2020年11月2日月曜日

20201102 編み目、家政、ステイ・ホーム

9:30 現在、コーヒーは一杯、エチオピアのナチュラル。皮の青い柑橘の酸味が口腔の側壁を広く、程よく引き締めたところに、それに抱え込まれるようにしてほんかな甘味、さっきまで落ちていた木漏れ日が土に残した微かな熱の名残りのような。


昨日はあれから地下足袋の底を型にジーンズの端切れを切り抜いて、アイロン掛けて端を折り込み、1時間ほどかけてようやっと、片方の1/3ほどに針を通した。思いのほか生地が重なって厚いのと、踵からつま先に向かうにつれていよいよ手元が見えなくなっていくのとで、なかなかに苦戦はしている。糸は赤。手持ちの糸の残りに余裕があるのがそれくらいしかないのもあるが、以前ズボンの破れを繕った際、やはりデニム生地と赤糸を使って以来、この組み合わせが割と気に入っているのも大きい。王蟲の眼のようね。

縫い物をしていると、普段気にも留めないような布地の織り目が途端に抗い難い頑強な格子として立ち上がってくる。やろうと思えば糸の横腹を突き刺しながら縫い目を進めることだってできなくはないが、大抵は余計な労力を強いられることになり、こちらの目までも混乱するし、針路もぶれるし、布地自体にも変な具合にテンションが掛かって歪んでしまう。結局公倍数を探り探り歩調を合わせて隙間を縫って進むほうが余程利口だ。この格子空間では、きっとドット絵作家などは日々痛感していることなのだろうが、針を刺す目がひとつずれただけで面は大混乱だ。


12:30 現在、コーヒーはすでに3杯。ケニアのウォッシュト。開封から時間が経ち、それと抽出もわりとじりじりと詰めた所為か、酸味は控えめに、液の輪郭を華やかに纏め上げる役に徹しているように感じる。


ついさきほどまで、突発的に始まった掃除に没頭していた。換気扇の羽と、なにより、その奥で屋外へと開いている3枚仕立ての可動庇に積りに積もった埃の塊をこそげ落とす作業。

これが典型的な現実逃避の一パターンであることは否定しないが、逃避の矛先が諸々の家事、特に掃除に向かう分には、私はこれを多めに見て良いと思う。

こういうものは計画性でどうこうなるものではない。「思い立った」に身を任せるに限る。埃とは、人間側にとっては愚か、自分自身にとってさえ、その意志や都合などはお構いなしに、有無を言わさず積もっているものだ。多かれ少なかれ己の理性に従ってやって来る上司や客や詐欺師を相手にするのとは、そこが決定的に異なる営みだ。

家事というのは毎日が不条理の連続だ。玄関には荷物が届くし、洗濯物にはティッシュが紛れ込むし、子供は勝手にずっこけては泣き出すし、虫が湧いたとスプレー缶を引っ掴んで走ったかと思えば同居人が相談もなしに訳のわからぬ魚を買って帰っては台所に放置して、自分はさっさと風呂に向かってはシャンプーが無いぞと喚き出す。

そう言う意味で、「高いところから順々に」みたいな合言葉は半分正しく、半分間違っている。年末の大掃除のように、きっぱり時間をとって、どっかり腰を入れてこれに臨む際には良いが、大抵家事というものはそんなふうには始まらない。ゆかを磨いていたら壁の隅っこに張られた蜘蛛の巣が目に入り、それを払おうとハタキを探しに向かった先の窓が気付けば雨風と排ガスに吹かれて真っ黒だったりする。そうした全く考え無しの訪れの連続には、こちらも相応の考え無しを以って対処する他ない。無意味的切断の善用。


とはいえそれを日記のうえで振り返るとき、そうした無法の連続も、結局はカレンダーの規律正しい格子の並びの中に編み込まれたドットのひとつひとつなのだと気付いて溜息を漏らすこともある。大くの場合、人は朝は起き、夜は寝る。日中の賑わいが嘘のように、夜中の繁華街は住民もなく静まり返る。そしてその中に、ぽつりぽつりと、コンビニのガラス窓の向こう、蒼白い光を背負って商品棚の検品をする店員の気怠げな背中がある。最後の客が会計を済ませた途端にはしゃぎ出す、24時間営業の居酒屋の店員の振り上げる腕がある。

殊に今年の春以降の世界は、こうした風景にどう向き合ってきただろうか。規範的な労働時間としての日中のオフィス街の喧騒に、足の踏み場もない家庭の片隅に、各都市に、国土に、「身内」という格子のうちにむしろ各々を過密に囲い込もうとしてはいなかったか。

ここに世界は一つの家となる。無意味的に去来したり、しなかったりする「自然」に、立ち向かうのだ、と喧伝する、ひとつの理性、ひとつの父権。




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