2020年3月2日月曜日

生きるの、つらいよね。少なくとも俺はつらいよ、生きるの。

生きるの、つらいよね。少なくとも俺はつらいよ、生きるの。

この「俺」っていう一人称もなんだ、今の私はほぼほぼ絶へて使ふことは無けれども、小学校のころには使っていたはずで、使うようになったのは、ほとんど外圧の結果なのだけれど、きっとその前は自分の名前にちゃん付けとかで呼んでたんだろうけれど、

サチコっていうんだ ほんとはね
だけどちっちゃいから 
じぶんのこと サッちゃんって 

呼んでたんだろうけれど(おかしいね、サッちゃん)、

子供なりのせめてもの、虚勢の態勢そのものだ、「俺」とは。
「お↓れ↑は↑」って、上がり調子で口を開いて、その調子のままにじぶんの主張をつらつらつないでいくでしょう、 
「お↓れ↑は↑」の発声にあわせて動くこの口、それが捻じ込み捻じ伏せるこの会話の場において、いまこの瞬間の中心として、いまこの「俺」がある、そんなあまりに身も蓋もない響きに臆面もなく身を委ねることに耐えきれなくて、

私はといえば、
その調子を少し外して、下がり調子に「お↑れ↓は↓」としていたものだから、しぜん周りからは「オラ」だ、「オラ」だって、といくらか囃し立てられて、その反応を得るたび私は少し、捻り込む「俺は」の力場を捻挫することに成功したのだと、ほっとしていたことだろうと、そう思う。

なんだっけ、そうだ、「俺は」、生きるのがつらい、だったか、別にそんなことはないのだけれど、なんか俺とか私とか抜きにして、ひとまずつらいよね、生きるのって、と、そう思うし、でも「思う」なんて言っちゃった以上誰かがその主語を務めないわけにはいかないわけで、そしてひとまず自由にできる身はこの身ひとつしかないわけで、已む無く受けているわけですよ、「つらい=俺」。


なんか繰り返し打ち込んでいるうちにだんだん雅な字面に見えてきたな、「俺」。奄美大島に庵でも設えて、引き篭ってみたくもなるな、鴨長明ではないけれど。

そうでもないか。