2017年10月17日火曜日

『シン・ゴジラ』、その配役のバランス感覚に見えるもの

 『シン・ゴジラ』、特筆すべきはその圧倒的なまでのバランス感覚であろう。官‐民、文‐武、文‐理といった、普段対立の両極として置かれがちな組のそれぞれの代理人が、ゴジラ襲来を機に額を寄せ合い、物語の過程でその各々がそれぞれに、過不足なく手柄を立てつつクライマックスを立ち上げていく。その配役の手際はほとんど熟練の司会者のそれである。

 そこでは現代国家体制を支える名簿を埋める思いつく限りの項目の数々が、その個別の評価を避けるように、比例によらず、順不同に列挙的に一同に介し、果たして火急の案件ゴジラは、彼らの侃々諤々の果ての「落とし所」としてめでたく処理されるばかりであって、彼らがゴジラを見遣る目はほとんど流し目といってよいほどである。


 しかしここで触れられないままに終わるのが、聖‐俗の組である。より正確には、「聖」の極を担うことは遂に人間側には許されないままに、ゴジラ一人が一身に背負って物語は進んでいく。

 先の「国家メンバー勢揃い」的な人間側の描写と併せると、結局のところ本作におけるゴジラとは、あたかも現代において俗なる「政治」から締め出された「政(まつりごと)」の聖性をまるごと肩代わりしているかのようである。つまるところ『シン・ゴジラ』とは、現代において分離してしまった国家権力の二つの側面を描いた、おおざっぱに一つの政治論なのだ。

断簡:落下

ものが落ちてくる。その光景を見るときの言い知れぬ多幸感は一体何なのだろうか。

上方からであること。
上方とは、私たちの営みの平面にとっての外部である。残余であり虚無でありつまりそれは虚空と呼ばれる。

虚空というだけならそれは上方ではなくたとえば横にあってもよい。しかしその虚空は上方において同時に充実の場として、それ自体が価値あるもの、なんであれそこにあるモノ全てに価値を与えるものとなる。それは物理学では位置エネルギーなどとよばれるもの、その価値は虚空の内にあるものすべてに無差別に、外在的に、添えられるものだ。横方向から飛来する銃弾はどこか息苦しい。無理をしている。次の瞬間には摩滅する運命だ。それに対して上方から降り来る矢は天賦の添付の祝福の内に解き放たれている。

落ちてくる、とはつまり

写真の上の植物、あるいは像の最小

 写真に写る植物の像たちに、私は昔から惹かれていた。画面いっぱいに広がる桜の花びら、地面を覆うオオイヌノフグリの淡い青の散り散り、夜闇の中街灯に浮かび上がる夏の街路樹の青葉、等々。光の下に、カメラの前に、互いに駆け抜けるそれらとシャッター幕との交錯の一瞬の垣間、フィルムであれ撮像素子であれ一つの感光面につと像を結び、しめやかに焼いた、その影が今、目の前のプリント・アウトの上に散っている、その事実に、その凝集に、魅せられていた。


 それは言うなれば、「像の最小」ではなかろうか。たとえば語の最小としての「a」が、「嗚」が、私たちの言語使用を不意にざわつかせるような静かな衝撃を、枝葉が、花弁が、像面に対して秘めているのではなかろうか。


 私にとって写真とは、何よりもまず点的なもの、punctual なもの、針穴のように、ぷつりと刺すようなもの、あるいはずらずらととめどない流れに打たれる句読点 punctuation のようなものであった。そしてそれはもちろん、かつてロラン・バルトが写真に見出した「プンクトゥム」とも大きく重なるものだろう。



 それならば植物こそ、写真がそれに尽きそこで果てるところの先端ではあるまいか。


追記


昔こんなことも書いていた:Instagram、正方形 - Togetterまとめ