2017年10月17日火曜日

写真の上の植物、あるいは像の最小

 写真に写る植物の像たちに、私は昔から惹かれていた。画面いっぱいに広がる桜の花びら、地面を覆うオオイヌノフグリの淡い青の散り散り、夜闇の中街灯に浮かび上がる夏の街路樹の青葉、等々。光の下に、カメラの前に、互いに駆け抜けるそれらとシャッター幕との交錯の一瞬の垣間、フィルムであれ撮像素子であれ一つの感光面につと像を結び、しめやかに焼いた、その影が今、目の前のプリント・アウトの上に散っている、その事実に、その凝集に、魅せられていた。


 それは言うなれば、「像の最小」ではなかろうか。たとえば語の最小としての「a」が、「嗚」が、私たちの言語使用を不意にざわつかせるような静かな衝撃を、枝葉が、花弁が、像面に対して秘めているのではなかろうか。


 私にとって写真とは、何よりもまず点的なもの、punctual なもの、針穴のように、ぷつりと刺すようなもの、あるいはずらずらととめどない流れに打たれる句読点 punctuation のようなものであった。そしてそれはもちろん、かつてロラン・バルトが写真に見出した「プンクトゥム」とも大きく重なるものだろう。



 それならば植物こそ、写真がそれに尽きそこで果てるところの先端ではあるまいか。


追記


昔こんなことも書いていた:Instagram、正方形 - Togetterまとめ

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