寝過ごした。玉子を落とした。物音がする。良い天気、大気は清潔だ。不愉快な今朝だ。もろもろのままならなさがごろごろとつむじを巻いている。
不愉快、不機嫌といかに付き合っていくか。
目の前の誰かの笑顔の裏にはしかし、じつは不機嫌が隠されている「かもしれない」。そうした可能性へのおわりない猜疑、恐怖、先回りしての対処と何食わぬ顔。
自分の不機嫌を何かの拍子にけろりと忘れてしまえるとして、それではそれまでの自分の不機嫌がまるで何でもないことであったようだから、そこをわざわざ強いて不機嫌へと沈み込むことを自らに強いてしまうコンコルド状態。しかし不機嫌は確かにコミュニケーションの手段のひとつだ。自らを社会から隔離しつつもその隔離において一層それを近く隣り合わせる。
洋画を見ていると、何であちらの人々は皆こんなにも不機嫌そうに振る舞っているのか不思議に思う。その不機嫌な面から不意に口角をくいっと釣り上げて見せたりするのでいよいよ戸惑う。ウインクも謎だ。ああした瞬間的な表情によるコミュニケーションはそもそも相手の視線を、まさにその瞬間に捕らえていないと成立しないわけで。あちらでは表情がアンビエントではない。ここぞというときにグサリと貫く、音声言語とさしてかわらない言語として機能しているように見える。不機嫌顔はそうしたパンクチュアルな表情の効果を最大限に引き立たせるための、あたかも白いキャンバスであるかのようだ。
ひるがえって曖昧な笑みを礼節となすこちらの空気だ。実際のところ私は根っからのそちらのネイティヴだ。不機嫌顔の垂れ流しは端的に破廉恥だと感じる側の人間だ。でも正直苦しい。現実として生は苦痛だし、料理が美味しいからといって美味しそうな顔がいつもひとりでに湧いてくるわけではない。
そうした人にとってこそ、ひっきりなしに開閉する自動ドアに土埃が絡まったままのマクドナルドの狭苦しい丸椅子とか、公衆便所の衛生陶器みたいな牛丼屋のカウンター席とか、そうした空間はかけがえのないインフラなのだろうと思う。
願わくは、世界中のだれもが一人残らず幸せであってほしいと思う。もはや笑顔を浮かべる必要がないほどに幸せであってほしいと思う。
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