やめよう、と、前触れなしに思い至ることがある。というか、思い至ったときにはすでに終わっている。やめるというよりは終わる。(私の?)なかでぷつりと終わったその何かの残滓にかこつけて、その断絶をそれでも囲い込むべく、「やめたのだ」− と− 私は、後追いでそう唱えるのかもしれない。
そうして終わったそれらは大抵、それこそやめるという選択肢に思い至らないほどに、かつて私の日々の奥深くに食い込んでいたもので、しかしそれらを失くした余生になお生きてある私がそれゆえに気づくのは、それらが結局夢でしかなかった、ファンタジーに過ぎなかった、という事実である。
あとから思い返せばどれほど荒唐無稽なものであれ、夢見る当人たちにとってはそれこそが自然−環境に他ならない。そんな夢から醒めたその都度喪失感に苛まれることがないのと同じように、「やめた(のだ)」何かの最後もまた決断はおろか微塵の葛藤もなしの藪から棒の出来事であり、事後もやはり喪失感に沈むどころか過去の自分ごとそっくり書き換えられたようにそれは消え去って、だから私の記憶からその出来事の実例を引き出してくるのはいささか難しい。
ただしその残り香はどこか快感にも似るように思う。過去の自分をそっくり背後に捨て去ること、そうした日々の小さな破局の末端にある今この時もあるいは同じ道を辿るかも知れないし、辿らないかも知れないこと、そんなことを今の私は知る由もないこと、への安堵。
私に希望のようなものがあるとするならば、それは後ろ向きに開けている。
たとえば今回のそれがTwitterでありInstagramであったのは、それらの性質や価値の如何とはさしあたり関係がない(お望みならいくらでも動機を後追いで挙げ連ねることができようが、たとえできたところで、あるいはできなかったところで、同じことだ)。たまたまそこにあったのがそれらであった、ただそれだけのことだ。
帰省先、眼下に青い田畑を臨む高台の眺めの下に迎えた今回の破局のその数日後、TとIのない帰りの列車では、昔のセールでkindleに入れておいた『勉強の哲学』(千葉雅也)の久々の読み返しがはかどった。勉強もまた破局なのだ。ファンタズムを横断していくこと。あるマゾヒズムから別のマゾヒズムへ。そして世界の可能性の横溢を、二重のレベルで、ほどほどに殺していくこと。
懐疑ではなく。懐疑機械の循環=回路の裏をかく、千夜一夜のユーモア。そのたびごとにただひとつ、御伽話とその目覚め。日々の小さなカタストロフ。
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