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2020年12月5日土曜日

20201205 洪水、修復、懸隔

9:00 現在、コーヒーはすでに一杯。UCCのタンザニア・ブレンド。

今朝は久々に普通の時間に起きた。また薄暗く曇った日だ。


昨日は1966年の11月にフィレンツェを襲った大洪水についての記事を少し読んだ。アルノ川の氾濫はこの街の住民の日常のみならず、貴重な文化財の数々に甚大な被害をもたらした。

フィレンツェ出身の映画監督フランコ・ゼフィレッリによる記録映画『Florence: Days of Destruction』(1966)を観た。彼の最初期の監督作にして唯一のドキュメンタリー作品であるらしい。瓦礫や自動車、日用品を押し流す濁流、段差や格子窓から溢れる水、街路をぬっと覆い尽くす水面の映像。白黒フィルムの像にしても異様に黒々と光を照り返す水面は自動車から漏れたガソリンが浮いたものであるらしい。開口部という開口部から流れ込んだその水はサンタ・クローチェ聖堂の壁面を上下にきっぱり白黒へと塗り分けた。堂内をカメラが水平に旋回し、画面下端のあまりの平さに、あたかも地面が失われて空虚なヴォリュームだけが広がっているように見える。書庫は天井にまで紙が張り付き、水を吸って膨張した本が書架の中で互いに突っ張りあい、石積みアーチのように浮かび上がっている。

映画の後半では傷ついた文化財の救助に奔走する人々の姿が映し出されている。足場の上に窮屈そうに並んで座り、壁画表面に保護用の和紙と樹脂を張り込んでいく。泥に塗れてページの貼り付いた書物をバケツリレー式に運び出し、トラックに詰め込んでいく。

セーターの前面を泥で固めた少年がカメラに投げたはにかみはしかし一瞬で力尽きるように萎み、背けた顔の下にシャツの襟ばかりが画面に白く焼きつく。トラックから伸びるホースが吐き出す水が手の泥を押し流す。ボトルに詰められた飲用水が縄に提げられて筏から引き上げられる。シガーキスで火を移しあう若者の足下にはまだ手付かずの泥まみれの書物が広がっている。引火の心配さえ不要だろう。


田口かおり「1960年11月4日、フィレンツェ」(第一回)(2016年2月13日) 
http://siryo-net.jp/contribution/firenze1966-01/

 

"Florence: Days of Destruction" (University of Maryland Digital Collections) 

 

イタリア文化の中心であるほどに、それは潜在的にその喪失、忘却、そして復古、修復の中心でもある。記事中には現地で指揮を取ったウンベルト・バルディーニやウーゴ・プロカッチ、近代修復学の祖チェーザレ・ブランディといった名があらわれる。そういえばブランディの所属する国立修復研究所は、遡ればファシズム政権下の文化政策の中心を担ったジュゼッペ・ボッタイが設立を指揮したものだった。

ボッタイの名を知ったのは鯖江秀樹『イタリア・ファシズムの芸術政治』(水声社、2011)でのことで、党首ムッソリーニの、ともすれば「キッチュ」になりかねない古典主義への偏執に苦言を呈するボッタイの姿勢が印象的だった。「復元よりも保護」を。始源と現代との間に横たわる隔たりを、明っけらかんと無みしようとする「キッチュ」を断固として拒絶し、むしろその懸隔、裂け目をこそ、いわば作品への遡行可能性の架橋として死守すること。


寒い。油が冷えて固まるように鈍い身体の循環だ。昨日届いたヘッドフォンを試した。Sony のWH-1000X M3 、ノイズ・キャンセリング機能が付いている。音楽なしでこの機能だけを有効にしてみているが、なかなか良いかもしれない。聞こえないというよりはむしろ無用に気をもっていかれることがなくなる、という感覚だ。距離が確保できる分、むしろよくそれを聞くことにすらなるかもしれない。テフロン加工の感覚器。

寒い。階下から響く物音への恐怖の中でこれを書いている。キーボードのバネの金切り声。ヘッドフォンをしてより低い打撃音に気付くようになる。硬直した指が押し返される。吸気が鼻腔をざらざらと擦り上げる音が響く。Da, Da. Halt.





2020年11月11日水曜日

20201111 橋、斜、廓

9:30 現在、コーヒーはすでに二杯。パプアニューギニアのウォッシュトと、UCCのタンザニア・ブレンド。

今日の朝が寒いのは窓が開けっぴらいているからで、今朝洗濯した布団カバーがその窓の内外を跨ぐように、端端をちょいちょいと摘まれて干されている。

10:30 現在、コーヒーは3杯目。エチオピア・シダモのウォッシュト。かなりあっさりとした焼きゆえ、口内に液を含んだ状態ではむしろ香りの邪魔になるくらいなので、これは嗅ぎタバコのようなものだと割り切って、はやばやに飲み込んでしまうのが良いのかもしれない。

吊り下げられた布地のドレープを見るとつい、ガウディの逆さづりの設計模型だとか、吊り橋のロープだとかを連想してしまう人間というのがいて、そういえば昨日は色々と橋だとかその跡だとかをいくつも渡った。
「いくつも」というからには、それは川や水路が幾重にも曲がりくねっているか、あるいは無数に並走し、ときに交錯しているか、そうでなければこちらの方が無闇矢鱈に彼方へ此方へと彷徨いていたかのいずれかであるわけだが、今回に関してはその全てが当てはまるだろう。1930年に荒川放水路が完成するまで、荒川直下の最下流部であった隅田川、その流れが南方へと90度向きを転じる辺り一帯には、かつて広大な湿地帯がひろがり、その南端にはぽつりと浅草市街が浮かんでいた。度重なる治水やら干拓やらの試みの末、そこには無数の掘割が走り、新堀川を渡る合羽橋、山谷堀を跨ぐ今戸橋等々、その名残はいまでも地名に残されている。

この今戸橋といえば思い出されるのは永井荷風による初期作『すみだ川』(執筆は1909年という)、幼き長吉が夜な夜なお糸を待ち侘びた木橋の欄干だ。

その後『日和下駄』(1915年)序文の永井は「木造の今戸橋は蚤くも變じて鐡の釣橋となり」と記しているが、山谷堀が1976年から暗渠化されるころ掛かっていた今戸橋は1926年竣工の桁橋であった。それ以前の10年に満たない短いあいだ、先代の鉄橋が掛かっていたということなのだろうか。

『すみだ川』の当時はまだ言問橋も掛かっておらず、向島の小梅(現在のスカイツリーの足下あたり)に住うほろ酔いの蘿月は竹屋の渡しに揺られて対岸の長吉の住まいを訪問する。およそ30年を経た『濹東綺譚』(1937年)の頃にはこの言問橋はすでに完成しているが(1937年)、玉の井通いに電車を使う主人公にはあまり利用の機会がなかったようだ、作中ではこの橋の袂で巡査に誰何を受ける他に言問橋への言及はない(ちなみにここで彼が連れていかれる派出所の位置する江戸通りと場道通りの交差点には、現在でも交番が建っている)。

現在の隅田川にはさらにX字状に桜橋が掛かり、それを向島へと渡った先の堤防から住宅街へと向かう道は落差の激しい下り階段になっている。明らかに隅田川の水面より低い位置に、なんでもないように住宅街が広がり、こころなしかアスファルトは少し湿っぽく感じる。街道を北上した先、民家の間に隠れるようにして秋葉神社の境内があり、この脇を抜けたあたりに『濹東綺譚』の主人公が通ったお雪の住処はある。陽が傾くほどに、薄暗い路地を伝って暗がりと冷気が流れ込んでくるように感じられる。


そして傾斜だ。『すみだ川』の長吉は今戸橋から川沿いに延々南下し花街である葭町(かつての元吉原、現在の人形町のあたり)へと向かう。また浅草裏の宮戸座に通っては観劇にのめり込む。
その宮戸座があった通り、千束通りを昨日、たまたま初めて、南の端か北の端まで歩いた。途中から若干東に折れて進んだ先で日本堤ポンプ場ののっぺりとした壁にぶつかるに及んで、先の折れがおそらく吉原遊廓の傾斜角を反映したものであったことに気付いた。吉原のこの北西向きの傾斜角はその門前にあった日本堤に正対するべく設定されたものであり、そしてこの日本堤の角度はおそらく、それ以前からあった音無川(および山谷堀の原型)の流れを、隅田川を受け流す傾斜面として捉え返したものであろう。この地にはベクトル分解の力学が幾重にも交錯している。そうした斜面に導かれて、長吉はまた浅草裏へと通う。


12:30 現在、コーヒーは4杯目。三徳で買ったタンザニア。開封すると、豆のところどころが濡れたような油の浮き。深煎りのもので豆全体をコーティングしている状態なのはよく見るが、そうならないのは油の粘性かなにかの影響なのか。蒸らしで若干木酢液のにおい。


白髭橋を渡って向島を抜ける。左岸に沿っては白髭団地の白い巨壁が、堤防越水時の文字通りの最後の砦として連なっている。屋上には、おそらく水道タンクであろうか、オレンジ色のチューブが横たわっているのが秋空に鮮やかだ。対岸にはスーパー堤防で地上げされた汐入の高層団地が立ち並ぶ。それを過ぎた先、南千住駅前の商業施設は学生や子連れ家族で思った以上に賑わっている。ここに常磐線、日比谷線、つくばエクスプレスが束ねあげられて、傍らの貨物駅は広大に平たい鉄路のブーケだ。

どこに行くにも道を行かなければならない。極め付けに条理に串刺しのリアリティがここにある。ここもまた廓だ、私を取り囲む世のくるりを屋上から見渡す、ここもまた廓だ。







2020年11月5日木曜日

20201105 花道、花街、青梅の味

10:00 現在、コーヒーはすでに二杯目、昨日買ったエチオピアのナチュラル。

口にした途端、液の重さがふっと消えて、 細いスリットから差す光のように、舌の上に一すじの道が走るような感覚。そして闇に目が慣れていくように、開演を待つ客席の熱気が静かに高まっていくように、そのランウェイを中心に、次第に、思い出したとでもいうように、さまざまな印象がじわりと浮かぶ。吸水中の粉からすでに漂っていた、少し青臭いマンゴーか何かの酸味。重い木のテーブルにグラスがことりと置かれるような、静かな苦味。砂糖が水分を吸ってさらりとほどけていくようななめらかなテクスチュア。


今朝の朝食、ご飯と、なめこ、大根、高野豆腐の味噌汁は昨日の残り。加えて厚焼き卵。一時期どうしてもくっついてしまうようになり、作るのをやめていたのが、最近久々に試してみたらまた綺麗に焼けるようになっていた。卵焼き器の方が拗ねていたのかもしれない。

昨晩炊いた玄米は、浸水を忘れていて、せっかくの塩鮭があるので譲れず久々に引っ張り出した圧力鍋でごり押しで炊いたところ、お赤飯もかくやのもちもちに仕上がったのがおもしろく、笑ってしまった。水分量も適当に米と水とを1.5カップずつで、強火スタート、加圧後弱火の20分、放置10分みたいな感じだったのだが。せっかくだししばらくこちらで炊いてみようと思う。中身を確認出来ない点、圧力鍋は闇鍋だ。


もはや主食の座を奪っていた煎餅やらを食べるのをぱたりとやめてひと月あまり、買い出し時の出費が意外なほどコンパクトになり、食事を用意する時の気構えもいい意味でテキトーになった。疲れ切って帰った昨日もほいほいと汁物まで用意したのだから、我ながら立派なものだ。


昨日出たのはまたしても上野のほうで、着いてまず寄るつもりだった店はまだ開店30分前で、待つ間に向かったビタールはなぜかシャッターが下りていた。遣る方なくずらずらと足を引き摺り東に向かう。

手摺り越しに差し向かう隅田川の水面はいつも私のへそぐらいまでぐっと高く競り上がって見える。秋の日射が川面に落とす両国橋の影は対岸には冴え冴えと、此岸に寄るほどに境目を波にほどかれて色々のモザイク細工のようだ。陽が差し込む側に回ると、川の鏡面が橋に翳されて押し黙ったところに水中からの光が浮かび上がり、そこだけ古いガラス瓶のように藻緑色で。水の重たさ。


蔵前のアンビカで諸々の食材を調達する。5kg入りのバスマティが格安で、余程ひっ提げて帰ろうかとも思ったが、断念。値札のない、ピンポン玉よりひとふた回り小さい何かの果実か冷蔵庫に山積みになっていた。微かに梨肌の黄緑色の果皮は薄く、透き通っており、中に液胞を抱え込んでいるかのようだったので注意深く摘み上げたが、思いの外丈夫なようだ。以前とあるコーヒーのカッピングコメントにあったセイヨウスグリに少し似ているな、と思いつつ、おそるおそるふたつをかごに転がした。


当初は隅田川沿いを三ノ輪方面に歩けたらと(永井荷風ルート)思っていたが、先に果たせなかった予定を済ますべく、上野へと引き返す。ビタールはやはり閉まっていた。これからどうしたものかと思ったが、不忍池にはまだ蓮の葉が残り、そういえば駒込あたりにまだ通販でしか利用したことのなかいコーヒー屋があったことを思い出し、そこに寄りしな歩いて帰ることにする。結果として上野から3時間近く掛かった。5kg入りの米袋など買わないで良かったと思う。


外出した日の夜はいつも不思議と時間がある。夜寝る前、永井荷風の『すみだ川』を読む。永井のかなり若い頃の作品で、書いたのは明治42年(1909年)のこととある。明治42年といえば、荒川(当時はそのほとんど全流が隅田川に注いでいた)流域を水浸しにした明治40年洪水の直後であり、また翌年には(翌年着工の荒川放水路建設決定のダメ押しになったであろう)明治43年洪水を控えている頃だ。永井自身は序文中でこれらの洪水に直接言及してはいないけれど、急速に移ろいゆく江戸-東京の風景の水際としての川という場所感はこの時点から既に強くあらわれている。

ところで作中の主人公のひとり、若い長吉は、芸者修行に葭町(現・人形町付近)へと移り住んだ幼馴染のお糸の影を追い、今戸橋(山谷堀の隅田川との合流点)の自宅から隅田川沿いを延々下っていく。葭町はかつて元吉原があった地で、1668年に吉原が現在の浅草裏に移ってからはそこに芸妓が移り住み、戦後しばらくまで花街として栄えることになる。

普段東京にいても意識することはほとんどないが、こうした花街、廓街の跡地(というのは、しばしば政府の命によって街ごと作られ、街ごと移転された跡地)は案外あちこちに残っていたりする。

またしても話は戻って昨日の上野の帰り、東京大学裏の入り組んだ住宅街を分け行った先、根津神社の鳥居に行き当たった。それまでは聞き齧ったことがあるばかりだったが、このあたりにもかつて根津遊郭という廓街が広がっていたらしい。吉原大火の際には逃れてきた吉原の遊女も受け入れたが、東京大学の近辺ゆえに問題視されたこともあり(東大の出の坪内逍遥の妻はこの地で見染めた遊女)、1888年には東京湾の埋立地に構えた洲崎遊郭へと移転を命じられる(『濹東綺譚』の主人公はこの洲崎遊郭を舞台にした小説を書いたことがあるとの描写があった。『元八まん』中の永井も、電車(城東電気軌道?)の洲崎大門前で下車して遊郭へと帰っていく遊女を目撃している)。こちらも現在ではその街区割りを残して他には見る影もないことは言うまでもない。


読み終わった頃には0時を回っていたが、今朝は案外普通に起きて、朝食をとり、コーヒーを試し、晴れていたのでぬるま湯でぬいぐるみを洗った。


アンビカで買った果実は、レシートの印字には「amla」とあった。調べると、和名をユカン(油柑)といい、主にインド圏で食用に栽培されているらしい。スグリとは全く関係がなかった。包丁を入れると想像よりも遥かに固く、ざらりとした感触で、中心に種があるらしく、これが固くて割ることもできず、またリンゴやアボカドを剥くときのように捻って種を外すことも出来ない。仕方がないので直に齧り付くと、皮と実に境の無い、細目の紙やすりのようなザラリとした歯触りで、歯切れは非常に悪い。そして強い酸味と渋み。問題の種と実とはしっかり絡み合っている。あえて例えるならば、とても若い青梅の、実の部分を全て突き固めた皮に置き換えたような感じだろうか。歯触りの悪さゆえ、スライスするのが適当かと思う。インドではおもに漬物(ウールガイの類だろうか)にするという。

外からは焼かれたアスファルトの臭いが漂ってくる。スコップを震わせる振動が大なり小なり、不規則にぶつかり弾けては鉄板をジタバタまだらに鳴らしている。










2020年10月25日日曜日

20201025 残り味、分布、浸し

10:00 現在、コーヒーは一杯、ケニアのウォッシュト。少し風味が落ち着いてきた。一瞬ハーブ入りのソーセージのような香りを聴いた気がする。

寝過ごした。起きたら陽が久々にさっくりと差しており、ここぞとシーツを洗って干した。なんの夢を見たのだったか、何か薄汚れた雨合羽、ハリと折れ、を、リノリウム張りの廊下で被った気がする。体育館のステージの、遠く天井から真下に垂れ下がる重い幕が音をよく吸収する暗がり、丈夫で表面のつるっとした工作紙(なんと呼ぶのだったか、図工の時間、前の席から順々に回されてくる、溶着ポリ袋に封じられた紙束のしっとりとした重みが、私には光だった)のような色彩の質感が踊る、鈍く眩い照明機材、対照に呑気にのっぺりだだっ広い板張りの床面。近頃小中学校時代の記憶の断片が入り混じって起床前数十分の脳裏を駆け擦り去っていくことがよくある。

上履きの足音に笑われて起きるその8時間前のこととてまた同じこの畳の上のこと、昨日はいくつか面白い記事を見つけてサーフィンだった。


一つ目、「ECXとは何だったのか?日本の功罪」

https://coffeefanatics.jp/ethiopian-commodity-exchange/

2008に設立されたECX(The Ethiopia Commodity Exchange)の采配のもと、エチオピア全域のコーヒーチェリーの大部分は国内9つの集積所に集約され、それぞれの中でグレード付け、ロット形成されて流通するようになった。コーヒーチェリーの流通の透明化と効率化のための施策とのことだが、他方これは地域ごとの特色を重んじる農園や業者にとっては冬の時代の訪れだったと言う。

著者によれば、その背景には、同国のコーヒーの最大の売り手であった日本が2006年に設定した輸入品の残留農薬規制によるコーヒー輸出の不振があり、先のECXの施策の主な目的はむしろ流通の効率化による外貨獲得に向けられていたという話。

たまたま今朝のこと、検出されたオクラトキシンを理由にケニア産のコーヒー豆が日韓で受け入れ拒否されたとの記事が流れてきた。あるいは先の記事もこれを念頭に書かれたものだったのかもしれない。

「Kenyan coffee risks losing global appeal on chemicals」(2020 10/6付けの記事)

https://www.businessdailyafrica.com/bd/markets/commodities/kenyan-coffee-risks-losing-global-appeal-on-chemicals-2458028


二つ目、「色:ヘキサコードから眼球まで」(全3回) 

https://postd.cc/color/

簡単に三原色なんて言うけれども、人間の網膜に並ぶ三種類の錐体細胞をそれぞれ励起させる周波数の分布と、RGBやらXYZやらの色空間を構成する各軸と、ディスプレイに敷き詰められた三つ一組のサブピクセルに設定された分光分布は、それぞれまるで異なるものであり、それらは決して互いにシームレスに変換されるものでもない。そんな込み入った話題を逐一説明しつつ、最後にそこに「ヘキサコードから眼球まで」という一本のストーリーを通して、スピード感をもってまとめられており、気持ちよい解説。


あとはエドガー・ダイクストラ Edsgar W. Dijkstra の名を知った。最短経路問題の有名な解法、ダイクストラ法の考案者。また、プログラミングにおけるgoto文除去運動の発端を作った人。構造化プログラミングの父。空想上の企業、Mathematics Inc. 会長。それはそれとしても、Dijkstra、堤防のそばに住む者。良い名だ。英語における「dike(堤防)」に相当する語はオランダ語で「dijk」と綴られる。そもそもこの語自体、ノルドの血、フリースラントの低地特有の泥臭さを強く匂わせる語だ。


私は言語能力が著しく低く、訓練のためもあってこの日記もこうして書かれているわけであるが、まあおそらく一歩先、一歩前との関係の中で書くことができないのだと思う。すでにまとまりをもって完成してある文章を要約するのもかなり時間がかかる。

明日の日記は「昨日は日記を書いた」になりそうだ。体調はあまり良くない。腹と脳天とが細長くて濁った綿飴で貫かれているような気分。


冷たい煮干しと高野豆腐を食んだ。冷たい食パンを噛んだ。ベジマイトを舐めた。そうした履歴。




2020年10月19日月曜日

20201019 玉、治水、イメージ

 8:00現在、コーヒーは一杯。イオンのグアテマラの残り少しとUCCのブレンドの混合。赤ワインの風味と苦味が媒介なしに同じテーブルに投げだされたような感じになってしまう。


ここのところさしたる意味もなしに夜更かししがちだったが、昨晩は体調が優れず早めに就寝。前にも見たことのある嫌な夢を見た。

家族(知らない家族。)と一緒に下りエレベーターに乗っている。途中の階で停まる。外には誰もいないと見たせっかちな父親は、私の背後から手を伸ばして半ば開いた扉を閉じようとするが、それを制してこじ開けようとする乗客。それはなんだかそういう高級スイカみたいに頭部がぬるっと四角い男で、半歩こちらに歩を進めたその男を父親は押し返そうとする。それでも押し入る男を見て、今度はこちら一同が入れ替わりに一時下車しようとするも、男はその中の誰だったかを羽交い締めにして逃さない。通りすがりの誰かもう1人も応戦していた気がする。抵抗も虚しくエレベーターの扉は一度閉まるも、また開き、引き摺り出す。3人分の手足が絡まり合ってどれが誰のどの部位だかが判然としない。その中の誰かが私に「証拠にするため」と、男(どの?)の肌に名前か何かをマジックペンで書き込むように、と頼む。私の応答はといえば「ペンがないから、カッターナイフでいい?」ときた。いいらしい。肌に玉のような血がぽろぽろと滲んで汚らしい。


夢を見る私はなぜこうも詰まることなくころころとイメージを転がせるのか。起きている私はといえばおよそイメージというもの一般に乏しい人間で、南仏の鮮烈な色彩の印象だとか、いつの日かのマドレーヌの香りだとか、まるでピンとこない。小説の筋書きの展開に従ってめくるめく情景が幻燈のようによぎることもないし、家族の顔だってほとんど覚えていない。


9:30現在、コーヒーは二杯目。グアテマラのウォッシュト。微細な和毛に表面を覆われているかのような滑らかさだ。


イメージ。端の無いもの、果てし無いもの。あまりに私の手に余るもの。指でその縁を撫でて、頁を繰ることのできないもの。とてもながいもの。


2019年の春先に青春18きっぷ一枚をかざして行った岐阜の記憶もいよいよあやふやになり(長良川は一体どちら側に向かって流れていたのだったか)、昨日地図帳を開いた。金華山の傍らを流れた長良川は、蛇行しながら南西にしばらく流れる。その舵取りを横目に牽制するように、東海道本線は岐阜市街を抜けたところから若干南西南へと逸れつつ直進する。西岐阜駅と穂積駅との間で、長良川は不意に南南東へと首を傾げ、東海道本線と直交する。

なんということだ。想像が及ばない。しかしその交叉を私はこの目で見たはずではないか、岐阜駅から大垣駅へと向かう列車の窓から。列車にさらにしばらく揺られると、今度は揖斐川の流れと交わる。映画『聲の形』の印象的な一場面を成す鉄橋はこの少し下流に位置するはずだ。その右岸には黒川紀章の設計による大垣フォーラムホテルの背中がポツンと見える。長良川と揖斐川は、そこからさらに30kmも並走したあたりだろうか、ついにはただひとすじの堤を境に隣り合い、そのまましばらく流れた末に最河口でようやく合流し、木曽川と並んで伊勢湾に注ぐ。

なんということだ、およそ想像の及ばないことだ。

木曽川、長良川、揖斐川の三河川が並び流れる現在の濃尾平野の風景はしかし、二度にわたる大規模な治水事業の産物であった。かつて互いに複雑に入り組み、交わり合い、流域に度重なる水害をもたらしていたこれら三川は、1754年の宝暦治水、そして1887年から92年にかけての明治治水による分流工事を経て、互いにほぼ完全に分離されることになる、

そういえばこの地の度重なる水難の痕跡もまた、2019年の訪問で私自身その一端を目にしていた。宿をチェックアウトした直後、成り行きで迷い込んだ金華山をなんとか抜けてたどり着いた長良川の、土手沿いに鎮座するコンクリートの巨大な球体、安藤忠雄設計の長良川国際会議場はちょうど開催されていた成人式に賑わっていた。その傍に立つ石碑と案内板には、1921年から39年にかけての長良川上流改修工事による長良古川、古々川の締め切り工事の記録が記されていた。

絡み合う筋は 容易に自らを横溢し、流域に構えた住居の床を水に浸してしまう。果てし無い恐怖だ。こんなものを矯めつ眇めつ、分かった体で分肢しつつ。堤一枚を隔てて人はその地に安らいだ体で今日も日を暮らしているのだ。


また話は戻って2019年の長良川沿い。記念碑そばのベンチでいくらか時間を潰したのち、国際会議場並びに店を構えるSHERPA COFFEEを訪ねる。ファンヒーターの唸りに揺れる観葉植物、コーヒーと一緒に注文したロールケーキは、まだ東寄りに傾いだ太陽が寄越す光線を、一瞬含んで、溜めて、矯めて、こちらに投げ返すように、なんとなく薄らと黄色だった。

その日それから私は、あちらこちらとつきあたりつつ岐阜駅へと辿り着き、東海道本線に養老鉄道を乗り継いで、養老天命反転地を目指すだろう。明からさまにハリボテの、端っ切れの、しかし内側へと絶えず落ち込んでは、球成す全体を絶えず果て無く覆す、半球あるいは覆水不返の盆。


"The saddest thing is that I have had to use words..."