2017年11月2日木曜日

『劇場版 響け!ユーフォニアム』上映前の企画が面白かった。

『劇場版 響け!ユーフォニアム〜届けたいメロディ〜』を観てきた。本編については別の機会に譲るとして、本編上映前に流されたショートムービーが面白い試みだったので、ここではそれについて。


ストーリーとしては、記録係を任された久美子一行が部員たちの写真を撮って廻る、というものなのだが、おもしろいことに、劇中「フォトセッション」と称して、一定時間スクリーン上に映し出される「彼女たちが撮った写真」を観客が自由に撮影してよい、という、いわゆる「参加型」の演出がなされていたのだ。

撮影タイムに先立って久美子が(例によって温度低めに)提示するルールは

・始めと終わりの合図の間だけ
・撮影機材は携帯電話・スマホのみ
・SNSへの投稿は歓迎

といったところ。これはなかなかおもしろい作戦だ。


まずは「マナームービー」として。あえて撮影をエサに携帯をひっぱり出すよう客を誘導することで、ただ電源オフを呼びかけるよりも観客自身による確認をより確実なものにする計らいだろう。

そして言うまでもなく、SNS上での話題性の獲得なのだが、ここではそれと同時に、撮影した観客自身にも、ある種の「所有感」を満足させられるよう仕組まれている。

画像の拡散が目的ならネット上で配布すればよい。「なう/だん」感(死語?)が目的なら撮影スポットを設置すれば良い。しかしこの企画で目指されているのは、画像検索結果一覧を駆け抜けていくサムネイル画像の身も蓋もない近さでも、記念撮影する人影が背に残していく日付の内への遠退きでもない、確かに手の中にある一枚の写真の喜びだ。


Tweet 検索結果に並ぶ劇場の暗闇の中撮られた「映像の写真」たちは、撮影者のスクリーンとの距離や角度に応じて「黒枠」に画され、台形に歪みながら、それは確かにそれぞれに「写真」であった。

この「遠さ」が重要である。冷静に考えれば映像を改めて写真に撮るという行為は画像をわざわざ劣化させるようなものだ。しかし観者がその映像を、「それぞれにその遠さの中で」捕らえ直すことにこそ意義がある。所有とは、「矯めつ眇めつ」眺める距離あってのものだ。

参考:公式ページ上での「フォトセッション」についての説明
http://anime-eupho.com/news/?id=229

2017年10月17日火曜日

『シン・ゴジラ』、その配役のバランス感覚に見えるもの

 『シン・ゴジラ』、特筆すべきはその圧倒的なまでのバランス感覚であろう。官‐民、文‐武、文‐理といった、普段対立の両極として置かれがちな組のそれぞれの代理人が、ゴジラ襲来を機に額を寄せ合い、物語の過程でその各々がそれぞれに、過不足なく手柄を立てつつクライマックスを立ち上げていく。その配役の手際はほとんど熟練の司会者のそれである。

 そこでは現代国家体制を支える名簿を埋める思いつく限りの項目の数々が、その個別の評価を避けるように、比例によらず、順不同に列挙的に一同に介し、果たして火急の案件ゴジラは、彼らの侃々諤々の果ての「落とし所」としてめでたく処理されるばかりであって、彼らがゴジラを見遣る目はほとんど流し目といってよいほどである。


 しかしここで触れられないままに終わるのが、聖‐俗の組である。より正確には、「聖」の極を担うことは遂に人間側には許されないままに、ゴジラ一人が一身に背負って物語は進んでいく。

 先の「国家メンバー勢揃い」的な人間側の描写と併せると、結局のところ本作におけるゴジラとは、あたかも現代において俗なる「政治」から締め出された「政(まつりごと)」の聖性をまるごと肩代わりしているかのようである。つまるところ『シン・ゴジラ』とは、現代において分離してしまった国家権力の二つの側面を描いた、おおざっぱに一つの政治論なのだ。

断簡:落下

ものが落ちてくる。その光景を見るときの言い知れぬ多幸感は一体何なのだろうか。

上方からであること。
上方とは、私たちの営みの平面にとっての外部である。残余であり虚無でありつまりそれは虚空と呼ばれる。

虚空というだけならそれは上方ではなくたとえば横にあってもよい。しかしその虚空は上方において同時に充実の場として、それ自体が価値あるもの、なんであれそこにあるモノ全てに価値を与えるものとなる。それは物理学では位置エネルギーなどとよばれるもの、その価値は虚空の内にあるものすべてに無差別に、外在的に、添えられるものだ。横方向から飛来する銃弾はどこか息苦しい。無理をしている。次の瞬間には摩滅する運命だ。それに対して上方から降り来る矢は天賦の添付の祝福の内に解き放たれている。

落ちてくる、とはつまり

写真の上の植物、あるいは像の最小

 写真に写る植物の像たちに、私は昔から惹かれていた。画面いっぱいに広がる桜の花びら、地面を覆うオオイヌノフグリの淡い青の散り散り、夜闇の中街灯に浮かび上がる夏の街路樹の青葉、等々。光の下に、カメラの前に、互いに駆け抜けるそれらとシャッター幕との交錯の一瞬の垣間、フィルムであれ撮像素子であれ一つの感光面につと像を結び、しめやかに焼いた、その影が今、目の前のプリント・アウトの上に散っている、その事実に、その凝集に、魅せられていた。


 それは言うなれば、「像の最小」ではなかろうか。たとえば語の最小としての「a」が、「嗚」が、私たちの言語使用を不意にざわつかせるような静かな衝撃を、枝葉が、花弁が、像面に対して秘めているのではなかろうか。


 私にとって写真とは、何よりもまず点的なもの、punctual なもの、針穴のように、ぷつりと刺すようなもの、あるいはずらずらととめどない流れに打たれる句読点 punctuation のようなものであった。そしてそれはもちろん、かつてロラン・バルトが写真に見出した「プンクトゥム」とも大きく重なるものだろう。



 それならば植物こそ、写真がそれに尽きそこで果てるところの先端ではあるまいか。


追記


昔こんなことも書いていた:Instagram、正方形 - Togetterまとめ