2016年10月31日月曜日

こまめに文章を書くよう心がけようと思う。そして文章を発することについて。

 これからしばらく、文章をこまめに書くよう心掛けようと思う。私は相当の遅筆者であり、今日の日中に頭に浮かんだこの表明はその気紛れさに比して割りと大胆なものであったりする。

  文章を書きかつ記録する場としてはこのブログを流用。方針としては何よりも拙速を再優先する。まとまりなくとも、矛盾があろうとも、数行の長さであろうともチラシ裏の内容であろうとも句点を打って公開する。そのあたりがさしあたりのルールだ。


 さてこれ以降は蛇足であるが、それにしてもなぜただ言語化するだけでは足らないのか。ノートなりメモアプリなりにでも書き溜るだけに飽き足らず、更にそれを公開するのはなぜなのか。

 実際私の部屋の片隅は大学時代の講義や読書内容の整理感想を書き散らしたルーズリーフや反故紙が整理されないままに積み上がり埃を被り事態の収拾を断固拒否する構えであるし、メモ帳アプリもまとまらぬままに捨て置かれた諸々の備忘の吹き溜まりになっている。

 それらが日の目に晒されないこと自体を問題視しているのではない気がする。諸々に区切りを打ちたい、そちらのほうが私にとって重要だ。

 たとえばそれらをそれが発せられたその状況へとピン留めして保管すること。

 潜在的にいくらでも滲み広がりうる混濁液に蓋をし棚に仕舞い沈殿を横目で待つこと。

 縮尺を定め一定のスケールを与えること。


 句点に綴じられぬままに吹き溜まった文章は、その内容や論旨の如何や出来不出来に関わらずどこか濁って感じられる。それは今後の絶えざる推敲を経て更に更に本意へと真意へと漸近していきうるのかもしれない。世界の混沌の反映、ミニチュアとしての混濁なのかもしれない。そのような思いは文章に句点を打つ手をしばしばためらわせる。その豊穣への予感は見放し難い魅力だ。

 しかしそうある限りそれは予感でしかない。道を断て。いやむしろそれは道であり道でしかないことを認めよ。句点の絶句とともにその道半ばに行き倒れよ。Google Street View 、海原や砂漠の只中であろうが彼は頑なに路傍に、有限性に、踏み留まることを知っている。文章を書くこととは有限化の営みにほかならない。句点を打つためにこそ私は書き、それを発するのだ。