9:00 現在、コーヒーはすでに二杯。タンザニアのウォッシュト(キリマンジャロ)と、コロンビアのウォッシュト(ゲイシャ)。
タンザニアはキリマンジャロと名乗るも酸味は控えめ。華やかさとも豊潤とも刺激とも距離をおく、どこか枯れて鄙びた印象。コロンビアは口にすると一瞬の空白ののち、ゲイシャ種によく言われるような紅茶というよりはむしろ中国茶のような、少し湿って微発酵した葉っぱのような風味が、すこしバタつきつつもふっと口の中に広がり、そこに加えていくらかの渋みを舌に残して去っていく。
昨日は銀座に最近できたUNIQLOに初めて入った。地下2階の「ビゴの店」にパンを買いに行くたびにずっと工事やってるなあ、とは思っていたが、既存の建物の1階から4階にかけての床をぶち抜いて吹き抜けにした改修はヘルツォーク&ド・ムーロンのデザインによるものらしい。近くのSONYビル跡地下もそうだけれど、正直私はコンクリートのこういう切断面に弱い。マッタ=クラークが好きなのもその幾らかは案外そんな理由によるものなのかもしれない。
高層ビルの吹き抜けというのはなんとなく妙だ。平面を高さ方向に連続的に操作する能力というのをもとより私は人間に期待していないのかもしれない。同じ平面を判で押したように反復するので精一杯だろう、と。しかし「高層 multi-story」とはいうけれど、それって並行世界ではないよなあ、と思う。それらのストーリーは無数の水道管に貫かれている。
そういえばコールハースの『錯乱のニューヨーク』、読んでないな。
八重洲の飲み屋街一帯で大々的に再開発が始まっており慄く。いくつもの街区を鉄板がまるっと囲い込んでいる。聳え立つ屏風状の扉の奥に閉鎖された道路が見える。道が潰れるというのは、建物が潰れるのとは全く別種のインパクトがある。なんだかんだで私たち(少なくとも、現代日本に住んでいる私たち)はやはりどこに行くにもあらかじめ道の存在を前提してしまっているし、その上を歩き、それに区切られた有限の範囲内でそれを捉えることに慣れてしまっている。そうしたフレームそれ自体が操作の対象として、オブジェクトとしていざ眼前に現れてくると途端に目が眩んでしまう。そうしたフレームは同時に私たち自身を定義するフレームでもあるから。経験として、私たちはどうしようもなく世界と相関しているから。
この平面=計画 plan の内側でなんとかやっていきましょう、そういう話だったでしょう、それが私たち、そういう私たちだったでしょう、それを今更、どうして、流石にそれは私たちの手に余る、手に負えない、もう沢山だ!
上野はアメ横でコーヒー豆と紅棗夾核桃を買う。ナツメの実を切り開いて中にクルミを挟んだお菓子で、昔バイト先の中国の方にお土産に頂いたことがある。どのくらいの歴史をもつお菓子なのか、私は知らないけれど、これはミニマルに悪魔的なお菓子だと思う。ここで「悪魔的」というのは「手段を選ばない」「なんでもあり」「こんなの美味いに決まっている」くらいの意味で、 「ミニマル」というのはそれがしかし味付けも何もなく、ナツメとクルミというわずかに二つの食材だけで構成されているからだ。これはズルい。最大効率にズルい美味しさだ。
私たちは常に何かしらのルールの内側、何かしらのリングの内側で戦っている。フランス料理ならフランス料理、和食なら和食、トルコ料理ならトルコ料理の内側で。ひとつの評価軸、ひとつのフレームの内に留まる。それが良識=常識 bon-sens というものだ。
それを横断するのは両方向に危うい行為だ。リングの外側に放り出されて、評価する側も、される側も、どう身動きをとっていいかわからない。まるで砂漠に投げ出されたかのようなものだ。最高に自由で、最高に道無しだ。先に「こっちだ」と言ったもん勝ちのような気もするし、そうして迷って野垂れ死ぬのもまたそいつの勝手だ。それはとてもとてもズルい、美味しい行いだ。それはあまりに手に余る、あまりに滅法な、それはあたかも空虚=バカンスのごとき豊かさだ。
朝は雨が降っていた。薄暗くて投げやりに寒い。ユニクロのダウンを買おうかと思っている(+J のダウンはいまだに実物を拝めていない)。冷蔵庫のスペアリブをどうしたものか。腹腔を支えるアーチ。11月も終盤だ。
追記
途中からフォントが妙になっちゃったけれど許してほしい。
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