2016年12月27日火曜日

「開け」とはなにか。あるいは熱平衡のなかのクリナメン。

私が「開け」という語をしばしば、そこに全幅の信頼を預けつつ、使うようになって久しい。

この語に託した意味を、役割を、明らかにするのが誠意ある姿勢なのだろうとは思う。たとえいつまでも暫定版の断り書きを引きずることになるとしても。

強いて、極めて具体的な情景を例示するなら、夜、無心にいじっていたスマートフォンから不意に目を上げた瞬間の静けさ、耳が部屋の壁を貫き彼方まで冴え渡るあの感覚。

遠ざかりであると同時に、その遠ざかりのなかに自己を据え直す瞬間。

指向されることのなさであり、因果や運命、義務や権利等々と呼ばれるような桎梏と無縁たること、つまるところ無関心の場。

それはたとえばてんでばららに互いに明日明後日を指し合うベクトルのとっ散らかり、つまり全体としての無指向、物理学ではこれをエントロピーの最大状態とか呼び習わす。

しかしこの平衡状態を実体化前提化して語ってはならない。
あくまでも個々のベクトルはなおも一心に自らの鼻先の指し示すところを目指すのであり、はるか天から見下ろされたその帰結としての骨折り損との烙印に彼は一向に頓着することはないのだ。

穏やかに凪いだ海原はそのあらゆる部分においては常に猛り狂っているのであり、そうあることではじめてそれはひとつの場を成す。
 
その開けの場は凪ぎの場であると同時に舞い込みの場である。先にたまたま拾い上げた海原の中の矢印のひとすじ、それは私との縁なさゆえに初めて私と出会いうる。

エピクロス派が「偏奇 clinamen 」と呼ぶところの、僅かな逸れに機縁してきゅるきゅるとかぼそく螺旋を描くひとつの舞い込み。その「逸れ」もまた実体的なものではなく、観測点次第の効果的なものだが、しかしそれは確かに私と出くわしうる、その都度ただひとつの他者である。

経過報告。開けとは一方で向かい来る近隣からの開けであり、他方で他者の舞い込みへの開けである。

なにかよくわからないかもしれない、しかしそれはなんとなく、美しくはあるまいか。
「なにかよくわからない、しかしどうしようもなく美しいもの」、「開け」の要はそれで十分指し示されている、と思う。とらえどころない無形の水面から不意に私たちの胸を刺し貫くひとすじの棘、それこそが開けの内に出会う他者なのだから。

2016年12月6日火曜日

『君の名は。』、あるいは車窓というゾートロープについて。

電車に乗って窓の外を過ぎ去っていく街並みを眺める。建物の背に遮られる視界はしかし、家々の狭間、空き地、踏切等々の交じり目をたんたんと踏み越していくたびに小刻みに切り開かれる。

その束の間の明るみの中に浮かび瞬く人々の姿は、その断−続の中で結び合わされ、その絶え目は幻のようになめらかに癒合されて、あたかも私たちがゾートロープの中に見るようなひとつの映像として走り出す。私に並走するもう一人の私のように。

『君の名は。』とはそういう映画だ。彼らは東京を走る電車の窓から、なすすべもなく流れ去る街並みを眺める。その習慣は映画冒頭から中盤、そして終盤へと繰り返される。

この映画は8年という時間の幅を既にその冒頭から囲い込むようにして進行する。そのような有限化の操作によってこの作品は各瞬間の間隙が無限に引き延ばされ希薄化することを回避し、カットとカットの間隙をカットと同じく実体的なものにしている。

その間隙の間隙での、断片の瞬きとして、その有限性の、ゾートロープの円環の中で鋳込まれ癒合したその想像的・幻影的になめらかな輪郭、それが車窓の外に走る並走者の姿だ。

そんな「君」の姿は、「僕」が走り続ける限りでのみ、その断続の中で初めて、ようやく、像を結ぶ。走るほどにそれは遠退いていってしまうのだが、立ち止まった瞬間にその姿は無限の引き伸ばしの内に霧散してしまうだろう。