2016年11月20日日曜日

行きずりのバルト、ネトストするデリダ。一回性から履歴の思想へ。

 ロラン・バルトのエッセイなどを読んでいると、その当時まだ生き永らえていたらしい世界の一回性の輝きへの多幸感に満ち溢れるようで、いつもどこか眩しく感じる。

 彼が絵画、テクスト、あるいは異国の地をめぐって語るとき、彼はいつでもその場に足を運んだこの時の彼として、ただそこからのみ語り始めるのであり、それは読者との共有を、更にはすでにそこから離れた彼自身との共有を、永久に逃れ続けるであろう絶対的な隔たりの、再びの検分を許さないがゆえにいや増す一回性の輝きだ。

 喩えるなら生涯にただ一度だけ踏み入れた娼館の思い出を繰り返し語る老人の、一度きりの、行きずりの交わりの記憶を辿る、語り重ねるほどに詳細さと輝きを増していく言葉のように。

 彼が僅かな訪日の経験をもとに書き上げた『表徴の帝国』の、あの異形の、というのはつまりはデリダ形りの、日本の姿。

 あるいは『明るい部屋』で彼が母の写真との間に見出す、隔たりそのものとして取りもたれた絆、それが「それはかつてあった」であり、針穴の向こうの尽きせぬ光の溢出として輝い続けるのだ。

 それはともすれば他者の追試を排除した、言った者勝ちの言説にもなりかねない。しかし彼は、隔たりの中に浮かぶ自身の影に読者を(そして自身を)その都度乗り移らせるようにして、「再」無しで、そのテクストをぎりぎりのところで編み上げているようだ。


 バルトのそれと並べてみたとき、デリダのテクストもまたどこか過去向きでこそあれ、しかしそこにはやはり決定的な差異が横たわっている。

 彼は情報化の、アーカイヴ化の時代を、一切の隔たりは拒絶され、すべてが棚に一覧され、万人がひたすら尻に閲覧ログを引き摺って歩く時代を予感しながら生きた者だ。もはやバルトのような隔たりゆえの輝きは、たとえば過去の恋人からの facebookのともだち申請通知によって一瞬で打ち砕かれる。デリダの振る舞いは、暇さえあればかつての恋人との電子メールを、トーク履歴を、SNSのタイムラインを遡り、つぶさにヒステリックに検討検証し続けるネトスト的なものへと変わっていく。

 それ自身は既に書かれてしまっている手紙の語の、文字の、線や余白のあらゆる細部を、彼は解釈し、照らしあわせ、結び直していく。それは再検証による整合性の向上というよりはむしろ、整合性の場そのものを作り変えていくような営みだ。彼の思想の歴史修正主義とのともすればあやうい親近性もここにある。

 デリダは決して生き直さない。やり直さない。

2016年11月11日金曜日

ピクセルは自分の隣のピクセルを見ているか。

ピクセルは自分の隣のピクセルを見ているのだろうか。

ビットマップ画像を考えた時、個々のピクセルは互いに独立に、ただ自己の値だけを出力し続ける。それが全体としてどのような画像を形作っているかは知る由もない。例えば校庭いっぱいをつかって作られた人文字を考えてみても良い。個々人は今自分が作っている文字を知ることはない。

しかしもし個々のピクセルがその持ち場に全く無関心であったとすれば、例えば個々のピクセルの持ち場をシャッフルした状況を考えたとき、それでなお個々のピクセルが自己に課せられた値を吐き出すとき、上空からみたその画像は確かにめちゃくちゃであろうが、しかしこの画像はシャッフル前の「正しい」画像と何が違うというのだろう。

このような問いに、例えばゲシュタルト論が、あるいはベルクソンの「縮約」とか「記憶」とか、ヒュームの「慣習」とかを参照しうる。

が、時間がない。


また「純粋な外的規定は存在しない」と語るライプニッツに従えば、空間や時間といった外的変化は必ず個々のモナドの内的変化を伴う(「モナドは鏡である」)。これはたしかに個々のピクセルの近隣との関係の存在を言うものではあるが、注意しないといけないのはこの時ピクセル自身がその同一性に変化を被る以上、それはもはや「見ている」とは言えないだろうという点である(「見る」とはその主体の同一性を前提とする行為である)。

画像処理の分野では、画素同士の「連結性」の判別のために、「4連結」ないしは「8連結」と呼ばれる定義付けを行うそうである。すなわち、ひとつの注目する画素を想定した時に、その隣接画素(4連結ならば上下左右の4画素、8連結ならそれに斜め方向を加えた8画素)が同じ値である場合、そのふたつの画素は連続している、とする。

仕事に向かわねば。

トーマス・ルフの「ポートレート」、見るその前を遮られる肖像について。

 東京国立近代美術館「トーマス・ルフ展」会場に入ってすぐ右手壁面に5点並んで掲げられた「ポートレート」シリーズ、その魅力は「私が作品から距離をおいてそれを見ている時に、その前を他の鑑賞者の身体によって遮られる」その瞬間に最も緊張感をもって迫り来る。その源泉は被写体となった人物たちの眼差しであり、またそれと相関的なものだが、作品と向き合う私、決して鑑賞者一般へと還元できないほかならぬ「私」の存在である。

 肖像には眼差しがある。正確には、眼差しがあるもの、見る者がそこに眼差しを見出すことができるものだけが肖像と呼ばれる。そして眼差しは、驚くべきことに、たとえそれが視覚的に遮られたとしても尚もそこに残存するものだ。眼差しは常に人混みの中を、相手の無関心を、貫くものとしてある。

 そもそも肖像写真の被写体は、実のところ誰のことも見てはいない(ロラン・バルト「眼の中をじっと」を思い出す)。撮影者さえ撮影のその瞬間にはレンズの向こうへと顔を引っ込めてしまう。彼は自身に向けられたレンズ、遮蔽物であると同時に転送機であるレンズの先に、まだ見ぬ無数の人々へと、眼差しをおくるのだ。眼差しは眼(の見え)にその土台を据えているとはいえ、しかしそこからの溢出として、それ自体が確かに実在している。

 そして作品と見る者との間にその眼差しを遮らせる余地を確保するためにこそ、この肖像は大きくある必要があった。

 この状況を考えるときには眼差され眼差す主体は常に「私」である必要がある、という事実に注意する必要がある。不特定の「鑑賞者」を主語にした時には、この状況はありえない。なぜならばその鑑賞者が作品に向ける視界が遮られた瞬間、その者は「鑑賞者」ではなくなるからだ。遮りの間もその作品の鑑賞の中にあるためには、その者は作品との視覚的関係から与えられる呼称とは別の同一性、つまり自己同一性に支えられ貫かれた存在=「私」である必要がある(逆に言えば「鑑賞者」という立場は常に、無垢で無人の密室に守られて決してその作品との向き合いを遮られることのない、作品とゼロ距離で貼り付いた理想的視点として仮想されたものだ)。

2016年11月9日水曜日

「セカイ系的リテラリズム」、地球として描かれる世界について。


「セカイ系」が小説やアニメ等の作品群から見出されたものである以上、それは単にその世界観のみならずそれを示す表現類型の側から考える必要がある。「セカイ系」は二階建てであり、「具体的中間項の欠如」という世界観のレベル、そしてその作品化に際しての「セカイ」の描写のレベルから成る(「セカイ系」を「物語類型」とすることはともすればこの区別を曖昧にしてしまう)。

一般的に話題になりがちなのは前者の方なのだが、最近私はむしろ後者に関心を持っている。具体的には、「世界」または「セカイ」に対して「地球の」絵を充ててしまうようなリアリティだ。

またそのように描写される「セカイ」の親戚として、「(人間や宇宙の)歴史」として描かれてしまうところの「時間」が思い浮かぶ。

ちなみにそれが「近景」との関係で語られるものである以上、その「短絡」は「いま、ここ」の「君と僕」からの急激なズームアウトとして実現される。

このような結びつけは象徴化ですらなく、あまりに素朴にリテラルに遂行される。このような姿勢を仮に「セカイ系的リテラリズム」と呼んでみたい。

2016年11月7日月曜日

よく聞くこと。『聲の形』、無関係への開けについて。

 いくらか前から、「音をよく聞きたい」と思いつづけている。より正確には、その音の指示対象の把握の内に回収されるべくある音ではなく、いまこの私がたまたま場を同じくした限りの音の偶発性個別性、そのようなものに繊細に身を投じたいと、そう思い続けている。

 多くの場合、「よく聞く」といった時に想定するのは音源と聴取する音との間の記号的対応であったりする。例えば「後方から自転車が近づいてくる」「その自転車は二台である」「そのうちの右手の一台はチェーンにサビがある」等々、その解像度をどこまでも上げていくことはできるが、結局のところそれは聴覚における観察眼であり、ということは観察する眼=視覚へと、あるいはその他の諸感覚へと代替可能なものであり、その成果が言葉へと翻訳可能でありそして翻訳と同時に意味の中へと回収されしまうようなものである。

 素朴なたとえだが、地球に関しての知識を一切もたない宇宙人がある日上空から私の頭の上へとマイク(と私たちが呼ぶものに対応するなにか)を垂らしたとする。そこに彼が受け取る音像は指示対象が全く不明の無意味な音の量塊であろう。それが音の重なりである、という判断さえ既にその分析先についての知識に依存している(記号はその場において差異を聞き取ることから始まる)。地球への客人である彼はたまたまに選択された一点を通じて、無限に広がるどこまでもフラットな音の場を聞くのだ。

 記号的対応は能記と所記との円環の中に世界を回収し閉じてしまう。耳にした音から、会話の相手の、言わんとする、内容を、聞くだけ聞けばその瞬間に用済みになってしまうような、そのような音を私はどこか虚しく感じる。

 世界の、意味からの解放。「君と僕」の閉域を破ること。他者へと開くこと。ところで、映画『聲の形』のテーマとはすなわちそのようなものだった。無音室のようにフラットな背景の中で(本作中では空にほとんど雲が描かれず、ただすこんと平たい色面を背に自転車を漕ぐ将也が真横から描かれたりする)、通信機越しに、場所なしに、交わされる交信ではなく、例えば夜空を横切って行く飛行機の明かりのように、世界にはいくらでも手の届かないものがあり、私の耳の及ばぬところもまた常に音に満たされており、無数の「私とは関係のない人々」がいること。中盤、硝子が手話という、極めつけに対面式の言語による会話に抵抗を見せたのもこの点から理解できるかもしれない。

 将也が周囲の人々の顔に貼り付けていたバツ印は彼に対する友好の欠如の印ではない(もしそうならばその印を剥がれた人の顔は代わりにマル印で塞がれることだろう)。それはむしろ彼へと常に眼を向け続け、彼と無関係であることを許さないことの印である。

 なお、将也についてはその表現にあたってたまたま音に代表されていたが、この関心において音と光との区別はさほど重要ではない。この映画は音のみならず光にも大いに注力されており(映画冒頭を参照)、この映画に牛尾憲輔によるサウンドトラックのタイトルは「a shape of light」であり、映画タイトル英題「the shape of voice」と微妙な交叉を示している。それぞれは確かに独立して場を持っているが、場をもちうることにおいて両者は共通する。相互翻訳は無意味であるが、その翻訳不可能性によってこそ両者は重なりあうことが許されている。光と音とはその「極限で」( http://www.excite.co.jp/News/bit/E1475237889931.html?_p=4 )重なりあう。



 蛇足になるが、同じ日に観た『君の名は。』は世界の中に常に君の声を聞き取ろうとする僕の話であり、まさに君と僕との一対一対応の間へと世界を閉じていく側の極であった。私にはどうしても受け容れがたいながらも、その対比において、その対比の条件としての私がこの両作品を同日に観たことの偶発性において、確かに私は面白くふたつの映画を楽しんだ。また観よう。




2016年11月5日土曜日

京アニ山田尚子三部作における、伝えることの「練習」とその先。

京アニの山田尚子監督の三作品(『映画けいおん!』、『たまこラブストーリー』、『聲の形』)で常に主題となるのが「伝えること」であり、その過程では必ず何らかの「練習メディア」が挟まれる。

けいおんのロンドン旅行、たまこの糸電話、聲の形の手話である。

映画の結末を伝達の成功で迎えようとする限り、この練習は常に乗り越えられ精算されるべきものとして描かれる他ないように思われる。

かくして軽音部三年の4人は梓のための新曲で「ビッグでグローバル」を却下し、たまこともち蔵の糸電話は二人の間で弛んで下がり、硝子と将也は思いを声で伝えようとする。

しかしそれは単に精算し無みすることではあるまい。その練習期間の満了は演出的に巧妙にぼかされ、意味をスライドさせることで生きながらえさせられているように見える。

2016年11月4日金曜日

『シン・ゴジラ』、ゴジラを知らない日本。

『シン・ゴジラ』で描かれる日本に私たちがどこか違和感を覚えるとしたら、それはあの日本が「ゴジラを知らない日本」であるからだろう。

その生物を指してめいめいに言葉を交わす人々を見るたびに、私たちは奇妙なもどかしさに苛まれる。「ゴジラ」の呼称を発表した場面では、もはやこそばゆささえ覚える。

ゴジラを知らないがゴジラがいるあちらの日本、ゴジラを知っているがゴジラがいないこちらの日本。

しかしもしゴジラがいると考えることができるとしたらそれは一体どのような形でだろうか。私たちは果たしてゴジラと出会いうる私たちでありうるのだろうか。

2016年11月3日木曜日

a point of

葉叢を透かして陽光を見る。無数の障害を掻い抜け太陽と私の目とを結びつけんとする直線は梢の揺らぎにすんでのところでその途を断たれたりする。


私はただたまたまにそこに出くわす、あるいはむしろその作図の末の交点としてのみ私はそこにありうる。


向こうを歩く人の姿が彼と夕陽とを結ぶ光線に団子刺しされたいくつかの葉叢に跨って絡め取られたようないくつかのすかすかの影がそれぞれにしかし互いに連関をもってうごめくのを、縮みこんでいく光の上澄みの暗みに身を沈めながら眺める。


ときには他の交点としての私を夢想しその交点との間に更に作図を重ねつつ。


右手後ろ下方の幼子の泣き声のひとすじが私の頬から鼻先にかけてを鈍く刳り震わせながら過ぎ去っていく。


しかしこの交点には嵩が、ないしは暈がある。私はいくらかは点ではなくむしろたとえばそれ自身が見るレンズであるかのように、部分的に透過を拒み、フレアを見たり、そこに自己を幻視したりする。

2016年11月2日水曜日

映画『聲の形』を観た。映画を駆動する音楽、京アニの震え。

 映画『聲の形』を観た。

 牛尾憲輔による電子音楽が全編を通して物語の駆動に深く与っているのが印象的な作品だ。
 聴覚障害者を扱う映画だから、というだけの理由によるものではないだろう。京アニは以前から「震え」の表現と実装に極めて意識的なスタジオであった。「震え」とは劇中に現れる幾多のアイテムの振動であるばかりでなく、それを介して繋がり交信する二者であり、その媒体として開かれる空間であり、その受振器にして発振器としての手先である。
 
 『たまこラブストーリー』でたまこの投げるバトンは空を切り体育館の床を打ち捕らえる掌にくぐもった衝撃を与える。たまこともち蔵とを繋ぐ糸電話はふたりの声をまさしく震えとして自らの上に波立たせる。

 そしてこの『聲の形』でそれは将也が幾度と自らを打ち付ける川面として、将也と硝子の手と手の間をその振動で橋渡す金属の手摺りとして、結絃の手の一眼レフのミラーの跳ね返りとして花火の胸騒ぎとして、そしてこの電子音楽として結実している。



 余談だが、以上はこの映画が(それが扱う当のものである)聴覚障害を持つ鑑賞者に対してその効果の半分を閉ざしていることの裏返しでもある。音楽の効果や声の調子といった音声的要素は言うまでもないが、手話を操る手はしばしば見切れている以上、この映画中では手話に言語伝達は必ずしも期待されていない。
 
 私は映画までもがバリアフリー化を求められるとすればそちらのほうが余程欺瞞だと思う。

2016年11月1日火曜日

『君の名は。』を観た。二人の、スイッチング。セカイ=宇宙系。

『君の名は。』を観た。

 主人公の男女二人の、代わる代わる、瞬くような切り替わりの連続(スイッチングの反復の総体としてひとつの大きな何かを繋ぎとめる欲望というものを、先日のNintendo Switch の発表以来考えている)。

 全編を通しての、「二人であること」の執拗なまでの暗示(二羽のトンビ、ふたつのクレーター、道祖神、町長室に貼られたポスターの「陰陽」の文字等々)。

 「フキダシ」表現の採用

 止め絵から3DCGまでを利用した多様な「カメラワーク」による緩急。

 「セカイ系」の親戚なのか、「きみとぼく」的な小さな関係性を地球レベルの現象に託す傾向。『魔法少女まどか☆マギカ』でも見られるような、セカイと宇宙(地球、太陽系、銀河系、等々)とを混同して物語っていく姿勢。