2016年1月31日日曜日

中山いくみ個展「HAL(L)O! HIROSHIMA」於Gギャラリー/高畠愛子作品於カタ/コンベ定期展「KITAJIMA/KOHSUKE」

2015年7月8日から9日にかけてTwitter に投稿した一連の投稿のまとめです(元ツイートはTwilog 経由で参照可能)。


2015年7月8日分のtwilog
http://twilog.org/10aka_/date-150708 2015年7月9日分のtwilog http://twilog.org/10aka_/date-150709 6月27日、日帰りながら広島に行ってきました。 目的であったGギャラリーでの中山いくみ個展「HAL(L)O! HIROSHIMA」、初めての広島での経験とないまぜになり印象に残っているので、この際ないまぜのままに書き連ねます。


広島市街では何よりも、市内を流れる川水の、黒々とした凄みが印象的だった。河辺には柵も無く、数多く設えられた石段は岸辺に溜まる泥へと直に差し込む。廃棄物や小舟が横たわり、足音に無数の蟹がざわつく。他方下ろされた釣糸や急拵えのコンクリブロックの階段には確かな生活臭も見て取れる。 川が生命活動の痕跡そのもののように、引き伸ばされ横たわる影法師のようにそこにある。痕跡、影法師と言うのはつまり、川水の存在感はその外部を持つ、外部に支えられているということだ。 中山いくみ個展「HAL(L)O! HIROSHIMA」を、その広島の地で見ること。 それはあたかも近くを流れる京橋川から取り残された水溜りのように、Gallery G(毒気と生気をまとめて塩素で脱臭したような気の抜けたプールに浮かぶガラス箱だった)にどす黒い光を持ち込んでいた。 たとえばエノラ・ゲイの窓を象ったあの黒々としたパネル。個展前にその表面を研ぎ出す現場を間近に見たのだが、黒く濁ったたらいの水面に映る雲の像のゆらめきが印象に残っている。 私が広島の水に感じた存在感とは存在の自足性によるものではない、むしろ絶えず周囲の事物を映し込み、それを歪ませつつ自らもそれと一体に歪んでいくような、動的なそれだ。 すべてに溶け込みすべてを溶かし込む水。水面の歪んだ像は水と不可分だ。 影法師のような広島の川はまざにそのようなものとしてそこにあった。そして反射や屈折、作品と鑑賞者との光学的紐帯、「像と光の間」に関心を寄せる中山いくみの作品もまたそれを問題としている。 その作品の像はただ歪められるのではない。それを「歪んでいる」と認識する鑑賞者の存在を告発し、作品へと巻き込んでいく。光と像、画面のこちらとあちら、広島の地とその「光を-観る」客人といった二項の撹乱。作品を覆うガラスに映り込む自らの像が画面の像と弁別困難になってしまう厭わしい経験。 中山が再現するエノラ・ゲイの窓は奥行が圧縮・平面化され、操縦桿の向こうとこちらとの区別を失い、その黒く艶のある表面に原爆を運ぶ操縦者と原爆を受け取る広島の地にある鑑賞者とが重なり合う。 広島は既に米国という客人の視点を経由すること無しに見ることは不可能になっている。平和教育はエノラ・ゲイの置土産だ。しかし他方、彼らが広島にもたらした当の贈り物、リトルボーイそのものの視点に立つことは大きな禁忌であり続けてはいまいか。 平和祈念館の廃墟広島を描いたパノラマ空間の中心即ちリトルボーイの視座は、投下時刻を指す時計を模した水盆に占拠されている。 「目的地点」が「悲劇の中心」へとすり替えられている。原爆を全き彼岸から飛来した非人称的な悲劇にするために。自分たちとの間に一切の連続を許さないように。 しかし果たして悲劇に中心などあるのか。そのような単一のものでありえるのか。 ともあれ原爆は広島を、爆心地を中心とするひとつの同心円のもとに再編してしまった。平和記念資料館の多くの資料には、それらの投下当時の所在地の爆心地からの距離が記されている。事後的な都市計画。 そして原爆とは、ひとつの大いなる記念撮影だった。それは広島を単一の平面へと射影し焼き付ける。 ヴィリリオは原爆と911との相違を、後者のマスメディアによる反復性に見出すが、裏返せば原爆はその表象の単数性を特徴とする。広島をヒロシマとして、単一の分脈の上にピン刺し標本化すること。 平和記念資料館の展示品、各所から撮影されたきのこ雲の複数の写真すらもあまりに記号的にみえる。きのこ雲がどこからみてもシルエットが変わらない回転体的図形であるから尚更だ。 いわばグーグルマップの地図上のピンのように(旧日本銀行広島支店で見た小田原のどかの矢印もまた) 今回の中山の個展の狙いは、まさにこの記念写真的単数性を打ち崩すことであった筈だ。その姿勢は個展のタイトルに既に表れている。光暈 halo 即ち ハレーション halation 、印画平面内部にありながらその外部としての物質性を示唆する兆候。分かち難い水面と映像、こちらとあちら。 現代のヒロシマ・ナガサキには個人が、いや個人だとまだ社会構成員臭がきつい、バタイユの表現を借りるならば「動物」、「感性」が、許されていない。そういう意味で単数的・記念撮影的なのだ。 原爆という中心に結集された悲劇の共同体は当然アメリカのカメラ・アイを経由している。しかし当の犠牲者の多くはそんなもの関係なしに、動物的な暗闇の先端で死んでいったのだ。

広島を後にしたその足で中野カタ/コンベ定期展 KITAJIMA/KOHSUKE。 高畠愛子さんの、円形のパネルに有刺鉄線の一房をポップに描いた作品があった。沖縄米軍基地撮影時、唯一監視員による削除を逃れた写真に写り込んだものを描いたという。やはり向こうとこちら、米国と日本だ。 円形の画面は更に水玉模様に覆われ、結果画面は二つのレベルで円に統御されている。 円は求心的、即ち自己完結性が高く反復に適さぬ形態ではないか。それが棘の房の反復であるはずの有刺鉄線をフレーミングしている。さらにそこに水玉模様という円の反復だ。 さしあたっての比較事例に、四角形の反復としての金網即ちグリッドを思い出す。 ロザリンド・クラウスによればグリッドは遠心性(=反復)と求心性との両立に特徴づけられる。では水玉模様とは何者か? 円の反復としての水玉模様の実現を担保するのは、個々の円の間に必ず残る或いは生まれる空隙である。水玉模様は空隙の反復でさえある。 グリッドはその全体的形式規定性自体が内容化しているのに対し、水玉模様はその個別的内容充填性がむしろその間隙を、ひとつの連続した地として強調してしまう。 高畠愛子さんの画面は、円形パネルは充実した円盤であると同時に有刺鉄線を切り取る空間を開く空虚な枠であり、有刺鉄線は切っ先鋭い物体でありつつむしろその反復の全体は鉄条網の向こう側を示唆し、水玉模様は支持体の円を反復しつつその空隙にひとつの空間を開くという複雑な入れ子状態を呈する。 画面を前にしてピントを結べないこと。モネの睡蓮を思い出してもいい。 鏡が目の近くにあろうが遠くにあろうが、ことさら近視の者にとってその表面に映る風景が依然ぼやけたままであることにかわりはない。鏡面と像とは同時にはピントを結び得ない。
水玉がそうならば、水滴もまた。個々の水滴の充実とその空隙によって開かれるひとつの空間。 DMにも採用されている《Kの肖像》。水滴と水滴との隙間に浮かぶおぼろげな人影、そしてそれに加えて、個々の水滴がレンズとして、それぞれ別個に(そこが重要だ)肖像写真を結像する。 ところで水滴は人物の姿を「覆い隠し」「歪めて」いるのか?しかし観る者が人物の細部、涼やかな目や金ボタンの冴えた輪郭を知ることができるとしたら、それは水滴の歪像、そしてその多数性によるものだ。 原爆を雛壇で平面化された記念撮影の単数性へと回収しないために。原爆という中心なしに「狭隘な」自己の視界に充満する不幸の内に死んだ/生きた無数の人々を無きものにしないために。それが個々の水滴の歪像だ。水滴の小ささ、だがそれらのレンズの各点においてその度ごとに、その光が世界の全てだ。


付記

なお、先のKの肖像と(現状ではやや片寄った)対を為す同名作品では、水滴とグリッドの両方が画面を覆う点付言しておく。先述のとおりだが、整然と並ぶグリッドによる肖像の色面分割はモザイク画的な分散した快楽を惹起し、水滴はその間隙に分散以前の単一の肖像を垣間見ることを誘いかけもする。 展示紹介の文章がだいたいそのとおりだな、という感じなのでこれ以上あまり突っ込まないけれど、例えば「反射作品」は作品保護の透明板という絵画の制度面への問題提起でもあり、デリダによる内化された外部としてのパレルゴン(作品に−付随するもの par-ergon)の議論へと接続可能だ。 あと私が中山さんの作品を見た感想をこのように書いて、ではそれらは原爆画なのか、平和への願いこめてんのかというとそうではなくて。 ひとつの理想はそれこそ作品自体がその都度の文脈を映しそれと溶け合うひとつの水鏡になることなのだろうし、もしかしたら私たちは既に中山さんに騙されている。 あと、ごくごく薄い本だけれどこの本は読まれて欲しいな。 ジョルジュ・バタイユ『ヒロシマの人々の物語』 http://www.amazon.co.jp/dp/4907105045