2019年9月27日金曜日

「サトラレ」を恐れて。なんちゃって。

子供の頃に『サトラレ』を観て以来、たぶん私には思考というものが無い。


『サトラレ』は自分の思っていることが片っ端から周囲に伝わってしまう特異体質(=サトラレ)を持つ主人公と、その事実を本人に隠しつつ周囲とのトラブルを調整する「対策委員会」他の人々たちの物語だ。
もとは佐藤マコトによる漫画作品で、2001年には映画化、2002年にはテレビドラマ化されている。私が観たのはこのテレビドラマ版だった。

この作品の設定は当時小学4年生だった私に静かな、しかし今に至るまで決して絶えることない根深い恐怖心を植え付けた。

私がサトラレだったとしたら?私のこの虚勢も怠惰も、薄い悲哀も、安い快も、余すところなく筒抜けだったとしたら?なにより、そうした一片の素朴な想像に対して子供なりに裏の裏のそのまた裏をとったつもりの疑念を弄したところで、さらにはたとえその疑念になんらかの結論が与えられようとも、そのはてに私に残された安寧など端から有りはせず、全てはただはじめの恐怖だけをそのままにひとり相撲に終わるのだという、逃げ場のない絶望が、物心のようやく芽生えて間もない子供にとっていかばかりのものか(まあ、昔から思い込みが激しい子供だったのだ)。 



そうした恐怖は私の思考の習慣にはっきりと変化をもたらした。「私がサトラレだったとしたら?」知られるに気恥ずかしい趣味嗜好や悪戯、悪行などとは違って、隠蔽工作は何の役にも立たない。なんといっても「隠せないこと」それ自体がその特徴なのだから。

思考の内容に検討を加えることは可能でも、思考それ自体を別の思考によって操作することは不可能だ。思考を無みする思考は存在しない。  

そこで私が選んだ道はといえば、思考のすべてを「なんちゃって」化することだった(*)。すべての思考を等しく「思ってみただけ」として、その中身を他の任意の思考に交換可能な括弧で囲い、際限なく増殖させること。「本心」を隠匿するのではなく、あたかも全球が点灯状態の電光掲示板のように、なんとでも読める以上何も意味しない「なんちゃって」の飽和のうちに「本心」そのものを塗り潰し抹殺すること。


『サトラレ』を観て以来、たぶん私には思考というものがない。あるのはただ明滅する印象ばかりで、口が、手が、私の外側からそれらを掬い上げては、音に、文字に託つけて、それらを辛うじて縫い留めていく。



*ちなみに永井均があらゆる言語活動の可能性の条件として提唱している「超越論的なんちゃってビリティ」という概念のことを知ったのは高校生の頃、なんとなく木村大治『括弧の意味論』を読んでのことだったか(もちろん当時はこれらを関連付けたことはなかったけれど)。
――wikipedia「超越論的なんちゃってビリティ」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E8%B6%8A%E8%AB%96%E7%9A%84%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3





2019年9月25日水曜日

人に集うか、場に寄るか?ヤフオクとメルカリとを分かつ二つの空間観


作品とかコンテンツなどと呼び習わされるものがたゆたうことになる空間を織り上げる経/緯の糸として、「人/場」という対が考えられると思う。あるいは「人=author / 場=topic」と言い換えてみても良いかもしれない。


ひとまずの例として、ヤフオクとメルカリとがこの「人/場」の対のそれぞれを代表してくれるかと思う。

ヤフオクのおおまかな雰囲気はと言えば、いろいろな人がめいめいビニルシートを広げて青空市を開いているような感じだ。出品者たちはそれぞれ自分のお店の売り込みに熱心で、店構えにも気を配り、品揃えにも衣料なら衣料、書籍なら書籍いっぽんというように統一されていることも少なくない。しぜん品揃えが良質だったり提示額が破格だったりする出品者はお得意様や、購入までには至らないものの品揃え自体を楽しむフォロワーも多く抱えることになる。

システム面からいえば、同一期間中に複数出品できるのは有料会員だけというのもその傾向を後押ししている。月ごとにお金を払っている以上定期的に出品できるだけの納品が見込める人が集まってくるのは当然の結果だろう。実店舗を持つ店がオンライン店舗代わりに活用している例もよく見かけた。


それに対してメルカリは、もっとずっとドライな売買斡旋のプラットフォームで、もっぱらの使い方は狙っている商品名やブランド名を検索窓に直入れし、出てきた結果から良いものを絞り込むというものだろう。よい品を見つけたからといって同一出品者のほかの出品物まで吟味することはまれであろうし、あえてそうしたところで見ることになるものといえば、衣類やらマンガ本やら雑誌の付録やら、雑多な品々がごちゃまぜに並び各々日の目を見るのを待つ様子である。

購入が確定されるまで出品者と購入希望者は直接やり取りすることは許されず(Twitter でいうならば、ダイレクトメールはもちろんのこと、@による公開やり取りも実装されておらず、個々の出品ページごとの掲示板でエアリプを飛ばし合うような状態)、出品者のフォロー機能も用意こそされてはいるものの、検索窓からユーザー名を直接検索することも不可能である以上、ユーザー同士の直接の交流を極力避けることで安全性を確保する、ほぼ完全に出品物中心の体制だ。

出品者という人=author  を中心に編成されたヤフオクとは対照的に、メルカリはカテゴリやブランドを単位とする検索の網目で編成された「場=topic」ベースの空間と言えるだろう。


ところであなたは美術館に行ったとき、絵画や彫刻作品の傍らに小さく記された作家名を確認するだろうか。美術館に行き慣れた人であれば、(少なくとも観るに値すると思われた作品に関しては)そんなことは当然だと思うかもしれない。しかし多分それは決して自明の行動ではなくて、世には「なんか良さげな絵がいっぱい掛かっている空間」として展示室を放浪する人々もたくさんいる。というかそちらのほうが多数派だろう(怪訝に思うあなただって植物園で品種名を見るか?キク園で栽培者名を見るか?と問われるとだんだん怪しくなってくるはずだ)。

人がなぜ作品の作者名を気にかけるのかという問いの答えはシンプルで、それは「好みの作品を効率的に探す」ことを目的に据えた場合、それを検索するタグとして作者名が最も手っ取り早いからにほかならない。それほどまでに作者は、作者の人格とその反映としての作風の一貫性という発想は、信頼されている。名は強い。美術なり、文学なり、少なくともその枠組みに関心を寄せる者たちにとって、その枠組の内部において。

Twitterをはじめ、SNSはユーザーアカウントという「人」を単位として設計されるのがもはや当たり前というようにさえ思える。そして「人」ベースである以上、いつかそれらはその源の死を迎えることになる。サーバーに静かに降り積もる無数のアカウントの抜け殻。


それほどまでに作家主義の世界観は深く根付いている。しかしそれは絶対のものではないはずだ。
(未だにどういうものかよくわからない上に出処が不確かな情報で申し訳ないが)どこかで耳にした誰かの発言に、Tik Tok の優れた点のひとつとして、そのコンテンツが面白くさえあれば、著名度などなくても勝手に盛り上がる場を作ったという点を挙げているがあった。個々のお題の下に、ごく短い動画が無数に群がる。

はてな匿名ダイアリーだってその名の通り「匿名」なわけだし、もっと遡れば「2ch」(とそのコピペ)という文化とてそちら側にある。また個々数年のいわゆる「なろう系」文化にみられる、その小説の売りどころを叫ぶ短文をそのまま題名にしてしまうような身も蓋もない振る舞いも、そうした環境への適応の帰結に他ならない。 

あるいは美術の文脈で言うならば、コーリン・ロウとマイケル・フリードを受けて岡崎乾二郎たちが唱えた「場所をあてにしないこと」とも(「場所」という語の用語法の相違ゆえに逆に見えるが、まあ部分的には)ある程度関わってくることだとも思う。

あるいは「誰でも15分間はスターになれる」というウォーホルの言葉は、そうした場の発展と、そこにうごめく無数の名無したちの姿を予告するものではなかったか。

べつにそうした「場」の生成をあるべき未来として期待しているわけではない。むしろそれは少なからず殺伐として、息苦しく、世界に容易に転がり込みうるものだと思う。しかしそれでもどこか期待しているのだろう。住所録の書き直しに、敷地を区分ける線の引き直しに。あるいはその果て、一切の作者(人間か、そうでないかを問わず、一切の制作主体)を無しに、ただひとりでにふつふつとものが湧き出す場どもに。そうした破局への開かれに。


○補遺?○

ここまで書いておいてなんだが、この「人/場」という対への位置づけは絶対的なものではない。

上の例についてもたとえば「ブランド名」について、メルカリというプラットフォームにおける位置づけとして「場=topic」として扱ったが、それは衣料ブランド全体という枠組みとの関係においてそれは言うまでもなく「人=author」の側に位置づけられる。

またファッション業界において創業者の名を関したブランドのデザイナーが創業者の引退を待たずしてたびたび変わったり、あろうことか自身の名を冠するブランドを抱えながら他所のブランドのデザインを請け負ったりすることはよくあることであり、たとえば「エルメスのマルジェラ期」(*)と表現されるときの人名「マルジェラ」は、ブランド名「エルメス」を枠とした「場=topic」として機能しているとも言える。

*創業者エルメスは当然ながらもはや関与していない「エルメス」のデザイナーを1997年から2003にかけて担当したマルタン・マルジェラの名を関する「メゾン・マルジェラ」のディレクターを2014年以降努めているのは、その3年前「ジョン・ガリアーノ」のデザイナーを解任されて以来沈黙していたジョン・ガリアーノであり、また「エルメス」におけるマルジェラの後継としてはかつてマルジェラが働いた「ジャン=ポール・ゴルチエ」のデザイナーであるジャン=ポール・ゴルチエが兼任という形で就任している。

こういったあたりを見る限り、「人/場」という対そのものよりも、むしろその一方から他方への投射、移行の方に注目すべきなのかもしれない。


2019年9月20日金曜日

SNSは「臨機応変なサービス」を殺す

接客業を想定した話だ。

店員側がその場のごく個別的な事情を鑑みたり、あるいは「ちょっと興が乗ったから」といった気の紛れでとったその場限りの対応が、しかし客の手によってSNS上にすぐさま記録され共有されてしまうのならば、それがそのサービスの機転に対する感謝や賞賛であろうともお構いなしに、「万人に対して別け隔てなく同等のサービスを提供せよ」という匿名の圧力として機能してしまう。

「期に臨み変に応ず」とは、ある関係が「その都度それ限りである」ことを前提としてはじめて成立するものだ。

SNSはサービスを限りなく平準化する方向にしか働かないだろう。

2019年9月17日火曜日

とてもながいなにかに名前をつけること:関真奈美「敷地|Site」


国分寺駅から武蔵美を目指していくらか歩いたところで、どうやら尋ねられ顔をしている私はその日もひとりの女性に「線路ってどこかしら」と呼び止められた。

困った。駅ならともかく線路となると長すぎて指差すわけにもいかないし、かてて加えて生憎ここらはJRは中央線と武蔵野線とが十文字を成す上そこに西武の国分寺線と多摩湖線とが互いに煮え切らない角度に広がりながら交わったり交わらなかったりしており、なおのこと答えるにあぶなっかしい。
まあ私自身ほんのその十数分前に得たばかりだったそんな知識は結果としてそれなりに役に立ち、そこから西武多摩湖線に突き当たる一本の道を示してことなきを得た。

玉川上水づたいにようやく辿り着いた武蔵美の閑散とした食堂で海南鶏飯(らしい)を食べた後、同敷地内のGallery of The Fine Art Laboratory にて関真奈美「敷地|Site」を見る。

真四角でワンルームの展示空間をどう廻るべきかは鑑賞者にとっていつだって最大の悩みの種のひとつであるけれど、その点について言えばこの展示はいくらか親切で、壁に貼られた写真のその傍らにはそれぞれに短い文章が添えられており、その文章は横書きで、しぜん私はその向きに付き従って室内を時計回りに廻り始める。しかし間もなく、室内に点在する台座の上のオブジェのそれぞれが壁の写真と対応していることに気づいたりして、仕方がないので壁づたいは適当なところで中断されて、時折台座の間を彷徨い歩くことになる。

私たちの視野と記憶はかなり狭く限られており、次のオブジェに向かって歩を進めた瞬間には大抵すでに前のオブジェの記憶の大半は霧散していて、だから私たちはそれがまだ目前にあるうちに写真を撮ってお守りにしておいたりするのだが、オブジェが写真になったところで結局最後に見るのが私であることには変わりなく、結局のところそれらを適当にブツ切りして消化を促すよりほかにない。

部分部分にブツ切りされた対象は、しかしそのままでは腕はただ腕であり脚はただ脚であるばかりであって互いに関係を結ばない。モナドには互いに目配せする窓がないのであり、何かしらの外部の力に依ってそれらを和え纏める必要がある。かつては神へと丸投げできたその役目も、今となってはその間接因果の構図はそのままに、人間の経験の方へと裏返されている。私たちは世界を、まるで自らの身体のように区切り、またまとめ上げる。

この室内に散らばる諸々を「敷地|Site」というひとつの展示へとまとめ上げるのもまたその経験を通してである。まずはもちろん鑑賞者の身体のそれではあるが、しかしこの展示においてはそれに先回りするもうひとつの身体、台座の上の棒人間たちの身体を見逃すことはできないだろう。
室内に点在する台座のそれぞれには幾筋かの針金が、互いに凭れ掛かり合うようにして、なかば崩折れながらも立っている。そしてその傍らに添えられた写真が示すのは、その針金がかつて棒人形状に人型を成しており、壁に掲げられた写真に映る人物を模したポーズでその壁際に立っていた、いつかの時点の記録である。
 
ここで壁際にポーズを決める棒人間の姿とは、写真の画面の色の布置を背景を立地 position として直立し、特定の姿 posture の内に静止 pause する 「人物写真」として切り出し=統合する鑑賞者の姿であり、それと同時にその身体を成している絡み合う5本の針金とは「四肢+一胴=五体」という五人一組 member から成る肢体 membrum へと分節された身体に他ならない。
かつて彼らがその内にあったポーズはすでに見る影もなく失われても、絡まりあう針金の数は依然5本のままであり、その肢体の文節はなお維持されている。鑑賞者によっていま再びかつての、あるいはあらたな、ポーズの内に読み返されるれるのを待ち伏せている。
 

ここで藪から棒にひとつの疑問がある。名付けるとは、対象の全貌をいちどに視界におさめ、それをひとつの統一として、その輪郭を言葉で縁取ることだとすれば、しかしそれが叶わぬほどに「とてもながいなにか」を名付けるには一体どうすればよいのだろうか。例えば私が小平市の広がりやかたちを知るべく Google Maps の画面を拡縮するように、対象の一望が可能になる距離まで視点を後退させればよいだろうか。

しかしここでの悩ましき対象は「おおきい」のではなく「ながい」のであった。
JR中央線の全容を視界に収めようと地図をズームアウトするほどに、東京を東西に貫くその用地はいよいよおぼろげな線となり、しまいにはその名を示す文字とともに消えてしまう。ズームインしたらそれはそれで、線路を表す薄灰色の長い長い線沿いのどこに路線名が記されているものかと画面をこねくりまわす羽目になる。


とてもながい、とは、たとえば立方体が次元をまたいだ反復を逆向きに辿り返す(ズームアウトする)ことでなめらかに針穴へと解消されてしまうのと逆の有り様であろう。常に他の次元へとつっかい棒を差し挟んで抵抗するような有り様、ひとつの敷地がひとつの語、ひとつの住所へと解消されることを拒み、いくつもの敷地を横切り、それらを横目に疾駆していく、場所なき場所としての鉄道のような有り様。消失点(それの担い手が神であれ、あるいはそれと画面を挟んで向かい合う私たちであれ)から発してすべてを飲み込みながら花開く一点透視図法の錐体を絶えず食み出していくこと。

再び今回の展示空間の有り様に立ち戻るなら、たとえば第一の鑑賞者としての針金たちが立つ台座のそれぞれは、それに対応する壁際の写真等々を視界のうちに捉えるべく、まず一旦は透視図法の錐体の場に乗って後退る。しかし部屋の広さは限られている以上、ワンルームの壁面三方から部屋中央に向けて背中合わせに押し込まれたそれらはしまいにはすれ違いあい、結果壁面と台座を結ぶ錐体は互いに交差し侵食しあうことになる(思い出すのは先述の、4路線に囲まれたなか「線路はどこ?」と問われる困惑だ)。

あるいは展示室の一面がまるまるガラス張りになっているのを良いことに、いっそのこと部屋から数歩後退ったところから、この部屋そのものをまるごとひとつのオブジェクトとして回収しようとする者があるかもしれない。ところが周到なことに、ガラス面と向き合う壁面には「うしろ」の文字が、"鏡文字で"記されている。すなわち、「室内から見られる限りで鏡として機能するところのガラス張り」を作品の構造の内にあらかじめ組み込む仕掛けが施してある。


意味作用の差し引き零への清算をひたすら先送りにする滞留は、隠喩的特異によってサイト−スペシフィックに絶ち貫かれることもなく、ものとものとを隣接させつつそれらの間をすり抜けていく。
「敷地|Site」の名状しがたさ。それは自らを自らへと食み出させるように、無限に訴えることなく、無限を待つまでもなく、ただここにおいて逃れようのない横溢である。



2019年9月6日金曜日

白々しさの使用価値

昔観たときにはただただ白々しいばかりで見るに堪えないと思っていた映画などを、何年か経て改めて見直したところなかなかどうして面白い、と思い直すことが、この頃何度かあった。

背後にある難解なテーマを解せるようになった、というような殊勝な話ではない。ただ、かつて私を襲った白々しさは、実のところそれ自体が十分個々に検討するに値する指標であり、そしてその何割かは確かにそれを惹起したところの作品において、主要な役目を果たしていたらしい、ということだ。

私たちに「白々しい」と思わせる作品とは、ひとまず私たちに「手の内が見えている」と思わせる作品である。ありきたりな紋切り型、その型に照らせば展開なり帰結なりが白々と見え透いており、あらためて眼前のその作品による実演を待つまでもない。

見るまでもなく見え透いている、それゆえ見ている時間が勿体無い……そうなのだろうか?順番が逆なのではないか。いま眼前にしている作品の向こうに、いやむしろ手前に、そうした型を見て取っている、見て取ってしまう私がいること、「白々しさ」が私たちを導くのはそうした現実への反省ではないか。


アニメ版『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の主人公のヘタレっぷりや『天気の子』の喧しいまでのスジ違いは畢竟、自らの拠って立つ足場に他ならない物語という制度そのものを一旦御破算にせんという宣言、「俺はこれを物語にはするまい」というもごもごとした叫びではなかったか。

白々しさは私たちに逆行を促す。逆行がもはや逆行とは呼ばれ得ない時点、順行/逆行の別そのものの起源への遡行を促す。