2020年11月9日月曜日

20201109 分かち、苦しみ、足の親指

10:00 現在、コーヒーは一杯、エチオピアのナチュラル。少し冷めてうっすらと白濁したコーヒーのとろみは肌寒い朝の室内の空気によく馴染む。

唇の周りに出来物ができてしまい鬱陶しい。昨日の買い出しで気まぐれに着けた古いマスクが不調にとどめを刺したのかもしれない。

私の肌が、果たして強いのか弱いのか、いまだによくわからない。子供の頃から口まわりにはよく出来物ができる体質だった。手は空気が乾燥してくるとすぐ荒れて切れてささくれる。しかし水仕事には割と強い。飲食業に就いた3年間を経てさらに強くなった。手のひらも足裏も、物理的刺激に晒されて皮は厚く、痛みや火傷の痛みに鈍い。首の皮は貧弱だ。肘は常に荒れている。ついでに怪我には、とりわけ手首足首への怪我には臆病で、保健体育の時間に応急処置の話を聞いただけで気を失って転倒したこともある。

肌が「弱い=敏感」だ、ということ。刺激に対して一際に臆病で、それゆえそれによく感応するということ。「苦しむことが出来る」こと。受苦=情熱 passion に対する可能性=能力 possibility 。


昨日は太宰の『斜陽』を少し読む。没落する華族の娘が初めて履いた地下足袋の、足裏に感じる土べたの痛みと喜び。

地下足袋というものを、その時、それこそ生れてはじめてはいてみたのであるが、びっくりするほど、はき心地がよく、それをはいてお庭を歩いてみたら、鳥やけものが、はだしで地べたを歩いている気軽さが、自分にもよくわかったような気がして、とても、胸がうずくほど、うれしかった。戦争中の、たのしい記憶は、たったそれ一つきり。思えば、戦争なんて、つまらないものだった。(太宰治『斜陽』)

地下足袋が親指を、他の4本の指からわざわざ分つことの意味はどのようなものなのだろうか。前脚のように、その「握ることが出来る」ことにおいて殊更に他の哺乳類から霊長類を分つのに資するわけでもない、「足の親指」(バタイユではないが)のこの分かちの意味は。

あるいはそれは「苦しむため」ではないかと、そう思ってみたりもする。




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