8:00 現在、コーヒーは一杯、ブラジルのナチュラル。 ブラジルらしいチョコレートのような甘みは引き出しつつも、それを穏やかながらも印象的な青みのある酸味、青りんごとか、むしろタデ科の類の?茎のそれを思わせる酸味が引き立てる。とても滑らかなので、飲み込むとすっと引き、あとにかすかな香味が口腔に漂う。チョコレートホイップを纏ったケーキにイチゴが載っていると若干疑問を覚えるけれど、それがうまい具合に口の中で混ざるとイチゴの酸味がチョコの油分を具合よく洗い流して幸福な感情が口に湧く、そんな感じ。
昨日の夕方ごろから便りなさげに降っていた雨の気配は意外にもまだ続いており、湿った大気が少し向こうの幹線道路を走るタイヤの音を効率よくこちらに届ける。朝食には昨日の朝焼いてみたクランペットの残りをトーストする。鍋肌に平たく均された焼き目の表面を、ナイフで削ったバターの欠片が滑り落ちていく。
昨晩は永井荷風の『濹東綺譚』を、文中に名指される地名を地図に探しつつ読む。主人公は小説家で、作中には時折彼が目下執筆中の作品『失踪』の一節が差し挟まれる。
小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。わたくしは屢人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過るような誤に陥ったこともあった。(『濹東綺譚』)
本作に限らず、永井の作品に印象的なのは、そこここの建物だとか景色だとかよりもむしろ、それらの間の往来を可能にする交通網(道路、電車、乗合バス、水路…)への執着だ。とはいえそれは、たとえば車窓の向こうを過ぎ去っていく風景の連続だとかいったシークエンスがそのままナラティヴを推進するわけでもなければ、またコンパートメントやら長椅子やらが人々の出会いや語りの契機として利用されるわけでもない。永井の交通網は全く、それによって地上に疎密を組織し、物語を絡め取る網であって、編み上げられた線のそれぞれは街と街とを切断することで隣り合わせる。
本作は(永井の1936年ごろの取材に基づく)玉ノ井駅(現・東向島駅)周辺の銘酒屋(私娼窟)を舞台に展開するが、これはもともと浅草裏手に広がっていたものが、区画整理と関東大震災(1923年)に追われてこの地に移ってきたものだ。隅田川と荒川(荒川放水路が竣工したのは1930年)に挟まれて浮かぶ街、度重なる新道整備や鉄道敷設、廃線の中でその目抜き通りをくらくらと移しつつある街。江戸=東京にとっての「向こうの島」である街。
この街を永井はいかにも水捌けの悪そうな、ひとつの澱みとして描いている。しつこく顔に群がる蚊、溢れるドブ。事実それは物語の条件を成す澱みだ。河川を含む無数の交通の網目によって形作られたひとつの澱みだ。
水の臭い。永いことそれを恐れている。2019年、18きっぷ一枚で常磐線その他を乗り継いで、線路沿い、道路沿いの多くの街の傍らを通過した。かつて波に洗われた街々だ。
同じ年、大雨。各地の河川沿いに住む人々の悲鳴がネットを通じて押し入ってきた。
今の午前は、たまたま存在を知った東京下水道局の下水道台帳で、道路の下を延々這い回り、最後に処理場へと至る矢印を延々追いかけて過ごした(少々意外なことに、地図上で並走している下水道管の中身は必ずしも同じ方向へと流れているわけではないのだと知った)。
我が家は2度、下水の詰まりを経験している。2度とも同じ業者さん(同じ気のいいおじさん)に清掃をお願いした。高圧洗浄機に使うために、我が家の一つしかない水道からホースを延ばした。その何時間もの間、私は、そしてより重要なことには、屋外で作業する業者さんは、水道網へのアクセスを上下ともに失うことになるのだと気付いた。すぐ目の前ではそれらがずっと、短絡状態で押し合いへし合いしているというのに。
外は夜だ。
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