2019年8月9日金曜日

夏休みの工作かしら

やる気無さすぎて特に何もしないままニート生活三ヶ月目突入致しましたる私はこの頃時に手慰みに時に必要に駆り立てられて工作をしてみたりする私であったりしますが本日は肥後守で蝋燭を削って月に二回我が家にコーヒー豆を届けるゆうパケット規格準拠の厚紙一枚折りの梱包資材を蝋引きしてステーショナリーケースに見立ててみたりブルーボトルの豆の紙袋を切って折ってやはり蝋引きしてポケットティッシュカバーを試作してみたり高校時代の書道の時間に買ったか貰ったかしたちょっといい半紙に型取りしたりブンマワシを千鳥足に這わせたりして破れた扇子の紙に裏張りしようという幾分無謀にも思える試みに取り掛かってみたりしていた暑いのは駄目だ。


余談だがこの扇子はたしか中学時代の修学旅行の際に清水寺参道の店で買ったもので、子供の土産物でありせいぜい二千円程のものであったはずだが、今見てもなかなか造りは悪くないように思う。竹を描いた墨絵風の絵柄や煤色の骨に灰色の扇面の色遣いも日用にうるさくなく、十年以上経て当初は母の顔を顰めさせた香もとうに失せ、扇面もぼろぼろになった今でもお気に入りとして手元に放って置いてある。

要はもともと値段相応の樹脂製のもので、これはわりかしすぐに壊れたのだが、当時の私はこれに替えて竹串を挿し、削った両端に学校の竹箒から採った枝を加工したものをはめ込んで修理した。この出来栄えは今に至るまでの私の工作の成果のなかでも最高のものだと自負している。

そういえばこれを買って間もない頃だったと思うが、百円ショップで少しずつ「扇子」−−バルサ板みたいな白くてフワフワスカスカな竹材に位置がバラバラな透かし彫りが施された骨に糊で固めた手ぬぐいのような布地がベッタリ貼り付けられたものがぐしゃっと束ねられた何か−−が並ぶようになった。そのクオリティはほとんど代わり映えしないままに今ではすっかり夏の定番商品であり、近年の猛暑に押されるように街中でもしばしば見かけるようになった(今年に関しては手持ちファンのシェアが圧倒的なように見えるが)。若かりし頃の私も扇子を105円(5%!)で買えることへの驚きを胸に一本買い求め、まあ案の定間もなくそれは何かよくわからないクチュクチュに成り果てていたどうでも良いような記憶があるが、しかしその後何年かあとの私を驚かせたのはそれが意外なほどに市民権を得ていることだった。若年層ならいざしらず、いい歳した大人が駅のホームであのクチュクチュをバッサバッサしていたのは一体全体何だったのだろうか。


扇子のセンスの話でした。厭や敏や夏は駄目ですね。