2020年12月31日木曜日

20201231

9:00 現在、コーヒーはすでに一杯。タンザニアのブレンド。

10:00 現在、コーヒーは二杯目。ミャンマーのブラック・チェリー。

ここ何日というもの、この時期にしてはへんに暖かい日が続いていたが、風の強い昨日の夜を抜け、久々に節を縮み込ませる寒い朝だ。iPad のバッテリーも20%の上げ止まりで黙り込んでいる。

一昨日の魚売り場でなぜかソフト身欠きニシンが半額近かったので、昨日はそれを甘辛に煮た。いぶし銀の皮が砂糖と醤油に絡め取られて黄金色に映える。今年唯一のお節要員だ。

作り物をしている。手をかける程に粗が見つかり、手直しする程に何だこれと目が迷い、しかし全体としては確かに良くなりつつある。当たり前だ。重要なのはその沼路をいかに(二重の意味で)「適当に」済ませられるようになるかだろう。

2020年12月30日水曜日

20201230

12:00 現在、コーヒーはすでに一杯。それと甘酒。

昨日の夜の買い出しが多分今年の最後だろう。目の疲労であらゆる光源が虹色に暈を被って見えた。半ば雲に隠れた月が高い。路面が作り込みの甘い3DCGゲームのようにのっぺりして見える。

糖の重みでだるい。

2020年12月29日火曜日

20201229 口なし

9:00 現在、コーヒーはすでに二杯。エチオピアのウォッシュトとウガンダのカーボニック。先日淹れたときはダーク・チョコレート・フレーバーにしかし凛とした白ワインの芳香が印象的だったウガンダは今日はまた印象が変わり、ワインにかわってシナモンのピリッとした刺激を芯に感じる。

サンマのすり身があったので、昨日の晩はそれをツミレにして汁物をつくった。すり身に全卵、味噌、生姜、片栗粉を合わせて練り、スプーンで掬って湯に落とす。しばらくして火が通るとツミレが浮いてくるのだけれど、何やらひとふた周りほど大きく膨れている。ああそういえばおでんのハンペンなんかも膨れるもんな。骨ごと砕いたサンマのざらりとした舌触りが楽しい。出汁も出るし言うことない。安くなった魚とか挽き肉とか買ってきて肉団子にして、生のまま冷凍庫にストックしておくのも良いかもしれない。

一時間話す誰かの話を聞くのには一時間の時間を要する。これは驚くべきことに思われる。その誰かにとってもまた同様なのだから尚更だ。私たちは話の端から、お互いの話の取り逃がしを宿命付けられている。二度、三度、問い返す。向こうもまた二度、三度、語り直す。録画を見返す。そうする間にも話は先に進んでいく。どうすればよい、話を止めればよい、語るその息の根を止めてしまえばよい。死人に口なし。だから死人について話すのはみんな気が楽だ。葬式はいつだって大盛り上がりだ。噂話に夜も更けていくその間、死人はいくらでも待っていてくれる。

だから君が死ぬまで待とうじゃないか。遅れはそのあとゆっくり取り戻していくさ。そう言う声が聞こえる。

2020年12月28日月曜日

20201228 ザクロ、不明、年の瀬

12:30 現在、コーヒーはすでに三杯。パンも食べすぎた。先程まで部屋がむず痒いほど薄暗かった。

昨日値引き価格で買ったザクロを食べた。驚いたことに、生のザクロを食べるのはこれがはじめてだ。ヘタがついていたあたりを数センチ分断ち落とすと、白いスポンジ質の皮に埋もれるように真っ赤な細かい房がいくつか覗いている。それこそ岩を割ったところに現れるガーネットのようだ。皮に指を掛けると皮は繊維に沿って容易に裂けて、互いにみっちり詰まった房がそのままぼろぼろ溢れてくる。外皮と同じくスポンジ状の薄膜が果実の内側に巡らされており、全ての房はこの薄皮にめいめい直接繋がっているらしい。付け根は少し細くすぼんでおり、房の中の種に繋がる白い軸が覗いている。このあたりは茹でたトウモロコシを思わせるが、取り外すのは(房を誤って潰してしまうのに注意さえしていれば)ずっと簡単だ。


昨日はダムタイプ《2020》の公演映像を観た。京都ロームシアターが期間限定公開していたものだ。
舞台床面中央に穿たれた、4メートル四方ばかりの大きなヴォイドを中心に諸々が編成されている。始終白い床面と壁面に投影され続ける照明や映像を、しかしそのヴォイドは黒々と呑み込んでしまう。それは文字通り、pro-ject (先行き=投影)の不明としてそこに穴を開けている。
そもそも話の端からして、少なくとも近世からこのかたずっと、劇場空間は暗いのだ。それゆえ舞台は照らされ続けなくてはならない。床板一枚を境に暗い奈落と接しながら。


夜、買い出しに出た。月が高く上がっており、マスクで狭まった視界にはかえって見当を失いそうになる。路上は人足も絶えてのっぺりと広く、寒さは若干控えめで、なんとなく足元がぶよぶよと覚束ない。スーパーの生鮮品は正月向けの飾り、乾物、練り物や冷凍食品に押しやられて身寄りを失い、どうしようもなくて値引きされた食パンばかりを三つも買い込んだ。

歯に詰まる澱粉の鈍い重みが苛立たしい、年末の半歩手前の半端な陽気だ。



2020年12月27日日曜日

20201227

10:30 現在、コーヒーは二杯。エチオピアのウォッシュトとミャンマーのブラック・ハニー。

朝にありがちな気紛れに任せて今朝は床と玄関周りをいくらか拭き掃除した。昨日少し慣れない運動をしたので足腰が軽く張っている。このくらいの異物感があるくらいが丁度良い気もする。呼吸をすると肋骨についた筋が微かに鳴くとか、脚を閉じて背骨の屈曲部と骨盤の開口部が呼び合うとか、そうした気配と付き合っていく。

なんだか近頃魚を食べられていないと思い、昨夜は冷凍してあったゴマ鯖を引っ張り出して、トマトも生姜もココナッツも入らない割とミニマルな汁の中でほぐしながら煮た、ミーン・プットゥとかいうやつ的な。魚の肉の等間隔に斜にほぐれる感じが昔から好きだ。このもろくも確かなエッヂがリズミカルに反復する感覚は獣肉には期待すべくもない。

先日思い出したように復活していたiPadのバッテリーが、今朝見たらまた44%で止まっていた。気温のせいなのか、しかし今朝ははたして特筆するほど寒かっただろうか。


2020年12月26日土曜日

20201226 微睡み

11:00 現在、コーヒーはすでに二杯。ニカラグアとエチオピアのウォッシュト。昨日届いたニカラグアは口に含むや、遠くにすっと一筋、水平線を画すように、澄んだ柑橘のような香りが広がり、気付けばその下では液の滑らかな質感が舌をさっと撫でて落ちている。さすがのCOE入賞ロットだ。ちなみに一緒に届いたウガンダのカーボニックも素晴らしかった。どっしりとしたチョコレート・フレーバーでありながら、ワインを思わせる(新大陸系の派手なやつではなく、くっと締まったもの)清廉な芳香。

ぱきっと冬晴れの週末の大気は静かで、ときおり布団をはたく音がどこか地上高くのベランダからすんと舞い込む。それと冷蔵庫の唸り声はいま、だいたい耳の高さだ。

昨日は日中ずっと身体が鈍く眠くて、陽が落ちてから机に枕を乗せて少し寝た。目が覚めたあと、数分の空白が結局、日々の生活のなかで一番幸福だ。頭の中が水平線まですっと素直に空白。起床して、外から何かの刺激があるたび、その空き地を覆う毛が一斉にぶわっと逆立ってこちらを向き、あちらを向き、折れ重なり絡まり合って、どんよりと濁っていく。この濁りが意識と呼ばれる。

中学、あるいはひょっとすると高校までの私にはずっと意識がなくて、ずっと清潔だった。こうして意識をもってしまった今から当時を振り返ってその善し悪しを云々することは出来ないけれど、そうして今から振り返られるその限りでそれはなんと幸福な過去だろう。微睡みの幸福、それはいつも覚醒のあと、喪失のあとに来て、ようやくはじめてそれは私に幸福だった。

2020年12月25日金曜日

20201225 澱粉

10:30 現在、コーヒーはすでに二杯。いずれもエチオピアの別々。

昨日も明るいうちに買い出しに出た。iPhone を手持ちの三脚に固定してみたくなり、ひとまずダイソーで専用のマウントを探してみたが、めぼしいものが見当たらない。商店街は割と賑わっているようだ。

普段使う道から少し外れたところにあるスーパーがいつの間にやら大きくリニューアルされている。どうも肉屋ベースの店らしく、わりかし広い店内の壁際二辺分がまるまる肉と魚の冷蔵庫で埋まっている。赤色のデコレーションに囲まれて肉の肌はぶつぶつと薄ら白くて、それが繊維質な骨の灰褐色に絡み付いている。大きな箱を底にすっぽり納めたビニールの手提げ袋を抱えた店員が気忙しく店内を行ったり来たりして、その箱の側面ののっぺりと広いのばかりが目に残って、そういえばその日ケーキの姿を見た記憶がない。ホイップクリームがスポンジの側面を掴んで離さない、その細やかな気泡の力。組織から少しずつ圧し出されるイチゴの果汁がそれをじるじると溶かしていく。

業務スーパーで買った一斤66円だかの食パンは驚くほどしっとりとしてきめ細かく、口の中でしゅわしゅわと溶けてしまうかのようで、まるで白く固形化した炭酸飲料だ。ひょっとすると異性化液糖の味。それをグルテンの網目に格納して工場から口内へと運ぶこれはキューブだ。一緒に干した棗の大袋を買った。ぐっと詰まった繊維に甘み、そして硬くざらついた種。

いろいろな人がめいめいに、何かをしている、YouTube の画面を二つ左右に並べて傍らに流し見しつつ作業して、鶏肉にもケーキにもとくに気を惹かれることもなかったけれど、今年はそれなりにクリスマスらしい楽しみ方をしたような気もする。

晴れて、身体が鈍く眠い昼だ。果糖に歯舌がむず痒い。窓は空いて、ぐずる子供を叱りつける父親の声が抜けていく。タイヤがアスファルトをしきりに擦り、無人であろう階下のバカンスがくつくつと震えてうるさい。



2020年12月24日木曜日

20201224 ゴミ

11:15 現在、コーヒーはすでに二杯。エチオピアのウォッシュトを焙煎違いで二種。

昨晩、すでに夜も更けた頃合い、たまたま整体の観点から見たバレエの立ち方(6番)の解説動画を見て、どうも自分は脚の外旋が弱いようだと気付いた。体重を真っ直ぐ足元まで下ろし、 床を強く押すために欠かせない姿勢だ。前から脚が外に広がってしまうような違和感があり、膝も疲労しやすかったのだが、多少は改善するだろうか。

ゴミのような生活を送っている。

ゴミはゴミだからといって、そのあらゆる細部もまた均質にゴミであるわけではない。カレンダーの升目を引き延ばして観察してみれば、そのゴミの組織の隙間隙間には微小な気付きや歓びの煌きに満ちているだろう。GAFAのアルゴリズムはそんな歌を日々サジェストして止まない。

しかしそれでもゴミはゴミだ。それら微視的な不純物の煌めきはしかし、それらを含む全体のゴミたる事実をなんら毀損するものではない。馬鹿にしてくれるな、ゴミはあくまでもゴミとして受け取れ、ゴミをゴミのままにそれをまるごと称え、そしてそれをまるごと呪い、転覆せよ。それが世界への敬意というものだ。

2020年12月23日水曜日

20201223

10:00 現在、コーヒーはすでに二杯。

昨日の作業。踵に穴の空いた靴下を、ふと思いついてアームウォーマーに転用してみた。つま先部分を切り落とし、穴からは親指を出す。切りっぱなしでも不思議とほつれてこないが、試しに片方の穴の縁を一周縫ってみる。割と具合が良い。

ここ半年近くというもの、買い出しは人混みを避けて夜になってから行っていたが、精神衛生を鑑みて昨日はまだ明るいうちに向かう。近くのスーパーのひとつが手元端末式のセルフレジになったのは全くありがたい。有人レジを使う理由がもはや欠片も見当たらないような気がするのだが、依然としてそちらには短い待ち列が出来ているのは全く謎だ。皆レジの店員の顔を眺めるためにでも来ているのだろうか。

一日一日がただその日その日の用事を格納するための箱になっているときはやばい。アドベント・カレンダーじゃないんだからさ。

2020年12月22日火曜日

20201222

9:30 現在、コーヒーは一杯。コロンビアのウォッシュト。
淹れたそばから冷めていくので、湯を張った片手鍋にコーヒーを入れたビーカーごと沈めるという保温法を最近考案した。

iPad の充電がいよいよひどく、昨日カスタマーサービスに連絡してみた。おそらく1時間ほどのチャットの結果、結論から言ってしまうと、耳に新しい情報は皆無だった。ただし、その後特別何もしていないのに、なぜかバッテリーが復活。診断の過程で端末のデータの送信を許可した際に遠隔で何かの操作を受けたのか、それとも何かの理由で本体の温度が上昇したのか。

寒さを諦めつつある。身体を激しく動かすと割と容易に身体は温まるということに気付いてしまった。机に向かった作業は全くできないが、その日その日をやり過ごすことは可能という、この状態は果たして良いのか悪いのか。

作業中に流しておくだけ、と割り切った形で、Amazon prime video を半年ぶりくらいに開いてアニメを見てみた。いつの間に実写版ピカチュウやら全編擬似ワンカットの1917やら色々試聴可能になっているし、知らないアニメがたくさん配信されている。ひとまず『魔王城でおやすみ』を3話ほど観た。妙に絵が良いし紛うべくもなく水瀬さんのこの声だ。ここ数年のアニメ作品の作画やエフェクトのクオリティの底上げが著しくて、逆に自分の首を絞めてやしないかと心配になるレベルだ。メインビジュアルだけで何を観るかきめることはもはや困難で、私がアニメから遠ざかっていた原因のひとつにそれもきっとあるのだけれど、世間ではとうに何か新しい評価軸が共有されていたりするのだろうか。

靴下に穴が開きそう。

2020年12月21日月曜日

20201221 毛長川

10:00 現在、コーヒーはすでに二杯目。エチオピアとコロンビアのウォッシュト。

iPad の充電がいよいよ10%とかから先上がらない。いくら寒いといってもここは室内だ、さすがに製品として駄目だろう。今日にでも連絡してみようと思う。iPhone もなかなかおかしいのだがこちらは多分保証も切れているし、データの引き継ぐ/継がないの諸々がiPad 以上に面倒臭い。

もはや週末の恒例となりつつあるが、階下から逃れて昨日は荒川左岸、足立区と川崎市の境目あたりを歩いた。鹿浜橋を渡って左手、荒川と、それに流れ込む芝川、その二川からなる直交座標に双極線の片割れ宜しくもたれかかる首都高速、これらに囲われた三角形の敷地に足立区立農業公園がある。そのガラスの三角屋根が土手の上からすでによく見えていた温室の中央には青いバナナが、隅っこにはカルダモンが生えていた。カルダモンは乾燥した種子の状態でしか見たことがなかったが、これはショウガ科だったのか、なるほど筋張った細長い葉の姿は新生姜から生えているそれによく似ている。

公園を出てそのまま首都高沿いに北へと歩いていくと、高架下の敷地を囲うフェンスと植栽を透かして向こうに大きな白いテントがいくつか張られているのが見えた。入口には保健所云々の名が書かれた急ごしらえの立て看板が、一人の警備員と並んで立っていて、おそらくこれは仮設の感染症検査所か何かなのだろう。感染リスクとプライバシーを避けてのこの高架下の薄暗い敷地なのか。少し薄ら寒い心地がした。

工場の赤錆やらリネンサプライの蒸気やらを横目にひたすら首都高をたどり、ようやく舎人公園に着いた。広大な敷地の中心を大通りと日暮里舎人ライナーに十文字に横切られている。その南東象限の敷地ではバーベキュー用品まで提供されており、時勢もあってか、この寒空の下に意外なほどに白煙に賑わっていた。北東へと渡り、大きな池を左手に廻ると、敷地の北端は不自然なほどに大きく競り上がっていることに気づく。どうも日暮里舎人ライナーの車両基地の上をさらに造成して公園の一部として活用しているらしく、特に高い見晴台は15メートル以上あるらしく、周囲が全く平坦なこの地にあって全く浮いている。スカイツリーも富士山も見える。

折角なので見沼代用水の方まで足を延ばしてみることにした。舎人ライナーの高架線も絶えた少し先に代用水跡の親水公園の細長い緑道、さらに行くと毛長川。右岸には浮きの上に横たえられたパイプと、その先にボート、石材を積んだ筏やらのごたごたした塊、本体に不釣り合いに巨大なキャタピラを備えたショベルカー。浚渫工事のさなからしい。さらに上流には、橋に寄り添うように黄色の巨大な足場とその上にもろもろの機械。分厚く堆積した泥はところどころひっ繰り返されて転がり、傾きつつある光を浴びてぬらぬらと光っている。両岸を縁取るように長い鉄材が渡され、川を跨ぐように設えられた足場はどうも、その鉄材をレールとして移動できるようになっているらしい。楽しすぎる。空き缶やらタイヤやらティンカーベルの枕やらが泥に埋まって、汚らしい川だ。しかしだからこそ生々しい生活の気配に満ちた存在感がある。毛長川。

ふたたび首都高と落ち合って、今度は南下。新芝川、芝川を渡り、大泉工場が今年に入って開いたというベジタリアン系カフェ、1110 cafe/bakery でパンを買った(「バケット」表記はパン屋として普通に駄目だろうとは思うぞ)。荒川に合流。


鶏のレバーとハツを血抜きもなしに塩胡椒、オリーブ油で焼いたらかえっていつもより美味しいくらいだった。パン。コーヒー。

指が節だ。もう20日を回ってしまった。









2020年12月20日日曜日

20201220

10:00 現在、コーヒーはすでに一杯。ミャンマーのブラック・ハニー。中深煎りらしいコクと香ばしさの第一印象が、しかし湯と分離して粉状に舌にざらついたり纏わりついたりするようなことはなく、すっと甘く纏まる。

もはや文字ってなんだっけ、という状態だ。文字とは、着膨れを許さない形象の一群だ。それは常に何かしらの芯をその奥底に持っており、その芯へと描線は絶えず収斂していく。この運動の残像こそが文字の姿だ。私たちはそれを例えば漢字ドリルのあの大きな薄文字のうえで、嫌となるほど確認したはずだ。

発生した瞬間に文字はすでに多であろう。消える間際まで文字は頑なに多であろう。終に消滅の瞬間のその一点において、文字は一斉に点と化す。

2020年12月19日土曜日

20201219

9:00 現在、コーヒーはすでに一杯。コスタリカのハニー・プロセス。


昼過ぎ、外に出ると光線の色がすでに夕方めいた薄桃色をしている。上野を抜けて久々に神保町を覗いた。三冊。九段坂のほうに向かうと、堀端の通りは意外なほど混みあっている。4人程度で待ち合わせる大学生くらいの若者、スーツに手ぶらのサラリーマン、帽子を被った小学生。ウレタン製のマスクの縫い目ばかりが目にチラつく。


10:00 現在、コーヒーは二杯目。エチオピアのウォッシュト。挽き目を少し粗くしてみたら、どこに隠れていたんだというような未成熟果の酸味、収斂味。さらりとしたテクスチャ。


市ヶ谷から左内坂を踵あがりに登り切って、防衛省の裏手あたりは初めて歩いた。頭上にタンデムのヘリコプターが飛んでいる。夕刻の高台の陽が影って薄暗い路地を抜けると、唐突にガラスと植栽が立ち並ぶ敷地がスコンと眩い。この辺り一帯は全て大日本印刷のビルだ。

牛込柳町でミャンマーのコーヒー豆を買う。東新宿の業務スーパーで食材を買い込む。歌舞伎町の傍を抜ける。この辺りに来るとマスク無しの顔も割と頻繁に目につくようになる。首筋の髪の生え際のコントラストの差異。危うい時間になってしまっていたが、幸い車内は比較的空いていた。母親の靴の上に腰掛ける男児が小さい。駅前の中学生。まだ学生生活は存在するのだとこの頃はいつも驚く。玄関扉を閉じる。コンクリート、木、アルミ、曇りガラスのアセンブリの防音。金曜の夜の街灯のにおい。睡眠。

2020年12月18日金曜日

20201218

11:00 現在、コーヒーは一杯。エチオピアのウォッシュト。

最近味覚についていよいよ言葉が働かない。味を記述するためには、いくらか前の瞬間の感覚の記憶をキャッシュしつつ、それとの関係のなかで現在のそれを処理する必要があると思うのだけれど、そのキャッシュが縮み込んでいる気がする。全くここには今しかない。

今この瞬間押し込んでいるこのキーのひとつにおいてのみ生きている。単語どころか音節以下の息の絶えだ。放たれた側から揮発していく。

休日の階下の物音、それへの恐れを軸に毎週が編成されつつある。砂上の楼閣だここは、壁の内側だけ見れば割りかし悪くないけれど、一皮剥けばいつも他人の死臭だ。

2020年12月17日木曜日

20201217

11:00 現在、コーヒーはすでに一杯、そして甘酒。

気温のせいなのか、昨日はiPad の調子が悪く、サポートに連絡する前にせめてバックアップを取れる体制だけは整えておこうと久々にデスクトップを立ち上げた。むかしちょっと使ったSIGMAの一眼のデータが阿呆ほどに嵩張ったのもあり、ストレージ容量が真っ赤っかだと嘆いていたのだが、今回色々いじっているうちにどうも問題のCドライブの背後に1TB近くのDドライブ領域がほぼ手付かずのまま残っていることが判明した。三年前の私は案外良いPCを買っていたのかもしれない。ひとまず画像と音楽ファイルを移動して事なきを得た。こうしたプログラミングとか以前のリテラシーの欠如が深刻だ。

12:15 現在、コーヒーは二杯。ホンジュラスのウォッシュト。

昨晩はアンコウの肝など買ってしまったので、検索上位に指示されるがままに酒に浸けた後アルミホイルに包んで蒸した。米に乗せるバターか。米はなぜか芯が残ってしまった。鍋に穴でも空いているのか。

いろいろと頭が働かない。

2020年12月16日水曜日

20201216

9:30 現在、コーヒーはすでに二杯。

冷たい朝だ。窓を締めていても指と手足頭の首と気管が鈍麻する。iPad の充電がこんどは10%から先上がらない。冷たい鉄板のようだ。ひとまず最近放置していたchrome book を引っ張り出したので誤字が多い。

昨夜布団の中でアームウォーマーを検索したら軍放出品の類いが出てきた。フランス軍のダーツもなにもないミニマルな作業用革グローブとか、イタリア軍の三又トリガーフィンガーのミットとか。結構安く売られているので気になる。以前メルカリかどこかで、マルジェラの三本指の革手袋を見たことがある。当時は足袋ブーツの延長かと思っていたが、背後にこうした文脈があったのか。

甘酒甘茶ちゃちゃちゃと朝

2020年12月15日火曜日

20201215 良い夜を持っている

8:00 現在、コーヒーは一杯。コスタリカのイエロー・ハニー。ウインナーを焼いたようなむっちりと存在感ある香り。しっかりした甘味、次いでそれは保ったままわずかに遅れて、青リンゴの汁を啜ったような酸味がそこに重なる。


目をぐっと真冬のそれへと引き込む寒い朝だ。コーヒー・ミルもiPhone も黒く冷たく指を竦ませる。床が内側にぐっと縮み込んでしまったように足の裏に疎だ。


昨夜はGoogle のサービス全般に大規模な障害があったらしい。その時私はたまたまYouTube の生況信を観ていたのだが、画面に流れるコメントによるならば、まずは新規にその配信にアクセスすることが出来なくなって、次いでそれまでの視聴者も次々に振り落とされていったらしい。他の多くの配信も延期や中断を強いられていた中、なぜかその配信はなんとかそれでも続いていたのもあって、配信は投稿者、コメントともども静かな興奮に包まれていた。内容がMinecraft の実況配信だったのもあって、影Mod を入れた黄昏の空はとても綺麗で、「まるで世界に私たちだけみたいだね」みたいなコメントが飛び交っていた。

また別の人はアカウントを強制ログアウトされてしまい配信を閉じるに閉じれなくなっていて、なす術もなく口数も少なに、ただLive2D の目の瞬きだけが暗い背景の中で艶やかで、昔はもう少しだけよく出くわした、停電の夜の心細さと少しの興奮はきっとこのような色だったと思う。もう長いことご無沙汰だった、良い夜を味わったような気がする。


良いSFの多くはもしかすると、良い夜の匂いがする。それは『DEATH STRANDING』の対消滅だ。『Blade Runner 2049』の大停電と誕生日ケーキのキャンドルだ。円城塔「良い夜を持っている」の忘却だ。人類の可能性を煌々と照らし出すほどに、その底に一層暗く沈みこむ闇の気配が立ち込めている。ここは孤島だ。星は明るく、足元には黒く海。




2020年12月14日月曜日

20201214

11:00 現在、コーヒーはすでに一杯。

晴天。空いた窓から久々にまた空っぽの冷蔵庫のようなにおい。

静かな平日が嬉しい。特に近頃の土日は本当にできるだけ脚を下ろさず顔を動かさずで縮こまっているよりほかない状態なので。遠くの音は冬の陽の下に、幾らか弾性に富んだ挙動で進行方向に伸び縮みしながらこちらに届くようだ。ゴムタイヤがアスファルトを擦る音が赤信号に途切れた、その空白が波音のようにくっと詰まっては放られて耳道の気圧を動揺させる。シクラメンの葉の声さえ聞こえそうだ。

 最近また少しずつ本を読んでいる。新しい本も何冊か買ったりしている。ブツとしての本はしばしば特有の気配を纏っており、それがいわゆる積ん読という行為の、必ずしも侮れ切れない意義の源になっている。書棚の中で、それらは互いに目配せしあい、交雑を繰り返す。

2020年12月13日日曜日

20201213土手

10:00 現在、コーヒーはすでに一杯。エチオピアのウォッシュト。甘酒も飲む。


昨日は家から避難して、荒川を少し埼玉側に踏み越してみた。以前から気になっていた戸田漕艇場を初めて見る。全長2.5kmにおよぶ巨大なプール。東側の端を取り巻くように各大学の艇庫が並び、ジャージやウィンドブレーカー姿の若者たちが銘々トレーニングや舟のメンテナンスに励んでいる。正直こんなにも賑わっているとは思わなかった。大学のキャンパスにでも潜り込んだような気分になる。

西側およそ500m分は戸田競艇場になっており、境界部分に架かる歩道橋の上は打って変わって茶色いジャンパーに手を突っ込んで新聞をガサつかせるおっさんの背中でひしめいている。今時めずらしく、タバコの臭いがマスク越しにもはっきりわかる場所だ。橋の袂には(この種の施設にはつきものだが)バス・ターミナルまで整備され、やはり草臥れたジャンパーが詰め込まれた車体がゆらゆら列をなして回り込んでくる。周辺は中規模の工場やら倉庫やらががちゃがちゃひしめき、決して広くはない道路の左右に各社の警備員が手持ち無沙汰に立っている。


高架道路に押し潰されたように煤けて暗い大通りを横断した先の土手沿いには洪水に備えた荒川第一調節池が広がっており、その一部には「彩湖」なる名前の貯水池として水が張られている。彩湖は「さいこ」と読む。押しの強い名前だと思う。彩湖を横切る長い道路橋には「幸魂大橋(さきたまおおはし)」と名付けられている。これもまた主張が強い。いずれも「埼玉」およびその愛称(1992年考案制定という)である「彩の国」から名付けられたものなのだろう。なんというか、いかにも埼玉らしい、地方ヤンキーっぽい名前だと思う(いちおう埼玉を出身地のひとつとする人間として)。

今月から工事が始まるとのことで、水がほとんど抜かれた彩湖の西岸を歩き出す。礫石を敷いた堤頂の道が、分岐も何もなくひたすら続く。幸魂大橋の下をくぐってしばらくしたところで流石に先いきを不安に思って地図を開いたが、元来た道と同じくらいの距離をさらに歩いたところにようやく橋があるばかりで、しかもその先の鉄道の乗り合わせも大変微妙で、気が挫けて引き返すことにした。対岸にゴミ処理場やら下水処理場の排ガス発電所やらの煙突が煙を吐いて夕陽を鈍している。高草が擦れてカラカラと鳴いている。今はゴルフ場の人の気配があるとはいえ、そうでない時の侘しさはどれほどのものだろう。映画であれば重苦しいオーケストラと暗転で観客の胸を押し潰した上で、一点、静寂、白い部屋、みたいな展開が期待されるところだろう。


両脇を虚空に挟まれた狭い道。私たちを閉じ込めておくのはなにも高く堅固な壁ばかりではない。この足もまた。狭い足場の上に立ったとき、いまさらのように足の嵩張りに思い至ったりする。親指の根本の出っ張りが干渉しないように、左右の足を少し前後にずらして、土踏まずの下にそれを嵌め込んでみたりする。小指の際が足場の淵を撫で上げる。甲の立ち上がりはこうも急だったかと驚く。それに凭れてみたりする。


都営三田線の西高島平−志村三丁目間は高架線を走っている。車窓からぐっと距離を取って向こうには団地の玄関扉の地上何階目かの並びが見える。分けてもまた団地の玄関扉だ。何度かのターンを経て不意に車両は台地に横から突っ込む。車窓が暗転する。横転の可能性をそもそも排除した細い隙間を鉄道は走行する。車窓の向こうの空虚はただ見られるがままに帯状に延びている。


階下の恐怖。日曜。








2020年12月12日土曜日

20201212

9:00 現在、コーヒーは一杯。コロンビアのウォッシュト。

ここしばらくまた眠りにつくのが下手になってしまった。布団を打って跳ね返る鼓動が煩い。何もなかったかのように眠りに落ちたい。

昨夜は小林真樹『食べ歩くインド 南・西編』を少し読み進めた。

階下がおぞましい。

2020年12月11日金曜日

20201211 肉、毛髪、芸術

10:30 現在、コーヒーはすでに二杯。いずれもエチオピア・グジのウォッシュト。この二つの豆はもともと同じ農園の同じ処理のもので、ただし片方は焙煎の際にうっかり狙いを外してしまったものらしく、訳あり品として安く販売されていた。面白いので比較用に正規品と併せて買ってみたものだ。エチオピアらしい、小粒で固く締まった豆が頼もしい。今回は蒸らしの湯量少なめ、抽出は3分以上かけてだいぶじりじり淹れてみる。

正規品はライムやイチゴ?といったフルーツの甘み(しかし酸味は意外にもあまり全面に出てこない)が、しかし混じり合うのではなく、たとえば民俗玩具のパタパタの板が上から順にひっくり返っていくように、くるくると印象を翻していく。
訳ありの方は成る程、ライムのような青々としたな印象は引っ込んで、熟成してたっぷりとまとまった甘みになっている。加えて酸味もこちらの方により強く感じるのだが、その中にどこか、よく焙煎されたきな粉を思わせるような(香ばしさというわけではない)風味。木酢と言ってしまってよいのか分からないけれど。


かったるいながらも昨晩も買い出しに出る。二日ぶりに外に出て、足を前に出す動きが少し良くなった気がする。すっと真っ直ぐに軽くのびてそのまま足裏は染み込むように路面を捉えて、上体もそれにごく自然に付き従う。
呼吸も悪くない。背筋の反りを少し調整した。今までは重心を落としているつもりで少し反りを強くしすぎて、それが腹の方に突き刺さって呼吸を圧迫していた。実のところそれは喩えるなら閉じた傘の柄の部分を握ると先端部分は自然と少し斜めを向いて地面に突き刺さっていくような状態で、力点がむしろ上の方、肩のあたりに寄ってしまっていたのだと思う。
対して今はバットの細い方の端を手のひらに乗せて立てると安定するように、上体の重みが無理なく脚まですっと降りていく。胸の圧迫を避けるためとしても張り過ぎず、背骨はそれを釣り鐘のように支えるとしても誤ってそれに凭れかかることなく、椎骨の隙間の開閉を自由にするつもりに楽にして、肺の伸縮に順う。横隔膜を押し下げようと肋骨や肩甲骨周辺の筋肉を変に力ませるのも良くない。


身体は割りかし容易に書き換わる。それが良いところだとする向きも、それを危険視する向きもあるだろう。ドゥルーズのドラッグやマラブーのプラスティックの文脈の中でたとえば千葉雅也が筋トレするのは全く筋の通ったことだ、そうなのだけれど、これについては正直どうなのだろうと思うところもある。

哲学の歴史の中で、しばしば人間は世界の「ダブつき」として定義されてきた。そのダブつきにおいてたとえば重かったり暗かったりするその世界=私の一致から、不意にぷつりと切り離されたものとして生み落とされるのが、シェリング的な意味での芸術作品だろう。それは私たちをある種の隔たりの中へと突き放す。この隔たりにおいて芸術作品はあるいは高く屹立し、あるいは他愛ない散文として忘却の内に吹き曝されていく。


絶え間ない細胞分裂の波に湧き立つ身体から脱落した爪や毛髪といった附帯物は、生から脱落している、それゆえに身体を置き去りにして永遠である。磨き上げた大理石の床の片隅に、風呂場の排水溝に、古本の見開きに、それは街路のあらゆる微細な隙間に深く絡み付いている。



  







2020年12月10日木曜日

20201210

10:50 現在、コーヒーはすでに一杯。コロンビアのウォッシュト。

12:00 現在、すでに加えて二杯目。エチオピアのウォッシュト。

訳あって先ほど600g 分の豆が届いた。今日明日中にはさらに別の100g も届く。

最近、Google Maps の使い方に変化があった。大小の縮尺を往復したり、ストリート・ビューやユーザーの投稿写真を開いたり、地形や街の疎密、河川や交通網による周囲との接続具合に注意を払ったりするようになった。
購入したコーヒー豆のもと来た農園、ニュースで目にした戦争や災害の現場、治水やアース・ワークといった大規模な土木的介入の産物、そうした地名を検索窓にちょくちょく打ち込むようになった。当たり前のことだが、そうした地名の下にも人がいる。好奇や怪訝の表情を浮かべた住人や観光客、全天球カメラを抱えたカメラマンの影や足先、ストリート・ビューを覗けばそうしたものが映り込んでおり、彼らはしばしば半端な姿勢に半端な格好をしたまま各画面に張り付いている。つい忘れてしまいがちな、当たり前のことだ。それだけに、モザイク加工された彼らの眼差しはとても鋭く思われる。

だらだらとつぎはぎにされたそのパノラマはおよそ決定的瞬間からはほど遠い代物だ。5メートル右斜め前方に立つ少女。次。正面に少女。次。後方に道を横断する少女。次…。少女がこちらにモザイク越しの視線を投げ掛ける、それに際して要した僅かな関心、それと明らかに不釣り合いにまだるっこい執念を以って私はこの歪なパノラマの中に「振り返る私」を仮構することだろう。彼女の手にはなぜか一輪の赤い花が握られていたりする。

2020年12月9日水曜日

20201209

10:30 現在、コーヒーは一杯。エチオピア・シダモのウォッシュト。エチオピアの豆に多いような気がするのだが、口に含むと一瞬姿をくらます。舌先数cm を透明に過ぎた後、気がつくと奥の方で甘みや芳香が広がっている。


今朝は玄米、スープ、玉子焼き、納豆あたり。スープはササミの茹で汁の転用。棗を齧る。

ここ数月、一週間が本当に早い。二日おきくらいに同じ曜日を迎えている気がする。

「現物、現場を見に行かない怠惰」を責めることで自己の地位を確保しようとする作家について、私はこれをあくまでも軽蔑するけれど、どうしたら良いのかさっぱりわからない。現場の権威はあまりに大きい。記念写真の流通をもって誤魔化すのも許し難い。どうしたらよいんだ。仏舎利の総量。

2020年12月8日火曜日

20201208

11:30 現在、コーヒーはすでに一杯。コロンビア のウォッシュト。高高度の薄い空気を思わせる、なめらかで冷たい熱のポテンシャル。

寝過ごした。暖かい日だ。iPad の放電を済ませて間もないところなのでこれはiPhone で打っている。

昨日は久々にギャラリーに入った気がする。10ヶ月ぶりといったところではなかろうか。岡崎乾二郎「TOPICA PICTUS きょうばし」(南天子画廊、2020. 11. 6 - 12. 12)。


12:00 現在、コーヒーは二杯。また別のコロンビア。なんだかフルーツ味のキャンディのような甘酸っぱさが出てきた。

iPad とキーボードに切り替えた。息継ぎのスパンとかが小さい画面にフリック入力の時とはまるで異なる。 


白い壁に並ぶ小さな画面の数々、そのそれぞれにおいて色々の絵の具の応酬が静かに盛り上がっている。画面に押し付けられた絵の具がキャンバスの織り目を拾って細かく粒立ったところから、そのままぐっと盛り上がって他のストロークを飲み込んで画面の端に達する。ストロークの終端に小さく突き出た角は天井からの照明を受けて、白い壁面に弁当のバランのような影を薄く落としている。ストロークのエッヂはその上に更に絵の具を盛られてひしゃげたり、その下に既に広がっていた絵の具をソリッドに横切って後背の色面へと落ち着かせたりする。絵の具が支持体と媒体の間をしきりに往復し、互いを部分的に拾いあげては翻案して放り投げていく様は、まるで連歌のようだ。それらの応酬の成果は、少し離れた位置からふっと振り返った時にはまた目に鮮烈で、たとえば車窓のそばを過ぎ去っていく雑多な民家が不意に途切れた先に覗き見える海のきらめきのようで、なにか放り出されたような心地を覚える。


ここ数日、すこしづつパオロ・ダンジェロ『風景の哲学 芸術・環境・共同体』を読んでいる。風景をめぐる議論が重要なのは、それが全性よりもむしろ個別性を、それもその都度更新され続ける個別性、その揺れ動く枠組みを扱うからなのだろうと思う。




2020年12月7日月曜日

20201207 オリオン、ササミ

10:00 現在、コーヒーはすでに一杯。エチオピア・イルガチェフェの、まあ多分ウォッシュ。イオン傘下の豆と輸入食品の店の、明らかに回転の悪そうな安価な量り売りだったので、正直どんなものかとこれまでスルーしてきたけれど、実際鮮度は今ひとつとはいえ、期待よりはずっっとよかった。イルガチェフェらしさを予感させる枯れ草の風味。

昨日も息を殺して過ごした気がするけれど。夜、買い出しに出て、相変わらずマスクに眼鏡が曇らされて視界は狭く霞んだ夜道で、人通りは不思議と少なかった、そのわりに店内は着膨れの買物客で妙にごった返していて、蛍光灯の白い灯りの下でまるで蛾だ。しかも皆カゴを一つ二つと一杯にしている。もう年末だったっけと訝しむも、どう考えてもやはりまだ12月もやっと前半だ。

帰り道にたまらずマスクを外すと冷気がガラガラと脳の奥の方を刺す。東の空に路地の幅いっぱいにあれはオリオン座だ。星座は全く知らないのだが、不思議とオリオン座だけはすぐにわかる。等間隔に横並びになった星三つを中心に、その上下に砂時計状に広がる両の半身。

生きている限り、これが見えなくなることはありえないだろう。それほどまでに深く、私は人類史の中の微小な一点として定義されている。あるひとつの点がその片面で光点の布置を、片面で人類史を、それぞれ反映し、その交わりにおいてこの私が、このオリオン座が定義される。互いが互いの対応物として。すでにそれらは傷跡だ。

帰宅して本を読んで寝て起きて朝食にはパンと目玉焼きと、ササミの茹で汁で人参とキャベツを煮たスープ。ササミの筋を取るのは苦手だ。実をいうと、ササミは人間の食用に生まれたものではないし、筋も除去されるべくそこに埋まっているのではない。あるいは全く逆に、そうであるのだとも言える。この肉を我が肉と思ってその筋を取り除け、という。なんだか裏からも表からも深く埋もれて見えるこのササミの筋だ。筋の気持ちになって、その身に寄り添うように包丁を滑らせて肉から切り離す。とはいえ入れ込みすぎると筋そのものを切ってしまうので程々に醒めた調子で、素知らぬ顔で。剃刀を入れるのもまた、この皮膚の "私でない側" を確認する儀式だ。さてこの出来物はどう扱うか。入れ込み具合に気を付けて。

借りてきた指のようだという。とび縄が半ズボンの脚をピシャリと打つ冬の大気だ。12月は7日。曇り窓越しにおそらく快晴。



2020年12月6日日曜日

20201206 埃

11:00 現在、コーヒーはすでに二杯。在庫が底をついているので明日にでも買いに行けたらと思う。

買ってまだ数月のiPad のバッテリー表示がなぜか60パーセント代から上に上がらなくなってしまい悲しい。仮にバッテリー保護のための仕様だとしても、まさかなんの通知もないというのは考えにくいと思うのだけれど。完全放電すべしという意見が見受けられるので一度試してみようかと思う。iPhone もこの夏頃から急にバッテリーの消費がはやくなったし、今朝気付けば靴下の踵に穴が空いていた。部屋着のズボンの膝も先日裂けた。

昨日の夜は事情あって急遽ドカバコ部屋の一角の整理をした。段ボールに積もった埃の質感というのはなぜああもざらざらと胸を抉ってくるのだろうか。微細な粒子状の虚無が指紋に絡みついてはぽろぽろ脱落していく。

撫でる指が離れたそばから忘れていく。その空白に次の文字が滑り込んではまた揮発していく。私の指は目は耳はむかしから上滑りするそれらで、絵画とかに興味を持った(ということになった)のも、きっとまたそれゆえのことだった。その線や色斑のひとつひとつにどんな意図や願いや呪詛が込められていようと、「私には知ったことではない」。ただそれに指を掛けて攀じ登れるかが全てだ。

画面の埃を払う払わないの判断は、その作者の側に許されているのと同程度にそれは鑑賞者の側にもまた許されている。いや逆だろうか、どちらにも判断は許されてはいないのかもしれない。どちらにしても同じことだ。どのような形であれ、ある作品に関わる人間の横暴を、降り積もる埃は曝け出す。

踏み出そうと踏み止まろうと、埃は騒ぎ立てる。埃に覆われたフィールドを前にして、私たちは罪の意識に苛まれる。白々しい自責だ。落ちた涙が床を覆う埃に絡みとられて、その輪郭を微細に毛羽立たせながらじりじりと薄く広がっていく。乾いた跡は木肌を透かしてわずかに黒い。崩折れるがよい。立ち退くがよい。それもまた野だ、山だ。


2020年12月5日土曜日

20201205 洪水、修復、懸隔

9:00 現在、コーヒーはすでに一杯。UCCのタンザニア・ブレンド。

今朝は久々に普通の時間に起きた。また薄暗く曇った日だ。


昨日は1966年の11月にフィレンツェを襲った大洪水についての記事を少し読んだ。アルノ川の氾濫はこの街の住民の日常のみならず、貴重な文化財の数々に甚大な被害をもたらした。

フィレンツェ出身の映画監督フランコ・ゼフィレッリによる記録映画『Florence: Days of Destruction』(1966)を観た。彼の最初期の監督作にして唯一のドキュメンタリー作品であるらしい。瓦礫や自動車、日用品を押し流す濁流、段差や格子窓から溢れる水、街路をぬっと覆い尽くす水面の映像。白黒フィルムの像にしても異様に黒々と光を照り返す水面は自動車から漏れたガソリンが浮いたものであるらしい。開口部という開口部から流れ込んだその水はサンタ・クローチェ聖堂の壁面を上下にきっぱり白黒へと塗り分けた。堂内をカメラが水平に旋回し、画面下端のあまりの平さに、あたかも地面が失われて空虚なヴォリュームだけが広がっているように見える。書庫は天井にまで紙が張り付き、水を吸って膨張した本が書架の中で互いに突っ張りあい、石積みアーチのように浮かび上がっている。

映画の後半では傷ついた文化財の救助に奔走する人々の姿が映し出されている。足場の上に窮屈そうに並んで座り、壁画表面に保護用の和紙と樹脂を張り込んでいく。泥に塗れてページの貼り付いた書物をバケツリレー式に運び出し、トラックに詰め込んでいく。

セーターの前面を泥で固めた少年がカメラに投げたはにかみはしかし一瞬で力尽きるように萎み、背けた顔の下にシャツの襟ばかりが画面に白く焼きつく。トラックから伸びるホースが吐き出す水が手の泥を押し流す。ボトルに詰められた飲用水が縄に提げられて筏から引き上げられる。シガーキスで火を移しあう若者の足下にはまだ手付かずの泥まみれの書物が広がっている。引火の心配さえ不要だろう。


田口かおり「1960年11月4日、フィレンツェ」(第一回)(2016年2月13日) 
http://siryo-net.jp/contribution/firenze1966-01/

 

"Florence: Days of Destruction" (University of Maryland Digital Collections) 

 

イタリア文化の中心であるほどに、それは潜在的にその喪失、忘却、そして復古、修復の中心でもある。記事中には現地で指揮を取ったウンベルト・バルディーニやウーゴ・プロカッチ、近代修復学の祖チェーザレ・ブランディといった名があらわれる。そういえばブランディの所属する国立修復研究所は、遡ればファシズム政権下の文化政策の中心を担ったジュゼッペ・ボッタイが設立を指揮したものだった。

ボッタイの名を知ったのは鯖江秀樹『イタリア・ファシズムの芸術政治』(水声社、2011)でのことで、党首ムッソリーニの、ともすれば「キッチュ」になりかねない古典主義への偏執に苦言を呈するボッタイの姿勢が印象的だった。「復元よりも保護」を。始源と現代との間に横たわる隔たりを、明っけらかんと無みしようとする「キッチュ」を断固として拒絶し、むしろその懸隔、裂け目をこそ、いわば作品への遡行可能性の架橋として死守すること。


寒い。油が冷えて固まるように鈍い身体の循環だ。昨日届いたヘッドフォンを試した。Sony のWH-1000X M3 、ノイズ・キャンセリング機能が付いている。音楽なしでこの機能だけを有効にしてみているが、なかなか良いかもしれない。聞こえないというよりはむしろ無用に気をもっていかれることがなくなる、という感覚だ。距離が確保できる分、むしろよくそれを聞くことにすらなるかもしれない。テフロン加工の感覚器。

寒い。階下から響く物音への恐怖の中でこれを書いている。キーボードのバネの金切り声。ヘッドフォンをしてより低い打撃音に気付くようになる。硬直した指が押し返される。吸気が鼻腔をざらざらと擦り上げる音が響く。Da, Da. Halt.





2020年12月4日金曜日

20201204 夜

11:00 現在、コーヒーはすでに二杯目。コロンビアとボリビアの残りの混合。たっぷりな量。なにかの酸っぱい果実の香りがするがなんだったか思い出せない。グレープフルーツの皮か、もっと青い柑橘のなにかか、全然別の何かかも知れない。

記憶の、その上澄みの手触りの印象というか、あれはいったいなんなのか。喉奥に突っ込まれるぬたりとゴム状のなにかであるとか、そうしたものがいくつかある。思い出せない記憶というのはしかし意識の視界から完全に身を眩ませているのでは決してなく、絶えず奇妙な体勢に身を捻っては密集して、日々の経験の背景を成している。味覚の記述というのは一面ではそうしたもどかしさ、不気味さとの対峙と組織化の過程だったりする。その脱臭であったりも、また。

二日ぶりだか、さっぱりと快晴だ。昨日も結局届くことはなかった品が、今朝ようやく届いた。置き配ではなく手渡しで、配達員の方はとても元気のいい方だった。ポリウレタンの薄ピンク色のマスク越しにもはっきりと眩しい笑顔、こんな笑顔を前にして言葉を交わすのも久々に思う。それに見合う反応を返しきれてはいただろうかと些か不安に思う(誤解が無いように記しておくと、私が笑顔を嫌うと言っても、それは笑顔を強要する規律への不信ゆえなのであって、個々の笑顔や笑顔へ向けた努力に対してはむしろこれに敬意をもって応えたいと思っている)。

耐えがたく昨日もまた買い出しに出た。あまり行かない方面のスーパー。人混みを避けて大通りから外れ、しょぼくれた住宅街を抜けて歩いた。長年放置されて蔦だらけだった民家が綺麗さっぱり取り壊されており、その奥に敷地はL字型に延びて、そこにちょっとした庭があったことを初めて知った。長いこと閉鎖されていた川沿いの道がいつの間にやらまた開いている。のろのろと橋上を流れる車の群れが垂れ流す光が黒い川面にぬらぬらと輝いている。豪奢な老人ホームのオレンジ色の照明が周囲から隔絶されて燦然と輝いている。民家が建てかけのまま放置されて、2×4に組まれた木材が雨に黒ずんで夕闇にぬっと網を掛けている。スーパーには金箔入りの日本酒の陳列が白色蛍光灯の下でかしましい。 

またしても眠れぬ夜であった。乗れない自転車にも似た、捉え所なくのっぺりと黒い明けらかならなさに頭を預ける。意識は自らを忘れる能力をも込みでそれは意識だ。昼の輪郭を研ぎ出そうと夜はずらりと流れて低い。記憶がぷつりぷつりと泡を吹いては浮かんでいく。それが水面に達するまでの幾ばくかの時間。









2020年12月3日木曜日

20201203 投函可能

12:00 現在、コーヒーはすでに一杯。コロンビアのハニー・プロセス。どっしりした甘味が、しかし落ち切る手前で身を翻してベリーのような甘酸っぱさへと変化する。

またもや寝過ごした。というか昨晩、だるさに早く布団に入ったにも関わらずながいこと眠れなかった。昨日に続いて鈍い空。昨日と違って年末感が薄いのは、心持ち屋外の車の往来が騒がしいのと、なんとなく雲の裏に潜む陽光の気配があり、空気がちゃらちゃらしているからだろうか。

昨日届く予定だった品は結局届かないまま夜になった。袖ひつる思いとはこういうことだろうか。立待ちの月も雲に隠れて暗い夜だったことかと思う。それはまあ、Amazon の大売り出しに注文したものなのだから、冷静に考えれば遅れるのも無理はない。雨が降り出し、置き配とは行かないかも知れないという懸念から余計に気を張ってしまったかも知れない。生ごみのような日であった。

別で頼んだ本は二冊、昨日今日と別々に郵便受けに投函されていた。郵便受けは素晴らしい。一冊の本が届く。密閉パックのコーヒー豆が届く。小さな花束が届くサービスもあるらしい。投函可能な程度のスケールで一生を送れたら良いのにと切に思う。


2020年12月2日水曜日

20201202 垂水

13:15 現在、コーヒーはすでに二杯、甘酒も飲んだ。

大きく寝過ごした。これを書き出すのはもっと遅れた。曇り空がしっとり冷気を湛えて、年末を感じさせる空気だ。今日は注文した品が多分まとめて届く予定だ。Amazonが「置き配」をデフォルトに設定してからだいぶ経つけれど、タイミングの読み合いが不要になって大変喜ばしい。それに物言わず玄関先に置かれた箱というのは枕元のクリスマス・プレゼントのようで夢がある。

ゴミのような昨日よ。強いて言えばすこし動く練習をしたか。あとは日曜の夜に行ったばかりだったが、また買い出しに出た。日曜の子望の月が、見逃した満月の月曜を挟んで昨夜はまた僅かに欠けて十六夜の月となり、東の方にけらけらと光っている。すでに重いコートを引き出して、前は首元まで閉じてただしマフラーは巻かずにマスクから靴までが月の下に黒い。ひしゃげた洋梨、5個一袋で投げ売りのグレープフルーツ。くるみとレーズンのパン。

マスクを外すと住宅街に下水の匂いが薄く漂っている。夜の冷えた空気に標本のように封じられて変に他人事な顔をしておりなんだか可笑しい。世間の誰もが気付かぬうちにいつの間にやら世界の匂いは全く変わっているかもしれぬと思う。花弁が変に赤紫だ。

荷物はまだ届かないけれどこうしたサスペンションが生だと思う。キリキリ張り詰めるばかりがテンションではない。綱それ自体が自重に苦しみ弓なりにしなる。綱渡りの男が落ちる。アレシボ天文台のパラボラ崩壊の報を聞く。京都のアーチ。不織布の垂れ幕。ソクラテスとブランショ。

畳の面を冷たい空気がずるずる這い流れている。12月も2日目の昼過ぎである。

2020年12月1日火曜日

20201201

11:30 現在、コーヒーはすでに二杯。片方、コロンビアのハニー・プロセスは紅茶の香り、それも干し藁のような芳しさではなく、アッサムのようなどっしりと強い香りが印象的だった。しかし前回飲んだ際のメモを見返すと、「柚子茶の甘味にかすかにニッキ」とある。淹れ方を替えた(蒸らしの湯量をかなりたっぷりとった)のは事実だが、それにしても随分と違っており戸惑う。
もう一方もコロンビアの、こちらはウォッシュト。先に言った淹れ方がこの豆にはよくあっていたようで、芳しさとほのかな甘味が際立って美味しい。

昨日一昨日と、Amazon他のセールを口実に色々と散財した。人文書、久々のマンガ、ヘッドホンや電子ばかり。なんだかんだで届くのをそれなりに楽しみにしている。

背中を強くしたいと思う。肩を内向きに落とし込むのではなしに、背中をはっしと振り返ることができるようになりたいと思う。衰弱した人間は腹に逃げ込みがちだ。それが脂肪であれ筋肉であれ、内向きに。背中は危機的な極だ。人体はへし折れるだろう。脊椎の熱い泡立ち。