彼が絵画、テクスト、あるいは異国の地をめぐって語るとき、彼はいつでもその場に足を運んだこの時の彼として、ただそこからのみ語り始めるのであり、それは読者との共有を、更にはすでにそこから離れた彼自身との共有を、永久に逃れ続けるであろう絶対的な隔たりの、再びの検分を許さないがゆえにいや増す一回性の輝きだ。
喩えるなら生涯にただ一度だけ踏み入れた娼館の思い出を繰り返し語る老人の、一度きりの、行きずりの交わりの記憶を辿る、語り重ねるほどに詳細さと輝きを増していく言葉のように。
彼が僅かな訪日の経験をもとに書き上げた『表徴の帝国』の、あの異形の、というのはつまりはデリダ形りの、日本の姿。
あるいは『明るい部屋』で彼が母の写真との間に見出す、隔たりそのものとして取りもたれた絆、それが「それはかつてあった」であり、針穴の向こうの尽きせぬ光の溢出として輝い続けるのだ。
それはともすれば他者の追試を排除した、言った者勝ちの言説にもなりかねない。しかし彼は、隔たりの中に浮かぶ自身の影に読者を(そして自身を)その都度乗り移らせるようにして、「再」無しで、そのテクストをぎりぎりのところで編み上げているようだ。
あるいは『明るい部屋』で彼が母の写真との間に見出す、隔たりそのものとして取りもたれた絆、それが「それはかつてあった」であり、針穴の向こうの尽きせぬ光の溢出として輝い続けるのだ。
それはともすれば他者の追試を排除した、言った者勝ちの言説にもなりかねない。しかし彼は、隔たりの中に浮かぶ自身の影に読者を(そして自身を)その都度乗り移らせるようにして、「再」無しで、そのテクストをぎりぎりのところで編み上げているようだ。
バルトのそれと並べてみたとき、デリダのテクストもまたどこか過去向きでこそあれ、しかしそこにはやはり決定的な差異が横たわっている。
彼は情報化の、アーカイヴ化の時代を、一切の隔たりは拒絶され、すべてが棚に一覧され、万人がひたすら尻に閲覧ログを引き摺って歩く時代を予感しながら生きた者だ。もはやバルトのような隔たりゆえの輝きは、たとえば過去の恋人からの facebookのともだち申請通知によって一瞬で打ち砕かれる。デリダの振る舞いは、暇さえあればかつての恋人との電子メールを、トーク履歴を、SNSのタイムラインを遡り、つぶさにヒステリックに検討検証し続けるネトスト的なものへと変わっていく。
それ自身は既に書かれてしまっている手紙の語の、文字の、線や余白のあらゆる細部を、彼は解釈し、照らしあわせ、結び直していく。それは再検証による整合性の向上というよりはむしろ、整合性の場そのものを作り変えていくような営みだ。彼の思想の歴史修正主義とのともすればあやうい親近性もここにある。
それ自身は既に書かれてしまっている手紙の語の、文字の、線や余白のあらゆる細部を、彼は解釈し、照らしあわせ、結び直していく。それは再検証による整合性の向上というよりはむしろ、整合性の場そのものを作り変えていくような営みだ。彼の思想の歴史修正主義とのともすればあやうい親近性もここにある。
デリダは決して生き直さない。やり直さない。