10:00 現在、コーヒーはすでに二杯目、昨日買ったエチオピアのナチュラル。
口にした途端、液の重さがふっと消えて、 細いスリットから差す光のように、舌の上に一すじの道が走るような感覚。そして闇に目が慣れていくように、開演を待つ客席の熱気が静かに高まっていくように、そのランウェイを中心に、次第に、思い出したとでもいうように、さまざまな印象がじわりと浮かぶ。吸水中の粉からすでに漂っていた、少し青臭いマンゴーか何かの酸味。重い木のテーブルにグラスがことりと置かれるような、静かな苦味。砂糖が水分を吸ってさらりとほどけていくようななめらかなテクスチュア。
今朝の朝食、ご飯と、なめこ、大根、高野豆腐の味噌汁は昨日の残り。加えて厚焼き卵。一時期どうしてもくっついてしまうようになり、作るのをやめていたのが、最近久々に試してみたらまた綺麗に焼けるようになっていた。卵焼き器の方が拗ねていたのかもしれない。
昨晩炊いた玄米は、浸水を忘れていて、せっかくの塩鮭があるので譲れず久々に引っ張り出した圧力鍋でごり押しで炊いたところ、お赤飯もかくやのもちもちに仕上がったのがおもしろく、笑ってしまった。水分量も適当に米と水とを1.5カップずつで、強火スタート、加圧後弱火の20分、放置10分みたいな感じだったのだが。せっかくだししばらくこちらで炊いてみようと思う。中身を確認出来ない点、圧力鍋は闇鍋だ。
もはや主食の座を奪っていた煎餅やらを食べるのをぱたりとやめてひと月あまり、買い出し時の出費が意外なほどコンパクトになり、食事を用意する時の気構えもいい意味でテキトーになった。疲れ切って帰った昨日もほいほいと汁物まで用意したのだから、我ながら立派なものだ。
昨日出たのはまたしても上野のほうで、着いてまず寄るつもりだった店はまだ開店30分前で、待つ間に向かったビタールはなぜかシャッターが下りていた。遣る方なくずらずらと足を引き摺り東に向かう。
手摺り越しに差し向かう隅田川の水面はいつも私のへそぐらいまでぐっと高く競り上がって見える。秋の日射が川面に落とす両国橋の影は対岸には冴え冴えと、此岸に寄るほどに境目を波にほどかれて色々のモザイク細工のようだ。陽が差し込む側に回ると、川の鏡面が橋に翳されて押し黙ったところに水中からの光が浮かび上がり、そこだけ古いガラス瓶のように藻緑色で。水の重たさ。
蔵前のアンビカで諸々の食材を調達する。5kg入りのバスマティが格安で、余程ひっ提げて帰ろうかとも思ったが、断念。値札のない、ピンポン玉よりひとふた回り小さい何かの果実か冷蔵庫に山積みになっていた。微かに梨肌の黄緑色の果皮は薄く、透き通っており、中に液胞を抱え込んでいるかのようだったので注意深く摘み上げたが、思いの外丈夫なようだ。以前とあるコーヒーのカッピングコメントにあったセイヨウスグリに少し似ているな、と思いつつ、おそるおそるふたつをかごに転がした。
当初は隅田川沿いを三ノ輪方面に歩けたらと(永井荷風ルート)思っていたが、先に果たせなかった予定を済ますべく、上野へと引き返す。ビタールはやはり閉まっていた。これからどうしたものかと思ったが、不忍池にはまだ蓮の葉が残り、そういえば駒込あたりにまだ通販でしか利用したことのなかいコーヒー屋があったことを思い出し、そこに寄りしな歩いて帰ることにする。結果として上野から3時間近く掛かった。5kg入りの米袋など買わないで良かったと思う。
外出した日の夜はいつも不思議と時間がある。夜寝る前、永井荷風の『すみだ川』を読む。永井のかなり若い頃の作品で、書いたのは明治42年(1909年)のこととある。明治42年といえば、荒川(当時はそのほとんど全流が隅田川に注いでいた)流域を水浸しにした明治40年洪水の直後であり、また翌年には(翌年着工の荒川放水路建設決定のダメ押しになったであろう)明治43年洪水を控えている頃だ。永井自身は序文中でこれらの洪水に直接言及してはいないけれど、急速に移ろいゆく江戸-東京の風景の水際としての川という場所感はこの時点から既に強くあらわれている。
ところで作中の主人公のひとり、若い長吉は、芸者修行に葭町(現・人形町付近)へと移り住んだ幼馴染のお糸の影を追い、今戸橋(山谷堀の隅田川との合流点)の自宅から隅田川沿いを延々下っていく。葭町はかつて元吉原があった地で、1668年に吉原が現在の浅草裏に移ってからはそこに芸妓が移り住み、戦後しばらくまで花街として栄えることになる。
普段東京にいても意識することはほとんどないが、こうした花街、廓街の跡地(というのは、しばしば政府の命によって街ごと作られ、街ごと移転された跡地)は案外あちこちに残っていたりする。
またしても話は戻って昨日の上野の帰り、東京大学裏の入り組んだ住宅街を分け行った先、根津神社の鳥居に行き当たった。それまでは聞き齧ったことがあるばかりだったが、このあたりにもかつて根津遊郭という廓街が広がっていたらしい。吉原大火の際には逃れてきた吉原の遊女も受け入れたが、東京大学の近辺ゆえに問題視されたこともあり(東大の出の坪内逍遥の妻はこの地で見染めた遊女)、1888年には東京湾の埋立地に構えた洲崎遊郭へと移転を命じられる(『濹東綺譚』の主人公はこの洲崎遊郭を舞台にした小説を書いたことがあるとの描写があった。『元八まん』中の永井も、電車(城東電気軌道?)の洲崎大門前で下車して遊郭へと帰っていく遊女を目撃している)。こちらも現在ではその街区割りを残して他には見る影もないことは言うまでもない。
読み終わった頃には0時を回っていたが、今朝は案外普通に起きて、朝食をとり、コーヒーを試し、晴れていたのでぬるま湯でぬいぐるみを洗った。
アンビカで買った果実は、レシートの印字には「amla」とあった。調べると、和名をユカン(油柑)といい、主にインド圏で食用に栽培されているらしい。スグリとは全く関係がなかった。包丁を入れると想像よりも遥かに固く、ざらりとした感触で、中心に種があるらしく、これが固くて割ることもできず、またリンゴやアボカドを剥くときのように捻って種を外すことも出来ない。仕方がないので直に齧り付くと、皮と実に境の無い、細目の紙やすりのようなザラリとした歯触りで、歯切れは非常に悪い。そして強い酸味と渋み。問題の種と実とはしっかり絡み合っている。あえて例えるならば、とても若い青梅の、実の部分を全て突き固めた皮に置き換えたような感じだろうか。歯触りの悪さゆえ、スライスするのが適当かと思う。インドではおもに漬物(ウールガイの類だろうか)にするという。
外からは焼かれたアスファルトの臭いが漂ってくる。スコップを震わせる振動が大なり小なり、不規則にぶつかり弾けては鉄板をジタバタまだらに鳴らしている。