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2020年11月13日金曜日

20201113 夢、大気、PS5

9:30 現在、コーヒーは一杯。パプアニューギニアのウォッシュト。

ここしばらく、「コーヒーが好きであり、自分なりに色々読んだり試したりするように心掛けている」と言ってもよいかな、というくらいの振る舞いをしていたつもりだけれど(躊躇いなしにそう言えるだけのものを私はこれまでひとつとして持たないままに今まであった)、とんでもない、私は本当に何も知らないのだという分かりきった事実が改めて闖入してくる。Kindleで200円で買った200ページばかりの初心者向けムックさえ、知らない内容で一杯だ。


キャベツのトーレン。汗を吹いてふやけた薄緑とターメリックの黄色が馴染み、そこに褐色のマスタードとココナッツファインの白色。塩辛い。バスマティ・ライスを炊く。この米に特徴的という香りも私の鼻にはいまだにぴんとこない。もとより視界に映らぬものを探すのはとてもつらい。


昨夜の夢でもまた私は誰かと喧嘩していた。日中の私には決して湧き上がることのない弛まぬむかつきの滞留。「怒りが爆発する」とは言うけれど、怒りはそれ以前にまず、ある種の持続力を要求するものだ。突沸してたちまちにおさまるような怒りは怒りとも呼べまい。

20201020 果実、頭、怒り続ける  )

何かを追う夢、何かに追われる夢をよく見る。いよいよ迫る破滅の影に、しかし私の脚はプールの水を掻くようにのろのろとして進まない。あるいはもっとずっと昔、子供の頃には、よく平泳ぎで空を飛ぶ夢を見た。脚の内側に大気を絡め取るようにして、じわりじわりと浮かび上がった地上5メートルばかりの上空から路上を見遣る。どちらの夢でも、その大気は普段呼吸しているものよりもずっと私に濃密で、四肢の運動に払い遣られることもなく、むしろその中でもがく私をいよいよ絡め取って滞留させる。

この滞留のうちに、片栗粉でとろみのついた汁に落とした溶き卵が房を成して凝り固まるように、夢の中の私の怒りもまた可能になっているのではないかと思う。


昨日、熾烈な抽選を勝ち抜いてPS5を手に入れた人たちのTweetが流れてきたのだが、その中のある報告に胸がざわついた。なんでも、PS5のコントローラー表面と本体のパネル裏面は細かい梨目加工になっているのだが、それをよくよくみると、その梨目は実は細かい○×△□マークがビッシリちりばめられたものなのだという。これはもう、いかにもなにかの悪夢にありそうな質感のお話ではないか。

この悪夢的な不気味さの源はなにかといって、まあ、まずはそのスケールによるものだ。私たちが自らの手で何かを作り上げようとするとき、ふつうそのデザインは、私たち自身の生身が持つ分解能の範囲内で成される。色は可視光、音は可聴域から。目に模様として映るスケールはこれくらい、操作表示としてならこれくらい、握り締めるならこの程度だし、その上を歩き回るならあのくらい。そうしたスケール設定を期待して向かった先でしかし踏み外すとき、私たちはすぐ、自分が何かを間違えたことを悟り、間合いを取り直そうと距離を置く。 

しかしそれだけであればよくあることだ。用途を間違えていたのかもしれないし、あるいはそもそもそれは「技術」の産物ではなかった、「自然」の所産だったということかもしれない。私たちがその内に住っている環世界の外部には、広大な「わからなさ=自然」の海がタガも何も無しに無限に広がっている。私に対して他者として立ち現れることさえないそのノッペラボウの自然をしかし私たちは、あたかもそれがはじめから私たちに向けて書かれていたかの体で、抜け抜けと読み上げては自身の球体の内側に組み込んでいく。

問題となるのは、そうした自然への探索作業のさなかに、不意に、全くお呼びでないタイミングで、ふたたび技術の痕跡に突き当たってしまう時だ。全てを自家薬籠中に取り込んでいく厚かましさを振るう余地も無いほどに、はなからこちらに見るべく与えられているかのように、開けっ広げに眼前に姿を現してくるとき、それは不気味だ。火星表面に横たわる2.5kmに及ぶ人面岩であるとか、遺骨の海綿質を顕微鏡で拡大していった先に映り込む微小なシリアル・ナンバー(『ブレードランナー2049』)は、私たちの目に不気味だ。

そうした場違いな品=オーパーツ(Out-Of-Place-ARTifactS)に出くわすとき、これまで揃っていた私たちの歩みは激しく動揺する。足幅はばらつき、足並みが乱れる。常識=良識 bon sens のスケールが揺らぎ、リズムが破綻する。私たちはその場に渋滞し、滞留する。逃れようとするも脚はすでに縺れ、ぶよぶよと膨張し、もはや足裏の冴えた感覚も確かなグリップも期待すべくもない。

「なんということだ、そうだ、これはなにかの悪い夢だ、私たちは見られている、私たちのこの醜態を見てほくそ笑んでいる誰かがいる、それは神か?私たち自身か?」


私たちの目に小さすぎる○×△□に出会したときの悪夢的光景とはこのようなものだろう。この地球、「私たちのために創造された」この地球の大気は、いうまでもなく、他でもなく、"私たち"の四肢に、呼吸器に、それこそ「空気のように」透明で、軽やかで、無味無臭だ。大気のこの透明感は、"私たち"の同質性にこそ保証され、同質なる私たちを中心に、同心円状に広がっている。しかし円環の片隅が不意に何か、別の円環と衝突するとき、同質性の円は揺らぐ。したがって大気は濁り、澱み、それまで意にも介さなかった重みが肩へとのし掛かる。こうしたズレ、こうした澱みの中に、例えば私は泳ぎ、脚を掬われ、怒り続けるのだ。




2020年10月29日木曜日

20201029

8:00 現在、コーヒーは一杯、コロンビアのゲイシャ。粒度を細かくしたのもあるのか、また違った印象。もともと、紅茶を思わせるフレーバーというのが、その枯れ草の香りと収斂味の産物なのか、どこか舌の上の一帯に、さーっと広大な空白の域(たとえば一滴の洗剤がフライパンに浮いた油を一瞬で淵の方へと押し遣るような、疎水性の域)が開き、そこに鈍く雨の予感を含み込んだ風が吹き抜けるような感覚を与えるとすれば、今回はその風が凪いでおり、置き放たれた空白に立ち尽くして、露を落とす大気の微かな湿り気を皮膚に感じている。書いていてなんとなくDeath Stranding の風景を思い出してしまった。


昨日はなんだったんだ。平倉圭「動物に命令すること」を読んだ。2015年1月開催のシンポジウム「新たな普遍性をもとめてーー小林康夫との対話」での短い論文で、いまとなってはweb 上での在処がわからなくなってしまっているのが残念だ。

動物と話すこと。動物に命令すること。動物を名前で呼ぶこと。言葉が縁取ろうとするそのひろがりの際の未だ見通せぬ約束へと、ともに飛び込むこと。

言語の内で話す限り、私たちは常に他者の口で語り、私たちは常に過去の反復として語る。異種間の対話とは、そうした反復の外部において、全く即興的に都度やり取りされる試みの前線である。相手はおろか、私の身体がいま、果たして何を言っているのか、「何かを」言っているのかさえも一向にわからないままに繰り広げられる、それはダンスだ。

それは言語以前の経験である、のみならず、時間以前のひとつの出会いだろう。

「探せ!」…しかし何を?「フライデー!」…しかしそれは誰のことだ?すでに全てが確定した未来から今を振り返る素振りをして、「それは何であったことになるだろう」などと言うことは出来ない。それはその未来に向けて、投げやりなまでに開かれており、私たちはそれを囲い込むことなく、訳のわからぬままに、目の前の他者をそっと名前で読んでみる。


ジャック・デリダの『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』の参照があったのかどうかを私は知らないけれど、  


あ駄目だ日記つらい


2020年10月25日日曜日

20201025 残り味、分布、浸し

10:00 現在、コーヒーは一杯、ケニアのウォッシュト。少し風味が落ち着いてきた。一瞬ハーブ入りのソーセージのような香りを聴いた気がする。

寝過ごした。起きたら陽が久々にさっくりと差しており、ここぞとシーツを洗って干した。なんの夢を見たのだったか、何か薄汚れた雨合羽、ハリと折れ、を、リノリウム張りの廊下で被った気がする。体育館のステージの、遠く天井から真下に垂れ下がる重い幕が音をよく吸収する暗がり、丈夫で表面のつるっとした工作紙(なんと呼ぶのだったか、図工の時間、前の席から順々に回されてくる、溶着ポリ袋に封じられた紙束のしっとりとした重みが、私には光だった)のような色彩の質感が踊る、鈍く眩い照明機材、対照に呑気にのっぺりだだっ広い板張りの床面。近頃小中学校時代の記憶の断片が入り混じって起床前数十分の脳裏を駆け擦り去っていくことがよくある。

上履きの足音に笑われて起きるその8時間前のこととてまた同じこの畳の上のこと、昨日はいくつか面白い記事を見つけてサーフィンだった。


一つ目、「ECXとは何だったのか?日本の功罪」

https://coffeefanatics.jp/ethiopian-commodity-exchange/

2008に設立されたECX(The Ethiopia Commodity Exchange)の采配のもと、エチオピア全域のコーヒーチェリーの大部分は国内9つの集積所に集約され、それぞれの中でグレード付け、ロット形成されて流通するようになった。コーヒーチェリーの流通の透明化と効率化のための施策とのことだが、他方これは地域ごとの特色を重んじる農園や業者にとっては冬の時代の訪れだったと言う。

著者によれば、その背景には、同国のコーヒーの最大の売り手であった日本が2006年に設定した輸入品の残留農薬規制によるコーヒー輸出の不振があり、先のECXの施策の主な目的はむしろ流通の効率化による外貨獲得に向けられていたという話。

たまたま今朝のこと、検出されたオクラトキシンを理由にケニア産のコーヒー豆が日韓で受け入れ拒否されたとの記事が流れてきた。あるいは先の記事もこれを念頭に書かれたものだったのかもしれない。

「Kenyan coffee risks losing global appeal on chemicals」(2020 10/6付けの記事)

https://www.businessdailyafrica.com/bd/markets/commodities/kenyan-coffee-risks-losing-global-appeal-on-chemicals-2458028


二つ目、「色:ヘキサコードから眼球まで」(全3回) 

https://postd.cc/color/

簡単に三原色なんて言うけれども、人間の網膜に並ぶ三種類の錐体細胞をそれぞれ励起させる周波数の分布と、RGBやらXYZやらの色空間を構成する各軸と、ディスプレイに敷き詰められた三つ一組のサブピクセルに設定された分光分布は、それぞれまるで異なるものであり、それらは決して互いにシームレスに変換されるものでもない。そんな込み入った話題を逐一説明しつつ、最後にそこに「ヘキサコードから眼球まで」という一本のストーリーを通して、スピード感をもってまとめられており、気持ちよい解説。


あとはエドガー・ダイクストラ Edsgar W. Dijkstra の名を知った。最短経路問題の有名な解法、ダイクストラ法の考案者。また、プログラミングにおけるgoto文除去運動の発端を作った人。構造化プログラミングの父。空想上の企業、Mathematics Inc. 会長。それはそれとしても、Dijkstra、堤防のそばに住む者。良い名だ。英語における「dike(堤防)」に相当する語はオランダ語で「dijk」と綴られる。そもそもこの語自体、ノルドの血、フリースラントの低地特有の泥臭さを強く匂わせる語だ。


私は言語能力が著しく低く、訓練のためもあってこの日記もこうして書かれているわけであるが、まあおそらく一歩先、一歩前との関係の中で書くことができないのだと思う。すでにまとまりをもって完成してある文章を要約するのもかなり時間がかかる。

明日の日記は「昨日は日記を書いた」になりそうだ。体調はあまり良くない。腹と脳天とが細長くて濁った綿飴で貫かれているような気分。


冷たい煮干しと高野豆腐を食んだ。冷たい食パンを噛んだ。ベジマイトを舐めた。そうした履歴。




2020年10月24日土曜日

20201024 ワン、ルー、ム

9:00 現在、コーヒーは一杯、UCCのザンビア。

久々に牛乳を買ったので、朝はフレンチトーストを食べた。今年になってから、フレンチトーストは甘くないほうが余程美味しいと気付き、以来味付けは塩とカルダモンだけになっている。

一昨日の買い出しの成果を踏まえ、昨日は牛スネ肉を野菜と一緒にをワインで煮たのと、人参の葉っぱ他のかき揚げ。使わないのでめんつゆは持っていないのだが、天ぷらのつゆとしてポン酢を使うのは案外違和感がないと気付く。酸味は油に中和されてほとんど目立たず、変に甘ったるくない分むしろ良いという人もいるかもしれない。食べた後どうせならとガス台ごとどかして掃除したのでやり切った感がある。

10:00 現在、コーヒーは二杯目。ケニアのウォッシュト。


昨日のProcessing ではプログラムの構造化について少し読んだ。初期化関数 void setup() とメインループ void draw() 。この二つを軸として、そこから必要に応じて外部の各種の関数に引数 argument を吹っかけたり、戻り値 return value を受け取ったりすることで一つのプログラムとして機能する。やたらに入り組みがちなプログラムをこうして機能ごとにモジュール化することで、その設計や点検が容易になり、また、殊、専らヴィジュアル・イメージ等を扱うことに特化したProcessing の場合、構造化に伴う反復構造は、アニメーション表現の実現において必要不可欠なものである(らしい。正直まだあまり納得がいっていない)。


今読んでいる入門書(田中孝太郎・前川峻志『Built with Processing デザイン/アートのためのプログラム入門』)は構造化以前のプログラムをワンルームの部屋に、構造化されたプログラムを一戸建ての家に喩えていた。初期化関数とメインループをそれぞれ玄関と居間とし、それを中心にしていくつもの部屋=関数が組織されているのだという。

構造化には、個々の部屋が互いに対して閉じていることが重要だ。一つの部屋で起こった修正が、いちいち他の部屋にまで波及してしまったのでは無駄手間だからだ。受け取った要求には適当な応答を速やかに返し、お互いの内情の機微には立ち入らない。それが円滑に仕事をこなす秘訣である。

アニメーションとは言うが、それは時間が生まれる、ということではなく、むしろその征服なのだろう。たぶん、極限まで構造化されたプログラムがあったとして、そこには時間も空間も存在しない。時間や空間とは私たちの迷いの相関項であり、私たちが迷うのは、無数の部屋が一つの順路によって結ばれたお屋敷などではなくて、むしろ無駄に大きな一つの部屋、そこに散らばるいくつもの事物の余白においてだ。

私は歩き回れる。全くただこの一点において、私は自らを私である、と宣言する。引き籠っている事物から疎外されている限りで、私は他ならぬ、いやむしろ他としての私である。





2019年9月17日火曜日

とてもながいなにかに名前をつけること:関真奈美「敷地|Site」


国分寺駅から武蔵美を目指していくらか歩いたところで、どうやら尋ねられ顔をしている私はその日もひとりの女性に「線路ってどこかしら」と呼び止められた。

困った。駅ならともかく線路となると長すぎて指差すわけにもいかないし、かてて加えて生憎ここらはJRは中央線と武蔵野線とが十文字を成す上そこに西武の国分寺線と多摩湖線とが互いに煮え切らない角度に広がりながら交わったり交わらなかったりしており、なおのこと答えるにあぶなっかしい。
まあ私自身ほんのその十数分前に得たばかりだったそんな知識は結果としてそれなりに役に立ち、そこから西武多摩湖線に突き当たる一本の道を示してことなきを得た。

玉川上水づたいにようやく辿り着いた武蔵美の閑散とした食堂で海南鶏飯(らしい)を食べた後、同敷地内のGallery of The Fine Art Laboratory にて関真奈美「敷地|Site」を見る。

真四角でワンルームの展示空間をどう廻るべきかは鑑賞者にとっていつだって最大の悩みの種のひとつであるけれど、その点について言えばこの展示はいくらか親切で、壁に貼られた写真のその傍らにはそれぞれに短い文章が添えられており、その文章は横書きで、しぜん私はその向きに付き従って室内を時計回りに廻り始める。しかし間もなく、室内に点在する台座の上のオブジェのそれぞれが壁の写真と対応していることに気づいたりして、仕方がないので壁づたいは適当なところで中断されて、時折台座の間を彷徨い歩くことになる。

私たちの視野と記憶はかなり狭く限られており、次のオブジェに向かって歩を進めた瞬間には大抵すでに前のオブジェの記憶の大半は霧散していて、だから私たちはそれがまだ目前にあるうちに写真を撮ってお守りにしておいたりするのだが、オブジェが写真になったところで結局最後に見るのが私であることには変わりなく、結局のところそれらを適当にブツ切りして消化を促すよりほかにない。

部分部分にブツ切りされた対象は、しかしそのままでは腕はただ腕であり脚はただ脚であるばかりであって互いに関係を結ばない。モナドには互いに目配せする窓がないのであり、何かしらの外部の力に依ってそれらを和え纏める必要がある。かつては神へと丸投げできたその役目も、今となってはその間接因果の構図はそのままに、人間の経験の方へと裏返されている。私たちは世界を、まるで自らの身体のように区切り、またまとめ上げる。

この室内に散らばる諸々を「敷地|Site」というひとつの展示へとまとめ上げるのもまたその経験を通してである。まずはもちろん鑑賞者の身体のそれではあるが、しかしこの展示においてはそれに先回りするもうひとつの身体、台座の上の棒人間たちの身体を見逃すことはできないだろう。
室内に点在する台座のそれぞれには幾筋かの針金が、互いに凭れ掛かり合うようにして、なかば崩折れながらも立っている。そしてその傍らに添えられた写真が示すのは、その針金がかつて棒人形状に人型を成しており、壁に掲げられた写真に映る人物を模したポーズでその壁際に立っていた、いつかの時点の記録である。
 
ここで壁際にポーズを決める棒人間の姿とは、写真の画面の色の布置を背景を立地 position として直立し、特定の姿 posture の内に静止 pause する 「人物写真」として切り出し=統合する鑑賞者の姿であり、それと同時にその身体を成している絡み合う5本の針金とは「四肢+一胴=五体」という五人一組 member から成る肢体 membrum へと分節された身体に他ならない。
かつて彼らがその内にあったポーズはすでに見る影もなく失われても、絡まりあう針金の数は依然5本のままであり、その肢体の文節はなお維持されている。鑑賞者によっていま再びかつての、あるいはあらたな、ポーズの内に読み返されるれるのを待ち伏せている。
 

ここで藪から棒にひとつの疑問がある。名付けるとは、対象の全貌をいちどに視界におさめ、それをひとつの統一として、その輪郭を言葉で縁取ることだとすれば、しかしそれが叶わぬほどに「とてもながいなにか」を名付けるには一体どうすればよいのだろうか。例えば私が小平市の広がりやかたちを知るべく Google Maps の画面を拡縮するように、対象の一望が可能になる距離まで視点を後退させればよいだろうか。

しかしここでの悩ましき対象は「おおきい」のではなく「ながい」のであった。
JR中央線の全容を視界に収めようと地図をズームアウトするほどに、東京を東西に貫くその用地はいよいよおぼろげな線となり、しまいにはその名を示す文字とともに消えてしまう。ズームインしたらそれはそれで、線路を表す薄灰色の長い長い線沿いのどこに路線名が記されているものかと画面をこねくりまわす羽目になる。


とてもながい、とは、たとえば立方体が次元をまたいだ反復を逆向きに辿り返す(ズームアウトする)ことでなめらかに針穴へと解消されてしまうのと逆の有り様であろう。常に他の次元へとつっかい棒を差し挟んで抵抗するような有り様、ひとつの敷地がひとつの語、ひとつの住所へと解消されることを拒み、いくつもの敷地を横切り、それらを横目に疾駆していく、場所なき場所としての鉄道のような有り様。消失点(それの担い手が神であれ、あるいはそれと画面を挟んで向かい合う私たちであれ)から発してすべてを飲み込みながら花開く一点透視図法の錐体を絶えず食み出していくこと。

再び今回の展示空間の有り様に立ち戻るなら、たとえば第一の鑑賞者としての針金たちが立つ台座のそれぞれは、それに対応する壁際の写真等々を視界のうちに捉えるべく、まず一旦は透視図法の錐体の場に乗って後退る。しかし部屋の広さは限られている以上、ワンルームの壁面三方から部屋中央に向けて背中合わせに押し込まれたそれらはしまいにはすれ違いあい、結果壁面と台座を結ぶ錐体は互いに交差し侵食しあうことになる(思い出すのは先述の、4路線に囲まれたなか「線路はどこ?」と問われる困惑だ)。

あるいは展示室の一面がまるまるガラス張りになっているのを良いことに、いっそのこと部屋から数歩後退ったところから、この部屋そのものをまるごとひとつのオブジェクトとして回収しようとする者があるかもしれない。ところが周到なことに、ガラス面と向き合う壁面には「うしろ」の文字が、"鏡文字で"記されている。すなわち、「室内から見られる限りで鏡として機能するところのガラス張り」を作品の構造の内にあらかじめ組み込む仕掛けが施してある。


意味作用の差し引き零への清算をひたすら先送りにする滞留は、隠喩的特異によってサイト−スペシフィックに絶ち貫かれることもなく、ものとものとを隣接させつつそれらの間をすり抜けていく。
「敷地|Site」の名状しがたさ。それは自らを自らへと食み出させるように、無限に訴えることなく、無限を待つまでもなく、ただここにおいて逃れようのない横溢である。



2019年7月2日火曜日

*この期に及んで夏休み日記:その12*馬鹿でかい文字、小さい文字

ときに街中で、馬鹿でかい文字に出くわすことがある。
例えば河川敷の路面に白線で記された、その上空を横切る橋の名前。
例えばIKEAの青い壁面に取り付けられた、巨大な箱のような黄色い「I K E A」のロゴ。

あるいは小さな文字というものもある。
例えば書物の行間に蠢くひらがな、カタカナ、ときに漢字によるルビ。
例えばマイクロフィルムに焼かれた公文書の複写像。
例えば紙幣の片隅に、縁取りに紛れるように印字された偽造防止の「NIPPON」の文字。

こうした文字に出くわしたとき、私ができることといったら、ただ笑うよりほかない。
文字が、大きい?あるいは小さい?どうしてそんなことがありうるのか、意味がわからない!

文字は、私達が知っている文字、飼い慣らしているつもりの文字は、一度網膜に映り込むや否や、即時召喚された意味の背後へとひらりと身を隠してしまう。その過程に文字の大きさなどというものの介在する余地はなく、それでも慰みとばかりに複数用意されたフォントサイズも、ただ意味という頂点へと向かって収斂する光学的な円錐に串刺しにされている。 

しかしある閾値を超えて大きい、あるいは小さい文字は、この円錐に嵌まり損ない、意味へと向けた撮像の途上で目詰まりを起こすらしい。吐き出されたその文字だったはずのものは、ぶくぶくと肥え太った物質性へと投げ出され、意味の抽出の切っ先へと研ぎ澄まされた私たちの身体をしばし痙攣させる。なぜこれに私は意味を見ていたのか、「意味がわからない」!