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2020年11月6日金曜日

20201106

10:00 現在、コーヒーはすでに一杯、コロンビアのウォッシュト。1投目と2投目の湯量のいずれを多めに取るかで仕上がりの酸味/甘味のバランスを調節出来るとの話を聞き齧り、試しに酸味を出すべく1投目多めにしてみる。変わった気はする。

先日買ってきたアムチュール・パウダーを舐めてみる。青マンゴーを乾燥させて粉末にしたものだというので、爽やかな酸味が微かに香る感じかなと予想していたが、開封してみると思いの外パンチの効いた香りが漂う。まず連想したのは「梅干し味」で、それも最近の出来が良いのではなく、一昔前の駄菓子とかふりかけのような、ジャンキーなもの。味もまた然りで、塩が添加されているのではないかと疑うほどだ。乾燥しているのに酸味があるってだけでジャンクな印象になるのは経験的なものなのだろうか、通販サイトの説明には水分量を増やさず酸味を加えられると売り込んでいたけれど、たしかに天ぷらに添えたりといった用途にもよさそうだ(というかマンゴー塩みたいな調味料があったような気がしていたのだけれど、検索しても出て来なかった)。

今日はなんともはっきりしない曇空だ、こう言う日は変な冷えかたをする。空気の熱が妙に肌にしつこいのに、不意に身体がぎくりと震えたりする。指も筋っぽい。視界もさらに狭くなる。


2020年11月3日火曜日

20201103 水の臭い

8:00 現在、コーヒーは一杯、ブラジルのナチュラル。 ブラジルらしいチョコレートのような甘みは引き出しつつも、それを穏やかながらも印象的な青みのある酸味、青りんごとか、むしろタデ科の類の?茎のそれを思わせる酸味が引き立てる。とても滑らかなので、飲み込むとすっと引き、あとにかすかな香味が口腔に漂う。チョコレートホイップを纏ったケーキにイチゴが載っていると若干疑問を覚えるけれど、それがうまい具合に口の中で混ざるとイチゴの酸味がチョコの油分を具合よく洗い流して幸福な感情が口に湧く、そんな感じ。


昨日の夕方ごろから便りなさげに降っていた雨の気配は意外にもまだ続いており、湿った大気が少し向こうの幹線道路を走るタイヤの音を効率よくこちらに届ける。朝食には昨日の朝焼いてみたクランペットの残りをトーストする。鍋肌に平たく均された焼き目の表面を、ナイフで削ったバターの欠片が滑り落ちていく。


昨晩は永井荷風の『濹東綺譚』を、文中に名指される地名を地図に探しつつ読む。主人公は小説家で、作中には時折彼が目下執筆中の作品『失踪』の一節が差し挟まれる。

小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。わたくしは屢人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過るような誤に陥ったこともあった。(『濹東綺譚』)

本作に限らず、永井の作品に印象的なのは、そこここの建物だとか景色だとかよりもむしろ、それらの間の往来を可能にする交通網(道路、電車、乗合バス、水路…)への執着だ。とはいえそれは、たとえば車窓の向こうを過ぎ去っていく風景の連続だとかいったシークエンスがそのままナラティヴを推進するわけでもなければ、またコンパートメントやら長椅子やらが人々の出会いや語りの契機として利用されるわけでもない。永井の交通網は全く、それによって地上に疎密を組織し、物語を絡め取る網であって、編み上げられた線のそれぞれは街と街とを切断することで隣り合わせる。

本作は(永井の1936年ごろの取材に基づく)玉ノ井駅(現・東向島駅)周辺の銘酒屋(私娼窟)を舞台に展開するが、これはもともと浅草裏手に広がっていたものが、区画整理と関東大震災(1923年)に追われてこの地に移ってきたものだ。隅田川と荒川(荒川放水路が竣工したのは1930年)に挟まれて浮かぶ街、度重なる新道整備や鉄道敷設、廃線の中でその目抜き通りをくらくらと移しつつある街。江戸=東京にとっての「向こうの島」である街。

この街を永井はいかにも水捌けの悪そうな、ひとつの澱みとして描いている。しつこく顔に群がる蚊、溢れるドブ。事実それは物語の条件を成す澱みだ。河川を含む無数の交通の網目によって形作られたひとつの澱みだ。


水の臭い。永いことそれを恐れている。2019年、18きっぷ一枚で常磐線その他を乗り継いで、線路沿い、道路沿いの多くの街の傍らを通過した。かつて波に洗われた街々だ。

同じ年、大雨。各地の河川沿いに住む人々の悲鳴がネットを通じて押し入ってきた。

今の午前は、たまたま存在を知った東京下水道局の下水道台帳で、道路の下を延々這い回り、最後に処理場へと至る矢印を延々追いかけて過ごした(少々意外なことに、地図上で並走している下水道管の中身は必ずしも同じ方向へと流れているわけではないのだと知った)。

我が家は2度、下水の詰まりを経験している。2度とも同じ業者さん(同じ気のいいおじさん)に清掃をお願いした。高圧洗浄機に使うために、我が家の一つしかない水道からホースを延ばした。その何時間もの間、私は、そしてより重要なことには、屋外で作業する業者さんは、水道網へのアクセスを上下ともに失うことになるのだと気付いた。すぐ目の前ではそれらがずっと、短絡状態で押し合いへし合いしているというのに。


外は夜だ。





2020年11月2日月曜日

20201102 編み目、家政、ステイ・ホーム

9:30 現在、コーヒーは一杯、エチオピアのナチュラル。皮の青い柑橘の酸味が口腔の側壁を広く、程よく引き締めたところに、それに抱え込まれるようにしてほんかな甘味、さっきまで落ちていた木漏れ日が土に残した微かな熱の名残りのような。


昨日はあれから地下足袋の底を型にジーンズの端切れを切り抜いて、アイロン掛けて端を折り込み、1時間ほどかけてようやっと、片方の1/3ほどに針を通した。思いのほか生地が重なって厚いのと、踵からつま先に向かうにつれていよいよ手元が見えなくなっていくのとで、なかなかに苦戦はしている。糸は赤。手持ちの糸の残りに余裕があるのがそれくらいしかないのもあるが、以前ズボンの破れを繕った際、やはりデニム生地と赤糸を使って以来、この組み合わせが割と気に入っているのも大きい。王蟲の眼のようね。

縫い物をしていると、普段気にも留めないような布地の織り目が途端に抗い難い頑強な格子として立ち上がってくる。やろうと思えば糸の横腹を突き刺しながら縫い目を進めることだってできなくはないが、大抵は余計な労力を強いられることになり、こちらの目までも混乱するし、針路もぶれるし、布地自体にも変な具合にテンションが掛かって歪んでしまう。結局公倍数を探り探り歩調を合わせて隙間を縫って進むほうが余程利口だ。この格子空間では、きっとドット絵作家などは日々痛感していることなのだろうが、針を刺す目がひとつずれただけで面は大混乱だ。


12:30 現在、コーヒーはすでに3杯。ケニアのウォッシュト。開封から時間が経ち、それと抽出もわりとじりじりと詰めた所為か、酸味は控えめに、液の輪郭を華やかに纏め上げる役に徹しているように感じる。


ついさきほどまで、突発的に始まった掃除に没頭していた。換気扇の羽と、なにより、その奥で屋外へと開いている3枚仕立ての可動庇に積りに積もった埃の塊をこそげ落とす作業。

これが典型的な現実逃避の一パターンであることは否定しないが、逃避の矛先が諸々の家事、特に掃除に向かう分には、私はこれを多めに見て良いと思う。

こういうものは計画性でどうこうなるものではない。「思い立った」に身を任せるに限る。埃とは、人間側にとっては愚か、自分自身にとってさえ、その意志や都合などはお構いなしに、有無を言わさず積もっているものだ。多かれ少なかれ己の理性に従ってやって来る上司や客や詐欺師を相手にするのとは、そこが決定的に異なる営みだ。

家事というのは毎日が不条理の連続だ。玄関には荷物が届くし、洗濯物にはティッシュが紛れ込むし、子供は勝手にずっこけては泣き出すし、虫が湧いたとスプレー缶を引っ掴んで走ったかと思えば同居人が相談もなしに訳のわからぬ魚を買って帰っては台所に放置して、自分はさっさと風呂に向かってはシャンプーが無いぞと喚き出す。

そう言う意味で、「高いところから順々に」みたいな合言葉は半分正しく、半分間違っている。年末の大掃除のように、きっぱり時間をとって、どっかり腰を入れてこれに臨む際には良いが、大抵家事というものはそんなふうには始まらない。ゆかを磨いていたら壁の隅っこに張られた蜘蛛の巣が目に入り、それを払おうとハタキを探しに向かった先の窓が気付けば雨風と排ガスに吹かれて真っ黒だったりする。そうした全く考え無しの訪れの連続には、こちらも相応の考え無しを以って対処する他ない。無意味的切断の善用。


とはいえそれを日記のうえで振り返るとき、そうした無法の連続も、結局はカレンダーの規律正しい格子の並びの中に編み込まれたドットのひとつひとつなのだと気付いて溜息を漏らすこともある。大くの場合、人は朝は起き、夜は寝る。日中の賑わいが嘘のように、夜中の繁華街は住民もなく静まり返る。そしてその中に、ぽつりぽつりと、コンビニのガラス窓の向こう、蒼白い光を背負って商品棚の検品をする店員の気怠げな背中がある。最後の客が会計を済ませた途端にはしゃぎ出す、24時間営業の居酒屋の店員の振り上げる腕がある。

殊に今年の春以降の世界は、こうした風景にどう向き合ってきただろうか。規範的な労働時間としての日中のオフィス街の喧騒に、足の踏み場もない家庭の片隅に、各都市に、国土に、「身内」という格子のうちにむしろ各々を過密に囲い込もうとしてはいなかったか。

ここに世界は一つの家となる。無意味的に去来したり、しなかったりする「自然」に、立ち向かうのだ、と喧伝する、ひとつの理性、ひとつの父権。




2020年10月22日木曜日

20201022 青、無、青

 10:00 現在、コーヒーはすでに二杯目。ケニアとグアテマラのウォッシュト、いずれも少し残った豆の混合。

前者は以前4種詰め合わせを注文した際にサンプルをおまけして頂いたもので、昨日開封したもの。「華やかな酸」という形容からなんとなくシトラス系を想像していたのを裏切って、口に含んでまず浮かんだのがブドウを思わせる酸で、ただし赤ワインのような芳醇さに向かうのではなく、ブドウジュースとか、時々むしろレーズンとかを、とびきり上品に、しかしやんちゃに、香らせたような印象だろうか。それでも何かとり逃すところが大きい、商品紹介には「パイナップル、ルバーブ」とあり、ルバーブは食べたことがないのだけれど、その形容はこのあたりに掛かっているのかも知れない。

今朝はそれを桃を嗅ぐようなグアテマラとあわせたので、ブドウの酸味がクロマトグラフにかけたみたいな解かれ方をしてちょっと面白かった。


そうこうするうち、先日ブルーボトルで注文した豆が届いた、やはりケニアの、Kiambu Karinga のウォッシュト。それにしても久々の対面受け取りの気がする。サインまでした。この時勢でたしかに食材以外で実店舗を利用する機会はほぼなくなったとはいえ、置き配やサインの省略もかなり一般化したし、そもそも買い物自体を最小限にしていた。経済的な動機もあるし、これ以上の物流の負担に加担したくもなし。コーヒー豆の購入も極力ゆうパケット配送のものにしていたので、豆の詰まったマチ付き袋一つに、余った空間を緩衝材で埋めて届くブルーボトルの小箱を見て、少し笑ってしまう。ブランドイメージとか梱包資材の統一による効率化とか色々あるのだろうけれど、もう少しなんとかならないものか。


11:45 現在、コーヒーは三杯目。結局我慢できずにブルーボトルのケニアを開封。ああ、いかにもブルーボトルって感じだ、黒いベリーの、華やかかつしっかりとした酸味と収斂感が舌の両サイドをグッと流れて、そしてその間に、小さなペディメントみたいに、微かにシナモンというか八つ橋に練り込まれて香るニッキを思わせる香り、ロースト感。


昨日はまたProcessing を少し触る。for 文とか、random とか。色指定でRGBの各色ともに完全にrandom にしてしまうと全く灰色の世界が広がってしまうことに気付く。それぞれ個別に範囲指定するとかして偏りを与えてやらなければならない。加色混法ゆえの罠である。


「すべての電球が点きっぱなしの電光掲示板」。この喩えを円城塔はどうも気に入っていたようで、私の知る限り二度、それぞれ別の著作中でこれを用いている。情報技術とは常に地と図との間の絡み合いをいかに効果的に組織するかの試行錯誤であり、死の予感を背負っている。

ややもすればホワイトアウトへと至りかねないチキンレースの途上で、私たちは色彩の乱舞に色めく。踊り狂えよ、しかし節度を持って。


無を一つのキャンバスに、それを背にして有をチラつかせれば情報の電達が可能になるとして、課題となるのはその無の広がりそれ自体をいかにあらかじめ定義し、提示しておくかである。無を以って無を送ることはできないのであり、ブルーバックの前でブルーバックの実演販売をしようとするのは困難である。仕方がないので無は適当な太さの輪郭線で縁取られ、そこは無と有が厄介に入れ子状をなした紛争地帯として放置されることになる。

両者をネガポジ反転してみたところで話は同じなのであって、無の中に空いた穴としての有の輪郭を拡大してみるとアンチ・エイリアスやらモスキート・ノイズやらでぶよぶよと気色悪い。


ミニマリズム彫刻の(そのほとんど戯画化された限りでの)展示風景が、最大限の嘲笑を以って提示しているのがまさにこのような状況である。すなわちホワイト・キューブ状の部屋の中心に放置された、ひとまわり小さいもう一つのキューブ。ここでかたや「部屋の外部」と、かたや「空虚な立方体」という、二つの無に挟まれた、て、実にどっちつかずに虚しい「室内」という座を、なすすべなく右往左往するばかりの観客という存在の馬鹿馬鹿しさよ。


さきのブルーボトルのケニアはとうに冷め切っている。舐めると、何故か唐突に、Shake Shack だろうか、ハンバーガー店の記憶が閃いた。ベリー。肉汁。ベリー。いかにもアメリカ都市民らしいパンチ・ラインではあるまいか。