映画『聲の形』を観た。
牛尾憲輔による電子音楽が全編を通して物語の駆動に深く与っているのが印象的な作品だ。
聴覚障害者を扱う映画だから、というだけの理由によるものではないだろう。京アニは以前から「震え」の表現と実装に極めて意識的なスタジオであった。「震え」とは劇中に現れる幾多のアイテムの振動であるばかりでなく、それを介して繋がり交信する二者であり、その媒体として開かれる空間であり、その受振器にして発振器としての手先である。
『たまこラブストーリー』でたまこの投げるバトンは空を切り体育館の床を打ち捕らえる掌にくぐもった衝撃を与える。たまこともち蔵とを繋ぐ糸電話はふたりの声をまさしく震えとして自らの上に波立たせる。
そしてこの『聲の形』でそれは将也が幾度と自らを打ち付ける川面として、将也と硝子の手と手の間をその振動で橋渡す金属の手摺りとして、結絃の手の一眼レフのミラーの跳ね返りとして花火の胸騒ぎとして、そしてこの電子音楽として結実している。
余談だが、以上はこの映画が(それが扱う当のものである)聴覚障害を持つ鑑賞者に対してその効果の半分を閉ざしていることの裏返しでもある。音楽の効果や声の調子といった音声的要素は言うまでもないが、手話を操る手はしばしば見切れている以上、この映画中では手話に言語伝達は必ずしも期待されていない。
私は映画までもがバリアフリー化を求められるとすればそちらのほうが余程欺瞞だと思う。
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