2016年11月11日金曜日

トーマス・ルフの「ポートレート」、見るその前を遮られる肖像について。

 東京国立近代美術館「トーマス・ルフ展」会場に入ってすぐ右手壁面に5点並んで掲げられた「ポートレート」シリーズ、その魅力は「私が作品から距離をおいてそれを見ている時に、その前を他の鑑賞者の身体によって遮られる」その瞬間に最も緊張感をもって迫り来る。その源泉は被写体となった人物たちの眼差しであり、またそれと相関的なものだが、作品と向き合う私、決して鑑賞者一般へと還元できないほかならぬ「私」の存在である。

 肖像には眼差しがある。正確には、眼差しがあるもの、見る者がそこに眼差しを見出すことができるものだけが肖像と呼ばれる。そして眼差しは、驚くべきことに、たとえそれが視覚的に遮られたとしても尚もそこに残存するものだ。眼差しは常に人混みの中を、相手の無関心を、貫くものとしてある。

 そもそも肖像写真の被写体は、実のところ誰のことも見てはいない(ロラン・バルト「眼の中をじっと」を思い出す)。撮影者さえ撮影のその瞬間にはレンズの向こうへと顔を引っ込めてしまう。彼は自身に向けられたレンズ、遮蔽物であると同時に転送機であるレンズの先に、まだ見ぬ無数の人々へと、眼差しをおくるのだ。眼差しは眼(の見え)にその土台を据えているとはいえ、しかしそこからの溢出として、それ自体が確かに実在している。

 そして作品と見る者との間にその眼差しを遮らせる余地を確保するためにこそ、この肖像は大きくある必要があった。

 この状況を考えるときには眼差され眼差す主体は常に「私」である必要がある、という事実に注意する必要がある。不特定の「鑑賞者」を主語にした時には、この状況はありえない。なぜならばその鑑賞者が作品に向ける視界が遮られた瞬間、その者は「鑑賞者」ではなくなるからだ。遮りの間もその作品の鑑賞の中にあるためには、その者は作品との視覚的関係から与えられる呼称とは別の同一性、つまり自己同一性に支えられ貫かれた存在=「私」である必要がある(逆に言えば「鑑賞者」という立場は常に、無垢で無人の密室に守られて決してその作品との向き合いを遮られることのない、作品とゼロ距離で貼り付いた理想的視点として仮想されたものだ)。

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