2018年12月24日月曜日

フルーツグラノーラは(どれが)おいしいのか

完全なる独断と偏見に基づく断定ではあるが、現在日本におけるフルーツグラノーラ市場を牛耳る三大ブランドが

・カルビー フルグラ
・ケロッグ フルーツグラノラ
・日清 ごろっとグラノーラ

である、と思う。

特にこれと言った理由はないのだがなんとなく、まあクリスマスもイヴだし、三者の比較をしてみたい。

カルビー フルグラ

何と言ってもこいつである。マチ付き大袋に800グラムのグラノラを湛えるその堂々たる赤い体躯を知らぬものはおらず、自らブランドの宣伝塔役を引き受けていると言ってもよいだろう。

その販売拠点はスーパーは言うに及ばず、薬局、通販、各種ディスカウントストアの店頭に群れを成し、折込チラシの中で商品写真とともに印字される価格はもはやその店の安売りに掛ける覚悟の指標と言っても過言ではない。

そのようにブランドイメージに関してはほとんど独走と言える存在感を誇る「カルビー フルグラ」であるが、正直私としては何度食べても(何度も食べたからこそ?)これを積極的に美味しいとは思えない。

その性格を一言で表せば、ディストピア飯だ。
得体の知れないパフ、互いに区別の付かない乾燥果実、季節に応じてそれにまじりこむ栗やら芋やら柿やらをすりつぶして固めた立方体、均等に分散するようにすべて律儀にサイズが揃えられたそれら全体を白っぽく和え纏める粉末と記号的に食材名へとリンクを貼るばかりのケミカルフレーバー。

しかしだからダメだというのは尚早だ。むしろこの絶妙な美味しくなさ、というか味についての問題にならなさこそが救いになる場面は意外にもあまりに多い。

気がつけば食べるものが何もない、まあ月に1、2回は出くわすかもしれないそんな時、しかし現状その瞬間の自分の気分も体調も知る術の無いそんな時への保険が欲しいと思うことはないだろうか。
あるいはシリアルでもフルーツでも、それらの寄せ集めでもない、単なる「フルーツグラノーラ=フルグラ」が食べたいと思うことはないだろうか。
仕事に打ちのめされて帰宅した夜、テーブルに僅かな食器と牛乳、そしてフルグラの大袋を投げ出し、YouTubeをブラウズしながら無心でもそもそ咀嚼するにはこれ以上無い存在だ。
開封時に上方に寄り集まった塊を、あるいはかき分け、あるいは摘んで口に放りつつボウルに流し込む楽しみといったらない。

フルグラとはすなわちこうしたざらついた日々の総てをひとまず肯定して明日へ向かおうとする私たちのかけがえの無い砦なのだ。


ケロッグ フルーツグラノラ

まず最初に明かしてしまうと、この三者から選ぶとするならば個人的にはケロッグが一番好みだ。

特徴としては、他の二者と比べてコーンフレークっぽさが強いようだ。かすかに糖の結晶にきらめく小ぶりのコーンフレークはさながら砂浜に無数に打ち上げられた微細な二枚貝の死骸のようにさらさらとすべてを覆う。

そう、砂浜といったが、ほかと比べてケロッグには「塊」が少ない。具材をまとめる糖類の衣が控えめなのが特徴だ。開封して最初の一振りにさえ大きな塊が転がり出て来ることはなく、あくまでもあっけなくさらさらと、袋を傾けるほどに微かにかさかさと音を立てつつ器へと流れ落ちてくる。自然その間間に浮かぶドライフルーツなども衣に白む事はあまりなく、どこか投げやりな鮮やかさを以て気まぐれに転がり落ちてくる。


日清 ごろっとグラノーラ

「ごろっと」と名乗るだけあり、気持ち大きめの具材、ついでに気持ち大きめの塊による特別感が売りのようだ。
大きめの塊があるということは、塊たらしめる「つなぎ」が大きな役割を果たしているということだ。
実際このシリーズ中で最も「基本」に近いと思われる「ごろっとグラノーラ メープル仕立ての贅沢果実」の場合、その商品名からもわかるように、濃厚なメープル風味が(実際にシリアルへの練り込みとは別に後からまぶされているかは分からないが、少なくとも味覚の上では)ドライフルーツ等の具材を含めた全体を(割りと強引に)まとめ上げている。

折に触れて他と比べていささか挑戦的な顔ぶれを打ち出してくるのも特徴であり、安定感にはいささか心もとないが、日々の生活に差し挟む「ちょっとした特別感」といったくらいの立ち位置にいるように思う。


結論(は無い)

以上。あえて私個人の好みを言うならば、

1位 ケロッグ フルーツグラノラ
2位 日清 ごろっとグラノーラ
3位 カルビー フルグラ

となる。

いまここで言うことでもないが、正直私は日本のグラノーラは色々とこねくり回しすぎだと思うし、その点で私は上のいずれも積極的に美味しいとは思えない。

とは言えそれを毎回買ってしまう私がいるのだ。

カルビーはこれからも売れ続けるだろう。

2018年10月13日土曜日

沼にハマりたくない私のための アナログレコードの廻し方 前編:発想

目の前にある一枚から

9月の半ば、なにやら見慣れぬ妙に平べったい段ボール箱が届いた。『リズと青い鳥』サウンドトラック 牛尾憲輔プロデュースアナログ盤。以前ダメもとで応募していた半券キャンペーンに見事当選していたのだ。

ところで我が家にはアナログレコードの再生環境というものが欠片もない。そもそも音楽をそれほど積極的に聴くガラでもないので音楽の再生環境一般について最小限のものだ。
それゆえ今更大掛かりなオーディオ機材一式の装備などはもとより御免蒙りたい。望むらくはシンプルに、目の前にあるこの一枚を聴くこと。私のアナログレコード廻しの試みはここに始まる。

沼にはまらないために

ともあれまずはターンテーブルを探せばよいのだろうという当初の素朴ながらも初心者として健全な発想は、しかし後述の理由で必ずしも適切ではないとやがて知るところとなる。

いや、それでもいいのだとは思う。情報を拾い集めながらピースを集めていき完成したあとは試行錯誤しつつ各部を少しずつアップデートしていく、という営みは、それはそれでオーディオの大きな醍醐味なのだろう。

しかしそれはあくまでもオーディオそのものを趣味にしようという者の話だ。これから沼地に身を沈めようという兵どもの武者震い混じりの口上だ。翻って私のような人間にとってそのような手順はあまりにリスクが高すぎる。悪手すぎる。

ではどうすればよいのか。深入りしないためにこそ、短期的成果に重きを置くためにこそ、大局の大づかみが必要だ。目指すべき入口と出口を見定めた上で、それを最短経路でつなぐための見通しが必要なのだ。   


線分と分節

要は何を実現できれば成功と言えるのか。
アナログ盤に記録された音を、聴く者の耳まで届ければよい。
盤上の溝を電気信号に変換し、スピーカーに届ければよい。
すなわち、入力の極にはターンテーブル、出力の極にはスピーカーという両極を設定し、それらを「レコード針」「フォノイコライザー(変換)」「アンプ(増幅)」「有線ないしは無線回路」といった必須中継点を介しつつ一本の線分で結べばよいわけだ。


さてややこしいのはこれら各中継点が必ずしもそれぞれに一つの機材と対応するわけではないという点だ。というのもしばしば一つの機材が複数の中継点を併せ受け持っており、それは便利なことではあるのだが、反面機能の分担の様子が見えにくくなるという面があるのもまた事実である。

たとえば盤上に変換されて記録されている音を元の形に復元する回路である「フォノイコライザー(フォノイコ)」だ。アナログ全盛期にはアンプに内蔵されているのが一般的だったのだが、アナログ盤の衰退に伴い近年ではフォノイコ内蔵アンプ自体が減少し、代わりに単体のフォノイコを噛ませるなり、フォノイコ内蔵のターンテーブルを使用するなりしなければならなかったりする。
仮にハードオフで在りし日の高級ターンテーブルを格安で手に入れたとしても、フォノイコ以下の機材を別に揃えた結果かえって高くつくという結果もあるいはありうるわけだ。

このような事情から、機材を単体で選択することは必ずしも適切ではなく、常に他の機材やその他の条件とから成る文脈の中で選択することでこそ、無駄のない結果が得られるのだ。オーディオとは文節の問題なのだ。


(次回「後編:実践」に続く)





2018年6月2日土曜日

ブログのタイトルどう頑張ってもダサくなる

藪から棒になんですが、ブログのタイトルって総じてダサいと思うわけです。

「そのダサさが堪らない」みたいな評価に対しては部分的賛同にやぶさかではありませんが、それはともかくブログにはどうもブログに特有の命名事情というものがあるようで、まずはとりあえず命名の傾向を幾つか分類してみます。



・名入れ
 定番中の定番でしょうか。管理人が名の知られた人である場合は公式感を強調することにもなります。他の命名法と組み合わされることも多いでしょう。
例:「〜のブログ」「〜's blog」


・空間的比喩
 やはり定番です。個々の記事を格納するイメージですね。
例:「〜の部屋」「〜's room」「〜待避所」「〜置き場」


・記録、おしゃべり
 やはり定番。
例:「〜日記」「〜備忘録」「〜報告書」「〜のここだけの話」


・主題
 書く内容にある程度の統一性がある場合のみ、という制約はあるものの(脱線はよくあることとはいえ)、その主題に興味を抱く読者に他の記事も閲覧してみよう、という安心感を与えうる点では優れているといえます。
例:「ねこログ」「ナナハン日記」


・座右の銘
 ややもすると説教臭くなりがちですが。
例:「人生一期一会」「七転び八起記」


・部分を以て全体に換える
 ある意味前ふたつの中間といえるかもしれません。自分の言いたいことをよく要約してくれるような言葉を掲げる手法。
例:「hors d'œuvre(註:現時点での本ブログタイトル。「作品-外」程度の意)」



こうしてみると出版物というよりはむしろ建物の命名にちかいものを感じますね(「〜荘」「〜庵」「〜ハイツ」とか)。座右の銘なんてとりあえず茶の間に掛けてみた掛け軸って感じです。

文章ベースという点からブログの類似物をついつい出版物などに求めてしまいがちです。しかし個々の記事を待たず、開設時点で命名されてしまうことが多いブログの場合、タイトルはどうしても内容とのつながりが弱く、単に将来書かれるであろう雑多な記事の「容れ物」というふわふわとしたかたちをとらざるを得ない、ここにブログタイトルの宿命的なからっぽさの源があるように思います。

Twitter をはじめとするアカウント名ベースのサービスが主流の現代にあって、「訪問」する、みたいな文化がなお残っているとしたらどこなのでしょうか。「どうぶつの森」?