電車に乗って窓の外を過ぎ去っていく街並みを眺める。建物の背に遮られる視界はしかし、家々の狭間、空き地、踏切等々の交じり目をたんたんと踏み越していくたびに小刻みに切り開かれる。
その束の間の明るみの中に浮かび瞬く人々の姿は、その断−続の中で結び合わされ、その絶え目は幻のようになめらかに癒合されて、あたかも私たちがゾートロープの中に見るようなひとつの映像として走り出す。私に並走するもう一人の私のように。
『君の名は。』とはそういう映画だ。彼らは東京を走る電車の窓から、なすすべもなく流れ去る街並みを眺める。その習慣は映画冒頭から中盤、そして終盤へと繰り返される。
この映画は8年という時間の幅を既にその冒頭から囲い込むようにして進行する。そのような有限化の操作によってこの作品は各瞬間の間隙が無限に引き延ばされ希薄化することを回避し、カットとカットの間隙をカットと同じく実体的なものにしている。
その間隙の間隙での、断片の瞬きとして、その有限性の、ゾートロープの円環の中で鋳込まれ癒合したその想像的・幻影的になめらかな輪郭、それが車窓の外に走る並走者の姿だ。
そんな「君」の姿は、「僕」が走り続ける限りでのみ、その断続の中で初めて、ようやく、像を結ぶ。走るほどにそれは遠退いていってしまうのだが、立ち止まった瞬間にその姿は無限の引き伸ばしの内に霧散してしまうだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿