2020年12月11日金曜日
20201211 肉、毛髪、芸術
2020年12月7日月曜日
20201207 オリオン、ササミ
2020年11月25日水曜日
20201125 高層、廃道、無国籍
9:00 現在、コーヒーはすでに二杯。タンザニアのウォッシュト(キリマンジャロ)と、コロンビアのウォッシュト(ゲイシャ)。
タンザニアはキリマンジャロと名乗るも酸味は控えめ。華やかさとも豊潤とも刺激とも距離をおく、どこか枯れて鄙びた印象。コロンビアは口にすると一瞬の空白ののち、ゲイシャ種によく言われるような紅茶というよりはむしろ中国茶のような、少し湿って微発酵した葉っぱのような風味が、すこしバタつきつつもふっと口の中に広がり、そこに加えていくらかの渋みを舌に残して去っていく。
昨日は銀座に最近できたUNIQLOに初めて入った。地下2階の「ビゴの店」にパンを買いに行くたびにずっと工事やってるなあ、とは思っていたが、既存の建物の1階から4階にかけての床をぶち抜いて吹き抜けにした改修はヘルツォーク&ド・ムーロンのデザインによるものらしい。近くのSONYビル跡地下もそうだけれど、正直私はコンクリートのこういう切断面に弱い。マッタ=クラークが好きなのもその幾らかは案外そんな理由によるものなのかもしれない。
高層ビルの吹き抜けというのはなんとなく妙だ。平面を高さ方向に連続的に操作する能力というのをもとより私は人間に期待していないのかもしれない。同じ平面を判で押したように反復するので精一杯だろう、と。しかし「高層 multi-story」とはいうけれど、それって並行世界ではないよなあ、と思う。それらのストーリーは無数の水道管に貫かれている。
そういえばコールハースの『錯乱のニューヨーク』、読んでないな。
八重洲の飲み屋街一帯で大々的に再開発が始まっており慄く。いくつもの街区を鉄板がまるっと囲い込んでいる。聳え立つ屏風状の扉の奥に閉鎖された道路が見える。道が潰れるというのは、建物が潰れるのとは全く別種のインパクトがある。なんだかんだで私たち(少なくとも、現代日本に住んでいる私たち)はやはりどこに行くにもあらかじめ道の存在を前提してしまっているし、その上を歩き、それに区切られた有限の範囲内でそれを捉えることに慣れてしまっている。そうしたフレームそれ自体が操作の対象として、オブジェクトとしていざ眼前に現れてくると途端に目が眩んでしまう。そうしたフレームは同時に私たち自身を定義するフレームでもあるから。経験として、私たちはどうしようもなく世界と相関しているから。
この平面=計画 plan の内側でなんとかやっていきましょう、そういう話だったでしょう、それが私たち、そういう私たちだったでしょう、それを今更、どうして、流石にそれは私たちの手に余る、手に負えない、もう沢山だ!
上野はアメ横でコーヒー豆と紅棗夾核桃を買う。ナツメの実を切り開いて中にクルミを挟んだお菓子で、昔バイト先の中国の方にお土産に頂いたことがある。どのくらいの歴史をもつお菓子なのか、私は知らないけれど、これはミニマルに悪魔的なお菓子だと思う。ここで「悪魔的」というのは「手段を選ばない」「なんでもあり」「こんなの美味いに決まっている」くらいの意味で、 「ミニマル」というのはそれがしかし味付けも何もなく、ナツメとクルミというわずかに二つの食材だけで構成されているからだ。これはズルい。最大効率にズルい美味しさだ。
私たちは常に何かしらのルールの内側、何かしらのリングの内側で戦っている。フランス料理ならフランス料理、和食なら和食、トルコ料理ならトルコ料理の内側で。ひとつの評価軸、ひとつのフレームの内に留まる。それが良識=常識 bon-sens というものだ。
それを横断するのは両方向に危うい行為だ。リングの外側に放り出されて、評価する側も、される側も、どう身動きをとっていいかわからない。まるで砂漠に投げ出されたかのようなものだ。最高に自由で、最高に道無しだ。先に「こっちだ」と言ったもん勝ちのような気もするし、そうして迷って野垂れ死ぬのもまたそいつの勝手だ。それはとてもとてもズルい、美味しい行いだ。それはあまりに手に余る、あまりに滅法な、それはあたかも空虚=バカンスのごとき豊かさだ。
朝は雨が降っていた。薄暗くて投げやりに寒い。ユニクロのダウンを買おうかと思っている(+J のダウンはいまだに実物を拝めていない)。冷蔵庫のスペアリブをどうしたものか。腹腔を支えるアーチ。11月も終盤だ。
追記
途中からフォントが妙になっちゃったけれど許してほしい。
2020年11月13日金曜日
20201113 夢、大気、PS5
9:30 現在、コーヒーは一杯。パプアニューギニアのウォッシュト。
ここしばらく、「コーヒーが好きであり、自分なりに色々読んだり試したりするように心掛けている」と言ってもよいかな、というくらいの振る舞いをしていたつもりだけれど(躊躇いなしにそう言えるだけのものを私はこれまでひとつとして持たないままに今まであった)、とんでもない、私は本当に何も知らないのだという分かりきった事実が改めて闖入してくる。Kindleで200円で買った200ページばかりの初心者向けムックさえ、知らない内容で一杯だ。
キャベツのトーレン。汗を吹いてふやけた薄緑とターメリックの黄色が馴染み、そこに褐色のマスタードとココナッツファインの白色。塩辛い。バスマティ・ライスを炊く。この米に特徴的という香りも私の鼻にはいまだにぴんとこない。もとより視界に映らぬものを探すのはとてもつらい。
昨夜の夢でもまた私は誰かと喧嘩していた。日中の私には決して湧き上がることのない弛まぬむかつきの滞留。「怒りが爆発する」とは言うけれど、怒りはそれ以前にまず、ある種の持続力を要求するものだ。突沸してたちまちにおさまるような怒りは怒りとも呼べまい。
何かを追う夢、何かに追われる夢をよく見る。いよいよ迫る破滅の影に、しかし私の脚はプールの水を掻くようにのろのろとして進まない。あるいはもっとずっと昔、子供の頃には、よく平泳ぎで空を飛ぶ夢を見た。脚の内側に大気を絡め取るようにして、じわりじわりと浮かび上がった地上5メートルばかりの上空から路上を見遣る。どちらの夢でも、その大気は普段呼吸しているものよりもずっと私に濃密で、四肢の運動に払い遣られることもなく、むしろその中でもがく私をいよいよ絡め取って滞留させる。
この滞留のうちに、片栗粉でとろみのついた汁に落とした溶き卵が房を成して凝り固まるように、夢の中の私の怒りもまた可能になっているのではないかと思う。
昨日、熾烈な抽選を勝ち抜いてPS5を手に入れた人たちのTweetが流れてきたのだが、その中のある報告に胸がざわついた。なんでも、PS5のコントローラー表面と本体のパネル裏面は細かい梨目加工になっているのだが、それをよくよくみると、その梨目は実は細かい○×△□マークがビッシリちりばめられたものなのだという。これはもう、いかにもなにかの悪夢にありそうな質感のお話ではないか。
この悪夢的な不気味さの源はなにかといって、まあ、まずはそのスケールによるものだ。私たちが自らの手で何かを作り上げようとするとき、ふつうそのデザインは、私たち自身の生身が持つ分解能の範囲内で成される。色は可視光、音は可聴域から。目に模様として映るスケールはこれくらい、操作表示としてならこれくらい、握り締めるならこの程度だし、その上を歩き回るならあのくらい。そうしたスケール設定を期待して向かった先でしかし踏み外すとき、私たちはすぐ、自分が何かを間違えたことを悟り、間合いを取り直そうと距離を置く。
しかしそれだけであればよくあることだ。用途を間違えていたのかもしれないし、あるいはそもそもそれは「技術」の産物ではなかった、「自然」の所産だったということかもしれない。私たちがその内に住っている環世界の外部には、広大な「わからなさ=自然」の海がタガも何も無しに無限に広がっている。私に対して他者として立ち現れることさえないそのノッペラボウの自然をしかし私たちは、あたかもそれがはじめから私たちに向けて書かれていたかの体で、抜け抜けと読み上げては自身の球体の内側に組み込んでいく。
問題となるのは、そうした自然への探索作業のさなかに、不意に、全くお呼びでないタイミングで、ふたたび技術の痕跡に突き当たってしまう時だ。全てを自家薬籠中に取り込んでいく厚かましさを振るう余地も無いほどに、はなからこちらに見るべく与えられているかのように、開けっ広げに眼前に姿を現してくるとき、それは不気味だ。火星表面に横たわる2.5kmに及ぶ人面岩であるとか、遺骨の海綿質を顕微鏡で拡大していった先に映り込む微小なシリアル・ナンバー(『ブレードランナー2049』)は、私たちの目に不気味だ。
そうした場違いな品=オーパーツ(Out-Of-Place-ARTifactS)に出くわすとき、これまで揃っていた私たちの歩みは激しく動揺する。足幅はばらつき、足並みが乱れる。常識=良識 bon sens のスケールが揺らぎ、リズムが破綻する。私たちはその場に渋滞し、滞留する。逃れようとするも脚はすでに縺れ、ぶよぶよと膨張し、もはや足裏の冴えた感覚も確かなグリップも期待すべくもない。
「なんということだ、そうだ、これはなにかの悪い夢だ、私たちは見られている、私たちのこの醜態を見てほくそ笑んでいる誰かがいる、それは神か?私たち自身か?」
私たちの目に小さすぎる○×△□に出会したときの悪夢的光景とはこのようなものだろう。この地球、「私たちのために創造された」この地球の大気は、いうまでもなく、他でもなく、"私たち"の四肢に、呼吸器に、それこそ「空気のように」透明で、軽やかで、無味無臭だ。大気のこの透明感は、"私たち"の同質性にこそ保証され、同質なる私たちを中心に、同心円状に広がっている。しかし円環の片隅が不意に何か、別の円環と衝突するとき、同質性の円は揺らぐ。したがって大気は濁り、澱み、それまで意にも介さなかった重みが肩へとのし掛かる。こうしたズレ、こうした澱みの中に、例えば私は泳ぎ、脚を掬われ、怒り続けるのだ。
2020年10月27日火曜日
20201027 行って帰る、女生徒、あなた
7:30 現在、コーヒーは一杯、昨日買ったルワンダ。派手な酸味やフレーバーこそないが、喉の奥にまですっと芯の通った、とてもスムースな質感。
8:30 現在、コーヒーは二杯目、同じく、コロンビアのゲイシャ。レモンを搾った紅茶の、枯れ草のような香りと、微かに舌をくすぐる渋み、酸味ははじめ、離れたところで露払いするように引き立て役に徹する、かに思われたが、次第に(渋みと併さってか)黒い皮の果実、ブドウのような酸味へと変わる。
昨日は久しぶりに街に出た。ほとんど半年ぶりではないだろうか、Suica に眠っていた800円分の磁気データが身震いする。先の二つのコーヒーはいずれもその帰り道、アメ横のビタールで買ったものだ。店先に積み上がる雑多な輸入食材の数々に埋もれるように、良質で、価格も手頃な豆を扱っている。常に複数産地の豆を広く取り揃え、回転が早いのか、鮮度も良く、とてもありがたい。今回など、いつものケースの一つにしれっとゲイシャ種の豆が並べられており、目を疑ってしまった。
その貧弱さと病弱さゆえ国際市場では永らく忘れられていたゲイシャ種だが、研究用途で運ばれたコスタリカを経由し、2004年頃、パナマはエスメラルダ農園で収穫されたものが品評会で話題を攫って以来、すっかり希少な高級豆として名が広まることになる。殊更に「再発見」の地であるパナマ産が名高いが(品種としても少し特殊だという)、私が過去に飲んだことがあるのは原産地でもあるエチオピアと、あとはコスタリカのもので、コロンビア産は今回初めて知った。
そんな事情があって、入荷したらどこの店でも散々騒ぎ立てるような豆なのだから、それが何でもないような顔して並んでいるのを見た私の戸惑いも無理からぬものであると思う。
ところでこれは帰り道での話なのであり、直接の行き先は銀座で、このご時世に面倒臭いし無印かユニクロあたりで適当な冬服を探し、手ぶらにおわる。どうも私が衣服に求めるものはまず布地への偏執で、そしてユニクロにはそれが無い。売り場に踏み入る度に私を絶望させるそれらはいわば衣服の実物大模型で、他を指さすには足りようがそれ自体に手を伸ばすにはあまりにおぞましい(あるいはそれはさらに一段高等なフェティシズムなのか)。
すごすごと引き下がってビゴでロデヴとオーベルニュを買って銀座を後にして、アメ横を通って帰途につく。ギャラリーとかによる気力はまだ無い。寒くなったらあるいは。
髪が大変に鬱陶しい。何かあった日についての日記をどう書いて良いものかがよくわからない。邪魔だ。
昨日は帰宅後、しばらく休んでから、こんなにも歩いたのも久しぶりだ、夜は買い出しにも出た、ここのところ買い出しもいつも夜だったので、日中の街も久しぶりだ、傾いた日に照らされて発光する、びん・缶回収用の青いネット。
『女生徒』を最後まで読んだ。遅れて生きている自分、そうした在り方への深い諦めがある。他に遅れて産まれてきた、ただその一点だけを根拠に、わたしはいま娘なのだ。お父さんの死に遅れた、ただその一点だけを根拠に、わたしは生きているのだ。朝は夜に遅れて、夜は朝に遅れてやってくる、ただその一点だけをを根拠に、それは朝であり夜であり、その間にあってわたしはいつも、「あさ、眼をさます」のだ。
生は小説などではない。「いま、いま、いま、と指でおさえ」るうちに、スライドしていくように過ぎ去っていく。あのいまがあり、このいまがある、それだけだ。それなのに、手応えもなく過ぎ去ったはずの「いま」は、どこかで確かに降り積り、伊藤みたいに、今井田みたいに、いつかわたしもなってしまうのだ、厭らしい。しかしいちばん厭らしいのは、伊藤や今井田であること以上に、それに遅れてそこへと静かに、確かに、わたしを押し流していくであろう、この「いま」の、あまりにも微視的な嵩張りであり、そしてその嵩張り、「いま」を絶えず過去から未来からあぶれさせるその嵩張り、それ自体が「わたし」の身体に他ならないという、その事実なのだ。
終盤、あまりに突然にその呪いはこぼれ落ちる。「わるいのは、あなただ」。
読者のことではないだろう。というのは、「作中人物であるわたし」に対立するさせられる限りでの、単にメタフィクショナルな構図の中で、ただ読者であるというその一点においてのみ責めを負わされるところの、「読者であるあなた」のことではないだろう。
「わたし」が断罪は、「あなた」という呼びかけに応じ得る全て、世界の「「わたし」」の総体にこそ向けられている。「わたし」は、「わたし」にとっての「あなた」であり得る全ての「「わたし」」にとっての「あなた」である限りで、ただその一点だけを根拠に、「わたし」として産まれてしまった。そのヤマビコ状の遅延構造の総体への、これはなけなしの唾棄であろう。
数度にわたる呼びかけにしかしもはや決して応えることのない、二重に異-性であるところの「お父さん」は、それゆえに「わたし」にとっての代え難いよすがとなっている。生きることからちょっと斜傍に逸れるための、それは夾雑物としての希望である。
昨日と同じ24時間だけの時間が今日もまたこうして過ぎ去りつつある。昨日であればそろそろ再び家を出て、スーパーマーケットへと向かう路地を闊歩している頃だろうか。久しぶりの長い外出、畳を踏むのとは違うアスファルトの密度が靴底を突き、足裏はそれを掴んでは押し返す、そこにそちらは後方である。全ての道は道であろうとする限り原理的に一方通行であり、対向者が向かってくるそのたびにわたしは「あなた」「あなた」と呼び掛ける。わたしは道を右に避け、それはあなたにとって左であり、あなたが多少なりとも良識を持ち合わせているならば、あなたが避けるのもまたあなたの道の右へと向けてだ。わたしだってそうしただろう。
こうして道は今日も道である。数十分もすれば同じその道を逆に辿る、買い物袋を肩に抱えたわたしが、あなたが、そこを通ることだろう。こうして道はなおも道であり続ける。わたしはわたしであり続ける。わるいのは、あなただ。
2020年10月24日土曜日
20201024 ワン、ルー、ム
9:00 現在、コーヒーは一杯、UCCのザンビア。
久々に牛乳を買ったので、朝はフレンチトーストを食べた。今年になってから、フレンチトーストは甘くないほうが余程美味しいと気付き、以来味付けは塩とカルダモンだけになっている。
一昨日の買い出しの成果を踏まえ、昨日は牛スネ肉を野菜と一緒にをワインで煮たのと、人参の葉っぱ他のかき揚げ。使わないのでめんつゆは持っていないのだが、天ぷらのつゆとしてポン酢を使うのは案外違和感がないと気付く。酸味は油に中和されてほとんど目立たず、変に甘ったるくない分むしろ良いという人もいるかもしれない。食べた後どうせならとガス台ごとどかして掃除したのでやり切った感がある。
10:00 現在、コーヒーは二杯目。ケニアのウォッシュト。
昨日のProcessing ではプログラムの構造化について少し読んだ。初期化関数 void setup() とメインループ void draw() 。この二つを軸として、そこから必要に応じて外部の各種の関数に引数 argument を吹っかけたり、戻り値 return value を受け取ったりすることで一つのプログラムとして機能する。やたらに入り組みがちなプログラムをこうして機能ごとにモジュール化することで、その設計や点検が容易になり、また、殊、専らヴィジュアル・イメージ等を扱うことに特化したProcessing の場合、構造化に伴う反復構造は、アニメーション表現の実現において必要不可欠なものである(らしい。正直まだあまり納得がいっていない)。
今読んでいる入門書(田中孝太郎・前川峻志『Built with Processing デザイン/アートのためのプログラム入門』)は構造化以前のプログラムをワンルームの部屋に、構造化されたプログラムを一戸建ての家に喩えていた。初期化関数とメインループをそれぞれ玄関と居間とし、それを中心にしていくつもの部屋=関数が組織されているのだという。
構造化には、個々の部屋が互いに対して閉じていることが重要だ。一つの部屋で起こった修正が、いちいち他の部屋にまで波及してしまったのでは無駄手間だからだ。受け取った要求には適当な応答を速やかに返し、お互いの内情の機微には立ち入らない。それが円滑に仕事をこなす秘訣である。
アニメーションとは言うが、それは時間が生まれる、ということではなく、むしろその征服なのだろう。たぶん、極限まで構造化されたプログラムがあったとして、そこには時間も空間も存在しない。時間や空間とは私たちの迷いの相関項であり、私たちが迷うのは、無数の部屋が一つの順路によって結ばれたお屋敷などではなくて、むしろ無駄に大きな一つの部屋、そこに散らばるいくつもの事物の余白においてだ。
私は歩き回れる。全くただこの一点において、私は自らを私である、と宣言する。引き籠っている事物から疎外されている限りで、私は他ならぬ、いやむしろ他としての私である。
2020年10月18日日曜日
20201018 豆、魚、私の声
11:00現在、コーヒーは一杯。コロンビアのウォッシュト。カップの底に少し残った冷めたものもまたシロッピーでおいしい。
今朝は寝過ごした。昨晩水につけておいた豆をキャベツと煮込たスープ、食パン、目玉焼き。
ずいぶん前、多分1年くらい前に安売りで買った米国産の黒目豆(black eyed pea)なる豆で、使い所がわからなくて放置してあった。サイズ感としては大振りの小豆くらいで、実際ササゲの仲間らしい。しかしあいつらのような頑なな外皮は持ち合わせておらず、薄黄の肌の臍周りに黒い斑があるその外観は見るからに軟弱で、数時間おいただけであっさりボヨボヨ膨張していた。いかにも新大陸の豆という風体で、キドニービーンズの中身のような白くボソッとした肉はスパイスやハーブを効かせたスープと相性が良さそうだ。テクスメクス、移民の味だ。
昨日なんとなく自分の声をチューナーに聴かせてみたところ、どうも実際の声は体感の1オクターブくらい低いようだった。喉を震わしていちばん自然にでる声は高低いずれもおよそA(ラ)の、220Hzと110Hz。ちなみにピアノの調律の基準とされるのがさらに1オクターブ高い440HzのAらしい。赤ん坊の泣き声は万国共通でこの440Hzだというまことしやかなお話は聞いたことがあったが、まあなんというか、愉快なことだ。
昨晩は鯛の頭のカレー。近所のイオンは宴会料理の仕出しでも請け負っているのか、鯛の頭がしばしば夕方の店頭に大量に並び、大量に売れ残り、重ね重ねの値引き表示で真っ赤に染まる。自然、私はそれをよく買って帰るし、大抵それはカレーになる。骨が多く入り組んでいるので正直箸で食べる方が楽である。
ところで鯛には「鯛の九つ道具」というものがある、これは鯛が体内に持つ、それぞれに独特な形をした9つの骨ほか(鯛中鯛、大龍、小龍、鯛石、三つ道具、鋤形、竹馬、鳴門骨、鯛の福玉)の総称で、縁起物とされている。そのうちのひとつ、「鯛石」とは解剖学的には耳石と呼べれるものにあたり、哺乳類などでは体の平衡感覚を司る器官の一部をなすものだが、いわゆる「耳」を持たない魚類はこれを聴覚器官としても用いる。扁平な皿のような形を持つ耳石は、それを支える無数の微細な繊毛を通じて聴神経へと繋がっており、耳石の振動を音として脳に伝える。ちなみに昨日の日記で記したように、一部の種には浮き袋をこの振動の増幅器として利用するものがいる。
ただし、哺乳類のような蝸牛管を持たない魚類は音波について周波数分解能を持たない、ということは彼らは音色を知らないとされている。ということは、もし彼らに声があったなら、彼らは、「自分の声」の不気味さを知らないのだろうか。彼らは気道音と骨導音との、少なくとも質的なギャップを知らない、すなわちそのギャップにおいて生まれるあの不気味な私を、知らないのだろうか。
そういえば、まだ読んだことはまだないのだが、デリダ『絵画における真理』中、ヴァレリオ・アダミが描いた魚のデッサンの読解に際して、彼はドイツ語の「私 Ich」とギリシア語の「魚 ichthys」との類似に着目し、そのデッサンに「Ichという出来事」を読み取っていた。
いうまでもなく、魚はキリスト教の文脈においては重要な意味を担うシンボルのひとつであり、そこに「私」の署名を読み取ることがデリダの戦略なのだろうと思っていたが、そこには同時に彼の「私の声を聞く」という音声中心主義批判の文脈も編み込まれていたのかもしれないなどと思ったりもする。読んでないけれど。
13:30現在、いくらか前にコーヒーは二杯。イオンPBのグアテマラ。昨日のものとは違って、こちらは馴染み深い、どっしり構えるグアテマラだ。昨日とは違って、天気は良い、今日は日曜日のようだ。
2020年10月17日土曜日
20201017 秋雨、女生徒、浮き袋
7:30現在、コーヒーはまだ淹れてはいない。米を炊いている。玄米の、私は白米よりもこちらの確かなフィールドの方が好きだ。火にかける時間は長い。
たった今味噌汁を用意した。昨晩浸しておいた煮干しに、もやしの残りに、冷凍庫に一年以上放置されていた油揚げ、湯通しして、あとしめじとえのき。小さなミルクパンにいっぱい。
昨日買ってきたサンマもじきに焼くだろう。クチバシから何か飛び出しているのは寄生虫か何かだろうか。
昨晩は買い出しに出た。上着を羽織るのは夏が明けてから初めてだったか。イオンは最近、備え付けのスマートフォンでバーコード読み取り、セルフ会計できるようになり、このご時世にはとても気楽でありがたい。
土鍋の底でぱちぱち鳴き出した米をもう少し追い込みつつ、魚焼きグリルに火を入れる。味噌汁は少しおいてキノコと油揚げの味が汁に馴染んできたようだ。
昨晩は色々な食材がずいぶん安く手に入って嬉しい。先のサンマは3尾で150円だった。それと一尾分のゴマサバの切り身80円、鯛の頭30円。それとキャベツやら、もやしやら。柿もひとつ。
サンマは今朝の分一尾を残して冷凍した。適当な大きさの保存袋を探した結果、メゾン・カイザーのポリ袋に無事収まったので、少し笑ってしまった。相当昔にもらったはずの、バゲット保存用のものだ。パン屋にももうながいこと入っていない。
サンマがぶすぶす身を焦がす音を寄越している。
8:30現在、コーヒーは一杯。コロンビアのウォッシュト。なめらかな質感に華やかな酸味が心地よい。外で濡れたアスファルトを轢き回す車輪の音の寒々しさと斜交う。
朝食と洗い物はすでに済ませた。サンマのクチバシに飛び出した硬い鋭角はどうやら頭蓋の一部だった。
昨日音読したのは太宰治の「女生徒」冒頭、「得意である。」のところまで、を2回。いずれも10分と少し。私はあの小説が好きだ、朝、目を覚まして以来ぽちぽち去来する諸々が、移り気の都度に、お仕舞い、と断ち切られるのではなく、句点を跨いで、喰み出しあって、斑らけをなす、あるいはポリリズム。その意味で、朗読に向いた作品かもしれない。グリルの網の上、裂けた横腹から覗く魚の肋骨を数えるように。移した皿の上で、白く凝固した肉を解して骨を梳き取るように。
魚の浮きぶくろはもともと、肺が変化したものなのだという。古代の魚類が海水から淡水へと進出するに従い、空気中から酸素を得る器官として獲得したのが肺であり、その役割を保持したま現代に至るのが、ズバリの名を持つハイギョのような肺を持つ魚類、淡水からさらに陸へと上がった両生類、そしてその他あらゆる四肢動物である。翻って淡水から再び海へと戻り、その際に肺を浮力の調整器官、すなわち浮き袋として転用したのが私たちに馴染みある魚類の大多数である。その中には再び淡水へと踵を返した淡水魚や、海底での生活に特化して浮き袋を失ったヒラメやホッケようなものもいる。
コイやナマズ、ニシンの仲間はこの浮き袋に反響する音を聴覚の補助に利用するという。彼らは音を腹で聴くのだ。
もしかれらに声があったならば、かれらは自らの声をどのように聴くだろうか。耳栓をして声を発する、あのくぐもった声が頭蓋いっぱいに反響してどうしようもなくむず痒い、あの感覚を思い出しながら。
「女生徒」冒頭には短い語の反復が数多く現れる。どきどき、むかむか、また、また、とうとうおしまいに。濁って、濁って、しらじらしい、いやだ、いやだ。
その反復は、第一声に、ひとつ遅れて第二声をまた重ねるその反覆は、行き着く先もないままに、ただ内向きに落ち込んでいく内語の、内省の、出鱈目な反響の輻輳する果てに、場末の吹き溜まりのように現れる「私」の、(そうだ、「我思う、故に…」が頑なに隠匿しようとした、)あまりに遣る瀬無いあらわれの形象だろう。私は、私が口を開く、発せられた「あ」に、ひとつ遅れて反響する耳骨の、鼓膜の、はみ出した傍らおいて私として、「あさ、眼をさます」のだろう、水底に沈澱する澱粉のように。そしておそらく彼女の子宮を介して、母と娘の反覆のなかに私としてあさ、眼をさますのだろう。
そうしたやりきれない反復のなかにある私に抗うように、ふと、「お父さん」などと、小さい声で呼んでみる。大空を一杯に映すような美しい目に憧れてみる。憧れて、自分の目のたどんのように光を押し殺す多孔質な表面を、いっそのこと涙で湿してしとやかに覆ってしまいたいと思ったりする。
そんなことを脈絡なしに夢想しながらも、日はまた暮れて、またあけて、また、あさ、眼をさますのだろう。
10:30現在、コーヒーは二杯目。グアテマラのウォッシュト。この産地には意外なほどの繊細な、皮に覆われたままの桃を嗅いだような清醇な香気。一歩退いたやさしい酸味。しかし去り際、不意に焚き火の煙が一瞬鼻先をよぎったような感覚があり、なつかしくて少し泣きそうになる。
外は雨である。