2020年10月27日火曜日

20201027 行って帰る、女生徒、あなた

 7:30 現在、コーヒーは一杯、昨日買ったルワンダ。派手な酸味やフレーバーこそないが、喉の奥にまですっと芯の通った、とてもスムースな質感。

8:30 現在、コーヒーは二杯目、同じく、コロンビアのゲイシャ。レモンを搾った紅茶の、枯れ草のような香りと、微かに舌をくすぐる渋み、酸味ははじめ、離れたところで露払いするように引き立て役に徹する、かに思われたが、次第に(渋みと併さってか)黒い皮の果実、ブドウのような酸味へと変わる。


昨日は久しぶりに街に出た。ほとんど半年ぶりではないだろうか、Suica に眠っていた800円分の磁気データが身震いする。先の二つのコーヒーはいずれもその帰り道、アメ横のビタールで買ったものだ。店先に積み上がる雑多な輸入食材の数々に埋もれるように、良質で、価格も手頃な豆を扱っている。常に複数産地の豆を広く取り揃え、回転が早いのか、鮮度も良く、とてもありがたい。今回など、いつものケースの一つにしれっとゲイシャ種の豆が並べられており、目を疑ってしまった。

その貧弱さと病弱さゆえ国際市場では永らく忘れられていたゲイシャ種だが、研究用途で運ばれたコスタリカを経由し、2004年頃、パナマはエスメラルダ農園で収穫されたものが品評会で話題を攫って以来、すっかり希少な高級豆として名が広まることになる。殊更に「再発見」の地であるパナマ産が名高いが(品種としても少し特殊だという)、私が過去に飲んだことがあるのは原産地でもあるエチオピアと、あとはコスタリカのもので、コロンビア産は今回初めて知った。

そんな事情があって、入荷したらどこの店でも散々騒ぎ立てるような豆なのだから、それが何でもないような顔して並んでいるのを見た私の戸惑いも無理からぬものであると思う。 


ところでこれは帰り道での話なのであり、直接の行き先は銀座で、このご時世に面倒臭いし無印かユニクロあたりで適当な冬服を探し、手ぶらにおわる。どうも私が衣服に求めるものはまず布地への偏執で、そしてユニクロにはそれが無い。売り場に踏み入る度に私を絶望させるそれらはいわば衣服の実物大模型で、他を指さすには足りようがそれ自体に手を伸ばすにはあまりにおぞましい(あるいはそれはさらに一段高等なフェティシズムなのか)。

すごすごと引き下がってビゴでロデヴとオーベルニュを買って銀座を後にして、アメ横を通って帰途につく。ギャラリーとかによる気力はまだ無い。寒くなったらあるいは。


髪が大変に鬱陶しい。何かあった日についての日記をどう書いて良いものかがよくわからない。邪魔だ。


昨日は帰宅後、しばらく休んでから、こんなにも歩いたのも久しぶりだ、夜は買い出しにも出た、ここのところ買い出しもいつも夜だったので、日中の街も久しぶりだ、傾いた日に照らされて発光する、びん・缶回収用の青いネット。


『女生徒』を最後まで読んだ。遅れて生きている自分、そうした在り方への深い諦めがある。他に遅れて産まれてきた、ただその一点だけを根拠に、わたしはいま娘なのだ。お父さんの死に遅れた、ただその一点だけを根拠に、わたしは生きているのだ。朝は夜に遅れて、夜は朝に遅れてやってくる、ただその一点だけをを根拠に、それは朝であり夜であり、その間にあってわたしはいつも、「あさ、眼をさます」のだ。

生は小説などではない。「いま、いま、いま、と指でおさえ」るうちに、スライドしていくように過ぎ去っていく。あのいまがあり、このいまがある、それだけだ。それなのに、手応えもなく過ぎ去ったはずの「いま」は、どこかで確かに降り積り、伊藤みたいに、今井田みたいに、いつかわたしもなってしまうのだ、厭らしい。しかしいちばん厭らしいのは、伊藤や今井田であること以上に、それに遅れてそこへと静かに、確かに、わたしを押し流していくであろう、この「いま」の、あまりにも微視的な嵩張りであり、そしてその嵩張り、「いま」を絶えず過去から未来からあぶれさせるその嵩張り、それ自体が「わたし」の身体に他ならないという、その事実なのだ。

終盤、あまりに突然にその呪いはこぼれ落ちる。「わるいのは、あなただ」。

読者のことではないだろう。というのは、「作中人物であるわたし」に対立するさせられる限りでの、単にメタフィクショナルな構図の中で、ただ読者であるというその一点においてのみ責めを負わされるところの、「読者であるあなた」のことではないだろう。

「わたし」が断罪は、「あなた」という呼びかけに応じ得る全て、世界の「「わたし」」の総体にこそ向けられている。「わたし」は、「わたし」にとっての「あなた」であり得る全ての「「わたし」」にとっての「あなた」である限りで、ただその一点だけを根拠に、「わたし」として産まれてしまった。そのヤマビコ状の遅延構造の総体への、これはなけなしの唾棄であろう。

数度にわたる呼びかけにしかしもはや決して応えることのない、二重に異-性であるところの「お父さん」は、それゆえに「わたし」にとっての代え難いよすがとなっている。生きることからちょっと斜傍に逸れるための、それは夾雑物としての希望である。


昨日と同じ24時間だけの時間が今日もまたこうして過ぎ去りつつある。昨日であればそろそろ再び家を出て、スーパーマーケットへと向かう路地を闊歩している頃だろうか。久しぶりの長い外出、畳を踏むのとは違うアスファルトの密度が靴底を突き、足裏はそれを掴んでは押し返す、そこにそちらは後方である。全ての道は道であろうとする限り原理的に一方通行であり、対向者が向かってくるそのたびにわたしは「あなた」「あなた」と呼び掛ける。わたしは道を右に避け、それはあなたにとって左であり、あなたが多少なりとも良識を持ち合わせているならば、あなたが避けるのもまたあなたの道の右へと向けてだ。わたしだってそうしただろう。

こうして道は今日も道である。数十分もすれば同じその道を逆に辿る、買い物袋を肩に抱えたわたしが、あなたが、そこを通ることだろう。こうして道はなおも道であり続ける。わたしはわたしであり続ける。わるいのは、あなただ。











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