2019年7月15日月曜日

やめること(の悦び)。日々の小さなカタストロフ。

やめよう、と、前触れなしに思い至ることがある。というか、思い至ったときにはすでに終わっている。やめるというよりは終わる。(私の?)なかでぷつりと終わったその何かの残滓にかこつけて、その断絶をそれでも囲い込むべく、「やめたのだ」− と− 私は、後追いでそう唱えるのかもしれない。

そうして終わったそれらは大抵、それこそやめるという選択肢に思い至らないほどに、かつて私の日々の奥深くに食い込んでいたもので、しかしそれらを失くした余生になお生きてある私がそれゆえに気づくのは、それらが結局夢でしかなかった、ファンタジーに過ぎなかった、という事実である。

あとから思い返せばどれほど荒唐無稽なものであれ、夢見る当人たちにとってはそれこそが自然−環境に他ならない。そんな夢から醒めたその都度喪失感に苛まれることがないのと同じように、「やめた(のだ)」何かの最後もまた決断はおろか微塵の葛藤もなしの藪から棒の出来事であり、事後もやはり喪失感に沈むどころか過去の自分ごとそっくり書き換えられたようにそれは消え去って、だから私の記憶からその出来事の実例を引き出してくるのはいささか難しい。

ただしその残り香はどこか快感にも似るように思う。過去の自分をそっくり背後に捨て去ること、そうした日々の小さな破局の末端にある今この時もあるいは同じ道を辿るかも知れないし、辿らないかも知れないこと、そんなことを今の私は知る由もないこと、への安堵。
私に希望のようなものがあるとするならば、それは後ろ向きに開けている。

たとえば今回のそれがTwitterでありInstagramであったのは、それらの性質や価値の如何とはさしあたり関係がない(お望みならいくらでも動機を後追いで挙げ連ねることができようが、たとえできたところで、あるいはできなかったところで、同じことだ)。たまたまそこにあったのがそれらであった、ただそれだけのことだ。

帰省先、眼下に青い田畑を臨む高台の眺めの下に迎えた今回の破局のその数日後、TとIのない帰りの列車では、昔のセールでkindleに入れておいた『勉強の哲学』(千葉雅也)の久々の読み返しがはかどった。勉強もまた破局なのだ。ファンタズムを横断していくこと。あるマゾヒズムから別のマゾヒズムへ。そして世界の可能性の横溢を、二重のレベルで、ほどほどに殺していくこと。

懐疑ではなく。懐疑機械の循環=回路の裏をかく、千夜一夜のユーモア。そのたびごとにただひとつ、御伽話とその目覚め。日々の小さなカタストロフ。



 

2019年7月2日火曜日

*この期に及んで夏休み日記:その12*馬鹿でかい文字、小さい文字

ときに街中で、馬鹿でかい文字に出くわすことがある。
例えば河川敷の路面に白線で記された、その上空を横切る橋の名前。
例えばIKEAの青い壁面に取り付けられた、巨大な箱のような黄色い「I K E A」のロゴ。

あるいは小さな文字というものもある。
例えば書物の行間に蠢くひらがな、カタカナ、ときに漢字によるルビ。
例えばマイクロフィルムに焼かれた公文書の複写像。
例えば紙幣の片隅に、縁取りに紛れるように印字された偽造防止の「NIPPON」の文字。

こうした文字に出くわしたとき、私ができることといったら、ただ笑うよりほかない。
文字が、大きい?あるいは小さい?どうしてそんなことがありうるのか、意味がわからない!

文字は、私達が知っている文字、飼い慣らしているつもりの文字は、一度網膜に映り込むや否や、即時召喚された意味の背後へとひらりと身を隠してしまう。その過程に文字の大きさなどというものの介在する余地はなく、それでも慰みとばかりに複数用意されたフォントサイズも、ただ意味という頂点へと向かって収斂する光学的な円錐に串刺しにされている。 

しかしある閾値を超えて大きい、あるいは小さい文字は、この円錐に嵌まり損ない、意味へと向けた撮像の途上で目詰まりを起こすらしい。吐き出されたその文字だったはずのものは、ぶくぶくと肥え太った物質性へと投げ出され、意味の抽出の切っ先へと研ぎ澄まされた私たちの身体をしばし痙攣させる。なぜこれに私は意味を見ていたのか、「意味がわからない」!





*この期に及んで夏休み日記:その11*友だちと連れ立って観光名所行ってお互いの写真撮りあってる奴らはつまらない奴らか。

昨日は鎌倉に行きました。人混みは好きではないので世間での休日に繁華街や観光地に行くことは普段避けるんですけれど、今日は日曜とは言えいかにも降り出しそうな空模様だし、どうかな、と思ったらまあそれでもそれなりに混み合ってはいましたね、はい。

混み合っているとつい、よくもまあ皆さん揃いも揃って列なして、と冷笑的な気分になってしまう自分がいるのですが、しかし冷静に考えて、「誰もが知っているような観光名所に行く」ようなことって、そんなに悪いことでしょうか。と、今回は自戒を込めた日記です。


「みんながしている」ことをすることは悪なのか

これは実のところいくつかの、それもわりと互いに異質だったりもする考えが混ざり合って主張されている場合がほとんどだと思います。今流行りのタピオカを例に、とりあえず思い当たったものを分類してみると、


1. タピオカ文化それ自体が悪である・・・A


2. (タピオカそれ自体の価値は別の問題とした上で)

 a. 多数派に属することが悪である(「みんなと同じじゃん」)・・・B

 b. 動機が「みんなが並んでいるから私も並ぶ」だから悪である
 
  i. 主体性の欠如が悪である(「お前の意志じゃないじゃん」)・・・C

  ii. 価値判断の基準が非本質的であることが悪である
   (「みんな」であることが重要=「タピオカじゃなくてもいいじゃん」)・・・D

みたいな感じでしょうか。

Aはもう少し細かく分けられると思いますが、
・「タピオカという文化そのものが(たとえば「インスタ映え」のような)「みんながしている」という構造と不可分であり、悪である」
・「タピオカ旋風など商業主義に踊らされているに過ぎないのであり悪である」
とかでしょうか。よくわからない。

Bの場合、その動機について別ルート経由だとしても、結果として多数派であるタピオカ側に位置してしまっている時点でそれは悪(南米の食文化研究経由だろうが新素材開発経由だろうが落ちた先が多数派なので悪)、となるのに対して、C、Dの場合は非難を免れることになります。

またBは多数派であることを嫌悪しますが、「みんなと一緒」も「みんなと違う」もその基準を外部に依存している点では同じであり、その点をC、Dから追及されることになるでしょう。

このように、あたかも一つの立場表明と思われたものは、実のところ一枚岩でも何でもない、複数の思念(とおそらく私怨)が渾然一体となり、矛盾さえ孕んだなんかよくわからない感情であったりします。こうした状況に対して自省と自制を厭わないことは大事なことです。以上、自戒でした。



最後に、アニメ『響け!ユーフォニアム』でも屈指の印象的なシーン、お祭りの日に「なんとなく」登った大吉山で、高坂麗奈が黄前久美子に語る「特別になること」の、力強くもどこか危うげな様を思い出して、この日記を一旦閉じましょう。

麗奈は一方では「他人と違うこと」への執着を示し、「誰かと同じで安心するなんて、バカげてる」と切って捨てつつ(B)、他方では「当たり前に出来上がってる人の流れに抵抗したいの」と語ります(C、D)。

そしてそう語る彼女が「特別になるために」選んだ道は、吹奏楽部の、花形も花形であるトランペットで、誰もが目指すソロを吹く、という道です。無数の「その他大勢」を踏み台にして初めて成立するような、言ってしまえばとってもありきたりな道です。

自らも「そういう意味不明な気持ち」として、少し距離を置いて語る彼女は、その自覚あってこそ久美子に、キャラクター化もしてもらえないようなマイナーな楽器であるユーフォニアムを吹く、どこか周囲に対して冷めた目をした久美子、どこか「ユーフォっぽい」久美子に、惹かれたに違いありません。

彼女の強さの源をもしひとつ挙げるとすれば、それはその実力でもその孤高さでもなく、この戸惑いゆえのものでしょう。