2020年12月5日土曜日

20201205 洪水、修復、懸隔

9:00 現在、コーヒーはすでに一杯。UCCのタンザニア・ブレンド。

今朝は久々に普通の時間に起きた。また薄暗く曇った日だ。


昨日は1966年の11月にフィレンツェを襲った大洪水についての記事を少し読んだ。アルノ川の氾濫はこの街の住民の日常のみならず、貴重な文化財の数々に甚大な被害をもたらした。

フィレンツェ出身の映画監督フランコ・ゼフィレッリによる記録映画『Florence: Days of Destruction』(1966)を観た。彼の最初期の監督作にして唯一のドキュメンタリー作品であるらしい。瓦礫や自動車、日用品を押し流す濁流、段差や格子窓から溢れる水、街路をぬっと覆い尽くす水面の映像。白黒フィルムの像にしても異様に黒々と光を照り返す水面は自動車から漏れたガソリンが浮いたものであるらしい。開口部という開口部から流れ込んだその水はサンタ・クローチェ聖堂の壁面を上下にきっぱり白黒へと塗り分けた。堂内をカメラが水平に旋回し、画面下端のあまりの平さに、あたかも地面が失われて空虚なヴォリュームだけが広がっているように見える。書庫は天井にまで紙が張り付き、水を吸って膨張した本が書架の中で互いに突っ張りあい、石積みアーチのように浮かび上がっている。

映画の後半では傷ついた文化財の救助に奔走する人々の姿が映し出されている。足場の上に窮屈そうに並んで座り、壁画表面に保護用の和紙と樹脂を張り込んでいく。泥に塗れてページの貼り付いた書物をバケツリレー式に運び出し、トラックに詰め込んでいく。

セーターの前面を泥で固めた少年がカメラに投げたはにかみはしかし一瞬で力尽きるように萎み、背けた顔の下にシャツの襟ばかりが画面に白く焼きつく。トラックから伸びるホースが吐き出す水が手の泥を押し流す。ボトルに詰められた飲用水が縄に提げられて筏から引き上げられる。シガーキスで火を移しあう若者の足下にはまだ手付かずの泥まみれの書物が広がっている。引火の心配さえ不要だろう。


田口かおり「1960年11月4日、フィレンツェ」(第一回)(2016年2月13日) 
http://siryo-net.jp/contribution/firenze1966-01/

 

"Florence: Days of Destruction" (University of Maryland Digital Collections) 

 

イタリア文化の中心であるほどに、それは潜在的にその喪失、忘却、そして復古、修復の中心でもある。記事中には現地で指揮を取ったウンベルト・バルディーニやウーゴ・プロカッチ、近代修復学の祖チェーザレ・ブランディといった名があらわれる。そういえばブランディの所属する国立修復研究所は、遡ればファシズム政権下の文化政策の中心を担ったジュゼッペ・ボッタイが設立を指揮したものだった。

ボッタイの名を知ったのは鯖江秀樹『イタリア・ファシズムの芸術政治』(水声社、2011)でのことで、党首ムッソリーニの、ともすれば「キッチュ」になりかねない古典主義への偏執に苦言を呈するボッタイの姿勢が印象的だった。「復元よりも保護」を。始源と現代との間に横たわる隔たりを、明っけらかんと無みしようとする「キッチュ」を断固として拒絶し、むしろその懸隔、裂け目をこそ、いわば作品への遡行可能性の架橋として死守すること。


寒い。油が冷えて固まるように鈍い身体の循環だ。昨日届いたヘッドフォンを試した。Sony のWH-1000X M3 、ノイズ・キャンセリング機能が付いている。音楽なしでこの機能だけを有効にしてみているが、なかなか良いかもしれない。聞こえないというよりはむしろ無用に気をもっていかれることがなくなる、という感覚だ。距離が確保できる分、むしろよくそれを聞くことにすらなるかもしれない。テフロン加工の感覚器。

寒い。階下から響く物音への恐怖の中でこれを書いている。キーボードのバネの金切り声。ヘッドフォンをしてより低い打撃音に気付くようになる。硬直した指が押し返される。吸気が鼻腔をざらざらと擦り上げる音が響く。Da, Da. Halt.





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