった。それからは全くの無気力、不愉快。何をしたのだったか。せめてもの、シャツ2着をアイロン掛け。シクラメンの萎れた花を除く。フローリングを磨く。資源ごみをまとめる。
9:45 現在、コーヒーは二杯。パプアニューギニアのウォッシュト。明日にでもまた少し出掛けたくも思う。
ここしばらく、屋外から、ずっと同じ匂いが漂ってくる。匂いというか、むしろ匂いの欠如とでも言いたくなるような、へんに人工的で、すーすーとする感覚。電源の入った冷蔵庫を開けっ放しているかのような、空気中の分子が電子をどこかに無くして所在なさげに漂っているかのような。嫌な匂いではないけれど警戒心を抱かせるものではある、しかも油断しているといつしかこれ秋の匂いだ、とインプットされてしまいそうな、へんな説得力のある匂いだ。
2020年11月22日日曜日
20201122
2020年11月21日土曜日
20201121換気、UNIQLO、シクラメン
8:30 現在、コーヒーはすでに1杯。エチオピアのウォッシュト。
一昨日に引き続いて生暖かい昨日であった。しかし風は強い。鈍空にすわ工事は中止かと期待したのも束の間、腰に提げた金具の音が寄せ来て、警備の方の誘導に手刀を切りつつ駅を目指した。途中、視線の先がやけに明るいなと思っていたら、一、二区画分の土地が半年ほど見ないうちに丸々更地になっていた。電車はすぐに滑り込む。ビジネスホテルの清掃中の部屋のろくに開かぬ窓の隙間からカーテンがびらびらと吹き出していた。こちらの目前の自動ドアの窓ガラスは当然嵌め殺しだ。座席側の窓が空いていたかは覚えていない。
池袋駅では見慣れない車両を見た。銀色の躯体に並ぶ正方形に近い大きな窓が、黄色い座席の足元近くまでを露わに見せている。去年春にデビューした西武鉄道「Laview」001系のようだ。SANAAの妹島和世が車両のデザイン監修にあたったという記事を読んだことがあった。当然窓は嵌め殺しだろう。窓はその奥に人の存在を予感させるけれど、それが開け放たれるやその予感は、まるで吹き込んでくる風に吹き払われてしまうかのように、希薄なものになってしまうようだと思う。生とは幾ばくかの澱みだ。窓ガラス越しに差す陽の光が、隙間風に舞う埃を静かに振動させる。
新宿駅新南口改札前の広場はすでに完成間近で、段差を少し上がったところには臍くらいという妙な高さの横長の植栽があり、どうやらその両脇から水平にのびた縁部に買ってきた弁当を置いて青空立食パーティーができる。どんな顔して向き合えば良いのかわからない。
高島屋の上の方の階のUNIQLOは、もともと通路に広く開いていた入り口の大部分を机やマネキンで潰し、残りのいくつかのゲートに動線を絞り切ったうえでそこに非接触体温計と消毒液を配備している。感謝祭期間中の本日はさらにそこに東京ばな奈を配る店員が待ち構える。「+J」シリーズ発売と感謝祭とが重なることで予想されていた混雑はしかし特に見られず(目立たない立地ゆえだろうか)、「+J」も意外と棚に並んでいた。正直期待ほどには刺さらなかったが、他方隣に並んでいた通常ラインのハイブリッドダウンが思いのほか良い作りで感心してしまった。正直最初はこちらが「+J」のやつかと思った(売り切れていた)。結局フリーマガジンだけ貰って店を出る。
去年日本から撤退したFOREVER21の新宿店跡のビルには「ゆるゆり」の巨大なポスターがソーシャル・ディスタンスを呼び掛けている。距離を確保させるには自ら大きくなるのがいちばん手軽だ。トーマス・ルフのポートレートに寄ってたかって至近距離で目を凝らそうとする鑑賞者は比較的少数派だろう( https://nanka-sono.blogspot.com/2016/11/blog-post_11.html )。ダ・ヴィンチもスケッチよりもモナリザよりも最後の晩餐がより適切だろう。キャプションの文字サイズに変化はあっただろうか。
もともと画家として活動をはじめたドナルド・ジャッドの作るオブジェクトにとって、そのスケールは重要な要素だ。あまりに小さければそれは鑑賞者の手の内で道具と化してしまい(ジャッドはいくつかの家具のデザインも手掛け、失敗したり成功したりしている)、さりとてあまりに大きければそれはモニュメントだ(ジャッドは建築家でもある)。例えば天面を鑑賞者の目の高さより少し上に設定することで、オブジェクトはそれを前にした者の手には負えない、しかし目と脚で追うことはできる、空間的・時間的に幾ばくかの暈を纏った、経験の嵩張りの中心として機能する。作品とてホワイト・キューブとて、ある種の統制の空間に他ならないわけだが、ところで窓はそこにいかに組み込むべきだろうか。そもそも接触を厭う空間において、手指消毒の役割とはなんだろうか。展示空間に住むことは可能だろうか。「飾り窓」を換気することは可能だろうか。作品で窓を塞ぐことは可能だろうか。
その夜、スーパーマーケットの花屋で一株のシクラメンを買った。値引き品のひどく草臥れたやつで、花はふたつ斜めに傾いて咲くばかりだが、つぼみはいくらか残っているようだ。実家にあるものよりだいぶ青みの強いマゼンダで、片手に抱えて夜道に出ると鈍くくすんだように闇に紛れる。この色を自社のロゴに掲げる企業はまずないだろう、というような陰気な色だ(唯一思い浮かんだのが昔使っていたHuawei 社のスマートフォンの、起動時のやたらと派手だがフレーム数は少ないアニメーションで、黒い背景に翻えるようにロゴが現れる、その周囲に飛び散る花火の一部がこんな色だった気がする)。無人駐車場の蛍光灯の光を横から受けては花弁の縁だけを浮かび上がらせ、街灯を上から受けては不意にダイオードのように熱のない光をこちらに寄越す。葉の配置は効率的で土の表面は窺えず、不明の黒か土の黒かの見分けがつかない。
私は東京ばな奈をまだ食べたことがない、食べたことがないという味とでもいうものがある。窓の無い部屋の中、不明の味。
変に生暖かった一昨日に代わって秋らしく吹き込む風の秋晴れの日だ。工事は休工の、世間の三連休の初日だ。カウントは盛り上がり為政は大喜利に余念がない。
12:30 現在、コーヒーはすでに二杯。先ほどと同じエチオピアのウォッシュト。すみやかに抽出して青瓜のような印象。エチオピア北部でなおも続く紛争などはどこ吹く風と、イルガチェフェ。
2020年11月20日金曜日
20201120
8:00 現在、コーヒーは一杯。エチオピアはモカ・シダモのウォッシュト。
昨日はいやにぬくかった。そのうえ工事の騒音が耐え難くて窓を閉めていたので、空気が籠って堪らなかった。今朝は曇り空で少し不気味に薄暗く、夢にひり出されるようにアラームより先に起きた。予報によれば気温が高いのは昨日と同様。雨がいくらか降るだろうし、工事が中止だとよいなと少し期待する。こんな天気なのに近所の住人が道路に水を撒いている。人混みが緩む可能性に賭けて今日こそ街に出かけようかとも思う。どうしたものか。
昨日は岡嶋裕史『ブロックチェーン 相互不信が実現する新しいセキュリティ』を読み終えた。やはり中心になる話題はビットコインだが、驚くほどに先細りのシステム、まるでスペースシャトルだ。そもそもある程度の多人数が参入しないと成立しないシステムなので、開設直後にインセンティヴを集中させる。しかし通貨である以上、当然希少性は確保する必要があるので、参入者が増えるほどにリターンは減っていく。別段なにかの計算処理を分散させているわけではないので(あくまでも冗長性が確保されるだけ)、拡大によって処理力が拡大したり負担が減ったりすることはない。そのくせ個々のノードに保存されるデータ量はどんどん膨れ上がっていく。
そうしているうちに外では工事が始まった。湿気を吸った髪が鬱陶しい。救急車のサイレンがよく響く重い大気だ。
2020年11月19日木曜日
20201119
2020年11月18日水曜日
20201118
9:15 現在、コーヒーは二杯目。パプアニューギニアのウォッシュト。
昨晩の夕食
・白米
・筑前煮(人参、大根、蓮根、里芋、こんにゃく、干し椎茸、鶏むね肉)
・鯖の味噌煮
・人参の葉の煎ったもの
・蕪の葉と玉ねぎのキッシュ風
買い出し翌日の献立の混乱は常とはいえ、昨日はまた随分とごりごりとこれに取り組み、午後一杯を潰した。最後のキッシュ風というのはベジタリアン仕様のもので、昔あちこちから書き写していたレシピのメモのなかから見つけた。玉子とチーズのかわりに厚揚げと白味噌を使うという、まあこのジャンルの常套手段ではあるのだが、あらためて材料と工程を並べられると、これがキッシュ風と呼ばれうるものになることの奇妙さはやはり大きい。
みじん切りした蕪の葉と玉ねぎを炒め、水切りした豆腐(厚揚げはなかったので)と白味噌はミキサーで潰す。これら全てと塩胡椒を混ぜて型に流し、オーブンで焼く。以上。
果たして、流石にキッシュのようにはしっかり固まりこそしないものの、風味は驚くほどに蒸し焼きされて固まった玉子とチーズのそれだった。蕪の葉はだいぶ緑も濃く育ち切ったもので、青臭く筋っぽくなりはしまいかと心配だったが、玉ねぎの甘みと合わさって良い具合にほどけている。なにかのソースに良いのではと思う(見た目はサイゼリヤの「ディアボラ風」ソースに似ている、食べたことはない)。
ベジタリアンやマクロビオティシャン向けの「もどき料理」、だいぶ昔に興味を持って、しかしえてして若干手に入れづらい、もしくはそんなに使うものでもない、材料をわざわざ買ってくるのも億劫だったので、大抵は代用のあの手この手を面白がって見て回るだけだったジャンルだ。
料理に正統な変化の系統というのがもしあったとして、そこから踏み外した、割と鬼っ子の部類に入るのがこの流れだと思う。ある食材が持つもろもろの性質を目や舌の上において模倣すべく、あちらこちらから文脈も節操もなしに召喚されてくる素材たち。高野豆腐、アーモンドプードル、タヒニ、テンペ、ココナッツ、各地の豆や雑穀、調味料…。これはこれでなかなかにグローバリズムの産物だ。そもそもこの調理技術の発展は、それが「もどき」である以上、すでに肉や乳酪や精製糖と小麦のケーキを食べた経験がある舌によって方向づけられている。その舌、酸いも甘いも噛み分けるその舌で、我々はこちらを選ぶ、というわけだ。
夜、『斜陽』を読み終えた。アメリカ製のグリーンピースの缶詰でつくったポタージュからはじまる小説だ。更級日記もローザ・ルクセンブルクも聴き齧る主人公だ。
人間は、みな、同じものだ。
なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。
(太宰治『斜陽』)
地形
2020年11月17日火曜日
20201117 黴臭い、葉の影、引き延ばし
Raspberry
--The lightly sweet, fruity, floral, slightly sour and musty aromatic associated with raspberries.
World Coffee Research, Sensory Lexicon (First Edit, 2016)
フリーズドライでもジャムでも冷凍でもない、生のラズベリーを食べたのはこれが初めてだったかもしれない。赤い液の詰まった幾つもの小胞がビッシリと配列して全体をつくり、果床の跡が大きく窪んでいるので、まるで培養液の中で細胞分裂して育ったミニチュアの臓器のようにみえる。房と房の間からは同じ数だけの毛が生えている。
ラズベリーを見るとまたIKEAのフードコートに行きたくなる。円を一方向に引き伸ばしたような形の白い皿にのせられたチーズケーキの、室温にゆっくりと解けていくクリームチーズとぽろぽろ溢れるクランブルに塗れて皿に纏わりついたラズベリー・ソース。日中の照明はガラス越しの日光に押されてかえって薄暗く、赤いソースの表面に曖昧なハイライトを寄越している。誰もがめいめい勝手な席で、勝手なことを、勝手な方向に向かって話している、これはまだ年が明けて幾月と経たない頃の光景だったか。
9:30 現在、コーヒーは二杯。ホンジュラスのハニー・プロセス。コメントに「グレープフルーツ」とあったのが、実際に口にしての滑らかに甘い第一印象からはいまいち納得できなかったが、しばらくおいて冷めてみると、どこから湧いたのか、グレープフルーツの皮のかすかに渋い酸味が確かにはっきり現れている。
昨晩は買い出しに出た。スーパーマーケットに向かう道中、いつも見上げる好きな樹がある。くたびれた民家の片隅に立つくたびれた樹で、敷地の片隅からだいぶ路上にはみ出して、足下のブロック塀には番地表示のプレート、その傍らに電柱が立ち、幹から分かれた枝先は電線と半ば絡まりそうになっている。電柱の上の方には街灯の頭が挿げられており、夜、私が買い出しに出る時間にはそれが樹の木末に斜めに差し込んでいる。葉の縁周りは黄味に透かされ、その内側はすっと青く発光し、それが互いに折り重なって、ザクザクと筆を重ねるように斑らに暗緑へと沈もうとするが、葉が微かに揺れるたびにそれがまた解けて蛍光する緑が零れ出たりする。そうした葉叢に突き立つ枝はいよいよ黒黒として、樹下のこちらが視点を少し動かすほどに光を蔽いまた洩らしの縞々だ。夏の間はこんもりと茂った枝葉が複雑に光線を応酬していたこの樹も、いまは光源に近くの枝先に僅かに葉を保持するばかりで、幹は以前より少し灯を多く受け、自らの木末の黒い網目がそれを細かに刻んでいる。
3Dグラフィックにおいて、セルフ・シャドウの扱いはひとつの悩みの種であったという。遮蔽幕としての自らが、投影幕としての自らに落とす影。その語の二重の意味でスクリーンとしてのオブジェクト。影とは太陽の視界の残余であり、そこにおいてオブジェクトは自らの内で細かに分裂している。太陽と一対一で差し向かう限りでの自らを、太陽の目に向けて余す所なく照り輝かせながら、その裏側では微細な陰影の経済が自己のあらわれを無限に引き延ばしている。太陽の目を盗み盗み、その引き延ばしのうちにあるのがこの世界だ。
2020年11月16日月曜日
20201116 多層住宅、ピンク・スライム、直立猿人
2020年11月15日日曜日
20201115 手
2020年11月14日土曜日
20201114 V60の腹の肉
9:30 現在、コーヒーはすでに二杯。UCCのタンザニア・ブレンド。昨日買って来たHARIOのV60ドリッパーを使ってみる。妙に好みの味に仕上がってしまったが、ドリッパーの所為か淹れ方の所為か量りかねるので要検証。
定規とコンパスで作図したみたいに直線的なコーノ式に並べると、HARIOの多段腹状の意匠は若干気色悪い。HARIOはこの多段腹を何を思ったかブランドイメージとしているらしく、計量スプーンやケトルにまで同じ意匠を採用している。この段々は円錐の外側にのみ施され、内側には干渉しないので、この多段腹は液の抽出、少なくとも湯の流れのコントロールにはなんら寄与しない、意匠的なものであろう。
内壁は上下にかけてなめらかに膨らんだカーブを描いており、その外側に件の腹が突き出している。縦断面図を取れば、壁の厚みが房を成しているのを見てとることができるだろう。透明なAS樹脂のコーンはそれゆえ上から見ると、房のそれぞれが周囲の風景を大きく歪めて透かし、それが同心円を成しているように見える。この効果は内壁にいく筋も走る螺旋状のリブの求心性と合わさって一層効果的だが、紙フィルターを被せ粉を投じてしまえばそれも関係ない。
外から見ると、斜め上方から見下ろされたとき、遠近効果に透明素材故の屈折と全反射とも相まってこの段々は目立たなくなるが、腰を屈めて視点を下げるにつれて、輪郭が解れていくように、徐々にこの括れがあらわになるとは言えそれはあくまでシルエットの上での括れに限ったものであって、素材の肉付きが見えるわけではない。
透明なAS樹脂製とはいえ、樹脂と空気の間に反射屈折が生じる以上、その断面形状が見えるわけではない(屈折率ゼロだったらそれはそれで今度は何も見えなくなってしまう)。透明性は全てを白日の下に晒すものでは決してなく、それどころか自らについてはむしろ一際に黙してしまう。透明な肉の厚みに私たちが触ることは決して叶わず、ただその鋳肌を撫で、日にそれをかざしてみるだかりだ。
2020年11月13日金曜日
20201113 夢、大気、PS5
9:30 現在、コーヒーは一杯。パプアニューギニアのウォッシュト。
ここしばらく、「コーヒーが好きであり、自分なりに色々読んだり試したりするように心掛けている」と言ってもよいかな、というくらいの振る舞いをしていたつもりだけれど(躊躇いなしにそう言えるだけのものを私はこれまでひとつとして持たないままに今まであった)、とんでもない、私は本当に何も知らないのだという分かりきった事実が改めて闖入してくる。Kindleで200円で買った200ページばかりの初心者向けムックさえ、知らない内容で一杯だ。
キャベツのトーレン。汗を吹いてふやけた薄緑とターメリックの黄色が馴染み、そこに褐色のマスタードとココナッツファインの白色。塩辛い。バスマティ・ライスを炊く。この米に特徴的という香りも私の鼻にはいまだにぴんとこない。もとより視界に映らぬものを探すのはとてもつらい。
昨夜の夢でもまた私は誰かと喧嘩していた。日中の私には決して湧き上がることのない弛まぬむかつきの滞留。「怒りが爆発する」とは言うけれど、怒りはそれ以前にまず、ある種の持続力を要求するものだ。突沸してたちまちにおさまるような怒りは怒りとも呼べまい。
何かを追う夢、何かに追われる夢をよく見る。いよいよ迫る破滅の影に、しかし私の脚はプールの水を掻くようにのろのろとして進まない。あるいはもっとずっと昔、子供の頃には、よく平泳ぎで空を飛ぶ夢を見た。脚の内側に大気を絡め取るようにして、じわりじわりと浮かび上がった地上5メートルばかりの上空から路上を見遣る。どちらの夢でも、その大気は普段呼吸しているものよりもずっと私に濃密で、四肢の運動に払い遣られることもなく、むしろその中でもがく私をいよいよ絡め取って滞留させる。
この滞留のうちに、片栗粉でとろみのついた汁に落とした溶き卵が房を成して凝り固まるように、夢の中の私の怒りもまた可能になっているのではないかと思う。
昨日、熾烈な抽選を勝ち抜いてPS5を手に入れた人たちのTweetが流れてきたのだが、その中のある報告に胸がざわついた。なんでも、PS5のコントローラー表面と本体のパネル裏面は細かい梨目加工になっているのだが、それをよくよくみると、その梨目は実は細かい○×△□マークがビッシリちりばめられたものなのだという。これはもう、いかにもなにかの悪夢にありそうな質感のお話ではないか。
この悪夢的な不気味さの源はなにかといって、まあ、まずはそのスケールによるものだ。私たちが自らの手で何かを作り上げようとするとき、ふつうそのデザインは、私たち自身の生身が持つ分解能の範囲内で成される。色は可視光、音は可聴域から。目に模様として映るスケールはこれくらい、操作表示としてならこれくらい、握り締めるならこの程度だし、その上を歩き回るならあのくらい。そうしたスケール設定を期待して向かった先でしかし踏み外すとき、私たちはすぐ、自分が何かを間違えたことを悟り、間合いを取り直そうと距離を置く。
しかしそれだけであればよくあることだ。用途を間違えていたのかもしれないし、あるいはそもそもそれは「技術」の産物ではなかった、「自然」の所産だったということかもしれない。私たちがその内に住っている環世界の外部には、広大な「わからなさ=自然」の海がタガも何も無しに無限に広がっている。私に対して他者として立ち現れることさえないそのノッペラボウの自然をしかし私たちは、あたかもそれがはじめから私たちに向けて書かれていたかの体で、抜け抜けと読み上げては自身の球体の内側に組み込んでいく。
問題となるのは、そうした自然への探索作業のさなかに、不意に、全くお呼びでないタイミングで、ふたたび技術の痕跡に突き当たってしまう時だ。全てを自家薬籠中に取り込んでいく厚かましさを振るう余地も無いほどに、はなからこちらに見るべく与えられているかのように、開けっ広げに眼前に姿を現してくるとき、それは不気味だ。火星表面に横たわる2.5kmに及ぶ人面岩であるとか、遺骨の海綿質を顕微鏡で拡大していった先に映り込む微小なシリアル・ナンバー(『ブレードランナー2049』)は、私たちの目に不気味だ。
そうした場違いな品=オーパーツ(Out-Of-Place-ARTifactS)に出くわすとき、これまで揃っていた私たちの歩みは激しく動揺する。足幅はばらつき、足並みが乱れる。常識=良識 bon sens のスケールが揺らぎ、リズムが破綻する。私たちはその場に渋滞し、滞留する。逃れようとするも脚はすでに縺れ、ぶよぶよと膨張し、もはや足裏の冴えた感覚も確かなグリップも期待すべくもない。
「なんということだ、そうだ、これはなにかの悪い夢だ、私たちは見られている、私たちのこの醜態を見てほくそ笑んでいる誰かがいる、それは神か?私たち自身か?」
私たちの目に小さすぎる○×△□に出会したときの悪夢的光景とはこのようなものだろう。この地球、「私たちのために創造された」この地球の大気は、いうまでもなく、他でもなく、"私たち"の四肢に、呼吸器に、それこそ「空気のように」透明で、軽やかで、無味無臭だ。大気のこの透明感は、"私たち"の同質性にこそ保証され、同質なる私たちを中心に、同心円状に広がっている。しかし円環の片隅が不意に何か、別の円環と衝突するとき、同質性の円は揺らぐ。したがって大気は濁り、澱み、それまで意にも介さなかった重みが肩へとのし掛かる。こうしたズレ、こうした澱みの中に、例えば私は泳ぎ、脚を掬われ、怒り続けるのだ。
2020年11月12日木曜日
20201112
2020年11月11日水曜日
20201111 橋、斜、廓
2020年11月10日火曜日
20201110 amla
2020年11月9日月曜日
20201109 分かち、苦しみ、足の親指
地下足袋というものを、その時、それこそ生れてはじめてはいてみたのであるが、びっくりするほど、はき心地がよく、それをはいてお庭を歩いてみたら、鳥やけものが、はだしで地べたを歩いている気軽さが、自分にもよくわかったような気がして、とても、胸がうずくほど、うれしかった。戦争中の、たのしい記憶は、たったそれ一つきり。思えば、戦争なんて、つまらないものだった。(太宰治『斜陽』)
地下足袋が親指を、他の4本の指からわざわざ分つことの意味はどのようなものなのだろうか。前脚のように、その「握ることが出来る」ことにおいて殊更に他の哺乳類から霊長類を分つのに資するわけでもない、「足の親指」(バタイユではないが)のこの分かちの意味は。
あるいはそれは「苦しむため」ではないかと、そう思ってみたりもする。
2020年11月8日日曜日
20201108 掲示板四方
2020年11月7日土曜日
20201107 炊ける間に
2020年11月6日金曜日
20201106
10:00 現在、コーヒーはすでに一杯、コロンビアのウォッシュト。1投目と2投目の湯量のいずれを多めに取るかで仕上がりの酸味/甘味のバランスを調節出来るとの話を聞き齧り、試しに酸味を出すべく1投目多めにしてみる。変わった気はする。
先日買ってきたアムチュール・パウダーを舐めてみる。青マンゴーを乾燥させて粉末にしたものだというので、爽やかな酸味が微かに香る感じかなと予想していたが、開封してみると思いの外パンチの効いた香りが漂う。まず連想したのは「梅干し味」で、それも最近の出来が良いのではなく、一昔前の駄菓子とかふりかけのような、ジャンキーなもの。味もまた然りで、塩が添加されているのではないかと疑うほどだ。乾燥しているのに酸味があるってだけでジャンクな印象になるのは経験的なものなのだろうか、通販サイトの説明には水分量を増やさず酸味を加えられると売り込んでいたけれど、たしかに天ぷらに添えたりといった用途にもよさそうだ(というかマンゴー塩みたいな調味料があったような気がしていたのだけれど、検索しても出て来なかった)。
今日はなんともはっきりしない曇空だ、こう言う日は変な冷えかたをする。空気の熱が妙に肌にしつこいのに、不意に身体がぎくりと震えたりする。指も筋っぽい。視界もさらに狭くなる。
2020年11月5日木曜日
20201105 花道、花街、青梅の味
2020年11月4日水曜日
20201104 押し麦
7:45 現在、コーヒーは一杯、エチオピアのナチュラルの残りにブラジルのナチュラルの混合。味が二層に分かれながら、それらが正確にシンクロしているような不思議な印象。パイ生地を短冊状に切って何も挟まず焼いた時の、溶けたバターを吸って歯切れ良くエッヂの効いた生地と、バターの芳香を含み込んで膨れた空洞とが成す並行法のような。
9:00 現在、コーヒーは二杯目、ルワンダ。
昨夜みた夢には、大学の講堂のような場所でテレホン・ショッピングのような催しが開かれ、とてもとても分厚い本が売られていた。「なんとか・フォール」みたいな名前を付けられたその本は、百科事典大ほどの判型に、厚みは6m強だか、「横置き」にされ、その最上端から1m分ほどのところで開かれて、逆立ちした「J」字状に表紙をぶら下げたまま立ち上がっていた。
また別に出てきたのは木枠に張られた肖像画で、横1/4ほどが蝶番で裏側、木枠側へと180度、これもやはりJ字状に折り畳めるようになっている。Huawei 社のフォールディング・フォンかよ。
昨晩は久々に買い出しに出た。マンホールの底から響く水の音が妙に生々しい。東の空には十五夜を過ぎた月が低く、濃厚に、綺麗だ。雨の名残か、祝日の夜のせいか、人通りは幾分少なく、しかし子供の姿は多く見かける。
オートミールの粒の平たさ。今日は外出しようと思う、晴天だ。
2020年11月3日火曜日
20201103 水の臭い
8:00 現在、コーヒーは一杯、ブラジルのナチュラル。 ブラジルらしいチョコレートのような甘みは引き出しつつも、それを穏やかながらも印象的な青みのある酸味、青りんごとか、むしろタデ科の類の?茎のそれを思わせる酸味が引き立てる。とても滑らかなので、飲み込むとすっと引き、あとにかすかな香味が口腔に漂う。チョコレートホイップを纏ったケーキにイチゴが載っていると若干疑問を覚えるけれど、それがうまい具合に口の中で混ざるとイチゴの酸味がチョコの油分を具合よく洗い流して幸福な感情が口に湧く、そんな感じ。
昨日の夕方ごろから便りなさげに降っていた雨の気配は意外にもまだ続いており、湿った大気が少し向こうの幹線道路を走るタイヤの音を効率よくこちらに届ける。朝食には昨日の朝焼いてみたクランペットの残りをトーストする。鍋肌に平たく均された焼き目の表面を、ナイフで削ったバターの欠片が滑り落ちていく。
昨晩は永井荷風の『濹東綺譚』を、文中に名指される地名を地図に探しつつ読む。主人公は小説家で、作中には時折彼が目下執筆中の作品『失踪』の一節が差し挟まれる。
小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。わたくしは屢人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過るような誤に陥ったこともあった。(『濹東綺譚』)
本作に限らず、永井の作品に印象的なのは、そこここの建物だとか景色だとかよりもむしろ、それらの間の往来を可能にする交通網(道路、電車、乗合バス、水路…)への執着だ。とはいえそれは、たとえば車窓の向こうを過ぎ去っていく風景の連続だとかいったシークエンスがそのままナラティヴを推進するわけでもなければ、またコンパートメントやら長椅子やらが人々の出会いや語りの契機として利用されるわけでもない。永井の交通網は全く、それによって地上に疎密を組織し、物語を絡め取る網であって、編み上げられた線のそれぞれは街と街とを切断することで隣り合わせる。
本作は(永井の1936年ごろの取材に基づく)玉ノ井駅(現・東向島駅)周辺の銘酒屋(私娼窟)を舞台に展開するが、これはもともと浅草裏手に広がっていたものが、区画整理と関東大震災(1923年)に追われてこの地に移ってきたものだ。隅田川と荒川(荒川放水路が竣工したのは1930年)に挟まれて浮かぶ街、度重なる新道整備や鉄道敷設、廃線の中でその目抜き通りをくらくらと移しつつある街。江戸=東京にとっての「向こうの島」である街。
この街を永井はいかにも水捌けの悪そうな、ひとつの澱みとして描いている。しつこく顔に群がる蚊、溢れるドブ。事実それは物語の条件を成す澱みだ。河川を含む無数の交通の網目によって形作られたひとつの澱みだ。
水の臭い。永いことそれを恐れている。2019年、18きっぷ一枚で常磐線その他を乗り継いで、線路沿い、道路沿いの多くの街の傍らを通過した。かつて波に洗われた街々だ。
同じ年、大雨。各地の河川沿いに住む人々の悲鳴がネットを通じて押し入ってきた。
今の午前は、たまたま存在を知った東京下水道局の下水道台帳で、道路の下を延々這い回り、最後に処理場へと至る矢印を延々追いかけて過ごした(少々意外なことに、地図上で並走している下水道管の中身は必ずしも同じ方向へと流れているわけではないのだと知った)。
我が家は2度、下水の詰まりを経験している。2度とも同じ業者さん(同じ気のいいおじさん)に清掃をお願いした。高圧洗浄機に使うために、我が家の一つしかない水道からホースを延ばした。その何時間もの間、私は、そしてより重要なことには、屋外で作業する業者さんは、水道網へのアクセスを上下ともに失うことになるのだと気付いた。すぐ目の前ではそれらがずっと、短絡状態で押し合いへし合いしているというのに。
外は夜だ。
2020年11月2日月曜日
20201102 編み目、家政、ステイ・ホーム
9:30 現在、コーヒーは一杯、エチオピアのナチュラル。皮の青い柑橘の酸味が口腔の側壁を広く、程よく引き締めたところに、それに抱え込まれるようにしてほんかな甘味、さっきまで落ちていた木漏れ日が土に残した微かな熱の名残りのような。
昨日はあれから地下足袋の底を型にジーンズの端切れを切り抜いて、アイロン掛けて端を折り込み、1時間ほどかけてようやっと、片方の1/3ほどに針を通した。思いのほか生地が重なって厚いのと、踵からつま先に向かうにつれていよいよ手元が見えなくなっていくのとで、なかなかに苦戦はしている。糸は赤。手持ちの糸の残りに余裕があるのがそれくらいしかないのもあるが、以前ズボンの破れを繕った際、やはりデニム生地と赤糸を使って以来、この組み合わせが割と気に入っているのも大きい。王蟲の眼のようね。
縫い物をしていると、普段気にも留めないような布地の織り目が途端に抗い難い頑強な格子として立ち上がってくる。やろうと思えば糸の横腹を突き刺しながら縫い目を進めることだってできなくはないが、大抵は余計な労力を強いられることになり、こちらの目までも混乱するし、針路もぶれるし、布地自体にも変な具合にテンションが掛かって歪んでしまう。結局公倍数を探り探り歩調を合わせて隙間を縫って進むほうが余程利口だ。この格子空間では、きっとドット絵作家などは日々痛感していることなのだろうが、針を刺す目がひとつずれただけで面は大混乱だ。
12:30 現在、コーヒーはすでに3杯。ケニアのウォッシュト。開封から時間が経ち、それと抽出もわりとじりじりと詰めた所為か、酸味は控えめに、液の輪郭を華やかに纏め上げる役に徹しているように感じる。
ついさきほどまで、突発的に始まった掃除に没頭していた。換気扇の羽と、なにより、その奥で屋外へと開いている3枚仕立ての可動庇に積りに積もった埃の塊をこそげ落とす作業。
これが典型的な現実逃避の一パターンであることは否定しないが、逃避の矛先が諸々の家事、特に掃除に向かう分には、私はこれを多めに見て良いと思う。
こういうものは計画性でどうこうなるものではない。「思い立った」に身を任せるに限る。埃とは、人間側にとっては愚か、自分自身にとってさえ、その意志や都合などはお構いなしに、有無を言わさず積もっているものだ。多かれ少なかれ己の理性に従ってやって来る上司や客や詐欺師を相手にするのとは、そこが決定的に異なる営みだ。
家事というのは毎日が不条理の連続だ。玄関には荷物が届くし、洗濯物にはティッシュが紛れ込むし、子供は勝手にずっこけては泣き出すし、虫が湧いたとスプレー缶を引っ掴んで走ったかと思えば同居人が相談もなしに訳のわからぬ魚を買って帰っては台所に放置して、自分はさっさと風呂に向かってはシャンプーが無いぞと喚き出す。
そう言う意味で、「高いところから順々に」みたいな合言葉は半分正しく、半分間違っている。年末の大掃除のように、きっぱり時間をとって、どっかり腰を入れてこれに臨む際には良いが、大抵家事というものはそんなふうには始まらない。ゆかを磨いていたら壁の隅っこに張られた蜘蛛の巣が目に入り、それを払おうとハタキを探しに向かった先の窓が気付けば雨風と排ガスに吹かれて真っ黒だったりする。そうした全く考え無しの訪れの連続には、こちらも相応の考え無しを以って対処する他ない。無意味的切断の善用。
とはいえそれを日記のうえで振り返るとき、そうした無法の連続も、結局はカレンダーの規律正しい格子の並びの中に編み込まれたドットのひとつひとつなのだと気付いて溜息を漏らすこともある。大くの場合、人は朝は起き、夜は寝る。日中の賑わいが嘘のように、夜中の繁華街は住民もなく静まり返る。そしてその中に、ぽつりぽつりと、コンビニのガラス窓の向こう、蒼白い光を背負って商品棚の検品をする店員の気怠げな背中がある。最後の客が会計を済ませた途端にはしゃぎ出す、24時間営業の居酒屋の店員の振り上げる腕がある。
殊に今年の春以降の世界は、こうした風景にどう向き合ってきただろうか。規範的な労働時間としての日中のオフィス街の喧騒に、足の踏み場もない家庭の片隅に、各都市に、国土に、「身内」という格子のうちにむしろ各々を過密に囲い込もうとしてはいなかったか。
ここに世界は一つの家となる。無意味的に去来したり、しなかったりする「自然」に、立ち向かうのだ、と喧伝する、ひとつの理性、ひとつの父権。
2020年11月1日日曜日
20201101 地下足袋、弓、頁
9:00 現在、コーヒーはすでにルワンダを一杯。
いい加減足回りが冷えるのだけれど、靴下はやはりいまいち鬱陶しい。思い立っては殆どと突発的に放置されていた地下足袋のゴム底を剥がしてみる。かわりにデニム生地の端切れでも張って室内履きにできないかと思う。
地下足袋のゴム底の作りには「縫付」と「貼付」の二種類があるが、私の手元にあるのは前者なので、ゴム底と甲布の隙間をこじ開けて縫い糸を切りさえすれば比較的簡単に底を剥がせる。とはいえ縫い代部分には(補強と、もしかしたら作業上の便のため)接着剤も併用されており、またその内側、内底に張られた布(細めのタコ糸ほどの糸3本一組を経糸に、それを細糸2本一組から成る緯糸がかなり間隔を空けて織り上げる、ざっくりとした生地)の裏面全体にも糊が塗布されているのがわかる。これはゴム底を固定できるほどの強度ではないので、むしろ底付け時に底布と甲布とがズレないようにするための、仮留めの意味が強いのだろうと思う。
つまり、ゴム底を他の部位に固定しているのは幅1.5cm 程度の外周部分だけであり、その内側はいわば太鼓の皮のように浮いていることになる。こうした作りにも関わらずダボついた感覚が無いのは、ゴム底自体が土踏まずに沿うようにアーチ状に成形され、それが底布を張り上げることによるものなのだろう。またこのミニマルな構造により結果として、地下足袋の売りである素足に近い感覚、そして足裏に弓を張ったような程よい緊張感が実現しているのだと思う。
このゴム底を柔らかい布地に代えてしまうと当然だいぶ履き心地は違うものになるだろうが、まあ、物は試しだと思います。
昨晩はいくらか本を読んだ、ページの完全にばらけた本を、一枚一枚拾い上げながら。摘んだページを、横にスライドさせ、その「綴じ目の側」を翻して文章の続きを追う手続き。
2020年10月31日土曜日
20201031アングレ
9:30 現在、コーヒーは一杯、ブラジルのナチュラル。いまだに少し煎りがダークになるだけで味わい分けの物差しが全く迷子になってしまう。チョコレート、はよいとして、そこから微かにのぞく酸味にベリー?としか言えなかった私は、付属のノートによれば全くお門違いで、シトラス、アプリコットといった名が並ぶ。
「酸味がおだやか」といった文句で売り込まれるコーヒーを見るたびに我が事のように歯痒く感じてしまうのは、実際そこに私が私自身の志向と能力の乖離を見ているからなのだろう(そしてそれは全く大きなお世話だ、コーヒーに考えられる限りの最上の酸味を知ったところでなおも「おだやか」の方を好んで選ぶ人間などいくらでもいるだろう)。
バナナの酸味というものに気づいたのはごく最近のことだ。日本酒の酸味というのはまだまるでピンと来ない。この夏に買った小瓶入りの信州の白ワインは甘酸っぱの中に日本酒みたいな膨らみを含んでいて驚いた。日本の生ビールはどうにも葬式臭くて好かない。緑の分厚いガラスにエンボス加工という瓶のデザインと安さに釣られて買った麒麟のハートランドはフルーティさが気に入ってしばらく買ったが、何本かめで甘さが気になるようになって止めてしまった。フランス?美味しい。チリ?美味しい。でも正直いうと赤ワインと紅茶の後味の渋みは、いまでも半分苦手に思う。コーヒーを飲んだ後の口の臭いは案外臭いと気付く。タバコの煙は流れているうちは気にならないが、服に染み付く臭いは全く鬱陶しい。でも蚊取り線香の臭いも同じくらい鬱陶しい。粘膜に浮いた血のにおい、段ボールに積もって乾いた埃のにおい、近所の住人がふかす自動車の排ガスのにおい、古い八百屋の店裏で野菜の残骸が腐ったにおい、ガスコンロの上に転がった玉子の殻の裏側の薄皮が焦げ付くにおい、
昨日はクリームシチュー。ほとんど初めてホワイトソースというものを作った。油に篩入れた小麦粉はメイラード反応に芳香を放ちつつブヨブヨ膨張して、自分が粉であったことを忘れる。水にだってあっさり馴染む。クリームにまみれたイチゴは汚いのにホワイトソースに埋まるニンジンは美しく見えるのは何故なのか。エッヂが立っていないからか。
英国史を少し。現在でいうドイツ北岸の出のゲルマン人と、ゲルマン第二波・デンマークのデーン人と、ノルマンディーに寄ってフランス化したのち200年ばかり遅れて攻め入るノルマン人。それらの狭間狭間に瞬くローマあるいはケルト・キリスト教会の影。
この間ユニクロ馬鹿にしたけれど、この秋復活のJil Sander コラボ「+J」は普通に気になる。過去に出たダッフルコート、あれだけは持っており、あれは重くて良いものだった。
12:00 現在、コーヒーは二杯目。昨日と同じエチオピアのナチュラル。淹れたてにはきなこねじりのような風味と焙煎香、その螺旋のから延ばした一本の接線の先にベリーがあり、冷めるにつれてこちらが前面に出てくる。収斂感はしかしひかえめに、より横広に開けた酸味はむしろ柑橘に寄っていく。
世間では連休初日、車のドアの音。
2020年10月30日金曜日
20201030
10:30 現在、コーヒーはすでに一杯。昨日届いたエチオピアのナチュラル。口に含むとクリーンなのに一癖ひねりの効いた印象。ええと、ベリー、とまでとりあえず無難に答えてそのあとはハテナばかりが浮かぶ、少しセクシーな夜闇?、苦味なのか酸味なのかも判然としない。これがナチュラルのフレーバーだっただろうか。付属のノートには「ラフランス、ベリー、ライム、ラベンダー」とある。ああ、記憶もおぼろげだがもしかしたら成る程それはラベンダーの、微粉で目止めしたような、ほのかにしっとりとした花弁の表面から発せられる、仄かだが密度は高い息の詰まるような薄々紫(そこにライムを一絞り)、そんなものなのか。
私は五感を受け取るのを拒否する方向に育ってきてしまった人間で、肌は傷や乾燥や火傷を押し殺して縮み固まり、鼓膜は重く、網膜は鈍く、イマージュは半干し大根みたいに脳裡に干されては排出される。
そんな人間が酒とかコーヒーとかスパイスとか、あるいは絵画とか音楽とか、なんでもいい、官能的な評価軸を扱うことを避けえない方面に興味を抱くとどうなるかといって、割と地獄であることはもう嫌というほど思い知らされているわけなのだけれど、なんなんなんなんだろうね人間ってやつは。
コーヒーとかワイン用のテイスティングトレーニング用のアロマセットなんてものがあるんだけれども、50種入って5万円とかの世界なのですよね。それはそれとしてJo Malone とZara のコラボ香水4ml 8種入り3000円というのは少し気になる。
昨日は買い出しに出た、十三夜の月で、漠然と夜闇を鈍らせる叢雲の垣間垣間からそれでも煌々と眩しく思う。
月が見えるとはどう言うことなのかと思う。闇のしめやかな広がりを鈍らせる、太陽はそのシミであり、またそれは私たちの視覚の全き条件だ。他方大地は、私たちの存在の地平であると同時に、太陽を自らの背へと隠すことで闇のいくらかを取り戻そうとする。夜闇とはすでに毀損された闇の残骸で、それはいくらか肌にねばつく。水底に沈んだ澱のように、凪には静かに私たちの視界に帳を下ろすが、それもじきに敢えなく掻き乱されて、また朝がくる。月もまた夜闇へと差し込む闖入者には違いないが、しかしそれは(まるで初めにあった闇のような光ではないか
ウユニ塩湖はあまりに平らで、100km 四方に50cm ほどの高低差しかないという。それは空を映し、その下に眠る地はいよいよ夜だろう、貼り合わせは多分白く締まって、熱く、
2020年10月29日木曜日
20201029
8:00 現在、コーヒーは一杯、コロンビアのゲイシャ。粒度を細かくしたのもあるのか、また違った印象。もともと、紅茶を思わせるフレーバーというのが、その枯れ草の香りと収斂味の産物なのか、どこか舌の上の一帯に、さーっと広大な空白の域(たとえば一滴の洗剤がフライパンに浮いた油を一瞬で淵の方へと押し遣るような、疎水性の域)が開き、そこに鈍く雨の予感を含み込んだ風が吹き抜けるような感覚を与えるとすれば、今回はその風が凪いでおり、置き放たれた空白に立ち尽くして、露を落とす大気の微かな湿り気を皮膚に感じている。書いていてなんとなくDeath Stranding の風景を思い出してしまった。
昨日はなんだったんだ。平倉圭「動物に命令すること」を読んだ。2015年1月開催のシンポジウム「新たな普遍性をもとめてーー小林康夫との対話」での短い論文で、いまとなってはweb 上での在処がわからなくなってしまっているのが残念だ。
動物と話すこと。動物に命令すること。動物を名前で呼ぶこと。言葉が縁取ろうとするそのひろがりの際の未だ見通せぬ約束へと、ともに飛び込むこと。
言語の内で話す限り、私たちは常に他者の口で語り、私たちは常に過去の反復として語る。異種間の対話とは、そうした反復の外部において、全く即興的に都度やり取りされる試みの前線である。相手はおろか、私の身体がいま、果たして何を言っているのか、「何かを」言っているのかさえも一向にわからないままに繰り広げられる、それはダンスだ。
それは言語以前の経験である、のみならず、時間以前のひとつの出会いだろう。
「探せ!」…しかし何を?「フライデー!」…しかしそれは誰のことだ?すでに全てが確定した未来から今を振り返る素振りをして、「それは何であったことになるだろう」などと言うことは出来ない。それはその未来に向けて、投げやりなまでに開かれており、私たちはそれを囲い込むことなく、訳のわからぬままに、目の前の他者をそっと名前で読んでみる。
ジャック・デリダの『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』の参照があったのかどうかを私は知らないけれど、
あ駄目だ日記つらい
2020年10月28日水曜日
20201028
8:30 現在、コーヒーは一杯、コロンビアのゲイシャ。
9:30 現在、コーヒーは二杯目、ケニアのウォッシュト。粒度を細かくした。ミルクティーの印象。
昨日は日記を書いた。 『女生徒』についてあんなに長々と書くことになるとはおもわなかった。あれはちょっと能天気すぎるくらい「エモい」「わかりみが深い」作品で、太宰が何を思ってあれを書いたのかは知らないけれど、こんなもの、とほくそ笑んでいたのか、そのほくそ笑みつつ、しかしこれはまさしく自分だ、といよいよ抉られていたのか。
夜あんまりにだるく、しかしだるい時に限って布団に入るとかえって眠れなかったりすることは目に見えていたので、布団でテッド・チャン『息吹』より、「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」を途中まで読む。英語圏の作家ってなんであんなにも結婚とセックスに執着するのだろうとはいつも思うことだけれど、この作品もまたそんな臭いを臭わせつつも、そこにもう一歩踏み込んだ構成をしているような感じ。
なんだか昨日の夜から液晶画面が辛い。
2020年10月27日火曜日
20201027 行って帰る、女生徒、あなた
7:30 現在、コーヒーは一杯、昨日買ったルワンダ。派手な酸味やフレーバーこそないが、喉の奥にまですっと芯の通った、とてもスムースな質感。
8:30 現在、コーヒーは二杯目、同じく、コロンビアのゲイシャ。レモンを搾った紅茶の、枯れ草のような香りと、微かに舌をくすぐる渋み、酸味ははじめ、離れたところで露払いするように引き立て役に徹する、かに思われたが、次第に(渋みと併さってか)黒い皮の果実、ブドウのような酸味へと変わる。
昨日は久しぶりに街に出た。ほとんど半年ぶりではないだろうか、Suica に眠っていた800円分の磁気データが身震いする。先の二つのコーヒーはいずれもその帰り道、アメ横のビタールで買ったものだ。店先に積み上がる雑多な輸入食材の数々に埋もれるように、良質で、価格も手頃な豆を扱っている。常に複数産地の豆を広く取り揃え、回転が早いのか、鮮度も良く、とてもありがたい。今回など、いつものケースの一つにしれっとゲイシャ種の豆が並べられており、目を疑ってしまった。
その貧弱さと病弱さゆえ国際市場では永らく忘れられていたゲイシャ種だが、研究用途で運ばれたコスタリカを経由し、2004年頃、パナマはエスメラルダ農園で収穫されたものが品評会で話題を攫って以来、すっかり希少な高級豆として名が広まることになる。殊更に「再発見」の地であるパナマ産が名高いが(品種としても少し特殊だという)、私が過去に飲んだことがあるのは原産地でもあるエチオピアと、あとはコスタリカのもので、コロンビア産は今回初めて知った。
そんな事情があって、入荷したらどこの店でも散々騒ぎ立てるような豆なのだから、それが何でもないような顔して並んでいるのを見た私の戸惑いも無理からぬものであると思う。
ところでこれは帰り道での話なのであり、直接の行き先は銀座で、このご時世に面倒臭いし無印かユニクロあたりで適当な冬服を探し、手ぶらにおわる。どうも私が衣服に求めるものはまず布地への偏執で、そしてユニクロにはそれが無い。売り場に踏み入る度に私を絶望させるそれらはいわば衣服の実物大模型で、他を指さすには足りようがそれ自体に手を伸ばすにはあまりにおぞましい(あるいはそれはさらに一段高等なフェティシズムなのか)。
すごすごと引き下がってビゴでロデヴとオーベルニュを買って銀座を後にして、アメ横を通って帰途につく。ギャラリーとかによる気力はまだ無い。寒くなったらあるいは。
髪が大変に鬱陶しい。何かあった日についての日記をどう書いて良いものかがよくわからない。邪魔だ。
昨日は帰宅後、しばらく休んでから、こんなにも歩いたのも久しぶりだ、夜は買い出しにも出た、ここのところ買い出しもいつも夜だったので、日中の街も久しぶりだ、傾いた日に照らされて発光する、びん・缶回収用の青いネット。
『女生徒』を最後まで読んだ。遅れて生きている自分、そうした在り方への深い諦めがある。他に遅れて産まれてきた、ただその一点だけを根拠に、わたしはいま娘なのだ。お父さんの死に遅れた、ただその一点だけを根拠に、わたしは生きているのだ。朝は夜に遅れて、夜は朝に遅れてやってくる、ただその一点だけをを根拠に、それは朝であり夜であり、その間にあってわたしはいつも、「あさ、眼をさます」のだ。
生は小説などではない。「いま、いま、いま、と指でおさえ」るうちに、スライドしていくように過ぎ去っていく。あのいまがあり、このいまがある、それだけだ。それなのに、手応えもなく過ぎ去ったはずの「いま」は、どこかで確かに降り積り、伊藤みたいに、今井田みたいに、いつかわたしもなってしまうのだ、厭らしい。しかしいちばん厭らしいのは、伊藤や今井田であること以上に、それに遅れてそこへと静かに、確かに、わたしを押し流していくであろう、この「いま」の、あまりにも微視的な嵩張りであり、そしてその嵩張り、「いま」を絶えず過去から未来からあぶれさせるその嵩張り、それ自体が「わたし」の身体に他ならないという、その事実なのだ。
終盤、あまりに突然にその呪いはこぼれ落ちる。「わるいのは、あなただ」。
読者のことではないだろう。というのは、「作中人物であるわたし」に対立するさせられる限りでの、単にメタフィクショナルな構図の中で、ただ読者であるというその一点においてのみ責めを負わされるところの、「読者であるあなた」のことではないだろう。
「わたし」が断罪は、「あなた」という呼びかけに応じ得る全て、世界の「「わたし」」の総体にこそ向けられている。「わたし」は、「わたし」にとっての「あなた」であり得る全ての「「わたし」」にとっての「あなた」である限りで、ただその一点だけを根拠に、「わたし」として産まれてしまった。そのヤマビコ状の遅延構造の総体への、これはなけなしの唾棄であろう。
数度にわたる呼びかけにしかしもはや決して応えることのない、二重に異-性であるところの「お父さん」は、それゆえに「わたし」にとっての代え難いよすがとなっている。生きることからちょっと斜傍に逸れるための、それは夾雑物としての希望である。
昨日と同じ24時間だけの時間が今日もまたこうして過ぎ去りつつある。昨日であればそろそろ再び家を出て、スーパーマーケットへと向かう路地を闊歩している頃だろうか。久しぶりの長い外出、畳を踏むのとは違うアスファルトの密度が靴底を突き、足裏はそれを掴んでは押し返す、そこにそちらは後方である。全ての道は道であろうとする限り原理的に一方通行であり、対向者が向かってくるそのたびにわたしは「あなた」「あなた」と呼び掛ける。わたしは道を右に避け、それはあなたにとって左であり、あなたが多少なりとも良識を持ち合わせているならば、あなたが避けるのもまたあなたの道の右へと向けてだ。わたしだってそうしただろう。
こうして道は今日も道である。数十分もすれば同じその道を逆に辿る、買い物袋を肩に抱えたわたしが、あなたが、そこを通ることだろう。こうして道はなおも道であり続ける。わたしはわたしであり続ける。わるいのは、あなただ。
2020年10月26日月曜日
20201026 人、 、人
8:45 現在、コーヒーは一杯。ケニアのウォッシュト。
今朝は米と、高野豆腐とわかめの味噌汁と、塩サバと、あと大豆を炊く。米は玄米で、酒を少し加えた。
この塩サバは何だか工業用みたいな油が表面に浮いてはジクジクと焦げついて纏わりつくようだ。それでなくても半身で売られている塩サバって。大抵骨も綺麗に取り除かれてふにゃりと柔らかく、何だか工業製品のようで薄気味悪いところがある。
昨日の日記に書いたように、昨日は日記を書いた。一昨日と昨日の日記だ。今日は同じ轍を踏まないように。休日も明けたことだし、いい加減服とか要り用のものとかを調達に街に下りようかという声がある。
いやだなー
外出しないことにこの上ない言い訳が与えられたこの時世にいよいよ思う、人が人を掻き分けながら歩くのを強いられることのなんと気色悪いことか。人の間とかいて人間、だと、知りませんがな、
もうちょっと、もうちょと、どうにかならなかったのかなー、人間!
2020年10月25日日曜日
20201025 残り味、分布、浸し
10:00 現在、コーヒーは一杯、ケニアのウォッシュト。少し風味が落ち着いてきた。一瞬ハーブ入りのソーセージのような香りを聴いた気がする。
寝過ごした。起きたら陽が久々にさっくりと差しており、ここぞとシーツを洗って干した。なんの夢を見たのだったか、何か薄汚れた雨合羽、ハリと折れ、を、リノリウム張りの廊下で被った気がする。体育館のステージの、遠く天井から真下に垂れ下がる重い幕が音をよく吸収する暗がり、丈夫で表面のつるっとした工作紙(なんと呼ぶのだったか、図工の時間、前の席から順々に回されてくる、溶着ポリ袋に封じられた紙束のしっとりとした重みが、私には光だった)のような色彩の質感が踊る、鈍く眩い照明機材、対照に呑気にのっぺりだだっ広い板張りの床面。近頃小中学校時代の記憶の断片が入り混じって起床前数十分の脳裏を駆け擦り去っていくことがよくある。
上履きの足音に笑われて起きるその8時間前のこととてまた同じこの畳の上のこと、昨日はいくつか面白い記事を見つけてサーフィンだった。
一つ目、「ECXとは何だったのか?日本の功罪」
https://coffeefanatics.jp/ethiopian-commodity-exchange/
2008に設立されたECX(The Ethiopia Commodity Exchange)の采配のもと、エチオピア全域のコーヒーチェリーの大部分は国内9つの集積所に集約され、それぞれの中でグレード付け、ロット形成されて流通するようになった。コーヒーチェリーの流通の透明化と効率化のための施策とのことだが、他方これは地域ごとの特色を重んじる農園や業者にとっては冬の時代の訪れだったと言う。
著者によれば、その背景には、同国のコーヒーの最大の売り手であった日本が2006年に設定した輸入品の残留農薬規制によるコーヒー輸出の不振があり、先のECXの施策の主な目的はむしろ流通の効率化による外貨獲得に向けられていたという話。
たまたま今朝のこと、検出されたオクラトキシンを理由にケニア産のコーヒー豆が日韓で受け入れ拒否されたとの記事が流れてきた。あるいは先の記事もこれを念頭に書かれたものだったのかもしれない。
「Kenyan coffee risks losing global appeal on chemicals」(2020 10/6付けの記事)
二つ目、「色:ヘキサコードから眼球まで」(全3回)
簡単に三原色なんて言うけれども、人間の網膜に並ぶ三種類の錐体細胞をそれぞれ励起させる周波数の分布と、RGBやらXYZやらの色空間を構成する各軸と、ディスプレイに敷き詰められた三つ一組のサブピクセルに設定された分光分布は、それぞれまるで異なるものであり、それらは決して互いにシームレスに変換されるものでもない。そんな込み入った話題を逐一説明しつつ、最後にそこに「ヘキサコードから眼球まで」という一本のストーリーを通して、スピード感をもってまとめられており、気持ちよい解説。
あとはエドガー・ダイクストラ Edsgar W. Dijkstra の名を知った。最短経路問題の有名な解法、ダイクストラ法の考案者。また、プログラミングにおけるgoto文除去運動の発端を作った人。構造化プログラミングの父。空想上の企業、Mathematics Inc. 会長。それはそれとしても、Dijkstra、堤防のそばに住む者。良い名だ。英語における「dike(堤防)」に相当する語はオランダ語で「dijk」と綴られる。そもそもこの語自体、ノルドの血、フリースラントの低地特有の泥臭さを強く匂わせる語だ。
私は言語能力が著しく低く、訓練のためもあってこの日記もこうして書かれているわけであるが、まあおそらく一歩先、一歩前との関係の中で書くことができないのだと思う。すでにまとまりをもって完成してある文章を要約するのもかなり時間がかかる。
明日の日記は「昨日は日記を書いた」になりそうだ。体調はあまり良くない。腹と脳天とが細長くて濁った綿飴で貫かれているような気分。
冷たい煮干しと高野豆腐を食んだ。冷たい食パンを噛んだ。ベジマイトを舐めた。そうした履歴。
2020年10月24日土曜日
20201024 ワン、ルー、ム
9:00 現在、コーヒーは一杯、UCCのザンビア。
久々に牛乳を買ったので、朝はフレンチトーストを食べた。今年になってから、フレンチトーストは甘くないほうが余程美味しいと気付き、以来味付けは塩とカルダモンだけになっている。
一昨日の買い出しの成果を踏まえ、昨日は牛スネ肉を野菜と一緒にをワインで煮たのと、人参の葉っぱ他のかき揚げ。使わないのでめんつゆは持っていないのだが、天ぷらのつゆとしてポン酢を使うのは案外違和感がないと気付く。酸味は油に中和されてほとんど目立たず、変に甘ったるくない分むしろ良いという人もいるかもしれない。食べた後どうせならとガス台ごとどかして掃除したのでやり切った感がある。
10:00 現在、コーヒーは二杯目。ケニアのウォッシュト。
昨日のProcessing ではプログラムの構造化について少し読んだ。初期化関数 void setup() とメインループ void draw() 。この二つを軸として、そこから必要に応じて外部の各種の関数に引数 argument を吹っかけたり、戻り値 return value を受け取ったりすることで一つのプログラムとして機能する。やたらに入り組みがちなプログラムをこうして機能ごとにモジュール化することで、その設計や点検が容易になり、また、殊、専らヴィジュアル・イメージ等を扱うことに特化したProcessing の場合、構造化に伴う反復構造は、アニメーション表現の実現において必要不可欠なものである(らしい。正直まだあまり納得がいっていない)。
今読んでいる入門書(田中孝太郎・前川峻志『Built with Processing デザイン/アートのためのプログラム入門』)は構造化以前のプログラムをワンルームの部屋に、構造化されたプログラムを一戸建ての家に喩えていた。初期化関数とメインループをそれぞれ玄関と居間とし、それを中心にしていくつもの部屋=関数が組織されているのだという。
構造化には、個々の部屋が互いに対して閉じていることが重要だ。一つの部屋で起こった修正が、いちいち他の部屋にまで波及してしまったのでは無駄手間だからだ。受け取った要求には適当な応答を速やかに返し、お互いの内情の機微には立ち入らない。それが円滑に仕事をこなす秘訣である。
アニメーションとは言うが、それは時間が生まれる、ということではなく、むしろその征服なのだろう。たぶん、極限まで構造化されたプログラムがあったとして、そこには時間も空間も存在しない。時間や空間とは私たちの迷いの相関項であり、私たちが迷うのは、無数の部屋が一つの順路によって結ばれたお屋敷などではなくて、むしろ無駄に大きな一つの部屋、そこに散らばるいくつもの事物の余白においてだ。
私は歩き回れる。全くただこの一点において、私は自らを私である、と宣言する。引き籠っている事物から疎外されている限りで、私は他ならぬ、いやむしろ他としての私である。
2020年10月23日金曜日
20201023 取り留めって奴
8:45 現在、コーヒーはすでに二杯目。UCCのコロンビア・スプレモ。なぜか公式ページに商品記載がなく、集めて応募のマークも付いていない、廉価版シングル・オリジン。
一杯目には昨日開けたブルーボトルのケニアを淹れた。ブルーボトルは間違いなく美味しいのだが、エッヂの立った都会的なチューニングは若干飲み疲れするところがある気もする。
昨晩は買い出し。9月の終わりあたり、それまで惰性で買っては貪っていたせんべい、柿ピーほか菓子類全般をきっぱり買わないことにした。それ以来食費がずいぶん軽くなった気がするし、野菜もたっぷり買える。歯の凹凸に澱粉が詰まっているような不快感もない。これは良い選択だったと思う。昨日は投げ売り状態だった塩サバとブリの切り身とカツオのサクと、それと久しぶりに肉、少し良さげなタスマニアビーフのすね肉を買った。クリームシチューでもつくてみるかなと牛乳もかごに入れたのだが、冷静に考えたらクリームシチューには鶏肉ではなかろうか。ビーフシチューもデミグラスとかよくわからないので赤ワイン煮にでもしようと思う。縦長のトートに突っ込んでなお顎をくすぐる立派な葉付きのにんじんを手に入れた。
不意の思いつきでこの日記?を書供養になってなんと一週間以上経つ。もう長いこと文章を読んだり書いたりすることをやめていたので、そのリハビリと、頭の洗浄と、後は指の運動のつもりで始めたのだろうが、よくもまあまあ続いたものだ、他の人ならともかく、この私については驚くべきことだ。
しかしこれに半日を費やしてしまうのは考えものなので(流石に書き終わるまでずっとキーボードに張り付いているわけではないが、根っからのシングル・タスクな私には保留事項があるというだけで他のことやりながらでも結構バックグラウンドでリソース割いている)、付き合い方を考えていけたらと思っている。
時々昔自分が書いた文章を身返すと、なかなか楽しいことが書かれていたりする。時には慣れない徹夜なんてことをしてなんとか捻くり出したこともあった。なんで当時の自分はこれにこんなに齧り付いていられたのか。バイト時代、夜勤で12時間勤務して、時には歩きながら眠り、電柱にぶつかりそうになりながら帰宅していた私、大学時代、ラテン語の活用表をはじめっから順々に脳に焼き付けようと躍起になっていた私、高校時代、分厚いチャート式の二色刷りの細かい問題文下の空欄を赤筋浮かして睨んでいた私、いずれも幾分の空回りの嫌いは否めないとはいえ、なんであんなことができたのか、いまとなっては不思議でならない。
今日は一際に取り留めないね、今日は妙な折り目がついてしまっていたウールのズボンにアイロンをかけた。包丁も研ごうと思う。音読の練習もまだ続いている。
外は投げやりに雨である。
2020年10月22日木曜日
20201022 青、無、青
10:00 現在、コーヒーはすでに二杯目。ケニアとグアテマラのウォッシュト、いずれも少し残った豆の混合。
前者は以前4種詰め合わせを注文した際にサンプルをおまけして頂いたもので、昨日開封したもの。「華やかな酸」という形容からなんとなくシトラス系を想像していたのを裏切って、口に含んでまず浮かんだのがブドウを思わせる酸で、ただし赤ワインのような芳醇さに向かうのではなく、ブドウジュースとか、時々むしろレーズンとかを、とびきり上品に、しかしやんちゃに、香らせたような印象だろうか。それでも何かとり逃すところが大きい、商品紹介には「パイナップル、ルバーブ」とあり、ルバーブは食べたことがないのだけれど、その形容はこのあたりに掛かっているのかも知れない。
今朝はそれを桃を嗅ぐようなグアテマラとあわせたので、ブドウの酸味がクロマトグラフにかけたみたいな解かれ方をしてちょっと面白かった。
そうこうするうち、先日ブルーボトルで注文した豆が届いた、やはりケニアの、Kiambu Karinga のウォッシュト。それにしても久々の対面受け取りの気がする。サインまでした。この時勢でたしかに食材以外で実店舗を利用する機会はほぼなくなったとはいえ、置き配やサインの省略もかなり一般化したし、そもそも買い物自体を最小限にしていた。経済的な動機もあるし、これ以上の物流の負担に加担したくもなし。コーヒー豆の購入も極力ゆうパケット配送のものにしていたので、豆の詰まったマチ付き袋一つに、余った空間を緩衝材で埋めて届くブルーボトルの小箱を見て、少し笑ってしまう。ブランドイメージとか梱包資材の統一による効率化とか色々あるのだろうけれど、もう少しなんとかならないものか。
11:45 現在、コーヒーは三杯目。結局我慢できずにブルーボトルのケニアを開封。ああ、いかにもブルーボトルって感じだ、黒いベリーの、華やかかつしっかりとした酸味と収斂感が舌の両サイドをグッと流れて、そしてその間に、小さなペディメントみたいに、微かにシナモンというか八つ橋に練り込まれて香るニッキを思わせる香り、ロースト感。
昨日はまたProcessing を少し触る。for 文とか、random とか。色指定でRGBの各色ともに完全にrandom にしてしまうと全く灰色の世界が広がってしまうことに気付く。それぞれ個別に範囲指定するとかして偏りを与えてやらなければならない。加色混法ゆえの罠である。
「すべての電球が点きっぱなしの電光掲示板」。この喩えを円城塔はどうも気に入っていたようで、私の知る限り二度、それぞれ別の著作中でこれを用いている。情報技術とは常に地と図との間の絡み合いをいかに効果的に組織するかの試行錯誤であり、死の予感を背負っている。
ややもすればホワイトアウトへと至りかねないチキンレースの途上で、私たちは色彩の乱舞に色めく。踊り狂えよ、しかし節度を持って。
無を一つのキャンバスに、それを背にして有をチラつかせれば情報の電達が可能になるとして、課題となるのはその無の広がりそれ自体をいかにあらかじめ定義し、提示しておくかである。無を以って無を送ることはできないのであり、ブルーバックの前でブルーバックの実演販売をしようとするのは困難である。仕方がないので無は適当な太さの輪郭線で縁取られ、そこは無と有が厄介に入れ子状をなした紛争地帯として放置されることになる。
両者をネガポジ反転してみたところで話は同じなのであって、無の中に空いた穴としての有の輪郭を拡大してみるとアンチ・エイリアスやらモスキート・ノイズやらでぶよぶよと気色悪い。
ミニマリズム彫刻の(そのほとんど戯画化された限りでの)展示風景が、最大限の嘲笑を以って提示しているのがまさにこのような状況である。すなわちホワイト・キューブ状の部屋の中心に放置された、ひとまわり小さいもう一つのキューブ。ここでかたや「部屋の外部」と、かたや「空虚な立方体」という、二つの無に挟まれた、て、実にどっちつかずに虚しい「室内」という座を、なすすべなく右往左往するばかりの観客という存在の馬鹿馬鹿しさよ。
さきのブルーボトルのケニアはとうに冷め切っている。舐めると、何故か唐突に、Shake Shack だろうか、ハンバーガー店の記憶が閃いた。ベリー。肉汁。ベリー。いかにもアメリカ都市民らしいパンチ・ラインではあるまいか。
2020年10月21日水曜日
20201021
8:30現在、コーヒーは一杯、UCCのブレンド。
日記一週間続いたので今日は休む。
昨晩は鯛の頭を、半割りにされた片方を塩焼きに、片方をフィッシュティッカ風(面倒くさかったのでカレー粉を直振りした上からヨーグルト塗りたくって放置)に焼く。期待以上に美味しくなってしまった。
昔古本屋で買ったprocessing の入門書を開いてみる。他言語に当たり前の、ソース冒頭の謎の前口上が見当たらず、ただ表示領域を「左上から右に何歩、下に何歩」というように
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とだけ指定して始まり、最後も切りっぱなし同然だというのはたしかに気軽だが変な感じ。まあもう少しだけいじってみようと思う。
WhatYouSeeIsWhatYouGet とはいうけれど
たしかに私は笑顔の下で泣いているのかもしれない。私自身、知った事ではないけれど。しかし差し当たって今、目の前のあなたに向けているのは他でもない、この顔面に貼り付けてあるこの笑顔なのであり、あなたは、少なくとも私の面を前にしている間だけは、その笑顔を受け取っている体であってほしい。それが礼儀というものだろう。
この数月の間に、そうした点で勇気ある人たちを何人も見てきた。自身については幾たびも唾棄した。生身の者はいくらでも内面とやらに逃げ込める。表層で戦う人の、なんと辛い駆け引きを強いられていることか。
その人たちに讃辞をおくりたい。
2020年10月20日火曜日
20201020 果実、頭、怒り続ける
9:00 現在、コーヒーは一杯、インドのナチュラルの残り少しにUCCのブレンドの混合。豆が残り少なくなってきたので、昨日Blue Bottle で注文した。
昨晩は買い出しに出る。日中降っていた雨はすでに止んでおり、
柿がとても安い。一個と言わずもっと買って置いてもよかったかもしれないと今更思う。反対にミニトマトは高騰していた。
9:45現在、珍しく紅茶、ニルギリを淹れる。杏?か何かのフルーツの丸みのある甘みがあり、その両側を走る清涼感がそこに輪郭を与える。初めの一口に収斂感はほとんど感じることはないが、それを完全に呑み込んだ途端、波が引いた後に現れるアサリの目のように、舌に思い出され、それが二口目からの味覚にワンテンポ遅れて干渉する。
そういえばコーヒーの味にフルーツを連想するとき、それは大抵その酸味についてであって、甘味については糖蜜とか、黒糖とかいった別の指標を使うのが普通だけれど、紅茶の果実感といったらその甘味についてだという気がする。紅茶のカッピングをあまり読んだ経験がないのでなんともいえないが。
例によって鯛の頭が安売りしていた。いつもカレーでは流石に芸がないので、たまには塩焼きにしてみルつもりだが、せっかく半割りされているわけだし片方はカレー粉とヨーグルトでも塗って焼いてみようかと思う。
店内に怒っている男を見かける。仕事帰りと思わしき、30代くらいの男で、少し肉のついた体躯がワイシャツの腹を張らせ、そこにしわくちゃの秋物コートが引っかかっている。若干逆立った黒髪と、裸の目と、髭のない顎がぬらりと貧弱である。生鮮品売り場の、雨天ゆえかまだだいぶ在庫が豊富なもやしが並んだあたりをよろめきながら、なんでこんなに何も残っていないのかと、独り怒鳴り散らかしている。店員含め皆遠巻きにしている。
「怒る」というのがいまいち理解できない。人はなぜあんなにも熱心にしぶとく怒り散らすことができるのか。
いらいらする、許しがたく思う、軽蔑する、悲しむ、やり切れない気分になる、折に触れてそういった心の働きが生じるのは理解できる。そうした働きの帰結として、怒声をあげる、声を震わせる、涙を流す、等々の行動に帰結するというのも理解できる。しかしそれが確かに帰結だというならば、それを頂点としてそれはもうおしまい、ではないのか。同様の理由によって「キャー」というような悲鳴も不思議でならない。「あ」と絶句して、それで終わりではないのか。逆にエネルギーを消費していないか。怒りという感情というよりかは、それを行動として、ある程度まとまった時間、継続的に駆動する動力源が一体どこにあるのかがわからない。
泣き続けた経験は、ああでも、子供の頃にある。しかしそのうちだんだん、泣くために泣いている自分に気付いてしまったりして、虚しくなって、それでかえって止むに止まれなくなって頑張って泣いてみるか、そうでなければもう完全に醒めてしまって、赤面を誤魔化しつつへこへこ隅に引っ込む、といった感じだったように思う。
案外怒れる彼らもそんな感じなのではないかと思ったりもする。この苛立ちがおさまってしまいそうな自分に苛立ち、それに抗って一層自らを怒りへとしこしこ鼓舞しているのではないかと思ってしまう。
怒るほどに真剣に何かに身を投じた経験がないからなのではないか、と反論されたら、そうなのかもしれないなあ、と返さざるを得ない、というのもまた正直なところなのではあるが。
あーでもほら、近頃はさ、怒り続ける身体をネットが肩代わりしてくれるからさ、Twitter に流れてきた知りもしない誰かの発言を見て、鍋蓋みたいにポンと怒って、次の瞬間には愛くるしい子豚の動画とか、推しの晴れ姿とかに目移りして頬を緩めていたりするんだれど、その間もリレー式に他の誰かが鍋蓋みたいに怒ってくれていて、タイムラインを遡ると常に誰かしらが自分の代わりに怒ってくれているものだから、みんな少しづつ時間と身体を分け合うことで実質的にみんなずっと怒り続けていられるプラットフォームとしてSNSなんかが機能していたりして、見ていて、まあ、地獄だよね。
12:00 現在、コーヒーは二杯目。UCCのザンビアのシングルオリジンの深煎り。深煎りは正直あまり好みではないのだが、そこで試しに蒸らしもそこそこにかなり太い水量でガシガシ淹れてみる(ドリッパーはコーノ式)。ダークチョコレートの香ばしい風味は抽出しつつ不要な苦味は最小限に、わりかしすっきりした印象になったと思う。こうした調整ができるように、やはり次に買うケトルも(口がパイプ状の)細口ではなく(根本が太い)鶴口タイプが良いなと思うが、なかなか適当なものを探しかねている。
みんなよく飽きないね。
2020年10月19日月曜日
20201019 玉、治水、イメージ
8:00現在、コーヒーは一杯。イオンのグアテマラの残り少しとUCCのブレンドの混合。赤ワインの風味と苦味が媒介なしに同じテーブルに投げだされたような感じになってしまう。
ここのところさしたる意味もなしに夜更かししがちだったが、昨晩は体調が優れず早めに就寝。前にも見たことのある嫌な夢を見た。
家族(知らない家族。)と一緒に下りエレベーターに乗っている。途中の階で停まる。外には誰もいないと見たせっかちな父親は、私の背後から手を伸ばして半ば開いた扉を閉じようとするが、それを制してこじ開けようとする乗客。それはなんだかそういう高級スイカみたいに頭部がぬるっと四角い男で、半歩こちらに歩を進めたその男を父親は押し返そうとする。それでも押し入る男を見て、今度はこちら一同が入れ替わりに一時下車しようとするも、男はその中の誰だったかを羽交い締めにして逃さない。通りすがりの誰かもう1人も応戦していた気がする。抵抗も虚しくエレベーターの扉は一度閉まるも、また開き、引き摺り出す。3人分の手足が絡まり合ってどれが誰のどの部位だかが判然としない。その中の誰かが私に「証拠にするため」と、男(どの?)の肌に名前か何かをマジックペンで書き込むように、と頼む。私の応答はといえば「ペンがないから、カッターナイフでいい?」ときた。いいらしい。肌に玉のような血がぽろぽろと滲んで汚らしい。
夢を見る私はなぜこうも詰まることなくころころとイメージを転がせるのか。起きている私はといえばおよそイメージというもの一般に乏しい人間で、南仏の鮮烈な色彩の印象だとか、いつの日かのマドレーヌの香りだとか、まるでピンとこない。小説の筋書きの展開に従ってめくるめく情景が幻燈のようによぎることもないし、家族の顔だってほとんど覚えていない。
9:30現在、コーヒーは二杯目。グアテマラのウォッシュト。微細な和毛に表面を覆われているかのような滑らかさだ。
イメージ。端の無いもの、果てし無いもの。あまりに私の手に余るもの。指でその縁を撫でて、頁を繰ることのできないもの。とてもながいもの。
2019年の春先に青春18きっぷ一枚をかざして行った岐阜の記憶もいよいよあやふやになり(長良川は一体どちら側に向かって流れていたのだったか)、昨日地図帳を開いた。金華山の傍らを流れた長良川は、蛇行しながら南西にしばらく流れる。その舵取りを横目に牽制するように、東海道本線は岐阜市街を抜けたところから若干南西南へと逸れつつ直進する。西岐阜駅と穂積駅との間で、長良川は不意に南南東へと首を傾げ、東海道本線と直交する。
なんということだ。想像が及ばない。しかしその交叉を私はこの目で見たはずではないか、岐阜駅から大垣駅へと向かう列車の窓から。列車にさらにしばらく揺られると、今度は揖斐川の流れと交わる。映画『聲の形』の印象的な一場面を成す鉄橋はこの少し下流に位置するはずだ。その右岸には黒川紀章の設計による大垣フォーラムホテルの背中がポツンと見える。長良川と揖斐川は、そこからさらに30kmも並走したあたりだろうか、ついにはただひとすじの堤を境に隣り合い、そのまましばらく流れた末に最河口でようやく合流し、木曽川と並んで伊勢湾に注ぐ。
なんということだ、およそ想像の及ばないことだ。
木曽川、長良川、揖斐川の三河川が並び流れる現在の濃尾平野の風景はしかし、二度にわたる大規模な治水事業の産物であった。かつて互いに複雑に入り組み、交わり合い、流域に度重なる水害をもたらしていたこれら三川は、1754年の宝暦治水、そして1887年から92年にかけての明治治水による分流工事を経て、互いにほぼ完全に分離されることになる、
そういえばこの地の度重なる水難の痕跡もまた、2019年の訪問で私自身その一端を目にしていた。宿をチェックアウトした直後、成り行きで迷い込んだ金華山をなんとか抜けてたどり着いた長良川の、土手沿いに鎮座するコンクリートの巨大な球体、安藤忠雄設計の長良川国際会議場はちょうど開催されていた成人式に賑わっていた。その傍に立つ石碑と案内板には、1921年から39年にかけての長良川上流改修工事による長良古川、古々川の締め切り工事の記録が記されていた。
絡み合う筋は 容易に自らを横溢し、流域に構えた住居の床を水に浸してしまう。果てし無い恐怖だ。こんなものを矯めつ眇めつ、分かった体で分肢しつつ。堤一枚を隔てて人はその地に安らいだ体で今日も日を暮らしているのだ。
また話は戻って2019年の長良川沿い。記念碑そばのベンチでいくらか時間を潰したのち、国際会議場並びに店を構えるSHERPA COFFEEを訪ねる。ファンヒーターの唸りに揺れる観葉植物、コーヒーと一緒に注文したロールケーキは、まだ東寄りに傾いだ太陽が寄越す光線を、一瞬含んで、溜めて、矯めて、こちらに投げ返すように、なんとなく薄らと黄色だった。
その日それから私は、あちらこちらとつきあたりつつ岐阜駅へと辿り着き、東海道本線に養老鉄道を乗り継いで、養老天命反転地を目指すだろう。明からさまにハリボテの、端っ切れの、しかし内側へと絶えず落ち込んでは、球成す全体を絶えず果て無く覆す、半球あるいは覆水不返の盆。
"The saddest thing is that I have had to use words..."
2020年10月18日日曜日
20201018 豆、魚、私の声
11:00現在、コーヒーは一杯。コロンビアのウォッシュト。カップの底に少し残った冷めたものもまたシロッピーでおいしい。
今朝は寝過ごした。昨晩水につけておいた豆をキャベツと煮込たスープ、食パン、目玉焼き。
ずいぶん前、多分1年くらい前に安売りで買った米国産の黒目豆(black eyed pea)なる豆で、使い所がわからなくて放置してあった。サイズ感としては大振りの小豆くらいで、実際ササゲの仲間らしい。しかしあいつらのような頑なな外皮は持ち合わせておらず、薄黄の肌の臍周りに黒い斑があるその外観は見るからに軟弱で、数時間おいただけであっさりボヨボヨ膨張していた。いかにも新大陸の豆という風体で、キドニービーンズの中身のような白くボソッとした肉はスパイスやハーブを効かせたスープと相性が良さそうだ。テクスメクス、移民の味だ。
昨日なんとなく自分の声をチューナーに聴かせてみたところ、どうも実際の声は体感の1オクターブくらい低いようだった。喉を震わしていちばん自然にでる声は高低いずれもおよそA(ラ)の、220Hzと110Hz。ちなみにピアノの調律の基準とされるのがさらに1オクターブ高い440HzのAらしい。赤ん坊の泣き声は万国共通でこの440Hzだというまことしやかなお話は聞いたことがあったが、まあなんというか、愉快なことだ。
昨晩は鯛の頭のカレー。近所のイオンは宴会料理の仕出しでも請け負っているのか、鯛の頭がしばしば夕方の店頭に大量に並び、大量に売れ残り、重ね重ねの値引き表示で真っ赤に染まる。自然、私はそれをよく買って帰るし、大抵それはカレーになる。骨が多く入り組んでいるので正直箸で食べる方が楽である。
ところで鯛には「鯛の九つ道具」というものがある、これは鯛が体内に持つ、それぞれに独特な形をした9つの骨ほか(鯛中鯛、大龍、小龍、鯛石、三つ道具、鋤形、竹馬、鳴門骨、鯛の福玉)の総称で、縁起物とされている。そのうちのひとつ、「鯛石」とは解剖学的には耳石と呼べれるものにあたり、哺乳類などでは体の平衡感覚を司る器官の一部をなすものだが、いわゆる「耳」を持たない魚類はこれを聴覚器官としても用いる。扁平な皿のような形を持つ耳石は、それを支える無数の微細な繊毛を通じて聴神経へと繋がっており、耳石の振動を音として脳に伝える。ちなみに昨日の日記で記したように、一部の種には浮き袋をこの振動の増幅器として利用するものがいる。
ただし、哺乳類のような蝸牛管を持たない魚類は音波について周波数分解能を持たない、ということは彼らは音色を知らないとされている。ということは、もし彼らに声があったなら、彼らは、「自分の声」の不気味さを知らないのだろうか。彼らは気道音と骨導音との、少なくとも質的なギャップを知らない、すなわちそのギャップにおいて生まれるあの不気味な私を、知らないのだろうか。
そういえば、まだ読んだことはまだないのだが、デリダ『絵画における真理』中、ヴァレリオ・アダミが描いた魚のデッサンの読解に際して、彼はドイツ語の「私 Ich」とギリシア語の「魚 ichthys」との類似に着目し、そのデッサンに「Ichという出来事」を読み取っていた。
いうまでもなく、魚はキリスト教の文脈においては重要な意味を担うシンボルのひとつであり、そこに「私」の署名を読み取ることがデリダの戦略なのだろうと思っていたが、そこには同時に彼の「私の声を聞く」という音声中心主義批判の文脈も編み込まれていたのかもしれないなどと思ったりもする。読んでないけれど。
13:30現在、いくらか前にコーヒーは二杯。イオンPBのグアテマラ。昨日のものとは違って、こちらは馴染み深い、どっしり構えるグアテマラだ。昨日とは違って、天気は良い、今日は日曜日のようだ。
2020年10月17日土曜日
20201017 秋雨、女生徒、浮き袋
7:30現在、コーヒーはまだ淹れてはいない。米を炊いている。玄米の、私は白米よりもこちらの確かなフィールドの方が好きだ。火にかける時間は長い。
たった今味噌汁を用意した。昨晩浸しておいた煮干しに、もやしの残りに、冷凍庫に一年以上放置されていた油揚げ、湯通しして、あとしめじとえのき。小さなミルクパンにいっぱい。
昨日買ってきたサンマもじきに焼くだろう。クチバシから何か飛び出しているのは寄生虫か何かだろうか。
昨晩は買い出しに出た。上着を羽織るのは夏が明けてから初めてだったか。イオンは最近、備え付けのスマートフォンでバーコード読み取り、セルフ会計できるようになり、このご時世にはとても気楽でありがたい。
土鍋の底でぱちぱち鳴き出した米をもう少し追い込みつつ、魚焼きグリルに火を入れる。味噌汁は少しおいてキノコと油揚げの味が汁に馴染んできたようだ。
昨晩は色々な食材がずいぶん安く手に入って嬉しい。先のサンマは3尾で150円だった。それと一尾分のゴマサバの切り身80円、鯛の頭30円。それとキャベツやら、もやしやら。柿もひとつ。
サンマは今朝の分一尾を残して冷凍した。適当な大きさの保存袋を探した結果、メゾン・カイザーのポリ袋に無事収まったので、少し笑ってしまった。相当昔にもらったはずの、バゲット保存用のものだ。パン屋にももうながいこと入っていない。
サンマがぶすぶす身を焦がす音を寄越している。
8:30現在、コーヒーは一杯。コロンビアのウォッシュト。なめらかな質感に華やかな酸味が心地よい。外で濡れたアスファルトを轢き回す車輪の音の寒々しさと斜交う。
朝食と洗い物はすでに済ませた。サンマのクチバシに飛び出した硬い鋭角はどうやら頭蓋の一部だった。
昨日音読したのは太宰治の「女生徒」冒頭、「得意である。」のところまで、を2回。いずれも10分と少し。私はあの小説が好きだ、朝、目を覚まして以来ぽちぽち去来する諸々が、移り気の都度に、お仕舞い、と断ち切られるのではなく、句点を跨いで、喰み出しあって、斑らけをなす、あるいはポリリズム。その意味で、朗読に向いた作品かもしれない。グリルの網の上、裂けた横腹から覗く魚の肋骨を数えるように。移した皿の上で、白く凝固した肉を解して骨を梳き取るように。
魚の浮きぶくろはもともと、肺が変化したものなのだという。古代の魚類が海水から淡水へと進出するに従い、空気中から酸素を得る器官として獲得したのが肺であり、その役割を保持したま現代に至るのが、ズバリの名を持つハイギョのような肺を持つ魚類、淡水からさらに陸へと上がった両生類、そしてその他あらゆる四肢動物である。翻って淡水から再び海へと戻り、その際に肺を浮力の調整器官、すなわち浮き袋として転用したのが私たちに馴染みある魚類の大多数である。その中には再び淡水へと踵を返した淡水魚や、海底での生活に特化して浮き袋を失ったヒラメやホッケようなものもいる。
コイやナマズ、ニシンの仲間はこの浮き袋に反響する音を聴覚の補助に利用するという。彼らは音を腹で聴くのだ。
もしかれらに声があったならば、かれらは自らの声をどのように聴くだろうか。耳栓をして声を発する、あのくぐもった声が頭蓋いっぱいに反響してどうしようもなくむず痒い、あの感覚を思い出しながら。
「女生徒」冒頭には短い語の反復が数多く現れる。どきどき、むかむか、また、また、とうとうおしまいに。濁って、濁って、しらじらしい、いやだ、いやだ。
その反復は、第一声に、ひとつ遅れて第二声をまた重ねるその反覆は、行き着く先もないままに、ただ内向きに落ち込んでいく内語の、内省の、出鱈目な反響の輻輳する果てに、場末の吹き溜まりのように現れる「私」の、(そうだ、「我思う、故に…」が頑なに隠匿しようとした、)あまりに遣る瀬無いあらわれの形象だろう。私は、私が口を開く、発せられた「あ」に、ひとつ遅れて反響する耳骨の、鼓膜の、はみ出した傍らおいて私として、「あさ、眼をさます」のだろう、水底に沈澱する澱粉のように。そしておそらく彼女の子宮を介して、母と娘の反覆のなかに私としてあさ、眼をさますのだろう。
そうしたやりきれない反復のなかにある私に抗うように、ふと、「お父さん」などと、小さい声で呼んでみる。大空を一杯に映すような美しい目に憧れてみる。憧れて、自分の目のたどんのように光を押し殺す多孔質な表面を、いっそのこと涙で湿してしとやかに覆ってしまいたいと思ったりする。
そんなことを脈絡なしに夢想しながらも、日はまた暮れて、またあけて、また、あさ、眼をさますのだろう。
10:30現在、コーヒーは二杯目。グアテマラのウォッシュト。この産地には意外なほどの繊細な、皮に覆われたままの桃を嗅いだような清醇な香気。一歩退いたやさしい酸味。しかし去り際、不意に焚き火の煙が一瞬鼻先をよぎったような感覚があり、なつかしくて少し泣きそうになる。
外は雨である。
2020年10月16日金曜日
20201016 地、灰、愛
11:00現在、コーヒーは1杯、今日は新しく開封した、インドのカラディカン農園、ナチュラル。存在感の強いスパイス感のせいか、一瞬、水に溶いたココアのようなざらりとした質感を錯覚するが、それは口腔にまとわりつくことなく、赤ワインのような挙動で流れていく。後味にダークチョコレート。冷めるにつれて徐々に口蓋に漂うレモンのような風味、時折閃くようにあんずバーのような酸味が感じられる。
国内に抱える紅茶の特産地の名の数々の陰に霞んでか、コーヒーの産地としてのイメージがあまりない(ような気がする)インドだが、実のところ常に世界のコーヒー生産量の上位に食い込む一大コーヒー大国であり、しかもその大部分をカルナータカ州、ケーララ州、タミルナードゥ州からなるインド最南端3州が占めている。
その3巨頭の中で断とつであるカルナータカ州のチクマガルールは、伝承によれば、コーヒー豆がインドに伝わった初めての地であり、なんでも16世紀だか17世紀だか、僧侶ババ・ブーダンがイエメンから秘密裏に、遠路はるばる7粒のコーヒー豆を持ち帰ったのだという。
真偽はともかく、この地はインド亜大陸の西海岸を縁取る西ガーツ山脈に位置する高地であり、コーヒーの産地として適していたことは事実であって、案の定後年大英帝国がこのあたり一帯でコーヒーの大規模なプランテーションを始めることになる(マイソール・コーヒー)。ちなみにチクマガルールから山脈を辿ってもう少し南に降ったところには紅茶の産地として名高いニルギリ丘陵が広がっており、そこを走るニルギリ山岳鉄道の名もまた有名だ。
というか正直なところ、私の中での順番は逆向きだった。
最初に知ったのは「ニルギリ」という名詞、それは作詞:抱きしめたトゥナイト、作曲:ハチ(言うまでもなく、後の米津玄師)による短い歌のタイトルであって、また私がそれを初めて聞いたのは、今はすでに引退しているVTuber久遠千歳のカバー曲でのことだ、彼女は死ねないのであって、その曲には谷に落ちていく汽車が登場する。
その曲を知って少したったころ、近所のイオンの値下げコーナーにニルギリの茶葉を見つけた。450円+税で買って帰った。
コーヒーの方はそれらとは全く別ルートで知ったことだが、それらは机の上に開いた地図帳の見開きの上で隣り合っている。
昨晩は1時間くらい音読をした。たまたまkindleに入れてあった三方行成『トランスヒューマンガンマバースト童話集』収録「地球灰かぶり姫」。「継母」と「シンデレラ」という頻出語がとにかく舌が回らず最後の頃にはへろへろになりながらの一時。死のうだなんて馬鹿馬鹿しいとばかりに地を覆い尽くす灰を踏み散らして幸せなシンデレラ。ガンマ線バーストにも負けないくらいのずっと、ずっとの愛のおはなし。
参考
https://dailycoffeenews.com/2018/10/02/coffee-in-india-a-complex-history-and-a-promising-future/
2020年10月15日木曜日
20201015
10:00現在、コーヒーは一杯。エチオピアのナチュラル。
開封したてのころの、梅干しやゆかりを思わせるような香りもいまはだいぶ薄れたとはいえ、それでもまるみを帯びた輪郭の片隅に、ぽっかりと空いた風穴のように、あの香味の痕跡がかすかに呼吸しているのが感じられる。
11:00現在、コーヒーは二杯目。同じくエチオピアの、今度はウォッシュト。同じ農園の処理方式違いであるナチュラルの驚きの陰に隠れてしまっていたところもあったけれど、落ち着いてみるとこれもまたまるく、なにかをくすぐる、これもまた記憶だ、なにかの、すこしのよろこばしさとくすぐったさ、皿の片隅にのこされたなにか、一体なんだったのか、白い、これは記憶だ、わたしもしくは誰かの、口腔を滑り落ちる忘却の風が巻き上げる後塵によって、ただそれだけが浮かび上がらせる曖昧な輪郭だ。
今朝の目玉焼き、冷凍のグリーンピースに混じってフライパンの上に横たわるサワラの切れっ端は昨日の残り、隣の火口で温め直されるスープもまた昨日の残り。昨晩の夕食の残り。
昨晩の夕食。なにやら珍しく夕食らしい夕食だったもので。
・鰆の塩焼き
・鰆のムニエル
・もやしと豆苗の炒め
・キャベツとベーコンのスープ
・クスクス
値引きに値引きを重ね重ねの末の3切れ250円のサワラの切り身の、とはいえきれいな薄緋の肉が業務用の粘っこいラップをまとってひらただ。ラップを剥いで塩を振ってまたラップをして放置する。焼くあるいは胡椒も振って小麦粉も纏わせてバターで焼く。小麦の粒子は塩に呼ばれたサワラの体液にまた熱せられて金肌を覆うバターに溶けるだろうかそして剥き出しの肉をまた被覆する肌となるだろうか肉はふくらと柔らかだった。
キャベツは美味しい。
記憶が耳骨に響くはやさはどれくらいか、頭蓋にこだまする、エチオピアの土を覆うコーヒーの木とプールと港の鈍いエッヂが箸と交わる、その角度はどれくらいか、