2020年11月30日月曜日

20201130 薄暗がり

8:30 現在、コーヒーはすでに一杯。それと甘酒を飲んだ。酔わないように蓋なしでしっかりと煮立てた。

今朝は少し早く目が覚めた。朝の薄暗さは視神経に深くまとわりつくようで、寝覚の思考の曇りと区別が難しい。電子秤の太陽電池が反応しないのでこれは前者の暗さなのだろう。

昨晩の買い出しの夜道も暗かった。最近買った布マスクは息苦しく、呼吸のたびに眼鏡が曇って街灯の光が虹色の暈を背負う。視界が狭まり、全てが鈍く暗がりに沈み込んで判然とせず、音も毛布を被っているかのようにくぐもって聞こえる。暗い夜であるのかはたまた思考が渋り切っているのかわからない。電柱にぶつかりかけながら歩いた夜勤明けの朝に少し似ている。軽く短い上着は背筋を丸めて呼吸を浅くする。脳の昏酔と区別がつかない。

スーパーを出た帰途、マスクを外すと半ば満ちた月が煌々と明るかった。どうやら明るい夜であるようだった。すでに熱を夜空に放ち切った空気が鼻先から上唇にかけての空間に渦を巻き、顎を敲き、こめかみをすっと透かして抜けていくのを感じる。眼鏡が鼻筋に座り良い。住宅街のそこここから希釈され切った下水のような臭いが漂っている。植木の葉が街灯に晒されてあちこちまだらに黄色く変色し、ぶら下がっている。一月ばかり前に街工場が取り壊されてできた空き地の片隅の小さな土山がいつのまにやら無くなっていた。すぐ傍らに隣家の窓があって、そこから漏れる薄黄色い光はいつもその山の片側をすっぽり照らして、反対側には山の影が平たく延びきっていた、それもいまはもう単に投げやりに濁った薄暗がりだ。土は黒かっただろうか、それを見るのはいつも夜であったので判然としない。重機の軌道に沿って路面に押し付けられた土塊もすでに洗い流されている。


久々に晴れて明るい陽だ。工事が始まる。甘酒のアルコールに脈が詰まる。眠い。西向く士、明日からは12月である。

2020年11月29日日曜日

20201129

12:00 現在、コーヒーはすでに二杯。ボリビアとタンザニアのウォッシュト。前者は昨日のリベンジ。今度こそ、なるほど白い花のパウダリーな香りが口蓋をわずかにくっと押し上げる。そしてその香りからは少し意外なとろりと濃い印象(はちみつと表現されている)、そしてかすかにバターを塗って焼いたトーストを思わせる甘く香ばしい芳香。

今朝も遅く起きたが、昨晩は訳あってそもそも就寝がかなり遅かったのでまあ妥当だと思う。目覚めとしてはわりと綺麗にすっと目覚めた。寝癖はひどかった。深夜の空気はさすがに縮むように寒かった。

一年ほど前に書いたメモ書きをいくつか拾い読んだ。薄いノートにゲルインキボールペンの殴り書き。他人の言葉をこちらの言葉に翻訳した痕跡がある。矢印が縦横に走っている。主線と同じ線でところどころザクザク塗られた図解がある。どこからか流れてきた湯の香りほどに朧ろにはためくイメージを追っては散らす焦燥、絶望、数々の詐術の痕跡に満ちている。どうしてああもあることができたのか、いまとなっては全くわからない。

木漏れ陽は単に記憶の羽触れであるかのようだ。遠く目のおもてを一瞬掠めては過ぎ去って、たどり返そうにもその記憶はすでに別の布置に上書きされてしまっている。すでに陥っている私たちのこの状況それ自体が時間なのであって、私たちの外部やら内部やらに時間はない。すべては喪失の味だ。この肌寒さが過去の記憶、未来の不安だ。首に当てた掌に頸動の脈が跳ねる。立てた襟のこのだぶつきが現在だ。

2020年11月28日土曜日

20201128 笑顔

11:30 現在、コーヒーは一杯。ボリビアのウォッシュト。チョコレートのようななめらかな甘み、そこに、適切な表現かわからないが、ミントのようなぴりっとした刺激がかすかに。…そう感じたのだが、付属のコメントによればむしろフローラル系らしい。淹れ方の問題なのか、いよいよわからない。

寝過ごした。玉子を落とした。物音がする。良い天気、大気は清潔だ。不愉快な今朝だ。もろもろのままならなさがごろごろとつむじを巻いている。

不愉快、不機嫌といかに付き合っていくか。
目の前の誰かの笑顔の裏にはしかし、じつは不機嫌が隠されている「かもしれない」。そうした可能性へのおわりない猜疑、恐怖、先回りしての対処と何食わぬ顔。
自分の不機嫌を何かの拍子にけろりと忘れてしまえるとして、それではそれまでの自分の不機嫌がまるで何でもないことであったようだから、そこをわざわざ強いて不機嫌へと沈み込むことを自らに強いてしまうコンコルド状態。しかし不機嫌は確かにコミュニケーションの手段のひとつだ。自らを社会から隔離しつつもその隔離において一層それを近く隣り合わせる。

洋画を見ていると、何であちらの人々は皆こんなにも不機嫌そうに振る舞っているのか不思議に思う。その不機嫌な面から不意に口角をくいっと釣り上げて見せたりするのでいよいよ戸惑う。ウインクも謎だ。ああした瞬間的な表情によるコミュニケーションはそもそも相手の視線を、まさにその瞬間に捕らえていないと成立しないわけで。あちらでは表情がアンビエントではない。ここぞというときにグサリと貫く、音声言語とさしてかわらない言語として機能しているように見える。不機嫌顔はそうしたパンクチュアルな表情の効果を最大限に引き立たせるための、あたかも白いキャンバスであるかのようだ。

ひるがえって曖昧な笑みを礼節となすこちらの空気だ。実際のところ私は根っからのそちらのネイティヴだ。不機嫌顔の垂れ流しは端的に破廉恥だと感じる側の人間だ。でも正直苦しい。現実として生は苦痛だし、料理が美味しいからといって美味しそうな顔がいつもひとりでに湧いてくるわけではない。

そうした人にとってこそ、ひっきりなしに開閉する自動ドアに土埃が絡まったままのマクドナルドの狭苦しい丸椅子とか、公衆便所の衛生陶器みたいな牛丼屋のカウンター席とか、そうした空間はかけがえのないインフラなのだろうと思う。

願わくは、世界中のだれもが一人残らず幸せであってほしいと思う。もはや笑顔を浮かべる必要がないほどに幸せであってほしいと思う。






2020年11月27日金曜日

20201127

10:30 現在、コーヒーは一杯。エチオピアのウォッシュト。

UNIQLOで赤いマフラーを買った。ワインレッドか。

近くの公園にサザンカが咲いている。分厚い葉は街灯の光を押し殺して黒々と、そこに細かく散すように葉の縁が白くぎらつく。赤い花弁に雄蘂(ってこんな字を書くのだな)が眩い。

人混みを避けて夜に買い物に出るようになってから、花の色が今までになく目に鮮烈だ。殊に赤、白。街灯にぽっと照らされているのもそうだが、暗がりに飲み込まれて半ば青く沈んでいるものも。

先日買ったシクラメンはまだつぎの花を覗かせてはいない。

2020年11月26日木曜日

20201126 how how no tea

11:00 現在、コーヒーはすでに三杯。

だるだるのだる。糞便に塗れた夢からねじ切られるように目を覚ます。

昨晩はスペアリブと根菜をオーブンで焼いた。三本のうちの一本はウールガイの漬け汁の残りを塗って焼いた。オーブンの照明に油が光ってテラリウム。白米となめこ汁。めくるめく。

先日買った味つきひまわりの種、本来は殻を剥いた中身の種だけを食べるようだが面倒くさくて殻ごと食べたりしている。繊維に沿って縦に裂けるように砕けるので、残骸が歯茎にグサグサ刺さる。

日〜!

2020年11月25日水曜日

20201125 高層、廃道、無国籍

9:00 現在、コーヒーはすでに二杯。タンザニアのウォッシュト(キリマンジャロ)と、コロンビアのウォッシュト(ゲイシャ)。

タンザニアはキリマンジャロと名乗るも酸味は控えめ。華やかさとも豊潤とも刺激とも距離をおく、どこか枯れて鄙びた印象。コロンビアは口にすると一瞬の空白ののち、ゲイシャ種によく言われるような紅茶というよりはむしろ中国茶のような、少し湿って微発酵した葉っぱのような風味が、すこしバタつきつつもふっと口の中に広がり、そこに加えていくらかの渋みを舌に残して去っていく。


昨日は銀座に最近できたUNIQLOに初めて入った。地下2階の「ビゴの店」にパンを買いに行くたびにずっと工事やってるなあ、とは思っていたが、既存の建物の1階から4階にかけての床をぶち抜いて吹き抜けにした改修はヘルツォーク&ド・ムーロンのデザインによるものらしい。近くのSONYビル跡地下もそうだけれど、正直私はコンクリートのこういう切断面に弱い。マッタ=クラークが好きなのもその幾らかは案外そんな理由によるものなのかもしれない。

高層ビルの吹き抜けというのはなんとなく妙だ。平面を高さ方向に連続的に操作する能力というのをもとより私は人間に期待していないのかもしれない。同じ平面を判で押したように反復するので精一杯だろう、と。しかし「高層 multi-story」とはいうけれど、それって並行世界ではないよなあ、と思う。それらのストーリーは無数の水道管に貫かれている。

そういえばコールハースの『錯乱のニューヨーク』、読んでないな。


八重洲の飲み屋街一帯で大々的に再開発が始まっており慄く。いくつもの街区を鉄板がまるっと囲い込んでいる。聳え立つ屏風状の扉の奥に閉鎖された道路が見える。道が潰れるというのは、建物が潰れるのとは全く別種のインパクトがある。なんだかんだで私たち(少なくとも、現代日本に住んでいる私たち)はやはりどこに行くにもあらかじめ道の存在を前提してしまっているし、その上を歩き、それに区切られた有限の範囲内でそれを捉えることに慣れてしまっている。そうしたフレームそれ自体が操作の対象として、オブジェクトとしていざ眼前に現れてくると途端に目が眩んでしまう。そうしたフレームは同時に私たち自身を定義するフレームでもあるから。経験として、私たちはどうしようもなく世界と相関しているから。


この平面=計画 plan の内側でなんとかやっていきましょう、そういう話だったでしょう、それが私たち、そういう私たちだったでしょう、それを今更、どうして、流石にそれは私たちの手に余る、手に負えない、もう沢山だ!


上野はアメ横でコーヒー豆と紅棗夾核桃を買う。ナツメの実を切り開いて中にクルミを挟んだお菓子で、昔バイト先の中国の方にお土産に頂いたことがある。どのくらいの歴史をもつお菓子なのか、私は知らないけれど、これはミニマルに悪魔的なお菓子だと思う。ここで「悪魔的」というのは「手段を選ばない」「なんでもあり」「こんなの美味いに決まっている」くらいの意味で、 「ミニマル」というのはそれがしかし味付けも何もなく、ナツメとクルミというわずかに二つの食材だけで構成されているからだ。これはズルい。最大効率にズルい美味しさだ。

私たちは常に何かしらのルールの内側、何かしらのリングの内側で戦っている。フランス料理ならフランス料理、和食なら和食、トルコ料理ならトルコ料理の内側で。ひとつの評価軸、ひとつのフレームの内に留まる。それが良識=常識 bon-sens というものだ。

それを横断するのは両方向に危うい行為だ。リングの外側に放り出されて、評価する側も、される側も、どう身動きをとっていいかわからない。まるで砂漠に投げ出されたかのようなものだ。最高に自由で、最高に道無しだ。先に「こっちだ」と言ったもん勝ちのような気もするし、そうして迷って野垂れ死ぬのもまたそいつの勝手だ。それはとてもとてもズルい、美味しい行いだ。それはあまりに手に余る、あまりに滅法な、それはあたかも空虚=バカンスのごとき豊かさだ。


朝は雨が降っていた。薄暗くて投げやりに寒い。ユニクロのダウンを買おうかと思っている(+J のダウンはいまだに実物を拝めていない)。冷蔵庫のスペアリブをどうしたものか。腹腔を支えるアーチ。11月も終盤だ。


追記

途中からフォントが妙になっちゃったけれど許してほしい。



2020年11月24日火曜日

20201124 口腔

10:00 現在、コーヒーはすでに二杯。豆が切れそうなので今日また買いに行けたらと思う。

秋のはじめから飛ばし過ぎたとばかりに、しばらく大人しくしていた底冷えが久々に帰ってきたような今日の朝だ。曇りガラスが均質に灰色だ。シクラメンの花のもう一つも今朝見たら落ちていた。

昨日はオンライン・トークイベントの映像を二つ、ライヴとアーカイヴのを一つずつ見た。最近また人の声を聞くのが苦痛になっているので、かなり注意の外縁にうっちゃった感じで見た。登壇者はみなめいめいのマスクやら、透明樹脂製のマウスカバーやらを着けている。不織布マスクの上端から鼻の先がはみ出して乗っかっている。ポリウレタン製のものらしいマスクを着けた司会者の口元が口を開くたびにモコモコと蠢いている。透明のカバーは水分で曇り、狭苦しい研究室の天井の蛍光灯の硬い光を反射して汚らしい。私は普段、話者の口元なんて毛ほども見てはいないのだろうと思う。マスクについてよく言われるような表情が窺えない不安感よりも、マスクによって強調されるのはむしろこの呼吸し発声する器官の不気味さだ。


それとは全く関係ないところで、最近机の正面に鏡を設置した。昔IKEAで買った、枠も何もない、正方形の四つ角を丸めたばかりの裸のガラス鏡だ。同じくIKEAのクリップライトが近くにあり、それを思いつきで鏡の端に直に留めた。これによって自分の口の中、喉の動きをかなり詳細に観察することができる。いざ観察してみると、舌の動きはかなりはっきりと喉元の動きとして表れていることがわかる。舌を出すとき、何かを吐き出そうとするように喉が上へと向かって大きく波打ち、顎の裏側がきゅっと締まる。反対のことをすれば喉が筒状に広がりそれはそのまま巨大な中空の共鳴管だ。音声は全く物質的 material な問題 matter だ。

予報は今日の日中の天気を曇りだという。なんとなくこの曇りはその風景がいまいちうまく雨へとモーフしていかない曇りだなと思う。工事の作業員の方たちは穴の中でこの空をどう見ているだろうかと思う。四肢が冷える。昼前だ。



2020年11月23日月曜日

20201123

9:00 現在、コーヒーは一杯。エチオピアのウォッシュト。極力じりじり淹れてみる。4:6メソッドベースでしかし落とし切らないぎりぎり。穏やかで優美な酸味、予感を誘うに留めて良しとする、節度ある甘味。上品なみかん、いやむしろさっくりと歯切れの良い八朔を思わせる。

昨日は気分が良いと書いたが、あれは嘘になった。それからは全くの無気力、不愉快。何をしたのだったか。せめてもの、シャツ2着をアイロン掛け。シクラメンの萎れた花を除く。フローリングを磨く。資源ごみをまとめる。


9:45 現在、コーヒーは二杯。パプアニューギニアのウォッシュト。明日にでもまた少し出掛けたくも思う。

ここしばらく、屋外から、ずっと同じ匂いが漂ってくる。匂いというか、むしろ匂いの欠如とでも言いたくなるような、へんに人工的で、すーすーとする感覚。電源の入った冷蔵庫を開けっ放しているかのような、空気中の分子が電子をどこかに無くして所在なさげに漂っているかのような。嫌な匂いではないけれど警戒心を抱かせるものではある、しかも油断しているといつしかこれ秋の匂いだ、とインプットされてしまいそうな、へんな説得力のある匂いだ。


2020年11月22日日曜日

20201122

11:00 現在、コーヒーは一杯。エチオピアのウォッシュト。先日久々のVerve Coffee Roasters で買ったもの。 以前買っていたときは気付かなかったけれど、こういう酸味の効いたフレッシュさを押し出した豆ほど淹れ方で印象を淹れ方でその印象を大きくかえる。まだ固い未成熟果の青く締まった酸味、しかしそれはいつのまにやら舌の縁へと流れた先で少し色付いて、わずかに果汁を滲ませては姿を眩ませるようだ。

今朝は寝坊した。昨晩全く何をするでもなしにだらだらと起きていてしまったのだ。

米を炊いて出汁をとる。大根の葉は酒と塩で蒸し煮、鰹節が沈んだところで里芋、人参、大根。白味噌の味噌汁。だしがらの昆布と鰹節に余った野菜も刻んで足して薄く甘辛味に。不意に食べたくなって卵焼きも作る。随分と豪勢な朝食になってしまった。いろいろ誤魔化すようにどかどか足音荒く左見右見、家事身支度等を済ませたらすでに陽も高い。

件のシクラメンは昨日鉢に植え替え、窓辺に置いている。片方の花はやはりだいぶ弱っており、すでに若干萎れている。秋冬の窓越しの低い陽射しがよく似合う花だと思う。


私はこの日記に何を期待しているのだろう。鈍り切った言葉のリハビリではある。私の関心に照らして大事なことも、ちょくちょく書いているとは思う。それをわざわざ公開という形にする意味は、そういえばこのブログを開いてまだ間もない頃にも書いていたと思う。たしか、「終わらせるため」みたいな。私秘すればいくらでも書き加えられてしまうから。いつまでも終わらないから。勿論私は結局大変に俗な人間なので、愚かしく善良な人間なので、閲覧者があるとそれなりに嬉しい。それがたとえアメリカやベルギーやサウジアラビアのサーバーから泳いできたbot であってもそれなりに嬉しい。でもこの嬉しさは技術や能力に対する見返りの嬉しさというよりは、むしろ競馬やパチンコのそれだなと思う。虚しくなるので題名は検索に色目を使わないくらいのものに留めはしながら、しかしそれでもわざわざTwitter には流すのだ。

こういう卑屈なことを書いているときは、実のところ結構気分が良いときであったりもする(なんたってそれを茶化していられるくらいの気力があるのだ)。なんだかんだ今朝のコーヒーは美味しかった。木のまな板を焦がした木酢の残り香もなんとなく愉快だ。なんとなくオゾンみたいな削ぎの効いた空気もある。人の気配がなければもっと良いだろう。コーヒー、次は何を淹れるか、業務スーパーで買ったハルヴァもまだ。青い葉、枯れた葉。二階の土。バナナの皮はしずかに萎み…。

2020年11月21日土曜日

20201121換気、UNIQLO、シクラメン

8:30 現在、コーヒーはすでに1杯。エチオピアのウォッシュト。


一昨日に引き続いて生暖かい昨日であった。しかし風は強い。鈍空にすわ工事は中止かと期待したのも束の間、腰に提げた金具の音が寄せ来て、警備の方の誘導に手刀を切りつつ駅を目指した。途中、視線の先がやけに明るいなと思っていたら、一、二区画分の土地が半年ほど見ないうちに丸々更地になっていた。電車はすぐに滑り込む。ビジネスホテルの清掃中の部屋のろくに開かぬ窓の隙間からカーテンがびらびらと吹き出していた。こちらの目前の自動ドアの窓ガラスは当然嵌め殺しだ。座席側の窓が空いていたかは覚えていない。

池袋駅では見慣れない車両を見た。銀色の躯体に並ぶ正方形に近い大きな窓が、黄色い座席の足元近くまでを露わに見せている。去年春にデビューした西武鉄道「Laview」001系のようだ。SANAAの妹島和世が車両のデザイン監修にあたったという記事を読んだことがあった。当然窓は嵌め殺しだろう。窓はその奥に人の存在を予感させるけれど、それが開け放たれるやその予感は、まるで吹き込んでくる風に吹き払われてしまうかのように、希薄なものになってしまうようだと思う。生とは幾ばくかの澱みだ。窓ガラス越しに差す陽の光が、隙間風に舞う埃を静かに振動させる。


新宿駅新南口改札前の広場はすでに完成間近で、段差を少し上がったところには臍くらいという妙な高さの横長の植栽があり、どうやらその両脇から水平にのびた縁部に買ってきた弁当を置いて青空立食パーティーができる。どんな顔して向き合えば良いのかわからない。


高島屋の上の方の階のUNIQLOは、もともと通路に広く開いていた入り口の大部分を机やマネキンで潰し、残りのいくつかのゲートに動線を絞り切ったうえでそこに非接触体温計と消毒液を配備している。感謝祭期間中の本日はさらにそこに東京ばな奈を配る店員が待ち構える。「+J」シリーズ発売と感謝祭とが重なることで予想されていた混雑はしかし特に見られず(目立たない立地ゆえだろうか)、「+J」も意外と棚に並んでいた。正直期待ほどには刺さらなかったが、他方隣に並んでいた通常ラインのハイブリッドダウンが思いのほか良い作りで感心してしまった。正直最初はこちらが「+J」のやつかと思った(売り切れていた)。結局フリーマガジンだけ貰って店を出る。


去年日本から撤退したFOREVER21の新宿店跡のビルには「ゆるゆり」の巨大なポスターがソーシャル・ディスタンスを呼び掛けている。距離を確保させるには自ら大きくなるのがいちばん手軽だ。トーマス・ルフのポートレートに寄ってたかって至近距離で目を凝らそうとする鑑賞者は比較的少数派だろう( https://nanka-sono.blogspot.com/2016/11/blog-post_11.html )。ダ・ヴィンチもスケッチよりもモナリザよりも最後の晩餐がより適切だろう。キャプションの文字サイズに変化はあっただろうか。


もともと画家として活動をはじめたドナルド・ジャッドの作るオブジェクトにとって、そのスケールは重要な要素だ。あまりに小さければそれは鑑賞者の手の内で道具と化してしまい(ジャッドはいくつかの家具のデザインも手掛け、失敗したり成功したりしている)、さりとてあまりに大きければそれはモニュメントだ(ジャッドは建築家でもある)。例えば天面を鑑賞者の目の高さより少し上に設定することで、オブジェクトはそれを前にした者の手には負えない、しかし目と脚で追うことはできる、空間的・時間的に幾ばくかの暈を纏った、経験の嵩張りの中心として機能する。作品とてホワイト・キューブとて、ある種の統制の空間に他ならないわけだが、ところで窓はそこにいかに組み込むべきだろうか。そもそも接触を厭う空間において、手指消毒の役割とはなんだろうか。展示空間に住むことは可能だろうか。「飾り窓」を換気することは可能だろうか。作品で窓を塞ぐことは可能だろうか。


その夜、スーパーマーケットの花屋で一株のシクラメンを買った。値引き品のひどく草臥れたやつで、花はふたつ斜めに傾いて咲くばかりだが、つぼみはいくらか残っているようだ。実家にあるものよりだいぶ青みの強いマゼンダで、片手に抱えて夜道に出ると鈍くくすんだように闇に紛れる。この色を自社のロゴに掲げる企業はまずないだろう、というような陰気な色だ(唯一思い浮かんだのが昔使っていたHuawei 社のスマートフォンの、起動時のやたらと派手だがフレーム数は少ないアニメーションで、黒い背景に翻えるようにロゴが現れる、その周囲に飛び散る花火の一部がこんな色だった気がする)。無人駐車場の蛍光灯の光を横から受けては花弁の縁だけを浮かび上がらせ、街灯を上から受けては不意にダイオードのように熱のない光をこちらに寄越す。葉の配置は効率的で土の表面は窺えず、不明の黒か土の黒かの見分けがつかない。

私は東京ばな奈をまだ食べたことがない、食べたことがないという味とでもいうものがある。窓の無い部屋の中、不明の味。


変に生暖かった一昨日に代わって秋らしく吹き込む風の秋晴れの日だ。工事は休工の、世間の三連休の初日だ。カウントは盛り上がり為政は大喜利に余念がない。


12:30 現在、コーヒーはすでに二杯。先ほどと同じエチオピアのウォッシュト。すみやかに抽出して青瓜のような印象。エチオピア北部でなおも続く紛争などはどこ吹く風と、イルガチェフェ。

2020年11月20日金曜日

20201120

8:00 現在、コーヒーは一杯。エチオピアはモカ・シダモのウォッシュト。

昨日はいやにぬくかった。そのうえ工事の騒音が耐え難くて窓を閉めていたので、空気が籠って堪らなかった。今朝は曇り空で少し不気味に薄暗く、夢にひり出されるようにアラームより先に起きた。予報によれば気温が高いのは昨日と同様。雨がいくらか降るだろうし、工事が中止だとよいなと少し期待する。こんな天気なのに近所の住人が道路に水を撒いている。人混みが緩む可能性に賭けて今日こそ街に出かけようかとも思う。どうしたものか。


昨日は岡嶋裕史『ブロックチェーン 相互不信が実現する新しいセキュリティ』を読み終えた。やはり中心になる話題はビットコインだが、驚くほどに先細りのシステム、まるでスペースシャトルだ。そもそもある程度の多人数が参入しないと成立しないシステムなので、開設直後にインセンティヴを集中させる。しかし通貨である以上、当然希少性は確保する必要があるので、参入者が増えるほどにリターンは減っていく。別段なにかの計算処理を分散させているわけではないので(あくまでも冗長性が確保されるだけ)、拡大によって処理力が拡大したり負担が減ったりすることはない。そのくせ個々のノードに保存されるデータ量はどんどん膨れ上がっていく。


そうしているうちに外では工事が始まった。湿気を吸った髪が鬱陶しい。救急車のサイレンがよく響く重い大気だ。

2020年11月19日木曜日

20201119

9:00 現在、コーヒーは一杯。ニカラグアの残りとホンジュラスの混合。


ここのところ連日の工事で、仕方の無いこととはいえ流石にすこし参っている。音、振動、臭い、近さ、人の気配、指示、会話、。昨日はあるいは街に出ようかとも思っていたが、気が萎えてしまった。   

気まぐれにロジバン(lojban)の入門講座のページとか、先日届いた『現代思想』の圏論(category theory)特集を少し読む。私の関心は物事の内容よりはむしろ考え方のほうに傾いているのだろうとは思う。しかし前者なしに後者を掴むことはふつう不可能なのであり、というありふれたジレンマ。幾つもの畑の地形を重ね焼きすることでそれをカバーしようとするのだが、当然周囲には冒頭1、2ページですでに放置された土地ばかりがとっ散らかっている。


玄関先に人の目がない環境のなんと素晴らしいことか。

2020年11月18日水曜日

20201118

9:15 現在、コーヒーは二杯目。パプアニューギニアのウォッシュト。


昨晩の夕食


・白米

・筑前煮(人参、大根、蓮根、里芋、こんにゃく、干し椎茸、鶏むね肉)

・鯖の味噌煮

・人参の葉の煎ったもの

・蕪の葉と玉ねぎのキッシュ風


買い出し翌日の献立の混乱は常とはいえ、昨日はまた随分とごりごりとこれに取り組み、午後一杯を潰した。最後のキッシュ風というのはベジタリアン仕様のもので、昔あちこちから書き写していたレシピのメモのなかから見つけた。玉子とチーズのかわりに厚揚げと白味噌を使うという、まあこのジャンルの常套手段ではあるのだが、あらためて材料と工程を並べられると、これがキッシュ風と呼ばれうるものになることの奇妙さはやはり大きい。

みじん切りした蕪の葉と玉ねぎを炒め、水切りした豆腐(厚揚げはなかったので)と白味噌はミキサーで潰す。これら全てと塩胡椒を混ぜて型に流し、オーブンで焼く。以上。

果たして、流石にキッシュのようにはしっかり固まりこそしないものの、風味は驚くほどに蒸し焼きされて固まった玉子とチーズのそれだった。蕪の葉はだいぶ緑も濃く育ち切ったもので、青臭く筋っぽくなりはしまいかと心配だったが、玉ねぎの甘みと合わさって良い具合にほどけている。なにかのソースに良いのではと思う(見た目はサイゼリヤの「ディアボラ風」ソースに似ている、食べたことはない)。


ベジタリアンやマクロビオティシャン向けの「もどき料理」、だいぶ昔に興味を持って、しかしえてして若干手に入れづらい、もしくはそんなに使うものでもない、材料をわざわざ買ってくるのも億劫だったので、大抵は代用のあの手この手を面白がって見て回るだけだったジャンルだ。

料理に正統な変化の系統というのがもしあったとして、そこから踏み外した、割と鬼っ子の部類に入るのがこの流れだと思う。ある食材が持つもろもろの性質を目や舌の上において模倣すべく、あちらこちらから文脈も節操もなしに召喚されてくる素材たち。高野豆腐、アーモンドプードル、タヒニ、テンペ、ココナッツ、各地の豆や雑穀、調味料…。これはこれでなかなかにグローバリズムの産物だ。そもそもこの調理技術の発展は、それが「もどき」である以上、すでに肉や乳酪や精製糖と小麦のケーキを食べた経験がある舌によって方向づけられている。その舌、酸いも甘いも噛み分けるその舌で、我々はこちらを選ぶ、というわけだ。


夜、『斜陽』を読み終えた。アメリカ製のグリーンピースの缶詰でつくったポタージュからはじまる小説だ。更級日記もローザ・ルクセンブルクも聴き齧る主人公だ。

 

人間は、みな、同じものだ。

  なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。

(太宰治『斜陽』)


地形






2020年11月17日火曜日

20201117 黴臭い、葉の影、引き延ばし

8:00 現在、コーヒーは一杯。パプアニューギニアのウォッシュト。焙煎後しばらく経って香りが馴染んできたからか、ドリッパーと抽出法の変更のためか、以前より表情がよく伺える。意外にも紅茶のような、枯れ葉の組織からじわりと滲み出すような芳香がある。フルーツでありながらも、どこか弾けきらない、地に臥せったように鬱屈した酸味、昨日食べたラズベリーを思わせる酸味がある。


Raspberry 
--The lightly sweet, fruity, floral, slightly sour and musty aromatic associated with raspberries.

World Coffee Research, Sensory Lexicon (First Edit, 2016) 


フリーズドライでもジャムでも冷凍でもない、生のラズベリーを食べたのはこれが初めてだったかもしれない。赤い液の詰まった幾つもの小胞がビッシリと配列して全体をつくり、果床の跡が大きく窪んでいるので、まるで培養液の中で細胞分裂して育ったミニチュアの臓器のようにみえる。房と房の間からは同じ数だけの毛が生えている。

ラズベリーを見るとまたIKEAのフードコートに行きたくなる。円を一方向に引き伸ばしたような形の白い皿にのせられたチーズケーキの、室温にゆっくりと解けていくクリームチーズとぽろぽろ溢れるクランブルに塗れて皿に纏わりついたラズベリー・ソース。日中の照明はガラス越しの日光に押されてかえって薄暗く、赤いソースの表面に曖昧なハイライトを寄越している。誰もがめいめい勝手な席で、勝手なことを、勝手な方向に向かって話している、これはまだ年が明けて幾月と経たない頃の光景だったか。


9:30 現在、コーヒーは二杯。ホンジュラスのハニー・プロセス。コメントに「グレープフルーツ」とあったのが、実際に口にしての滑らかに甘い第一印象からはいまいち納得できなかったが、しばらくおいて冷めてみると、どこから湧いたのか、グレープフルーツの皮のかすかに渋い酸味が確かにはっきり現れている。


昨晩は買い出しに出た。スーパーマーケットに向かう道中、いつも見上げる好きな樹がある。くたびれた民家の片隅に立つくたびれた樹で、敷地の片隅からだいぶ路上にはみ出して、足下のブロック塀には番地表示のプレート、その傍らに電柱が立ち、幹から分かれた枝先は電線と半ば絡まりそうになっている。電柱の上の方には街灯の頭が挿げられており、夜、私が買い出しに出る時間にはそれが樹の木末に斜めに差し込んでいる。葉の縁周りは黄味に透かされ、その内側はすっと青く発光し、それが互いに折り重なって、ザクザクと筆を重ねるように斑らに暗緑へと沈もうとするが、葉が微かに揺れるたびにそれがまた解けて蛍光する緑が零れ出たりする。そうした葉叢に突き立つ枝はいよいよ黒黒として、樹下のこちらが視点を少し動かすほどに光を蔽いまた洩らしの縞々だ。夏の間はこんもりと茂った枝葉が複雑に光線を応酬していたこの樹も、いまは光源に近くの枝先に僅かに葉を保持するばかりで、幹は以前より少し灯を多く受け、自らの木末の黒い網目がそれを細かに刻んでいる。

3Dグラフィックにおいて、セルフ・シャドウの扱いはひとつの悩みの種であったという。遮蔽幕としての自らが、投影幕としての自らに落とす影。その語の二重の意味でスクリーンとしてのオブジェクト。影とは太陽の視界の残余であり、そこにおいてオブジェクトは自らの内で細かに分裂している。太陽と一対一で差し向かう限りでの自らを、太陽の目に向けて余す所なく照り輝かせながら、その裏側では微細な陰影の経済が自己のあらわれを無限に引き延ばしている。太陽の目を盗み盗み、その引き延ばしのうちにあるのがこの世界だ。






2020年11月16日月曜日

20201116 多層住宅、ピンク・スライム、直立猿人

9:30 現在、コーヒーはすでに二杯。ひとつははニカラグアのウォッシュト。苦味は舌の縁を一瞬強く震わせるやすぐに解けて、グレープフルーツの皮の苦味、ライムの青みのような印象へとすり替わる。キャンディーのような硬質な甘みもある。もう片方はUCCのタンザニア・ブレンド。やはりV60との相性が良い気がする。ただし、おまけについてきた無漂白のフィルターはやはり段ボール臭さが気になる。

昨日は階下に人の気配があり、恐ろしくて息を殺して縮こまっていた。お陰さまでKindle に入れていた千葉雅也『アメリカ紀行』を読み終えてしまう。著者はアメリカ滞在中、いくつかの貸部屋を移りつつ生活するが、そういえばこの著作中で登場する隣人は皆、隣室ではなく、下階の住人だ。

上下階の住人の気配というものには、隣室のそれとはまた別種の生々しさがある。私の踏む足の真下に他人の頭があること、こちらには音とも思われないような振動が階下の頭上に直に降り注ぐこと。廊下に沿って並ぶ水平方向の隣人たちに大量生産品じみた規律的な不気味さがあるとすれば、垂直方向の隣人たちは頭から足にかけての軸で串刺し状に配列されて、まるでチューブからひり出されるミンチ肉のような物質的不気味さを持っている。

高層マンションの最上階から地上階に向けて、垂直にしな垂れ落ちていく連続的な肉。上端は日光を受けてぬらりと照り光り、下端はとぐろを巻いて地に横たわる。口であり肛門であり、互いは互いを恐れている。地の上方へのどん詰まりとしての直立する肉、直立猿人。

2020年11月15日日曜日

20201115 手

12:00 現在コーヒーはすでに2杯だったか。なんか作って食べて皿洗ってそのまままた作って食べて洗ってとかやっていて今はもう昼だ。昨日に引き続き雲ひとつない秋空ってやつ。

昨日の夕食

・白米
・小松菜のサーグ(クミン、ターメリック)
・カブと里芋のサブジ(クミン、ターメリックやや強め、チリ、青唐辛子)
・チャナマサラ(玉ねぎ、トマト/コリアンダー、クミン、チリ、ターメリック、青唐辛子、黒胡椒)

ちなみにこちらは仕込んだばかりでまだ食べないけれど

・大根のウールガイ

一昨日の買い出しで新米が何故だか値引きされていたのを買ってしまって、久々に白米を炊く。あまりに白くてもはや青くて少し気色悪くすら感じる。
火口は二口あるとはいえ、さして広いわけでもない台所で複数品をいかに同時進行で調理するかは常に悩ましい。

まず、まあ冷めてもいいし割と放って置くだけの小松菜を片方の火にかける。玉ねぎとスパイスの準備が要るがあとは放って置くだけ、かつ再加熱に堪え、仕上がりは粘性があるので冷めにくいチャナマサラをもう片方にかける。小松菜が仕上がり次第フライパンを退けて炊飯の土鍋に火を譲り、カブと里芋の用意が整い次第、サーグは容器に移し、フライパンをサブジに使い回す。チャナは途中退席、凍ったままのココナッツミルクを放り込んでおく。カブと芋に火が通るのを待つうちに皿も洗い、米も炊きあがり蒸らしに移行、先のチャナマサラを軽く潰しながら温め直す。

おおよそジャストに仕上がると少し嬉しくも思う。


ドリップフィルターのリンスの効能にはずっと懐疑的だったが、せっかくの抽出成分を紙に奪われるのを防ぎ、また粉と湯の接触時間を長くするために、有効な面もあるのかもしれないと思い始める。実際抽出後のフィルター上部の着色はかなり減るようだ。

最近めっきり遠のいていた落書きをまた少しする。他人の良い絵をざっくりと別の紙、別の画材に移しとってみる。

料理したり、地図を眺めたり、色を置いたり、身体を動かしたり、小説を読んだり、コーヒーを淹れたり、まったく違うことを数日おきに、なんとなくはまっては、またなんとなく飽きて放ったらかしたりを繰り返して、その中断の明けるたびごとにしかし必ず何かしらのちいさな変化に気付く。どれもが互いに確かに影響を及ぼし合っているのを感じる。いや、まあ、だってさ。結局どれも私の手なんだそれは。


2020年11月14日土曜日

20201114 V60の腹の肉

9:30 現在、コーヒーはすでに二杯。UCCのタンザニア・ブレンド。昨日買って来たHARIOのV60ドリッパーを使ってみる。妙に好みの味に仕上がってしまったが、ドリッパーの所為か淹れ方の所為か量りかねるので要検証。

定規とコンパスで作図したみたいに直線的なコーノ式に並べると、HARIOの多段腹状の意匠は若干気色悪い。HARIOはこの多段腹を何を思ったかブランドイメージとしているらしく、計量スプーンやケトルにまで同じ意匠を採用している。この段々は円錐の外側にのみ施され、内側には干渉しないので、この多段腹は液の抽出、少なくとも湯の流れのコントロールにはなんら寄与しない、意匠的なものであろう。

内壁は上下にかけてなめらかに膨らんだカーブを描いており、その外側に件の腹が突き出している。縦断面図を取れば、壁の厚みが房を成しているのを見てとることができるだろう。透明なAS樹脂のコーンはそれゆえ上から見ると、房のそれぞれが周囲の風景を大きく歪めて透かし、それが同心円を成しているように見える。この効果は内壁にいく筋も走る螺旋状のリブの求心性と合わさって一層効果的だが、紙フィルターを被せ粉を投じてしまえばそれも関係ない。

外から見ると、斜め上方から見下ろされたとき、遠近効果に透明素材故の屈折と全反射とも相まってこの段々は目立たなくなるが、腰を屈めて視点を下げるにつれて、輪郭が解れていくように、徐々にこの括れがあらわになるとは言えそれはあくまでシルエットの上での括れに限ったものであって、素材の肉付きが見えるわけではない。

透明なAS樹脂製とはいえ、樹脂と空気の間に反射屈折が生じる以上、その断面形状が見えるわけではない(屈折率ゼロだったらそれはそれで今度は何も見えなくなってしまう)。透明性は全てを白日の下に晒すものでは決してなく、それどころか自らについてはむしろ一際に黙してしまう。透明な肉の厚みに私たちが触ることは決して叶わず、ただその鋳肌を撫で、日にそれをかざしてみるだかりだ。






2020年11月13日金曜日

20201113 夢、大気、PS5

9:30 現在、コーヒーは一杯。パプアニューギニアのウォッシュト。

ここしばらく、「コーヒーが好きであり、自分なりに色々読んだり試したりするように心掛けている」と言ってもよいかな、というくらいの振る舞いをしていたつもりだけれど(躊躇いなしにそう言えるだけのものを私はこれまでひとつとして持たないままに今まであった)、とんでもない、私は本当に何も知らないのだという分かりきった事実が改めて闖入してくる。Kindleで200円で買った200ページばかりの初心者向けムックさえ、知らない内容で一杯だ。


キャベツのトーレン。汗を吹いてふやけた薄緑とターメリックの黄色が馴染み、そこに褐色のマスタードとココナッツファインの白色。塩辛い。バスマティ・ライスを炊く。この米に特徴的という香りも私の鼻にはいまだにぴんとこない。もとより視界に映らぬものを探すのはとてもつらい。


昨夜の夢でもまた私は誰かと喧嘩していた。日中の私には決して湧き上がることのない弛まぬむかつきの滞留。「怒りが爆発する」とは言うけれど、怒りはそれ以前にまず、ある種の持続力を要求するものだ。突沸してたちまちにおさまるような怒りは怒りとも呼べまい。

20201020 果実、頭、怒り続ける  )

何かを追う夢、何かに追われる夢をよく見る。いよいよ迫る破滅の影に、しかし私の脚はプールの水を掻くようにのろのろとして進まない。あるいはもっとずっと昔、子供の頃には、よく平泳ぎで空を飛ぶ夢を見た。脚の内側に大気を絡め取るようにして、じわりじわりと浮かび上がった地上5メートルばかりの上空から路上を見遣る。どちらの夢でも、その大気は普段呼吸しているものよりもずっと私に濃密で、四肢の運動に払い遣られることもなく、むしろその中でもがく私をいよいよ絡め取って滞留させる。

この滞留のうちに、片栗粉でとろみのついた汁に落とした溶き卵が房を成して凝り固まるように、夢の中の私の怒りもまた可能になっているのではないかと思う。


昨日、熾烈な抽選を勝ち抜いてPS5を手に入れた人たちのTweetが流れてきたのだが、その中のある報告に胸がざわついた。なんでも、PS5のコントローラー表面と本体のパネル裏面は細かい梨目加工になっているのだが、それをよくよくみると、その梨目は実は細かい○×△□マークがビッシリちりばめられたものなのだという。これはもう、いかにもなにかの悪夢にありそうな質感のお話ではないか。

この悪夢的な不気味さの源はなにかといって、まあ、まずはそのスケールによるものだ。私たちが自らの手で何かを作り上げようとするとき、ふつうそのデザインは、私たち自身の生身が持つ分解能の範囲内で成される。色は可視光、音は可聴域から。目に模様として映るスケールはこれくらい、操作表示としてならこれくらい、握り締めるならこの程度だし、その上を歩き回るならあのくらい。そうしたスケール設定を期待して向かった先でしかし踏み外すとき、私たちはすぐ、自分が何かを間違えたことを悟り、間合いを取り直そうと距離を置く。 

しかしそれだけであればよくあることだ。用途を間違えていたのかもしれないし、あるいはそもそもそれは「技術」の産物ではなかった、「自然」の所産だったということかもしれない。私たちがその内に住っている環世界の外部には、広大な「わからなさ=自然」の海がタガも何も無しに無限に広がっている。私に対して他者として立ち現れることさえないそのノッペラボウの自然をしかし私たちは、あたかもそれがはじめから私たちに向けて書かれていたかの体で、抜け抜けと読み上げては自身の球体の内側に組み込んでいく。

問題となるのは、そうした自然への探索作業のさなかに、不意に、全くお呼びでないタイミングで、ふたたび技術の痕跡に突き当たってしまう時だ。全てを自家薬籠中に取り込んでいく厚かましさを振るう余地も無いほどに、はなからこちらに見るべく与えられているかのように、開けっ広げに眼前に姿を現してくるとき、それは不気味だ。火星表面に横たわる2.5kmに及ぶ人面岩であるとか、遺骨の海綿質を顕微鏡で拡大していった先に映り込む微小なシリアル・ナンバー(『ブレードランナー2049』)は、私たちの目に不気味だ。

そうした場違いな品=オーパーツ(Out-Of-Place-ARTifactS)に出くわすとき、これまで揃っていた私たちの歩みは激しく動揺する。足幅はばらつき、足並みが乱れる。常識=良識 bon sens のスケールが揺らぎ、リズムが破綻する。私たちはその場に渋滞し、滞留する。逃れようとするも脚はすでに縺れ、ぶよぶよと膨張し、もはや足裏の冴えた感覚も確かなグリップも期待すべくもない。

「なんということだ、そうだ、これはなにかの悪い夢だ、私たちは見られている、私たちのこの醜態を見てほくそ笑んでいる誰かがいる、それは神か?私たち自身か?」


私たちの目に小さすぎる○×△□に出会したときの悪夢的光景とはこのようなものだろう。この地球、「私たちのために創造された」この地球の大気は、いうまでもなく、他でもなく、"私たち"の四肢に、呼吸器に、それこそ「空気のように」透明で、軽やかで、無味無臭だ。大気のこの透明感は、"私たち"の同質性にこそ保証され、同質なる私たちを中心に、同心円状に広がっている。しかし円環の片隅が不意に何か、別の円環と衝突するとき、同質性の円は揺らぐ。したがって大気は濁り、澱み、それまで意にも介さなかった重みが肩へとのし掛かる。こうしたズレ、こうした澱みの中に、例えば私は泳ぎ、脚を掬われ、怒り続けるのだ。




2020年11月12日木曜日

20201112

9:30 現在、コーヒーはすでに二杯。

寒い。というか普通に体調を崩しかけているのかもしれない。マフラーを巻いた。甘酒を沸かす。甘酒と言っても甘み付けはしていない。麹のやつでもない。山形のハナブサ醤油が出している液状の酒粕で、醤油会社だからというわけでもなかろうが、かなり茶色く、糖蜜のような独特の風味がある。昨年の冬はしょっちゅうこれを飲んでいたのでわりと酔っ払って過ごしていたことかと思う。

寒くなるとどうしても温かくてどろりとしたものに手が伸びてしまう。甘酒、インスタントのコーンポタージュ、牛乳を注いだオートミール。血糖値は上がりそうだし喉に火傷をしがちなので、なるべく控えたいところではある。菓子スナック類こそ買わなくなったものの、最近また米とか食パンとかだらだら口にしてしまうから(寒さを紛らわそうとしてしまう)なー。

明日発売という uniqro +J 、実物を見てみたいなと思いつつ、混むんだろうな、特に最近はマスク然りSwitch然りPS5然り、転売の者たちでギスギスしていていよいよブツが面倒い。

だるーん


2020年11月11日水曜日

20201111 橋、斜、廓

9:30 現在、コーヒーはすでに二杯。パプアニューギニアのウォッシュトと、UCCのタンザニア・ブレンド。

今日の朝が寒いのは窓が開けっぴらいているからで、今朝洗濯した布団カバーがその窓の内外を跨ぐように、端端をちょいちょいと摘まれて干されている。

10:30 現在、コーヒーは3杯目。エチオピア・シダモのウォッシュト。かなりあっさりとした焼きゆえ、口内に液を含んだ状態ではむしろ香りの邪魔になるくらいなので、これは嗅ぎタバコのようなものだと割り切って、はやばやに飲み込んでしまうのが良いのかもしれない。

吊り下げられた布地のドレープを見るとつい、ガウディの逆さづりの設計模型だとか、吊り橋のロープだとかを連想してしまう人間というのがいて、そういえば昨日は色々と橋だとかその跡だとかをいくつも渡った。
「いくつも」というからには、それは川や水路が幾重にも曲がりくねっているか、あるいは無数に並走し、ときに交錯しているか、そうでなければこちらの方が無闇矢鱈に彼方へ此方へと彷徨いていたかのいずれかであるわけだが、今回に関してはその全てが当てはまるだろう。1930年に荒川放水路が完成するまで、荒川直下の最下流部であった隅田川、その流れが南方へと90度向きを転じる辺り一帯には、かつて広大な湿地帯がひろがり、その南端にはぽつりと浅草市街が浮かんでいた。度重なる治水やら干拓やらの試みの末、そこには無数の掘割が走り、新堀川を渡る合羽橋、山谷堀を跨ぐ今戸橋等々、その名残はいまでも地名に残されている。

この今戸橋といえば思い出されるのは永井荷風による初期作『すみだ川』(執筆は1909年という)、幼き長吉が夜な夜なお糸を待ち侘びた木橋の欄干だ。

その後『日和下駄』(1915年)序文の永井は「木造の今戸橋は蚤くも變じて鐡の釣橋となり」と記しているが、山谷堀が1976年から暗渠化されるころ掛かっていた今戸橋は1926年竣工の桁橋であった。それ以前の10年に満たない短いあいだ、先代の鉄橋が掛かっていたということなのだろうか。

『すみだ川』の当時はまだ言問橋も掛かっておらず、向島の小梅(現在のスカイツリーの足下あたり)に住うほろ酔いの蘿月は竹屋の渡しに揺られて対岸の長吉の住まいを訪問する。およそ30年を経た『濹東綺譚』(1937年)の頃にはこの言問橋はすでに完成しているが(1937年)、玉の井通いに電車を使う主人公にはあまり利用の機会がなかったようだ、作中ではこの橋の袂で巡査に誰何を受ける他に言問橋への言及はない(ちなみにここで彼が連れていかれる派出所の位置する江戸通りと場道通りの交差点には、現在でも交番が建っている)。

現在の隅田川にはさらにX字状に桜橋が掛かり、それを向島へと渡った先の堤防から住宅街へと向かう道は落差の激しい下り階段になっている。明らかに隅田川の水面より低い位置に、なんでもないように住宅街が広がり、こころなしかアスファルトは少し湿っぽく感じる。街道を北上した先、民家の間に隠れるようにして秋葉神社の境内があり、この脇を抜けたあたりに『濹東綺譚』の主人公が通ったお雪の住処はある。陽が傾くほどに、薄暗い路地を伝って暗がりと冷気が流れ込んでくるように感じられる。


そして傾斜だ。『すみだ川』の長吉は今戸橋から川沿いに延々南下し花街である葭町(かつての元吉原、現在の人形町のあたり)へと向かう。また浅草裏の宮戸座に通っては観劇にのめり込む。
その宮戸座があった通り、千束通りを昨日、たまたま初めて、南の端か北の端まで歩いた。途中から若干東に折れて進んだ先で日本堤ポンプ場ののっぺりとした壁にぶつかるに及んで、先の折れがおそらく吉原遊廓の傾斜角を反映したものであったことに気付いた。吉原のこの北西向きの傾斜角はその門前にあった日本堤に正対するべく設定されたものであり、そしてこの日本堤の角度はおそらく、それ以前からあった音無川(および山谷堀の原型)の流れを、隅田川を受け流す傾斜面として捉え返したものであろう。この地にはベクトル分解の力学が幾重にも交錯している。そうした斜面に導かれて、長吉はまた浅草裏へと通う。


12:30 現在、コーヒーは4杯目。三徳で買ったタンザニア。開封すると、豆のところどころが濡れたような油の浮き。深煎りのもので豆全体をコーティングしている状態なのはよく見るが、そうならないのは油の粘性かなにかの影響なのか。蒸らしで若干木酢液のにおい。


白髭橋を渡って向島を抜ける。左岸に沿っては白髭団地の白い巨壁が、堤防越水時の文字通りの最後の砦として連なっている。屋上には、おそらく水道タンクであろうか、オレンジ色のチューブが横たわっているのが秋空に鮮やかだ。対岸にはスーパー堤防で地上げされた汐入の高層団地が立ち並ぶ。それを過ぎた先、南千住駅前の商業施設は学生や子連れ家族で思った以上に賑わっている。ここに常磐線、日比谷線、つくばエクスプレスが束ねあげられて、傍らの貨物駅は広大に平たい鉄路のブーケだ。

どこに行くにも道を行かなければならない。極め付けに条理に串刺しのリアリティがここにある。ここもまた廓だ、私を取り囲む世のくるりを屋上から見渡す、ここもまた廓だ。







2020年11月10日火曜日

20201110 amla

9:00 現在、コーヒーは一杯、エチオピアのナチュラルもほとんどこれで最後だ。イルガチェフェの美味しさに再開した思い。

昨日の夕食;玄米、蕪の味噌汁、大根と蕪の葉の煎り、秋刀魚の灰干し、鯛の頭の塩焼き、鯛の頭のカレー。相変わらず組み合わせがシッチャカメッチャカなのは我が家の献立が食卓上のバランスではなく冷蔵庫の在庫のほうに基準を置いているから。

夕食後には放ったらかしてあったアムラをアチャールにしてみた。アムラは油で炒めて、ニンニクも加え、スパイスはフェヌグリークとマスタードシード、チリ、ターメリックを加え、最後にレモン汁。
今回のレシピではなんと、スパイスは火を止めた後に加えて混ぜるだけで、余熱以上の火は通さない。多くの場合加熱で揮発させてしまうマスタードの辛味やターメリックの土っぽさをかなり残した仕上げになりそうだ。とはいえこの組み合わせ、マスタードとチリの辛味、レモンの酸味、フェヌグリークのほのかな甘み、加熱したアムラの食感、加えてチリの赤色、これらが相俟って、案外これってあれか、ホットドックに乗ったマスタード、ケチャップ、ピクルスの構成要素か。

ちなみに先日アムラをスグリ(グーズベリー)とは別物らしいと書いたけれど、ネット上の英語のレシピなんかを見ると案外「amla(Indian Gooseberry)」なんて表記されていたりする。

3日ほど待って完成という。今日はまた外出の予定。

2020年11月9日月曜日

20201109 分かち、苦しみ、足の親指

10:00 現在、コーヒーは一杯、エチオピアのナチュラル。少し冷めてうっすらと白濁したコーヒーのとろみは肌寒い朝の室内の空気によく馴染む。

唇の周りに出来物ができてしまい鬱陶しい。昨日の買い出しで気まぐれに着けた古いマスクが不調にとどめを刺したのかもしれない。

私の肌が、果たして強いのか弱いのか、いまだによくわからない。子供の頃から口まわりにはよく出来物ができる体質だった。手は空気が乾燥してくるとすぐ荒れて切れてささくれる。しかし水仕事には割と強い。飲食業に就いた3年間を経てさらに強くなった。手のひらも足裏も、物理的刺激に晒されて皮は厚く、痛みや火傷の痛みに鈍い。首の皮は貧弱だ。肘は常に荒れている。ついでに怪我には、とりわけ手首足首への怪我には臆病で、保健体育の時間に応急処置の話を聞いただけで気を失って転倒したこともある。

肌が「弱い=敏感」だ、ということ。刺激に対して一際に臆病で、それゆえそれによく感応するということ。「苦しむことが出来る」こと。受苦=情熱 passion に対する可能性=能力 possibility 。


昨日は太宰の『斜陽』を少し読む。没落する華族の娘が初めて履いた地下足袋の、足裏に感じる土べたの痛みと喜び。

地下足袋というものを、その時、それこそ生れてはじめてはいてみたのであるが、びっくりするほど、はき心地がよく、それをはいてお庭を歩いてみたら、鳥やけものが、はだしで地べたを歩いている気軽さが、自分にもよくわかったような気がして、とても、胸がうずくほど、うれしかった。戦争中の、たのしい記憶は、たったそれ一つきり。思えば、戦争なんて、つまらないものだった。(太宰治『斜陽』)

地下足袋が親指を、他の4本の指からわざわざ分つことの意味はどのようなものなのだろうか。前脚のように、その「握ることが出来る」ことにおいて殊更に他の哺乳類から霊長類を分つのに資するわけでもない、「足の親指」(バタイユではないが)のこの分かちの意味は。

あるいはそれは「苦しむため」ではないかと、そう思ってみたりもする。




2020年11月8日日曜日

20201108 掲示板四方

9:00 現在、コーヒーは一杯、エチオピアのナチュラル。揮発性でもあるかのように、舌の上をさーっと駆け去り、後には紅茶のような風味が燻るように残る。

世間が米国大統領選に賑わう一方で、11/5 以来続いているというエチオピア連邦政府と同国北部ティグレ州政府との闘争状態に関するニュースが、ブラウザやSNSの、少なくとも私の、レコメンドには一切流れてこない状況を目の当たりにしている。コーヒー産地に関する一ニュースとしてこれに触れなければ、私は今でも知らないままでいたことだろう(それどころかエチオピアの位置さえ曖昧なままだったと思う)。これを報じる日本語のニュースだって現にいくつかはあるわけなのだが、つくづく人の  というものは、自分の見たいものしか見ないし、ネットはその歪みを全力を挙げて拡大してくれやがる(Twitter のトレンド表示を展開すると、驚くべきことに、トランプ大統領やら高須院長やら、なんでもいいが、そうした人々をヒーローとして讃える、勿論日本語のツイートを、延々見ることになる)。あらゆるニュースを常に追いかけていつ何時でもそれらに関してコメントできることを知性だとか正義だとか称する向きについては断じてこれに抗うけれども、いやまあ虚しくはなりますよね。


昨夜はすこぶる調子が悪く、大分早く布団に入った。中学校の教室の夢を見た。1番後ろの、窓側から二列目の席からの視界。やはり二列目の、教卓と斜向かいに角を接する席からの視界。黒板の反響、前から後ろへもたもたと広がる配布物。先生の目を盗んでは啄まれる噂話の断片。体育館のワックスがけの床を跳ねる無数のボールのオレンジ色の残像。掃除のあとの乱れた机の並び、私の机はどれだったか、と、フックに掛かった袋を頼りに腰を屈めて探し回る。


目覚めまでもが「もういいよ」とでも言いたげに投げやりで、ミルクパンに水と煮干しを投じて火にかける。冷蔵庫の空きスペースを展開していく。ゴミ箱はパッケージの嵩張りでキュービックに埋まっていく。今日は日が暮れたらまた買い出しに出るつもりである。

2020年11月7日土曜日

20201107 炊ける間に

11:00 現在、コーヒーは既に3杯。

米を炊いている。以前やったように、玄米を圧力鍋で加圧20分。糊のにおいが漏れて広がる。五感が全体的に貧弱な私だが、それでも意識下で感じ取っているものはあるのだろう、米を炊く鍋の、音やにおいがなんとなく湿っている、乾いている、の気配の変化。

東京の東側、山の手を下って荒川流域の住宅地を歩くときにいつも感じるあの空気の湿っぽさ、フリース生地が毛の中に抱え込む肌の熱気と湿り気、ジャージー生地の繊維が伸縮するたびに肌を螺旋状に撫でていく、フロント・ジッパーのしなりに依りかかるように背骨は前傾する、キートップの裏で鳴く金属バネの音、換気扇にこびりついた埃にうねる気流、云々、

正直な話今日は書くことがない。パックに3つ残った玉子が妙に大きかった、その肌の大小入り混じって微小な陰影を自らに落とすざらつき、は、私がこうして開け放つ前の扉の奥の暗がりにあっては一体どうあるのだろう。その中にやすらう卵白は、卵黄は、冷たいだろうか。もうながいこと生卵なんて食べてはいないとちょっと気付くけれど生だからそれが本当の姿というわけでは勿論、ない。生・チョコレートとか生・チーズケーキとか生・キャラメルとかいった名前を私は信用していない、けれど生・八つ橋はすきだよそれもまた私だ。

鍋の加圧がいま、解けた。

2020年11月6日金曜日

20201106

10:00 現在、コーヒーはすでに一杯、コロンビアのウォッシュト。1投目と2投目の湯量のいずれを多めに取るかで仕上がりの酸味/甘味のバランスを調節出来るとの話を聞き齧り、試しに酸味を出すべく1投目多めにしてみる。変わった気はする。

先日買ってきたアムチュール・パウダーを舐めてみる。青マンゴーを乾燥させて粉末にしたものだというので、爽やかな酸味が微かに香る感じかなと予想していたが、開封してみると思いの外パンチの効いた香りが漂う。まず連想したのは「梅干し味」で、それも最近の出来が良いのではなく、一昔前の駄菓子とかふりかけのような、ジャンキーなもの。味もまた然りで、塩が添加されているのではないかと疑うほどだ。乾燥しているのに酸味があるってだけでジャンクな印象になるのは経験的なものなのだろうか、通販サイトの説明には水分量を増やさず酸味を加えられると売り込んでいたけれど、たしかに天ぷらに添えたりといった用途にもよさそうだ(というかマンゴー塩みたいな調味料があったような気がしていたのだけれど、検索しても出て来なかった)。

今日はなんともはっきりしない曇空だ、こう言う日は変な冷えかたをする。空気の熱が妙に肌にしつこいのに、不意に身体がぎくりと震えたりする。指も筋っぽい。視界もさらに狭くなる。


2020年11月5日木曜日

20201105 花道、花街、青梅の味

10:00 現在、コーヒーはすでに二杯目、昨日買ったエチオピアのナチュラル。

口にした途端、液の重さがふっと消えて、 細いスリットから差す光のように、舌の上に一すじの道が走るような感覚。そして闇に目が慣れていくように、開演を待つ客席の熱気が静かに高まっていくように、そのランウェイを中心に、次第に、思い出したとでもいうように、さまざまな印象がじわりと浮かぶ。吸水中の粉からすでに漂っていた、少し青臭いマンゴーか何かの酸味。重い木のテーブルにグラスがことりと置かれるような、静かな苦味。砂糖が水分を吸ってさらりとほどけていくようななめらかなテクスチュア。


今朝の朝食、ご飯と、なめこ、大根、高野豆腐の味噌汁は昨日の残り。加えて厚焼き卵。一時期どうしてもくっついてしまうようになり、作るのをやめていたのが、最近久々に試してみたらまた綺麗に焼けるようになっていた。卵焼き器の方が拗ねていたのかもしれない。

昨晩炊いた玄米は、浸水を忘れていて、せっかくの塩鮭があるので譲れず久々に引っ張り出した圧力鍋でごり押しで炊いたところ、お赤飯もかくやのもちもちに仕上がったのがおもしろく、笑ってしまった。水分量も適当に米と水とを1.5カップずつで、強火スタート、加圧後弱火の20分、放置10分みたいな感じだったのだが。せっかくだししばらくこちらで炊いてみようと思う。中身を確認出来ない点、圧力鍋は闇鍋だ。


もはや主食の座を奪っていた煎餅やらを食べるのをぱたりとやめてひと月あまり、買い出し時の出費が意外なほどコンパクトになり、食事を用意する時の気構えもいい意味でテキトーになった。疲れ切って帰った昨日もほいほいと汁物まで用意したのだから、我ながら立派なものだ。


昨日出たのはまたしても上野のほうで、着いてまず寄るつもりだった店はまだ開店30分前で、待つ間に向かったビタールはなぜかシャッターが下りていた。遣る方なくずらずらと足を引き摺り東に向かう。

手摺り越しに差し向かう隅田川の水面はいつも私のへそぐらいまでぐっと高く競り上がって見える。秋の日射が川面に落とす両国橋の影は対岸には冴え冴えと、此岸に寄るほどに境目を波にほどかれて色々のモザイク細工のようだ。陽が差し込む側に回ると、川の鏡面が橋に翳されて押し黙ったところに水中からの光が浮かび上がり、そこだけ古いガラス瓶のように藻緑色で。水の重たさ。


蔵前のアンビカで諸々の食材を調達する。5kg入りのバスマティが格安で、余程ひっ提げて帰ろうかとも思ったが、断念。値札のない、ピンポン玉よりひとふた回り小さい何かの果実か冷蔵庫に山積みになっていた。微かに梨肌の黄緑色の果皮は薄く、透き通っており、中に液胞を抱え込んでいるかのようだったので注意深く摘み上げたが、思いの外丈夫なようだ。以前とあるコーヒーのカッピングコメントにあったセイヨウスグリに少し似ているな、と思いつつ、おそるおそるふたつをかごに転がした。


当初は隅田川沿いを三ノ輪方面に歩けたらと(永井荷風ルート)思っていたが、先に果たせなかった予定を済ますべく、上野へと引き返す。ビタールはやはり閉まっていた。これからどうしたものかと思ったが、不忍池にはまだ蓮の葉が残り、そういえば駒込あたりにまだ通販でしか利用したことのなかいコーヒー屋があったことを思い出し、そこに寄りしな歩いて帰ることにする。結果として上野から3時間近く掛かった。5kg入りの米袋など買わないで良かったと思う。


外出した日の夜はいつも不思議と時間がある。夜寝る前、永井荷風の『すみだ川』を読む。永井のかなり若い頃の作品で、書いたのは明治42年(1909年)のこととある。明治42年といえば、荒川(当時はそのほとんど全流が隅田川に注いでいた)流域を水浸しにした明治40年洪水の直後であり、また翌年には(翌年着工の荒川放水路建設決定のダメ押しになったであろう)明治43年洪水を控えている頃だ。永井自身は序文中でこれらの洪水に直接言及してはいないけれど、急速に移ろいゆく江戸-東京の風景の水際としての川という場所感はこの時点から既に強くあらわれている。

ところで作中の主人公のひとり、若い長吉は、芸者修行に葭町(現・人形町付近)へと移り住んだ幼馴染のお糸の影を追い、今戸橋(山谷堀の隅田川との合流点)の自宅から隅田川沿いを延々下っていく。葭町はかつて元吉原があった地で、1668年に吉原が現在の浅草裏に移ってからはそこに芸妓が移り住み、戦後しばらくまで花街として栄えることになる。

普段東京にいても意識することはほとんどないが、こうした花街、廓街の跡地(というのは、しばしば政府の命によって街ごと作られ、街ごと移転された跡地)は案外あちこちに残っていたりする。

またしても話は戻って昨日の上野の帰り、東京大学裏の入り組んだ住宅街を分け行った先、根津神社の鳥居に行き当たった。それまでは聞き齧ったことがあるばかりだったが、このあたりにもかつて根津遊郭という廓街が広がっていたらしい。吉原大火の際には逃れてきた吉原の遊女も受け入れたが、東京大学の近辺ゆえに問題視されたこともあり(東大の出の坪内逍遥の妻はこの地で見染めた遊女)、1888年には東京湾の埋立地に構えた洲崎遊郭へと移転を命じられる(『濹東綺譚』の主人公はこの洲崎遊郭を舞台にした小説を書いたことがあるとの描写があった。『元八まん』中の永井も、電車(城東電気軌道?)の洲崎大門前で下車して遊郭へと帰っていく遊女を目撃している)。こちらも現在ではその街区割りを残して他には見る影もないことは言うまでもない。


読み終わった頃には0時を回っていたが、今朝は案外普通に起きて、朝食をとり、コーヒーを試し、晴れていたのでぬるま湯でぬいぐるみを洗った。


アンビカで買った果実は、レシートの印字には「amla」とあった。調べると、和名をユカン(油柑)といい、主にインド圏で食用に栽培されているらしい。スグリとは全く関係がなかった。包丁を入れると想像よりも遥かに固く、ざらりとした感触で、中心に種があるらしく、これが固くて割ることもできず、またリンゴやアボカドを剥くときのように捻って種を外すことも出来ない。仕方がないので直に齧り付くと、皮と実に境の無い、細目の紙やすりのようなザラリとした歯触りで、歯切れは非常に悪い。そして強い酸味と渋み。問題の種と実とはしっかり絡み合っている。あえて例えるならば、とても若い青梅の、実の部分を全て突き固めた皮に置き換えたような感じだろうか。歯触りの悪さゆえ、スライスするのが適当かと思う。インドではおもに漬物(ウールガイの類だろうか)にするという。

外からは焼かれたアスファルトの臭いが漂ってくる。スコップを震わせる振動が大なり小なり、不規則にぶつかり弾けては鉄板をジタバタまだらに鳴らしている。










2020年11月4日水曜日

20201104 押し麦

7:45 現在、コーヒーは一杯、エチオピアのナチュラルの残りにブラジルのナチュラルの混合。味が二層に分かれながら、それらが正確にシンクロしているような不思議な印象。パイ生地を短冊状に切って何も挟まず焼いた時の、溶けたバターを吸って歯切れ良くエッヂの効いた生地と、バターの芳香を含み込んで膨れた空洞とが成す並行法のような。

9:00 現在、コーヒーは二杯目、ルワンダ。


昨夜みた夢には、大学の講堂のような場所でテレホン・ショッピングのような催しが開かれ、とてもとても分厚い本が売られていた。「なんとか・フォール」みたいな名前を付けられたその本は、百科事典大ほどの判型に、厚みは6m強だか、「横置き」にされ、その最上端から1m分ほどのところで開かれて、逆立ちした「J」字状に表紙をぶら下げたまま立ち上がっていた。

また別に出てきたのは木枠に張られた肖像画で、横1/4ほどが蝶番で裏側、木枠側へと180度、これもやはりJ字状に折り畳めるようになっている。Huawei 社のフォールディング・フォンかよ。


昨晩は久々に買い出しに出た。マンホールの底から響く水の音が妙に生々しい。東の空には十五夜を過ぎた月が低く、濃厚に、綺麗だ。雨の名残か、祝日の夜のせいか、人通りは幾分少なく、しかし子供の姿は多く見かける。


オートミールの粒の平たさ。今日は外出しようと思う、晴天だ。

2020年11月3日火曜日

20201103 水の臭い

8:00 現在、コーヒーは一杯、ブラジルのナチュラル。 ブラジルらしいチョコレートのような甘みは引き出しつつも、それを穏やかながらも印象的な青みのある酸味、青りんごとか、むしろタデ科の類の?茎のそれを思わせる酸味が引き立てる。とても滑らかなので、飲み込むとすっと引き、あとにかすかな香味が口腔に漂う。チョコレートホイップを纏ったケーキにイチゴが載っていると若干疑問を覚えるけれど、それがうまい具合に口の中で混ざるとイチゴの酸味がチョコの油分を具合よく洗い流して幸福な感情が口に湧く、そんな感じ。


昨日の夕方ごろから便りなさげに降っていた雨の気配は意外にもまだ続いており、湿った大気が少し向こうの幹線道路を走るタイヤの音を効率よくこちらに届ける。朝食には昨日の朝焼いてみたクランペットの残りをトーストする。鍋肌に平たく均された焼き目の表面を、ナイフで削ったバターの欠片が滑り落ちていく。


昨晩は永井荷風の『濹東綺譚』を、文中に名指される地名を地図に探しつつ読む。主人公は小説家で、作中には時折彼が目下執筆中の作品『失踪』の一節が差し挟まれる。

小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。わたくしは屢人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過るような誤に陥ったこともあった。(『濹東綺譚』)

本作に限らず、永井の作品に印象的なのは、そこここの建物だとか景色だとかよりもむしろ、それらの間の往来を可能にする交通網(道路、電車、乗合バス、水路…)への執着だ。とはいえそれは、たとえば車窓の向こうを過ぎ去っていく風景の連続だとかいったシークエンスがそのままナラティヴを推進するわけでもなければ、またコンパートメントやら長椅子やらが人々の出会いや語りの契機として利用されるわけでもない。永井の交通網は全く、それによって地上に疎密を組織し、物語を絡め取る網であって、編み上げられた線のそれぞれは街と街とを切断することで隣り合わせる。

本作は(永井の1936年ごろの取材に基づく)玉ノ井駅(現・東向島駅)周辺の銘酒屋(私娼窟)を舞台に展開するが、これはもともと浅草裏手に広がっていたものが、区画整理と関東大震災(1923年)に追われてこの地に移ってきたものだ。隅田川と荒川(荒川放水路が竣工したのは1930年)に挟まれて浮かぶ街、度重なる新道整備や鉄道敷設、廃線の中でその目抜き通りをくらくらと移しつつある街。江戸=東京にとっての「向こうの島」である街。

この街を永井はいかにも水捌けの悪そうな、ひとつの澱みとして描いている。しつこく顔に群がる蚊、溢れるドブ。事実それは物語の条件を成す澱みだ。河川を含む無数の交通の網目によって形作られたひとつの澱みだ。


水の臭い。永いことそれを恐れている。2019年、18きっぷ一枚で常磐線その他を乗り継いで、線路沿い、道路沿いの多くの街の傍らを通過した。かつて波に洗われた街々だ。

同じ年、大雨。各地の河川沿いに住む人々の悲鳴がネットを通じて押し入ってきた。

今の午前は、たまたま存在を知った東京下水道局の下水道台帳で、道路の下を延々這い回り、最後に処理場へと至る矢印を延々追いかけて過ごした(少々意外なことに、地図上で並走している下水道管の中身は必ずしも同じ方向へと流れているわけではないのだと知った)。

我が家は2度、下水の詰まりを経験している。2度とも同じ業者さん(同じ気のいいおじさん)に清掃をお願いした。高圧洗浄機に使うために、我が家の一つしかない水道からホースを延ばした。その何時間もの間、私は、そしてより重要なことには、屋外で作業する業者さんは、水道網へのアクセスを上下ともに失うことになるのだと気付いた。すぐ目の前ではそれらがずっと、短絡状態で押し合いへし合いしているというのに。


外は夜だ。





2020年11月2日月曜日

20201102 編み目、家政、ステイ・ホーム

9:30 現在、コーヒーは一杯、エチオピアのナチュラル。皮の青い柑橘の酸味が口腔の側壁を広く、程よく引き締めたところに、それに抱え込まれるようにしてほんかな甘味、さっきまで落ちていた木漏れ日が土に残した微かな熱の名残りのような。


昨日はあれから地下足袋の底を型にジーンズの端切れを切り抜いて、アイロン掛けて端を折り込み、1時間ほどかけてようやっと、片方の1/3ほどに針を通した。思いのほか生地が重なって厚いのと、踵からつま先に向かうにつれていよいよ手元が見えなくなっていくのとで、なかなかに苦戦はしている。糸は赤。手持ちの糸の残りに余裕があるのがそれくらいしかないのもあるが、以前ズボンの破れを繕った際、やはりデニム生地と赤糸を使って以来、この組み合わせが割と気に入っているのも大きい。王蟲の眼のようね。

縫い物をしていると、普段気にも留めないような布地の織り目が途端に抗い難い頑強な格子として立ち上がってくる。やろうと思えば糸の横腹を突き刺しながら縫い目を進めることだってできなくはないが、大抵は余計な労力を強いられることになり、こちらの目までも混乱するし、針路もぶれるし、布地自体にも変な具合にテンションが掛かって歪んでしまう。結局公倍数を探り探り歩調を合わせて隙間を縫って進むほうが余程利口だ。この格子空間では、きっとドット絵作家などは日々痛感していることなのだろうが、針を刺す目がひとつずれただけで面は大混乱だ。


12:30 現在、コーヒーはすでに3杯。ケニアのウォッシュト。開封から時間が経ち、それと抽出もわりとじりじりと詰めた所為か、酸味は控えめに、液の輪郭を華やかに纏め上げる役に徹しているように感じる。


ついさきほどまで、突発的に始まった掃除に没頭していた。換気扇の羽と、なにより、その奥で屋外へと開いている3枚仕立ての可動庇に積りに積もった埃の塊をこそげ落とす作業。

これが典型的な現実逃避の一パターンであることは否定しないが、逃避の矛先が諸々の家事、特に掃除に向かう分には、私はこれを多めに見て良いと思う。

こういうものは計画性でどうこうなるものではない。「思い立った」に身を任せるに限る。埃とは、人間側にとっては愚か、自分自身にとってさえ、その意志や都合などはお構いなしに、有無を言わさず積もっているものだ。多かれ少なかれ己の理性に従ってやって来る上司や客や詐欺師を相手にするのとは、そこが決定的に異なる営みだ。

家事というのは毎日が不条理の連続だ。玄関には荷物が届くし、洗濯物にはティッシュが紛れ込むし、子供は勝手にずっこけては泣き出すし、虫が湧いたとスプレー缶を引っ掴んで走ったかと思えば同居人が相談もなしに訳のわからぬ魚を買って帰っては台所に放置して、自分はさっさと風呂に向かってはシャンプーが無いぞと喚き出す。

そう言う意味で、「高いところから順々に」みたいな合言葉は半分正しく、半分間違っている。年末の大掃除のように、きっぱり時間をとって、どっかり腰を入れてこれに臨む際には良いが、大抵家事というものはそんなふうには始まらない。ゆかを磨いていたら壁の隅っこに張られた蜘蛛の巣が目に入り、それを払おうとハタキを探しに向かった先の窓が気付けば雨風と排ガスに吹かれて真っ黒だったりする。そうした全く考え無しの訪れの連続には、こちらも相応の考え無しを以って対処する他ない。無意味的切断の善用。


とはいえそれを日記のうえで振り返るとき、そうした無法の連続も、結局はカレンダーの規律正しい格子の並びの中に編み込まれたドットのひとつひとつなのだと気付いて溜息を漏らすこともある。大くの場合、人は朝は起き、夜は寝る。日中の賑わいが嘘のように、夜中の繁華街は住民もなく静まり返る。そしてその中に、ぽつりぽつりと、コンビニのガラス窓の向こう、蒼白い光を背負って商品棚の検品をする店員の気怠げな背中がある。最後の客が会計を済ませた途端にはしゃぎ出す、24時間営業の居酒屋の店員の振り上げる腕がある。

殊に今年の春以降の世界は、こうした風景にどう向き合ってきただろうか。規範的な労働時間としての日中のオフィス街の喧騒に、足の踏み場もない家庭の片隅に、各都市に、国土に、「身内」という格子のうちにむしろ各々を過密に囲い込もうとしてはいなかったか。

ここに世界は一つの家となる。無意味的に去来したり、しなかったりする「自然」に、立ち向かうのだ、と喧伝する、ひとつの理性、ひとつの父権。




2020年11月1日日曜日

20201101 地下足袋、弓、頁

9:00 現在、コーヒーはすでにルワンダを一杯。

いい加減足回りが冷えるのだけれど、靴下はやはりいまいち鬱陶しい。思い立っては殆どと突発的に放置されていた地下足袋のゴム底を剥がしてみる。かわりにデニム生地の端切れでも張って室内履きにできないかと思う。

地下足袋のゴム底の作りには「縫付」と「貼付」の二種類があるが、私の手元にあるのは前者なので、ゴム底と甲布の隙間をこじ開けて縫い糸を切りさえすれば比較的簡単に底を剥がせる。とはいえ縫い代部分には(補強と、もしかしたら作業上の便のため)接着剤も併用されており、またその内側、内底に張られた布(細めのタコ糸ほどの糸3本一組を経糸に、それを細糸2本一組から成る緯糸がかなり間隔を空けて織り上げる、ざっくりとした生地)の裏面全体にも糊が塗布されているのがわかる。これはゴム底を固定できるほどの強度ではないので、むしろ底付け時に底布と甲布とがズレないようにするための、仮留めの意味が強いのだろうと思う。

つまり、ゴム底を他の部位に固定しているのは幅1.5cm 程度の外周部分だけであり、その内側はいわば太鼓の皮のように浮いていることになる。こうした作りにも関わらずダボついた感覚が無いのは、ゴム底自体が土踏まずに沿うようにアーチ状に成形され、それが底布を張り上げることによるものなのだろう。またこのミニマルな構造により結果として、地下足袋の売りである素足に近い感覚、そして足裏に弓を張ったような程よい緊張感が実現しているのだと思う。

このゴム底を柔らかい布地に代えてしまうと当然だいぶ履き心地は違うものになるだろうが、まあ、物は試しだと思います。

昨晩はいくらか本を読んだ、ページの完全にばらけた本を、一枚一枚拾い上げながら。摘んだページを、横にスライドさせ、その「綴じ目の側」を翻して文章の続きを追う手続き。