2020年10月31日土曜日

20201031アングレ

9:30 現在、コーヒーは一杯、ブラジルのナチュラル。いまだに少し煎りがダークになるだけで味わい分けの物差しが全く迷子になってしまう。チョコレート、はよいとして、そこから微かにのぞく酸味にベリー?としか言えなかった私は、付属のノートによれば全くお門違いで、シトラス、アプリコットといった名が並ぶ。

「酸味がおだやか」といった文句で売り込まれるコーヒーを見るたびに我が事のように歯痒く感じてしまうのは、実際そこに私が私自身の志向と能力の乖離を見ているからなのだろう(そしてそれは全く大きなお世話だ、コーヒーに考えられる限りの最上の酸味を知ったところでなおも「おだやか」の方を好んで選ぶ人間などいくらでもいるだろう)。


バナナの酸味というものに気づいたのはごく最近のことだ。日本酒の酸味というのはまだまるでピンと来ない。この夏に買った小瓶入りの信州の白ワインは甘酸っぱの中に日本酒みたいな膨らみを含んでいて驚いた。日本の生ビールはどうにも葬式臭くて好かない。緑の分厚いガラスにエンボス加工という瓶のデザインと安さに釣られて買った麒麟のハートランドはフルーティさが気に入ってしばらく買ったが、何本かめで甘さが気になるようになって止めてしまった。フランス?美味しい。チリ?美味しい。でも正直いうと赤ワインと紅茶の後味の渋みは、いまでも半分苦手に思う。コーヒーを飲んだ後の口の臭いは案外臭いと気付く。タバコの煙は流れているうちは気にならないが、服に染み付く臭いは全く鬱陶しい。でも蚊取り線香の臭いも同じくらい鬱陶しい。粘膜に浮いた血のにおい、段ボールに積もって乾いた埃のにおい、近所の住人がふかす自動車の排ガスのにおい、古い八百屋の店裏で野菜の残骸が腐ったにおい、ガスコンロの上に転がった玉子の殻の裏側の薄皮が焦げ付くにおい、


昨日はクリームシチュー。ほとんど初めてホワイトソースというものを作った。油に篩入れた小麦粉はメイラード反応に芳香を放ちつつブヨブヨ膨張して、自分が粉であったことを忘れる。水にだってあっさり馴染む。クリームにまみれたイチゴは汚いのにホワイトソースに埋まるニンジンは美しく見えるのは何故なのか。エッヂが立っていないからか。


英国史を少し。現在でいうドイツ北岸の出のゲルマン人と、ゲルマン第二波・デンマークのデーン人と、ノルマンディーに寄ってフランス化したのち200年ばかり遅れて攻め入るノルマン人。それらの狭間狭間に瞬くローマあるいはケルト・キリスト教会の影。


この間ユニクロ馬鹿にしたけれど、この秋復活のJil Sander コラボ「+J」は普通に気になる。過去に出たダッフルコート、あれだけは持っており、あれは重くて良いものだった。


12:00 現在、コーヒーは二杯目。昨日と同じエチオピアのナチュラル。淹れたてにはきなこねじりのような風味と焙煎香、その螺旋のから延ばした一本の接線の先にベリーがあり、冷めるにつれてこちらが前面に出てくる。収斂感はしかしひかえめに、より横広に開けた酸味はむしろ柑橘に寄っていく。


世間では連休初日、車のドアの音。



2020年10月30日金曜日

20201030

10:30 現在、コーヒーはすでに一杯。昨日届いたエチオピアのナチュラル。口に含むとクリーンなのに一癖ひねりの効いた印象。ええと、ベリー、とまでとりあえず無難に答えてそのあとはハテナばかりが浮かぶ、少しセクシーな夜闇?、苦味なのか酸味なのかも判然としない。これがナチュラルのフレーバーだっただろうか。付属のノートには「ラフランス、ベリー、ライム、ラベンダー」とある。ああ、記憶もおぼろげだがもしかしたら成る程それはラベンダーの、微粉で目止めしたような、ほのかにしっとりとした花弁の表面から発せられる、仄かだが密度は高い息の詰まるような薄々紫(そこにライムを一絞り)、そんなものなのか。

私は五感を受け取るのを拒否する方向に育ってきてしまった人間で、肌は傷や乾燥や火傷を押し殺して縮み固まり、鼓膜は重く、網膜は鈍く、イマージュは半干し大根みたいに脳裡に干されては排出される。

そんな人間が酒とかコーヒーとかスパイスとか、あるいは絵画とか音楽とか、なんでもいい、官能的な評価軸を扱うことを避けえない方面に興味を抱くとどうなるかといって、割と地獄であることはもう嫌というほど思い知らされているわけなのだけれど、なんなんなんなんだろうね人間ってやつは。

コーヒーとかワイン用のテイスティングトレーニング用のアロマセットなんてものがあるんだけれども、50種入って5万円とかの世界なのですよね。それはそれとしてJo Malone とZara のコラボ香水4ml 8種入り3000円というのは少し気になる。


昨日は買い出しに出た、十三夜の月で、漠然と夜闇を鈍らせる叢雲の垣間垣間からそれでも煌々と眩しく思う。

月が見えるとはどう言うことなのかと思う。闇のしめやかな広がりを鈍らせる、太陽はそのシミであり、またそれは私たちの視覚の全き条件だ。他方大地は、私たちの存在の地平であると同時に、太陽を自らの背へと隠すことで闇のいくらかを取り戻そうとする。夜闇とはすでに毀損された闇の残骸で、それはいくらか肌にねばつく。水底に沈んだ澱のように、凪には静かに私たちの視界に帳を下ろすが、それもじきに敢えなく掻き乱されて、また朝がくる。月もまた夜闇へと差し込む闖入者には違いないが、しかしそれは(まるで初めにあった闇のような光ではないか


ウユニ塩湖はあまりに平らで、100km 四方に50cm ほどの高低差しかないという。それは空を映し、その下に眠る地はいよいよ夜だろう、貼り合わせは多分白く締まって、熱く、






2020年10月29日木曜日

20201029

8:00 現在、コーヒーは一杯、コロンビアのゲイシャ。粒度を細かくしたのもあるのか、また違った印象。もともと、紅茶を思わせるフレーバーというのが、その枯れ草の香りと収斂味の産物なのか、どこか舌の上の一帯に、さーっと広大な空白の域(たとえば一滴の洗剤がフライパンに浮いた油を一瞬で淵の方へと押し遣るような、疎水性の域)が開き、そこに鈍く雨の予感を含み込んだ風が吹き抜けるような感覚を与えるとすれば、今回はその風が凪いでおり、置き放たれた空白に立ち尽くして、露を落とす大気の微かな湿り気を皮膚に感じている。書いていてなんとなくDeath Stranding の風景を思い出してしまった。


昨日はなんだったんだ。平倉圭「動物に命令すること」を読んだ。2015年1月開催のシンポジウム「新たな普遍性をもとめてーー小林康夫との対話」での短い論文で、いまとなってはweb 上での在処がわからなくなってしまっているのが残念だ。

動物と話すこと。動物に命令すること。動物を名前で呼ぶこと。言葉が縁取ろうとするそのひろがりの際の未だ見通せぬ約束へと、ともに飛び込むこと。

言語の内で話す限り、私たちは常に他者の口で語り、私たちは常に過去の反復として語る。異種間の対話とは、そうした反復の外部において、全く即興的に都度やり取りされる試みの前線である。相手はおろか、私の身体がいま、果たして何を言っているのか、「何かを」言っているのかさえも一向にわからないままに繰り広げられる、それはダンスだ。

それは言語以前の経験である、のみならず、時間以前のひとつの出会いだろう。

「探せ!」…しかし何を?「フライデー!」…しかしそれは誰のことだ?すでに全てが確定した未来から今を振り返る素振りをして、「それは何であったことになるだろう」などと言うことは出来ない。それはその未来に向けて、投げやりなまでに開かれており、私たちはそれを囲い込むことなく、訳のわからぬままに、目の前の他者をそっと名前で読んでみる。


ジャック・デリダの『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』の参照があったのかどうかを私は知らないけれど、  


あ駄目だ日記つらい


2020年10月28日水曜日

20201028

8:30 現在、コーヒーは一杯、コロンビアのゲイシャ。

9:30 現在、コーヒーは二杯目、ケニアのウォッシュト。粒度を細かくした。ミルクティーの印象。

昨日は日記を書いた。 『女生徒』についてあんなに長々と書くことになるとはおもわなかった。あれはちょっと能天気すぎるくらい「エモい」「わかりみが深い」作品で、太宰が何を思ってあれを書いたのかは知らないけれど、こんなもの、とほくそ笑んでいたのか、そのほくそ笑みつつ、しかしこれはまさしく自分だ、といよいよ抉られていたのか。

夜あんまりにだるく、しかしだるい時に限って布団に入るとかえって眠れなかったりすることは目に見えていたので、布団でテッド・チャン『息吹』より、「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」を途中まで読む。英語圏の作家ってなんであんなにも結婚とセックスに執着するのだろうとはいつも思うことだけれど、この作品もまたそんな臭いを臭わせつつも、そこにもう一歩踏み込んだ構成をしているような感じ。

なんだか昨日の夜から液晶画面が辛い。

2020年10月27日火曜日

20201027 行って帰る、女生徒、あなた

 7:30 現在、コーヒーは一杯、昨日買ったルワンダ。派手な酸味やフレーバーこそないが、喉の奥にまですっと芯の通った、とてもスムースな質感。

8:30 現在、コーヒーは二杯目、同じく、コロンビアのゲイシャ。レモンを搾った紅茶の、枯れ草のような香りと、微かに舌をくすぐる渋み、酸味ははじめ、離れたところで露払いするように引き立て役に徹する、かに思われたが、次第に(渋みと併さってか)黒い皮の果実、ブドウのような酸味へと変わる。


昨日は久しぶりに街に出た。ほとんど半年ぶりではないだろうか、Suica に眠っていた800円分の磁気データが身震いする。先の二つのコーヒーはいずれもその帰り道、アメ横のビタールで買ったものだ。店先に積み上がる雑多な輸入食材の数々に埋もれるように、良質で、価格も手頃な豆を扱っている。常に複数産地の豆を広く取り揃え、回転が早いのか、鮮度も良く、とてもありがたい。今回など、いつものケースの一つにしれっとゲイシャ種の豆が並べられており、目を疑ってしまった。

その貧弱さと病弱さゆえ国際市場では永らく忘れられていたゲイシャ種だが、研究用途で運ばれたコスタリカを経由し、2004年頃、パナマはエスメラルダ農園で収穫されたものが品評会で話題を攫って以来、すっかり希少な高級豆として名が広まることになる。殊更に「再発見」の地であるパナマ産が名高いが(品種としても少し特殊だという)、私が過去に飲んだことがあるのは原産地でもあるエチオピアと、あとはコスタリカのもので、コロンビア産は今回初めて知った。

そんな事情があって、入荷したらどこの店でも散々騒ぎ立てるような豆なのだから、それが何でもないような顔して並んでいるのを見た私の戸惑いも無理からぬものであると思う。 


ところでこれは帰り道での話なのであり、直接の行き先は銀座で、このご時世に面倒臭いし無印かユニクロあたりで適当な冬服を探し、手ぶらにおわる。どうも私が衣服に求めるものはまず布地への偏執で、そしてユニクロにはそれが無い。売り場に踏み入る度に私を絶望させるそれらはいわば衣服の実物大模型で、他を指さすには足りようがそれ自体に手を伸ばすにはあまりにおぞましい(あるいはそれはさらに一段高等なフェティシズムなのか)。

すごすごと引き下がってビゴでロデヴとオーベルニュを買って銀座を後にして、アメ横を通って帰途につく。ギャラリーとかによる気力はまだ無い。寒くなったらあるいは。


髪が大変に鬱陶しい。何かあった日についての日記をどう書いて良いものかがよくわからない。邪魔だ。


昨日は帰宅後、しばらく休んでから、こんなにも歩いたのも久しぶりだ、夜は買い出しにも出た、ここのところ買い出しもいつも夜だったので、日中の街も久しぶりだ、傾いた日に照らされて発光する、びん・缶回収用の青いネット。


『女生徒』を最後まで読んだ。遅れて生きている自分、そうした在り方への深い諦めがある。他に遅れて産まれてきた、ただその一点だけを根拠に、わたしはいま娘なのだ。お父さんの死に遅れた、ただその一点だけを根拠に、わたしは生きているのだ。朝は夜に遅れて、夜は朝に遅れてやってくる、ただその一点だけをを根拠に、それは朝であり夜であり、その間にあってわたしはいつも、「あさ、眼をさます」のだ。

生は小説などではない。「いま、いま、いま、と指でおさえ」るうちに、スライドしていくように過ぎ去っていく。あのいまがあり、このいまがある、それだけだ。それなのに、手応えもなく過ぎ去ったはずの「いま」は、どこかで確かに降り積り、伊藤みたいに、今井田みたいに、いつかわたしもなってしまうのだ、厭らしい。しかしいちばん厭らしいのは、伊藤や今井田であること以上に、それに遅れてそこへと静かに、確かに、わたしを押し流していくであろう、この「いま」の、あまりにも微視的な嵩張りであり、そしてその嵩張り、「いま」を絶えず過去から未来からあぶれさせるその嵩張り、それ自体が「わたし」の身体に他ならないという、その事実なのだ。

終盤、あまりに突然にその呪いはこぼれ落ちる。「わるいのは、あなただ」。

読者のことではないだろう。というのは、「作中人物であるわたし」に対立するさせられる限りでの、単にメタフィクショナルな構図の中で、ただ読者であるというその一点においてのみ責めを負わされるところの、「読者であるあなた」のことではないだろう。

「わたし」が断罪は、「あなた」という呼びかけに応じ得る全て、世界の「「わたし」」の総体にこそ向けられている。「わたし」は、「わたし」にとっての「あなた」であり得る全ての「「わたし」」にとっての「あなた」である限りで、ただその一点だけを根拠に、「わたし」として産まれてしまった。そのヤマビコ状の遅延構造の総体への、これはなけなしの唾棄であろう。

数度にわたる呼びかけにしかしもはや決して応えることのない、二重に異-性であるところの「お父さん」は、それゆえに「わたし」にとっての代え難いよすがとなっている。生きることからちょっと斜傍に逸れるための、それは夾雑物としての希望である。


昨日と同じ24時間だけの時間が今日もまたこうして過ぎ去りつつある。昨日であればそろそろ再び家を出て、スーパーマーケットへと向かう路地を闊歩している頃だろうか。久しぶりの長い外出、畳を踏むのとは違うアスファルトの密度が靴底を突き、足裏はそれを掴んでは押し返す、そこにそちらは後方である。全ての道は道であろうとする限り原理的に一方通行であり、対向者が向かってくるそのたびにわたしは「あなた」「あなた」と呼び掛ける。わたしは道を右に避け、それはあなたにとって左であり、あなたが多少なりとも良識を持ち合わせているならば、あなたが避けるのもまたあなたの道の右へと向けてだ。わたしだってそうしただろう。

こうして道は今日も道である。数十分もすれば同じその道を逆に辿る、買い物袋を肩に抱えたわたしが、あなたが、そこを通ることだろう。こうして道はなおも道であり続ける。わたしはわたしであり続ける。わるいのは、あなただ。











2020年10月26日月曜日

20201026 人、 、人

8:45 現在、コーヒーは一杯。ケニアのウォッシュト。

今朝は米と、高野豆腐とわかめの味噌汁と、塩サバと、あと大豆を炊く。米は玄米で、酒を少し加えた。

この塩サバは何だか工業用みたいな油が表面に浮いてはジクジクと焦げついて纏わりつくようだ。それでなくても半身で売られている塩サバって。大抵骨も綺麗に取り除かれてふにゃりと柔らかく、何だか工業製品のようで薄気味悪いところがある。

昨日の日記に書いたように、昨日は日記を書いた。一昨日と昨日の日記だ。今日は同じ轍を踏まないように。休日も明けたことだし、いい加減服とか要り用のものとかを調達に街に下りようかという声がある。

いやだなー

外出しないことにこの上ない言い訳が与えられたこの時世にいよいよ思う、人が人を掻き分けながら歩くのを強いられることのなんと気色悪いことか。人の間とかいて人間、だと、知りませんがな、

もうちょっと、もうちょと、どうにかならなかったのかなー、人間!

2020年10月25日日曜日

20201025 残り味、分布、浸し

10:00 現在、コーヒーは一杯、ケニアのウォッシュト。少し風味が落ち着いてきた。一瞬ハーブ入りのソーセージのような香りを聴いた気がする。

寝過ごした。起きたら陽が久々にさっくりと差しており、ここぞとシーツを洗って干した。なんの夢を見たのだったか、何か薄汚れた雨合羽、ハリと折れ、を、リノリウム張りの廊下で被った気がする。体育館のステージの、遠く天井から真下に垂れ下がる重い幕が音をよく吸収する暗がり、丈夫で表面のつるっとした工作紙(なんと呼ぶのだったか、図工の時間、前の席から順々に回されてくる、溶着ポリ袋に封じられた紙束のしっとりとした重みが、私には光だった)のような色彩の質感が踊る、鈍く眩い照明機材、対照に呑気にのっぺりだだっ広い板張りの床面。近頃小中学校時代の記憶の断片が入り混じって起床前数十分の脳裏を駆け擦り去っていくことがよくある。

上履きの足音に笑われて起きるその8時間前のこととてまた同じこの畳の上のこと、昨日はいくつか面白い記事を見つけてサーフィンだった。


一つ目、「ECXとは何だったのか?日本の功罪」

https://coffeefanatics.jp/ethiopian-commodity-exchange/

2008に設立されたECX(The Ethiopia Commodity Exchange)の采配のもと、エチオピア全域のコーヒーチェリーの大部分は国内9つの集積所に集約され、それぞれの中でグレード付け、ロット形成されて流通するようになった。コーヒーチェリーの流通の透明化と効率化のための施策とのことだが、他方これは地域ごとの特色を重んじる農園や業者にとっては冬の時代の訪れだったと言う。

著者によれば、その背景には、同国のコーヒーの最大の売り手であった日本が2006年に設定した輸入品の残留農薬規制によるコーヒー輸出の不振があり、先のECXの施策の主な目的はむしろ流通の効率化による外貨獲得に向けられていたという話。

たまたま今朝のこと、検出されたオクラトキシンを理由にケニア産のコーヒー豆が日韓で受け入れ拒否されたとの記事が流れてきた。あるいは先の記事もこれを念頭に書かれたものだったのかもしれない。

「Kenyan coffee risks losing global appeal on chemicals」(2020 10/6付けの記事)

https://www.businessdailyafrica.com/bd/markets/commodities/kenyan-coffee-risks-losing-global-appeal-on-chemicals-2458028


二つ目、「色:ヘキサコードから眼球まで」(全3回) 

https://postd.cc/color/

簡単に三原色なんて言うけれども、人間の網膜に並ぶ三種類の錐体細胞をそれぞれ励起させる周波数の分布と、RGBやらXYZやらの色空間を構成する各軸と、ディスプレイに敷き詰められた三つ一組のサブピクセルに設定された分光分布は、それぞれまるで異なるものであり、それらは決して互いにシームレスに変換されるものでもない。そんな込み入った話題を逐一説明しつつ、最後にそこに「ヘキサコードから眼球まで」という一本のストーリーを通して、スピード感をもってまとめられており、気持ちよい解説。


あとはエドガー・ダイクストラ Edsgar W. Dijkstra の名を知った。最短経路問題の有名な解法、ダイクストラ法の考案者。また、プログラミングにおけるgoto文除去運動の発端を作った人。構造化プログラミングの父。空想上の企業、Mathematics Inc. 会長。それはそれとしても、Dijkstra、堤防のそばに住む者。良い名だ。英語における「dike(堤防)」に相当する語はオランダ語で「dijk」と綴られる。そもそもこの語自体、ノルドの血、フリースラントの低地特有の泥臭さを強く匂わせる語だ。


私は言語能力が著しく低く、訓練のためもあってこの日記もこうして書かれているわけであるが、まあおそらく一歩先、一歩前との関係の中で書くことができないのだと思う。すでにまとまりをもって完成してある文章を要約するのもかなり時間がかかる。

明日の日記は「昨日は日記を書いた」になりそうだ。体調はあまり良くない。腹と脳天とが細長くて濁った綿飴で貫かれているような気分。


冷たい煮干しと高野豆腐を食んだ。冷たい食パンを噛んだ。ベジマイトを舐めた。そうした履歴。




2020年10月24日土曜日

20201024 ワン、ルー、ム

9:00 現在、コーヒーは一杯、UCCのザンビア。

久々に牛乳を買ったので、朝はフレンチトーストを食べた。今年になってから、フレンチトーストは甘くないほうが余程美味しいと気付き、以来味付けは塩とカルダモンだけになっている。

一昨日の買い出しの成果を踏まえ、昨日は牛スネ肉を野菜と一緒にをワインで煮たのと、人参の葉っぱ他のかき揚げ。使わないのでめんつゆは持っていないのだが、天ぷらのつゆとしてポン酢を使うのは案外違和感がないと気付く。酸味は油に中和されてほとんど目立たず、変に甘ったるくない分むしろ良いという人もいるかもしれない。食べた後どうせならとガス台ごとどかして掃除したのでやり切った感がある。

10:00 現在、コーヒーは二杯目。ケニアのウォッシュト。


昨日のProcessing ではプログラムの構造化について少し読んだ。初期化関数 void setup() とメインループ void draw() 。この二つを軸として、そこから必要に応じて外部の各種の関数に引数 argument を吹っかけたり、戻り値 return value を受け取ったりすることで一つのプログラムとして機能する。やたらに入り組みがちなプログラムをこうして機能ごとにモジュール化することで、その設計や点検が容易になり、また、殊、専らヴィジュアル・イメージ等を扱うことに特化したProcessing の場合、構造化に伴う反復構造は、アニメーション表現の実現において必要不可欠なものである(らしい。正直まだあまり納得がいっていない)。


今読んでいる入門書(田中孝太郎・前川峻志『Built with Processing デザイン/アートのためのプログラム入門』)は構造化以前のプログラムをワンルームの部屋に、構造化されたプログラムを一戸建ての家に喩えていた。初期化関数とメインループをそれぞれ玄関と居間とし、それを中心にしていくつもの部屋=関数が組織されているのだという。

構造化には、個々の部屋が互いに対して閉じていることが重要だ。一つの部屋で起こった修正が、いちいち他の部屋にまで波及してしまったのでは無駄手間だからだ。受け取った要求には適当な応答を速やかに返し、お互いの内情の機微には立ち入らない。それが円滑に仕事をこなす秘訣である。

アニメーションとは言うが、それは時間が生まれる、ということではなく、むしろその征服なのだろう。たぶん、極限まで構造化されたプログラムがあったとして、そこには時間も空間も存在しない。時間や空間とは私たちの迷いの相関項であり、私たちが迷うのは、無数の部屋が一つの順路によって結ばれたお屋敷などではなくて、むしろ無駄に大きな一つの部屋、そこに散らばるいくつもの事物の余白においてだ。

私は歩き回れる。全くただこの一点において、私は自らを私である、と宣言する。引き籠っている事物から疎外されている限りで、私は他ならぬ、いやむしろ他としての私である。





2020年10月23日金曜日

20201023 取り留めって奴

 8:45 現在、コーヒーはすでに二杯目。UCCのコロンビア・スプレモ。なぜか公式ページに商品記載がなく、集めて応募のマークも付いていない、廉価版シングル・オリジン。

一杯目には昨日開けたブルーボトルのケニアを淹れた。ブルーボトルは間違いなく美味しいのだが、エッヂの立った都会的なチューニングは若干飲み疲れするところがある気もする。


昨晩は買い出し。9月の終わりあたり、それまで惰性で買っては貪っていたせんべい、柿ピーほか菓子類全般をきっぱり買わないことにした。それ以来食費がずいぶん軽くなった気がするし、野菜もたっぷり買える。歯の凹凸に澱粉が詰まっているような不快感もない。これは良い選択だったと思う。昨日は投げ売り状態だった塩サバとブリの切り身とカツオのサクと、それと久しぶりに肉、少し良さげなタスマニアビーフのすね肉を買った。クリームシチューでもつくてみるかなと牛乳もかごに入れたのだが、冷静に考えたらクリームシチューには鶏肉ではなかろうか。ビーフシチューもデミグラスとかよくわからないので赤ワイン煮にでもしようと思う。縦長のトートに突っ込んでなお顎をくすぐる立派な葉付きのにんじんを手に入れた。


不意の思いつきでこの日記?を書供養になってなんと一週間以上経つ。もう長いこと文章を読んだり書いたりすることをやめていたので、そのリハビリと、頭の洗浄と、後は指の運動のつもりで始めたのだろうが、よくもまあまあ続いたものだ、他の人ならともかく、この私については驚くべきことだ。

しかしこれに半日を費やしてしまうのは考えものなので(流石に書き終わるまでずっとキーボードに張り付いているわけではないが、根っからのシングル・タスクな私には保留事項があるというだけで他のことやりながらでも結構バックグラウンドでリソース割いている)、付き合い方を考えていけたらと思っている。


時々昔自分が書いた文章を身返すと、なかなか楽しいことが書かれていたりする。時には慣れない徹夜なんてことをしてなんとか捻くり出したこともあった。なんで当時の自分はこれにこんなに齧り付いていられたのか。バイト時代、夜勤で12時間勤務して、時には歩きながら眠り、電柱にぶつかりそうになりながら帰宅していた私、大学時代、ラテン語の活用表をはじめっから順々に脳に焼き付けようと躍起になっていた私、高校時代、分厚いチャート式の二色刷りの細かい問題文下の空欄を赤筋浮かして睨んでいた私、いずれも幾分の空回りの嫌いは否めないとはいえ、なんであんなことができたのか、いまとなっては不思議でならない。


今日は一際に取り留めないね、今日は妙な折り目がついてしまっていたウールのズボンにアイロンをかけた。包丁も研ごうと思う。音読の練習もまだ続いている。

外は投げやりに雨である。




2020年10月22日木曜日

20201022 青、無、青

 10:00 現在、コーヒーはすでに二杯目。ケニアとグアテマラのウォッシュト、いずれも少し残った豆の混合。

前者は以前4種詰め合わせを注文した際にサンプルをおまけして頂いたもので、昨日開封したもの。「華やかな酸」という形容からなんとなくシトラス系を想像していたのを裏切って、口に含んでまず浮かんだのがブドウを思わせる酸で、ただし赤ワインのような芳醇さに向かうのではなく、ブドウジュースとか、時々むしろレーズンとかを、とびきり上品に、しかしやんちゃに、香らせたような印象だろうか。それでも何かとり逃すところが大きい、商品紹介には「パイナップル、ルバーブ」とあり、ルバーブは食べたことがないのだけれど、その形容はこのあたりに掛かっているのかも知れない。

今朝はそれを桃を嗅ぐようなグアテマラとあわせたので、ブドウの酸味がクロマトグラフにかけたみたいな解かれ方をしてちょっと面白かった。


そうこうするうち、先日ブルーボトルで注文した豆が届いた、やはりケニアの、Kiambu Karinga のウォッシュト。それにしても久々の対面受け取りの気がする。サインまでした。この時勢でたしかに食材以外で実店舗を利用する機会はほぼなくなったとはいえ、置き配やサインの省略もかなり一般化したし、そもそも買い物自体を最小限にしていた。経済的な動機もあるし、これ以上の物流の負担に加担したくもなし。コーヒー豆の購入も極力ゆうパケット配送のものにしていたので、豆の詰まったマチ付き袋一つに、余った空間を緩衝材で埋めて届くブルーボトルの小箱を見て、少し笑ってしまう。ブランドイメージとか梱包資材の統一による効率化とか色々あるのだろうけれど、もう少しなんとかならないものか。


11:45 現在、コーヒーは三杯目。結局我慢できずにブルーボトルのケニアを開封。ああ、いかにもブルーボトルって感じだ、黒いベリーの、華やかかつしっかりとした酸味と収斂感が舌の両サイドをグッと流れて、そしてその間に、小さなペディメントみたいに、微かにシナモンというか八つ橋に練り込まれて香るニッキを思わせる香り、ロースト感。


昨日はまたProcessing を少し触る。for 文とか、random とか。色指定でRGBの各色ともに完全にrandom にしてしまうと全く灰色の世界が広がってしまうことに気付く。それぞれ個別に範囲指定するとかして偏りを与えてやらなければならない。加色混法ゆえの罠である。


「すべての電球が点きっぱなしの電光掲示板」。この喩えを円城塔はどうも気に入っていたようで、私の知る限り二度、それぞれ別の著作中でこれを用いている。情報技術とは常に地と図との間の絡み合いをいかに効果的に組織するかの試行錯誤であり、死の予感を背負っている。

ややもすればホワイトアウトへと至りかねないチキンレースの途上で、私たちは色彩の乱舞に色めく。踊り狂えよ、しかし節度を持って。


無を一つのキャンバスに、それを背にして有をチラつかせれば情報の電達が可能になるとして、課題となるのはその無の広がりそれ自体をいかにあらかじめ定義し、提示しておくかである。無を以って無を送ることはできないのであり、ブルーバックの前でブルーバックの実演販売をしようとするのは困難である。仕方がないので無は適当な太さの輪郭線で縁取られ、そこは無と有が厄介に入れ子状をなした紛争地帯として放置されることになる。

両者をネガポジ反転してみたところで話は同じなのであって、無の中に空いた穴としての有の輪郭を拡大してみるとアンチ・エイリアスやらモスキート・ノイズやらでぶよぶよと気色悪い。


ミニマリズム彫刻の(そのほとんど戯画化された限りでの)展示風景が、最大限の嘲笑を以って提示しているのがまさにこのような状況である。すなわちホワイト・キューブ状の部屋の中心に放置された、ひとまわり小さいもう一つのキューブ。ここでかたや「部屋の外部」と、かたや「空虚な立方体」という、二つの無に挟まれた、て、実にどっちつかずに虚しい「室内」という座を、なすすべなく右往左往するばかりの観客という存在の馬鹿馬鹿しさよ。


さきのブルーボトルのケニアはとうに冷め切っている。舐めると、何故か唐突に、Shake Shack だろうか、ハンバーガー店の記憶が閃いた。ベリー。肉汁。ベリー。いかにもアメリカ都市民らしいパンチ・ラインではあるまいか。 



2020年10月21日水曜日

20201021

 8:30現在、コーヒーは一杯、UCCのブレンド。

日記一週間続いたので今日は休む。

昨晩は鯛の頭を、半割りにされた片方を塩焼きに、片方をフィッシュティッカ風(面倒くさかったのでカレー粉を直振りした上からヨーグルト塗りたくって放置)に焼く。期待以上に美味しくなってしまった。

昔古本屋で買ったprocessing の入門書を開いてみる。他言語に当たり前の、ソース冒頭の謎の前口上が見当たらず、ただ表示領域を「左上から右に何歩、下に何歩」というように

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とだけ指定して始まり、最後も切りっぱなし同然だというのはたしかに気軽だが変な感じ。まあもう少しだけいじってみようと思う。

WhatYouSeeIsWhatYouGet とはいうけれど

たしかに私は笑顔の下で泣いているのかもしれない。私自身、知った事ではないけれど。しかし差し当たって今、目の前のあなたに向けているのは他でもない、この顔面に貼り付けてあるこの笑顔なのであり、あなたは、少なくとも私の面を前にしている間だけは、その笑顔を受け取っている体であってほしい。それが礼儀というものだろう。

この数月の間に、そうした点で勇気ある人たちを何人も見てきた。自身については幾たびも唾棄した。生身の者はいくらでも内面とやらに逃げ込める。表層で戦う人の、なんと辛い駆け引きを強いられていることか。

その人たちに讃辞をおくりたい。

2020年10月20日火曜日

20201020 果実、頭、怒り続ける

9:00 現在、コーヒーは一杯、インドのナチュラルの残り少しにUCCのブレンドの混合。豆が残り少なくなってきたので、昨日Blue Bottle で注文した。

昨晩は買い出しに出る。日中降っていた雨はすでに止んでおり、

柿がとても安い。一個と言わずもっと買って置いてもよかったかもしれないと今更思う。反対にミニトマトは高騰していた。

9:45現在、珍しく紅茶、ニルギリを淹れる。杏?か何かのフルーツの丸みのある甘みがあり、その両側を走る清涼感がそこに輪郭を与える。初めの一口に収斂感はほとんど感じることはないが、それを完全に呑み込んだ途端、波が引いた後に現れるアサリの目のように、舌に思い出され、それが二口目からの味覚にワンテンポ遅れて干渉する。

そういえばコーヒーの味にフルーツを連想するとき、それは大抵その酸味についてであって、甘味については糖蜜とか、黒糖とかいった別の指標を使うのが普通だけれど、紅茶の果実感といったらその甘味についてだという気がする。紅茶のカッピングをあまり読んだ経験がないのでなんともいえないが。


例によって鯛の頭が安売りしていた。いつもカレーでは流石に芸がないので、たまには塩焼きにしてみルつもりだが、せっかく半割りされているわけだし片方はカレー粉とヨーグルトでも塗って焼いてみようかと思う。

店内に怒っている男を見かける。仕事帰りと思わしき、30代くらいの男で、少し肉のついた体躯がワイシャツの腹を張らせ、そこにしわくちゃの秋物コートが引っかかっている。若干逆立った黒髪と、裸の目と、髭のない顎がぬらりと貧弱である。生鮮品売り場の、雨天ゆえかまだだいぶ在庫が豊富なもやしが並んだあたりをよろめきながら、なんでこんなに何も残っていないのかと、独り怒鳴り散らかしている。店員含め皆遠巻きにしている。


「怒る」というのがいまいち理解できない。人はなぜあんなにも熱心にしぶとく怒り散らすことができるのか。

いらいらする、許しがたく思う、軽蔑する、悲しむ、やり切れない気分になる、折に触れてそういった心の働きが生じるのは理解できる。そうした働きの帰結として、怒声をあげる、声を震わせる、涙を流す、等々の行動に帰結するというのも理解できる。しかしそれが確かに帰結だというならば、それを頂点としてそれはもうおしまい、ではないのか。同様の理由によって「キャー」というような悲鳴も不思議でならない。「あ」と絶句して、それで終わりではないのか。逆にエネルギーを消費していないか。怒りという感情というよりかは、それを行動として、ある程度まとまった時間、継続的に駆動する動力源が一体どこにあるのかがわからない。


泣き続けた経験は、ああでも、子供の頃にある。しかしそのうちだんだん、泣くために泣いている自分に気付いてしまったりして、虚しくなって、それでかえって止むに止まれなくなって頑張って泣いてみるか、そうでなければもう完全に醒めてしまって、赤面を誤魔化しつつへこへこ隅に引っ込む、といった感じだったように思う。

案外怒れる彼らもそんな感じなのではないかと思ったりもする。この苛立ちがおさまってしまいそうな自分に苛立ち、それに抗って一層自らを怒りへとしこしこ鼓舞しているのではないかと思ってしまう。

怒るほどに真剣に何かに身を投じた経験がないからなのではないか、と反論されたら、そうなのかもしれないなあ、と返さざるを得ない、というのもまた正直なところなのではあるが。


あーでもほら、近頃はさ、怒り続ける身体をネットが肩代わりしてくれるからさ、Twitter に流れてきた知りもしない誰かの発言を見て、鍋蓋みたいにポンと怒って、次の瞬間には愛くるしい子豚の動画とか、推しの晴れ姿とかに目移りして頬を緩めていたりするんだれど、その間もリレー式に他の誰かが鍋蓋みたいに怒ってくれていて、タイムラインを遡ると常に誰かしらが自分の代わりに怒ってくれているものだから、みんな少しづつ時間と身体を分け合うことで実質的にみんなずっと怒り続けていられるプラットフォームとしてSNSなんかが機能していたりして、見ていて、まあ、地獄だよね。


12:00 現在、コーヒーは二杯目。UCCのザンビアのシングルオリジンの深煎り。深煎りは正直あまり好みではないのだが、そこで試しに蒸らしもそこそこにかなり太い水量でガシガシ淹れてみる(ドリッパーはコーノ式)。ダークチョコレートの香ばしい風味は抽出しつつ不要な苦味は最小限に、わりかしすっきりした印象になったと思う。こうした調整ができるように、やはり次に買うケトルも(口がパイプ状の)細口ではなく(根本が太い)鶴口タイプが良いなと思うが、なかなか適当なものを探しかねている。

みんなよく飽きないね。


2020年10月19日月曜日

20201019 玉、治水、イメージ

 8:00現在、コーヒーは一杯。イオンのグアテマラの残り少しとUCCのブレンドの混合。赤ワインの風味と苦味が媒介なしに同じテーブルに投げだされたような感じになってしまう。


ここのところさしたる意味もなしに夜更かししがちだったが、昨晩は体調が優れず早めに就寝。前にも見たことのある嫌な夢を見た。

家族(知らない家族。)と一緒に下りエレベーターに乗っている。途中の階で停まる。外には誰もいないと見たせっかちな父親は、私の背後から手を伸ばして半ば開いた扉を閉じようとするが、それを制してこじ開けようとする乗客。それはなんだかそういう高級スイカみたいに頭部がぬるっと四角い男で、半歩こちらに歩を進めたその男を父親は押し返そうとする。それでも押し入る男を見て、今度はこちら一同が入れ替わりに一時下車しようとするも、男はその中の誰だったかを羽交い締めにして逃さない。通りすがりの誰かもう1人も応戦していた気がする。抵抗も虚しくエレベーターの扉は一度閉まるも、また開き、引き摺り出す。3人分の手足が絡まり合ってどれが誰のどの部位だかが判然としない。その中の誰かが私に「証拠にするため」と、男(どの?)の肌に名前か何かをマジックペンで書き込むように、と頼む。私の応答はといえば「ペンがないから、カッターナイフでいい?」ときた。いいらしい。肌に玉のような血がぽろぽろと滲んで汚らしい。


夢を見る私はなぜこうも詰まることなくころころとイメージを転がせるのか。起きている私はといえばおよそイメージというもの一般に乏しい人間で、南仏の鮮烈な色彩の印象だとか、いつの日かのマドレーヌの香りだとか、まるでピンとこない。小説の筋書きの展開に従ってめくるめく情景が幻燈のようによぎることもないし、家族の顔だってほとんど覚えていない。


9:30現在、コーヒーは二杯目。グアテマラのウォッシュト。微細な和毛に表面を覆われているかのような滑らかさだ。


イメージ。端の無いもの、果てし無いもの。あまりに私の手に余るもの。指でその縁を撫でて、頁を繰ることのできないもの。とてもながいもの。


2019年の春先に青春18きっぷ一枚をかざして行った岐阜の記憶もいよいよあやふやになり(長良川は一体どちら側に向かって流れていたのだったか)、昨日地図帳を開いた。金華山の傍らを流れた長良川は、蛇行しながら南西にしばらく流れる。その舵取りを横目に牽制するように、東海道本線は岐阜市街を抜けたところから若干南西南へと逸れつつ直進する。西岐阜駅と穂積駅との間で、長良川は不意に南南東へと首を傾げ、東海道本線と直交する。

なんということだ。想像が及ばない。しかしその交叉を私はこの目で見たはずではないか、岐阜駅から大垣駅へと向かう列車の窓から。列車にさらにしばらく揺られると、今度は揖斐川の流れと交わる。映画『聲の形』の印象的な一場面を成す鉄橋はこの少し下流に位置するはずだ。その右岸には黒川紀章の設計による大垣フォーラムホテルの背中がポツンと見える。長良川と揖斐川は、そこからさらに30kmも並走したあたりだろうか、ついにはただひとすじの堤を境に隣り合い、そのまましばらく流れた末に最河口でようやく合流し、木曽川と並んで伊勢湾に注ぐ。

なんということだ、およそ想像の及ばないことだ。

木曽川、長良川、揖斐川の三河川が並び流れる現在の濃尾平野の風景はしかし、二度にわたる大規模な治水事業の産物であった。かつて互いに複雑に入り組み、交わり合い、流域に度重なる水害をもたらしていたこれら三川は、1754年の宝暦治水、そして1887年から92年にかけての明治治水による分流工事を経て、互いにほぼ完全に分離されることになる、

そういえばこの地の度重なる水難の痕跡もまた、2019年の訪問で私自身その一端を目にしていた。宿をチェックアウトした直後、成り行きで迷い込んだ金華山をなんとか抜けてたどり着いた長良川の、土手沿いに鎮座するコンクリートの巨大な球体、安藤忠雄設計の長良川国際会議場はちょうど開催されていた成人式に賑わっていた。その傍に立つ石碑と案内板には、1921年から39年にかけての長良川上流改修工事による長良古川、古々川の締め切り工事の記録が記されていた。

絡み合う筋は 容易に自らを横溢し、流域に構えた住居の床を水に浸してしまう。果てし無い恐怖だ。こんなものを矯めつ眇めつ、分かった体で分肢しつつ。堤一枚を隔てて人はその地に安らいだ体で今日も日を暮らしているのだ。


また話は戻って2019年の長良川沿い。記念碑そばのベンチでいくらか時間を潰したのち、国際会議場並びに店を構えるSHERPA COFFEEを訪ねる。ファンヒーターの唸りに揺れる観葉植物、コーヒーと一緒に注文したロールケーキは、まだ東寄りに傾いだ太陽が寄越す光線を、一瞬含んで、溜めて、矯めて、こちらに投げ返すように、なんとなく薄らと黄色だった。

その日それから私は、あちらこちらとつきあたりつつ岐阜駅へと辿り着き、東海道本線に養老鉄道を乗り継いで、養老天命反転地を目指すだろう。明からさまにハリボテの、端っ切れの、しかし内側へと絶えず落ち込んでは、球成す全体を絶えず果て無く覆す、半球あるいは覆水不返の盆。


"The saddest thing is that I have had to use words..."



2020年10月18日日曜日

20201018 豆、魚、私の声

11:00現在、コーヒーは一杯。コロンビアのウォッシュト。カップの底に少し残った冷めたものもまたシロッピーでおいしい。

今朝は寝過ごした。昨晩水につけておいた豆をキャベツと煮込たスープ、食パン、目玉焼き。

ずいぶん前、多分1年くらい前に安売りで買った米国産の黒目豆(black eyed pea)なる豆で、使い所がわからなくて放置してあった。サイズ感としては大振りの小豆くらいで、実際ササゲの仲間らしい。しかしあいつらのような頑なな外皮は持ち合わせておらず、薄黄の肌の臍周りに黒い斑があるその外観は見るからに軟弱で、数時間おいただけであっさりボヨボヨ膨張していた。いかにも新大陸の豆という風体で、キドニービーンズの中身のような白くボソッとした肉はスパイスやハーブを効かせたスープと相性が良さそうだ。テクスメクス、移民の味だ。


昨日なんとなく自分の声をチューナーに聴かせてみたところ、どうも実際の声は体感の1オクターブくらい低いようだった。喉を震わしていちばん自然にでる声は高低いずれもおよそA(ラ)の、220Hzと110Hz。ちなみにピアノの調律の基準とされるのがさらに1オクターブ高い440HzのAらしい。赤ん坊の泣き声は万国共通でこの440Hzだというまことしやかなお話は聞いたことがあったが、まあなんというか、愉快なことだ。


昨晩は鯛の頭のカレー。近所のイオンは宴会料理の仕出しでも請け負っているのか、鯛の頭がしばしば夕方の店頭に大量に並び、大量に売れ残り、重ね重ねの値引き表示で真っ赤に染まる。自然、私はそれをよく買って帰るし、大抵それはカレーになる。骨が多く入り組んでいるので正直箸で食べる方が楽である。


ところで鯛には「鯛の九つ道具」というものがある、これは鯛が体内に持つ、それぞれに独特な形をした9つの骨ほか(鯛中鯛、大龍、小龍、鯛石、三つ道具、鋤形、竹馬、鳴門骨、鯛の福玉)の総称で、縁起物とされている。そのうちのひとつ、「鯛石」とは解剖学的には耳石と呼べれるものにあたり、哺乳類などでは体の平衡感覚を司る器官の一部をなすものだが、いわゆる「耳」を持たない魚類はこれを聴覚器官としても用いる。扁平な皿のような形を持つ耳石は、それを支える無数の微細な繊毛を通じて聴神経へと繋がっており、耳石の振動を音として脳に伝える。ちなみに昨日の日記で記したように、一部の種には浮き袋をこの振動の増幅器として利用するものがいる。

ただし、哺乳類のような蝸牛管を持たない魚類は音波について周波数分解能を持たない、ということは彼らは音色を知らないとされている。ということは、もし彼らに声があったなら、彼らは、「自分の声」の不気味さを知らないのだろうか。彼らは気道音と骨導音との、少なくとも質的なギャップを知らない、すなわちそのギャップにおいて生まれるあの不気味な私を、知らないのだろうか。


そういえば、まだ読んだことはまだないのだが、デリダ『絵画における真理』中、ヴァレリオ・アダミが描いた魚のデッサンの読解に際して、彼はドイツ語の「私 Ich」とギリシア語の「魚 ichthys」との類似に着目し、そのデッサンに「Ichという出来事」を読み取っていた。

いうまでもなく、魚はキリスト教の文脈においては重要な意味を担うシンボルのひとつであり、そこに「私」の署名を読み取ることがデリダの戦略なのだろうと思っていたが、そこには同時に彼の「私の声を聞く」という音声中心主義批判の文脈も編み込まれていたのかもしれないなどと思ったりもする。読んでないけれど。


13:30現在、いくらか前にコーヒーは二杯。イオンPBのグアテマラ。昨日のものとは違って、こちらは馴染み深い、どっしり構えるグアテマラだ。昨日とは違って、天気は良い、今日は日曜日のようだ。




2020年10月17日土曜日

20201017 秋雨、女生徒、浮き袋

 7:30現在、コーヒーはまだ淹れてはいない。米を炊いている。玄米の、私は白米よりもこちらの確かなフィールドの方が好きだ。火にかける時間は長い。

たった今味噌汁を用意した。昨晩浸しておいた煮干しに、もやしの残りに、冷凍庫に一年以上放置されていた油揚げ、湯通しして、あとしめじとえのき。小さなミルクパンにいっぱい。

昨日買ってきたサンマもじきに焼くだろう。クチバシから何か飛び出しているのは寄生虫か何かだろうか。


昨晩は買い出しに出た。上着を羽織るのは夏が明けてから初めてだったか。イオンは最近、備え付けのスマートフォンでバーコード読み取り、セルフ会計できるようになり、このご時世にはとても気楽でありがたい。

土鍋の底でぱちぱち鳴き出した米をもう少し追い込みつつ、魚焼きグリルに火を入れる。味噌汁は少しおいてキノコと油揚げの味が汁に馴染んできたようだ。

昨晩は色々な食材がずいぶん安く手に入って嬉しい。先のサンマは3尾で150円だった。それと一尾分のゴマサバの切り身80円、鯛の頭30円。それとキャベツやら、もやしやら。柿もひとつ。

サンマは今朝の分一尾を残して冷凍した。適当な大きさの保存袋を探した結果、メゾン・カイザーのポリ袋に無事収まったので、少し笑ってしまった。相当昔にもらったはずの、バゲット保存用のものだ。パン屋にももうながいこと入っていない。

サンマがぶすぶす身を焦がす音を寄越している。


8:30現在、コーヒーは一杯。コロンビアのウォッシュト。なめらかな質感に華やかな酸味が心地よい。外で濡れたアスファルトを轢き回す車輪の音の寒々しさと斜交う。

朝食と洗い物はすでに済ませた。サンマのクチバシに飛び出した硬い鋭角はどうやら頭蓋の一部だった。

昨日音読したのは太宰治の「女生徒」冒頭、「得意である。」のところまで、を2回。いずれも10分と少し。私はあの小説が好きだ、朝、目を覚まして以来ぽちぽち去来する諸々が、移り気の都度に、お仕舞い、と断ち切られるのではなく、句点を跨いで、喰み出しあって、斑らけをなす、あるいはポリリズム。その意味で、朗読に向いた作品かもしれない。グリルの網の上、裂けた横腹から覗く魚の肋骨を数えるように。移した皿の上で、白く凝固した肉を解して骨を梳き取るように。


魚の浮きぶくろはもともと、肺が変化したものなのだという。古代の魚類が海水から淡水へと進出するに従い、空気中から酸素を得る器官として獲得したのが肺であり、その役割を保持したま現代に至るのが、ズバリの名を持つハイギョのような肺を持つ魚類、淡水からさらに陸へと上がった両生類、そしてその他あらゆる四肢動物である。翻って淡水から再び海へと戻り、その際に肺を浮力の調整器官、すなわち浮き袋として転用したのが私たちに馴染みある魚類の大多数である。その中には再び淡水へと踵を返した淡水魚や、海底での生活に特化して浮き袋を失ったヒラメやホッケようなものもいる。

コイやナマズ、ニシンの仲間はこの浮き袋に反響する音を聴覚の補助に利用するという。彼らは音を腹で聴くのだ。


もしかれらに声があったならば、かれらは自らの声をどのように聴くだろうか。耳栓をして声を発する、あのくぐもった声が頭蓋いっぱいに反響してどうしようもなくむず痒い、あの感覚を思い出しながら。


「女生徒」冒頭には短い語の反復が数多く現れる。どきどき、むかむか、また、また、とうとうおしまいに。濁って、濁って、しらじらしい、いやだ、いやだ。

その反復は、第一声に、ひとつ遅れて第二声をまた重ねるその反覆は、行き着く先もないままに、ただ内向きに落ち込んでいく内語の、内省の、出鱈目な反響の輻輳する果てに、場末の吹き溜まりのように現れる「私」の、(そうだ、「我思う、故に…」が頑なに隠匿しようとした、)あまりに遣る瀬無いあらわれの形象だろう。私は、私が口を開く、発せられた「あ」に、ひとつ遅れて反響する耳骨の、鼓膜の、はみ出した傍らおいて私として、「あさ、眼をさます」のだろう、水底に沈澱する澱粉のように。そしておそらく彼女の子宮を介して、母と娘の反覆のなかに私としてあさ、眼をさますのだろう。

そうしたやりきれない反復のなかにある私に抗うように、ふと、「お父さん」などと、小さい声で呼んでみる。大空を一杯に映すような美しい目に憧れてみる。憧れて、自分の目のたどんのように光を押し殺す多孔質な表面を、いっそのこと涙で湿してしとやかに覆ってしまいたいと思ったりする。

そんなことを脈絡なしに夢想しながらも、日はまた暮れて、またあけて、また、あさ、眼をさますのだろう。


10:30現在、コーヒーは二杯目。グアテマラのウォッシュト。この産地には意外なほどの繊細な、皮に覆われたままの桃を嗅いだような清醇な香気。一歩退いたやさしい酸味。しかし去り際、不意に焚き火の煙が一瞬鼻先をよぎったような感覚があり、なつかしくて少し泣きそうになる。


外は雨である。

2020年10月16日金曜日

20201016 地、灰、愛

 11:00現在、コーヒーは1杯、今日は新しく開封した、インドのカラディカン農園、ナチュラル。存在感の強いスパイス感のせいか、一瞬、水に溶いたココアのようなざらりとした質感を錯覚するが、それは口腔にまとわりつくことなく、赤ワインのような挙動で流れていく。後味にダークチョコレート。冷めるにつれて徐々に口蓋に漂うレモンのような風味、時折閃くようにあんずバーのような酸味が感じられる。

国内に抱える紅茶の特産地の名の数々の陰に霞んでか、コーヒーの産地としてのイメージがあまりない(ような気がする)インドだが、実のところ常に世界のコーヒー生産量の上位に食い込む一大コーヒー大国であり、しかもその大部分をカルナータカ州、ケーララ州、タミルナードゥ州からなるインド最南端3州が占めている。  


その3巨頭の中で断とつであるカルナータカ州のチクマガルールは、伝承によれば、コーヒー豆がインドに伝わった初めての地であり、なんでも16世紀だか17世紀だか、僧侶ババ・ブーダンがイエメンから秘密裏に、遠路はるばる7粒のコーヒー豆を持ち帰ったのだという。 

真偽はともかく、この地はインド亜大陸の西海岸を縁取る西ガーツ山脈に位置する高地であり、コーヒーの産地として適していたことは事実であって、案の定後年大英帝国がこのあたり一帯でコーヒーの大規模なプランテーションを始めることになる(マイソール・コーヒー)。ちなみにチクマガルールから山脈を辿ってもう少し南に降ったところには紅茶の産地として名高いニルギリ丘陵が広がっており、そこを走るニルギリ山岳鉄道の名もまた有名だ。


というか正直なところ、私の中での順番は逆向きだった。

最初に知ったのは「ニルギリ」という名詞、それは作詞:抱きしめたトゥナイト、作曲:ハチ(言うまでもなく、後の米津玄師)による短い歌のタイトルであって、また私がそれを初めて聞いたのは、今はすでに引退しているVTuber久遠千歳のカバー曲でのことだ、彼女は死ねないのであって、その曲には谷に落ちていく汽車が登場する。

その曲を知って少したったころ、近所のイオンの値下げコーナーにニルギリの茶葉を見つけた。450円+税で買って帰った。

コーヒーの方はそれらとは全く別ルートで知ったことだが、それらは机の上に開いた地図帳の見開きの上で隣り合っている。


昨晩は1時間くらい音読をした。たまたまkindleに入れてあった三方行成『トランスヒューマンガンマバースト童話集』収録「地球灰かぶり姫」。「継母」と「シンデレラ」という頻出語がとにかく舌が回らず最後の頃にはへろへろになりながらの一時。死のうだなんて馬鹿馬鹿しいとばかりに地を覆い尽くす灰を踏み散らして幸せなシンデレラ。ガンマ線バーストにも負けないくらいのずっと、ずっとの愛のおはなし。


参考

Daily Coffee News “Coffee in India: A Complex History and a Promising Future” October  2, 2018

https://dailycoffeenews.com/2018/10/02/coffee-in-india-a-complex-history-and-a-promising-future/


2020年10月15日木曜日

20201015

10:00現在、コーヒーは一杯。エチオピアのナチュラル。

開封したてのころの、梅干しやゆかりを思わせるような香りもいまはだいぶ薄れたとはいえ、それでもまるみを帯びた輪郭の片隅に、ぽっかりと空いた風穴のように、あの香味の痕跡がかすかに呼吸しているのが感じられる。

11:00現在、コーヒーは二杯目。同じくエチオピアの、今度はウォッシュト。同じ農園の処理方式違いであるナチュラルの驚きの陰に隠れてしまっていたところもあったけれど、落ち着いてみるとこれもまたまるく、なにかをくすぐる、これもまた記憶だ、なにかの、すこしのよろこばしさとくすぐったさ、皿の片隅にのこされたなにか、一体なんだったのか、白い、これは記憶だ、わたしもしくは誰かの、口腔を滑り落ちる忘却の風が巻き上げる後塵によって、ただそれだけが浮かび上がらせる曖昧な輪郭だ。


今朝の目玉焼き、冷凍のグリーンピースに混じってフライパンの上に横たわるサワラの切れっ端は昨日の残り、隣の火口で温め直されるスープもまた昨日の残り。昨晩の夕食の残り。


昨晩の夕食。なにやら珍しく夕食らしい夕食だったもので。


・鰆の塩焼き

・鰆のムニエル

・もやしと豆苗の炒め

・キャベツとベーコンのスープ

・クスクス


値引きに値引きを重ね重ねの末の3切れ250円のサワラの切り身の、とはいえきれいな薄緋の肉が業務用の粘っこいラップをまとってひらただ。ラップを剥いで塩を振ってまたラップをして放置する。焼くあるいは胡椒も振って小麦粉も纏わせてバターで焼く。小麦の粒子は塩に呼ばれたサワラの体液にまた熱せられて金肌を覆うバターに溶けるだろうかそして剥き出しの肉をまた被覆する肌となるだろうか肉はふくらと柔らかだった。


キャベツは美味しい。


記憶が耳骨に響くはやさはどれくらいか、頭蓋にこだまする、エチオピアの土を覆うコーヒーの木とプールと港の鈍いエッヂが箸と交わる、その角度はどれくらいか、


2020年10月14日水曜日

20201014



今日一日の予定を確認しよう。

うん、特にない。ないんだよ。10:00現在コーヒーは一杯、UCCのを淹れた。どんなもんだい、ハカリがいよいよ使い物にならないようだ。


Amazonセール最終日だが、JPRiDEとやらの安ワイヤレスイヤホンとKintoのドリップケトルを買ったもの架迷っている。


ああーー


数日前に台風の域から脱して以来、気温はまた少し上がり、鳴りを潜めていたあの蚊の羽音もまた枕元に戻ってきた。


そういえばの。今朝のtwitterで出雲霞さんの今月いっぱいでの引退を知った。

この種の報にリアルタイムに接するのはにじさんじでは今回が初めてだ。(ホロライヴでは2人、(いずれもいくらか後ろに苦味を残す最後であったが))

出雲さんについては、当人・周りともに納得した上での幸せな幕引きであるようだ。

とはいえ、どんな気持ちなのであろうか、元SEEDS1期の古参、思えばこの間の雨森さんとの謎コラボも(これまでに私が彼女の配信を目にした、実のところ現状それが唯一の回だ)、先日の種1カレー会も、その幾らかは今回の引退の予感が烟るものであったのだろう。


彼女の誕生日記念の場で発せられたこの報も。思うところあっての設定だったのだろう。twitterのTLには、誕生日をただ幸せに祝うイラストのリツイートが並んでいた、その多くはきっと、まだ何も知らぬ当時のファンたちが、この日のために、何日もの時間を掛けて用意してきたもの、この日を祝い、その祝いのうちに終わると思っていたこの日の配信の瞬間に合わせるように、いくつかは予約投稿の機能に委ねられて、サーバーへと放たれたであろう、いくつもの過去の切片。


いわゆるVTuberと呼ばれる人たちを追うようになってわずかに数月の間、それでもすでに活動を終えた配信者たちの名前やら、イラストやら、YouTubeチャンネルの跡地やらに行き当たることが何度かあった、その度に、妙なことだが、死というものがまた意識にのぼってくるようになった。

彼彼女らは、彼彼女らこそは、死ぬのだ。確かに。是も非もなしに。


11:00現在、コーヒーは二杯目。コロンビアの水洗、開封から一週間は経ったか、当初のレモン・キャンデーのような舌にひらたな酸味もだいぶおとなしく感じる。


なんでこんなものを打っているかというと。何やら今まで以上に意識の断絶を感じるからなのだろうか。昨晩寝る前、少しばかり朗読の練習を始めてみた。3分程度の文章をいくつか録音。生まれてこの方避け続けてきた自分の彼の声の緩慢な記録だ。

言葉なしに時間はあるのか、それを描き試そうとひと月前に意気込んで匙を投げそうになっている。しかしやはり多分ないと思う。ないと思うよバラクラバ。


なんとまあ時計はそろそろ正午を回ろうとしていて指はもつれる。キーボードのバネが鳴る。


追記

投稿してから気付いたのだが、死とか枕とか意識の断絶とかに病気だとか病床だとかの含意は無い。みんな元気。