2020年10月20日火曜日

20201020 果実、頭、怒り続ける

9:00 現在、コーヒーは一杯、インドのナチュラルの残り少しにUCCのブレンドの混合。豆が残り少なくなってきたので、昨日Blue Bottle で注文した。

昨晩は買い出しに出る。日中降っていた雨はすでに止んでおり、

柿がとても安い。一個と言わずもっと買って置いてもよかったかもしれないと今更思う。反対にミニトマトは高騰していた。

9:45現在、珍しく紅茶、ニルギリを淹れる。杏?か何かのフルーツの丸みのある甘みがあり、その両側を走る清涼感がそこに輪郭を与える。初めの一口に収斂感はほとんど感じることはないが、それを完全に呑み込んだ途端、波が引いた後に現れるアサリの目のように、舌に思い出され、それが二口目からの味覚にワンテンポ遅れて干渉する。

そういえばコーヒーの味にフルーツを連想するとき、それは大抵その酸味についてであって、甘味については糖蜜とか、黒糖とかいった別の指標を使うのが普通だけれど、紅茶の果実感といったらその甘味についてだという気がする。紅茶のカッピングをあまり読んだ経験がないのでなんともいえないが。


例によって鯛の頭が安売りしていた。いつもカレーでは流石に芸がないので、たまには塩焼きにしてみルつもりだが、せっかく半割りされているわけだし片方はカレー粉とヨーグルトでも塗って焼いてみようかと思う。

店内に怒っている男を見かける。仕事帰りと思わしき、30代くらいの男で、少し肉のついた体躯がワイシャツの腹を張らせ、そこにしわくちゃの秋物コートが引っかかっている。若干逆立った黒髪と、裸の目と、髭のない顎がぬらりと貧弱である。生鮮品売り場の、雨天ゆえかまだだいぶ在庫が豊富なもやしが並んだあたりをよろめきながら、なんでこんなに何も残っていないのかと、独り怒鳴り散らかしている。店員含め皆遠巻きにしている。


「怒る」というのがいまいち理解できない。人はなぜあんなにも熱心にしぶとく怒り散らすことができるのか。

いらいらする、許しがたく思う、軽蔑する、悲しむ、やり切れない気分になる、折に触れてそういった心の働きが生じるのは理解できる。そうした働きの帰結として、怒声をあげる、声を震わせる、涙を流す、等々の行動に帰結するというのも理解できる。しかしそれが確かに帰結だというならば、それを頂点としてそれはもうおしまい、ではないのか。同様の理由によって「キャー」というような悲鳴も不思議でならない。「あ」と絶句して、それで終わりではないのか。逆にエネルギーを消費していないか。怒りという感情というよりかは、それを行動として、ある程度まとまった時間、継続的に駆動する動力源が一体どこにあるのかがわからない。


泣き続けた経験は、ああでも、子供の頃にある。しかしそのうちだんだん、泣くために泣いている自分に気付いてしまったりして、虚しくなって、それでかえって止むに止まれなくなって頑張って泣いてみるか、そうでなければもう完全に醒めてしまって、赤面を誤魔化しつつへこへこ隅に引っ込む、といった感じだったように思う。

案外怒れる彼らもそんな感じなのではないかと思ったりもする。この苛立ちがおさまってしまいそうな自分に苛立ち、それに抗って一層自らを怒りへとしこしこ鼓舞しているのではないかと思ってしまう。

怒るほどに真剣に何かに身を投じた経験がないからなのではないか、と反論されたら、そうなのかもしれないなあ、と返さざるを得ない、というのもまた正直なところなのではあるが。


あーでもほら、近頃はさ、怒り続ける身体をネットが肩代わりしてくれるからさ、Twitter に流れてきた知りもしない誰かの発言を見て、鍋蓋みたいにポンと怒って、次の瞬間には愛くるしい子豚の動画とか、推しの晴れ姿とかに目移りして頬を緩めていたりするんだれど、その間もリレー式に他の誰かが鍋蓋みたいに怒ってくれていて、タイムラインを遡ると常に誰かしらが自分の代わりに怒ってくれているものだから、みんな少しづつ時間と身体を分け合うことで実質的にみんなずっと怒り続けていられるプラットフォームとしてSNSなんかが機能していたりして、見ていて、まあ、地獄だよね。


12:00 現在、コーヒーは二杯目。UCCのザンビアのシングルオリジンの深煎り。深煎りは正直あまり好みではないのだが、そこで試しに蒸らしもそこそこにかなり太い水量でガシガシ淹れてみる(ドリッパーはコーノ式)。ダークチョコレートの香ばしい風味は抽出しつつ不要な苦味は最小限に、わりかしすっきりした印象になったと思う。こうした調整ができるように、やはり次に買うケトルも(口がパイプ状の)細口ではなく(根本が太い)鶴口タイプが良いなと思うが、なかなか適当なものを探しかねている。

みんなよく飽きないね。


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