2016年6月20日月曜日

中ザワヒデキ「人工知能美学芸術宣言」感想(Twitter記録)


以下は2016年5月2日にTwitter に投稿した一連の投稿の備忘記録です。本ページへの再掲にあたり本文への加筆修正は基本的になされておりません(元ツイートはTwilog 経由で参照可能)。


2015年5月2日付のTwitter投稿(twilog)
http://twilog.org/10aka_/date-160502



昨日深夜配信された中ザワヒデキさんの「人工知能美学芸術宣言」、そのあまりの前時代っぷりに単純に戸惑っている。これは何かのパロディなのかしらん、とさえ思う。
http://aloalo.co.jp/nakazawa/2016/0501a_j.html



そもそも前提としている芸術観からして中ザワさんらしくない。「認識」「創造」等の語の許、この宣言中では芸術があたかも客体として、主体であるである私たち(あるいは来たるべき人工知能たち)の手の許におとなしく丸まっているかのようだ。


しかし芸術とは(それが天然であれ人工であれ)知能ないしはその他あらゆる外的主体による作業の結果物として産出されるものだという芸術観に私は全く賛同できないし、また中ザワさんがそういう芸術観を持っているとも思えない。


芸術とは、それ自体が無限に速い思考そのものではないか。
絵画は、詩は、音楽は、絶えず自らを思考している。それは微細な迷路のあらゆる襞を立ちどころに浸していく水のような推進力であり、それにしがみついて自らの進む先を求めたのが例えばかつてのフォーマリズムであったわけだ。


なおもとうに終わり続けているその演算過程の凝集した軌跡を、確かに私たちは後から追い駆けそこから作品を蒐集し自らの名前を貼り付けていくのであるが、それはあくまでも二次的な話だろう。


(二次的と言うのは重要ではないという意味ではない。むしろそれこそが私たちが生きる地平なのだから。芸術をある有限性へと結果せしめる空気抵抗の場、大気圏。それは中ザワ循環史観では前衛・反芸術・多様性という三段のスペクトル分析の場としてあらわれている。)


ある作品が吐き出された排出口が「たまたま」人間であろうが人工知能であろうが、芸術機械の無限の思考の緩慢な現働化である限りそれは芸術作品であるというのはあまりに自明のことで、このような再認を中ザワさんに強いたのは一体全体どんな事情だったのか、という点こそが今回もっとも気になる。


あと、人工知能美学芸術研究会発起人一覧を見るに、ここから「中ザワヒデキの友達展」まではさほど遠くない、などと思ってしまうのでした。、