相変わらずの週末の階下の轟音だ。床下から突き上げてくるような衝撃が続く。
なぜ日記を書くのか。現在を半歩嵩張らせるためだ。音波や電磁波が適当な時間間隔のなかで初めて音や光としてあり得るように。地に突き刺さるピンの先端においてはもはや地形がありえないように。最近また少しずつ音楽に興味を持ったり、外国語を少しずつ学習したりするようになって、あらためてそうしたミニマルな嵩張りを意識するようになった。
地を掘削すれば同じだけの土が傍らに積み上がって山を成し、地図を東西に貫く中央線の敷地はそれを俯瞰するために確保すべき距離の塩梅を迷わせてやまない。生とは本質的に嵩張りだ。その極限には常に動かしようのない「分からなさ」が立ち塞がっている。
そうした分からなさを前にして、私たちはいつだって恐怖する。あるいはその異質なザラつきをアンチ・エイリアスして最我有化しようとする。あるいは銘々適当なラベルを貼り付けて区画整理していく。
なんとか結〆めを付けなくてはならない。「ある程度」のところへと有限化しなくてはならない。今朝の気紛れの思いつき。今日を以ってこの日記の並びを休止すること。