2019年9月25日水曜日

人に集うか、場に寄るか?ヤフオクとメルカリとを分かつ二つの空間観


作品とかコンテンツなどと呼び習わされるものがたゆたうことになる空間を織り上げる経/緯の糸として、「人/場」という対が考えられると思う。あるいは「人=author / 場=topic」と言い換えてみても良いかもしれない。


ひとまずの例として、ヤフオクとメルカリとがこの「人/場」の対のそれぞれを代表してくれるかと思う。

ヤフオクのおおまかな雰囲気はと言えば、いろいろな人がめいめいビニルシートを広げて青空市を開いているような感じだ。出品者たちはそれぞれ自分のお店の売り込みに熱心で、店構えにも気を配り、品揃えにも衣料なら衣料、書籍なら書籍いっぽんというように統一されていることも少なくない。しぜん品揃えが良質だったり提示額が破格だったりする出品者はお得意様や、購入までには至らないものの品揃え自体を楽しむフォロワーも多く抱えることになる。

システム面からいえば、同一期間中に複数出品できるのは有料会員だけというのもその傾向を後押ししている。月ごとにお金を払っている以上定期的に出品できるだけの納品が見込める人が集まってくるのは当然の結果だろう。実店舗を持つ店がオンライン店舗代わりに活用している例もよく見かけた。


それに対してメルカリは、もっとずっとドライな売買斡旋のプラットフォームで、もっぱらの使い方は狙っている商品名やブランド名を検索窓に直入れし、出てきた結果から良いものを絞り込むというものだろう。よい品を見つけたからといって同一出品者のほかの出品物まで吟味することはまれであろうし、あえてそうしたところで見ることになるものといえば、衣類やらマンガ本やら雑誌の付録やら、雑多な品々がごちゃまぜに並び各々日の目を見るのを待つ様子である。

購入が確定されるまで出品者と購入希望者は直接やり取りすることは許されず(Twitter でいうならば、ダイレクトメールはもちろんのこと、@による公開やり取りも実装されておらず、個々の出品ページごとの掲示板でエアリプを飛ばし合うような状態)、出品者のフォロー機能も用意こそされてはいるものの、検索窓からユーザー名を直接検索することも不可能である以上、ユーザー同士の直接の交流を極力避けることで安全性を確保する、ほぼ完全に出品物中心の体制だ。

出品者という人=author  を中心に編成されたヤフオクとは対照的に、メルカリはカテゴリやブランドを単位とする検索の網目で編成された「場=topic」ベースの空間と言えるだろう。


ところであなたは美術館に行ったとき、絵画や彫刻作品の傍らに小さく記された作家名を確認するだろうか。美術館に行き慣れた人であれば、(少なくとも観るに値すると思われた作品に関しては)そんなことは当然だと思うかもしれない。しかし多分それは決して自明の行動ではなくて、世には「なんか良さげな絵がいっぱい掛かっている空間」として展示室を放浪する人々もたくさんいる。というかそちらのほうが多数派だろう(怪訝に思うあなただって植物園で品種名を見るか?キク園で栽培者名を見るか?と問われるとだんだん怪しくなってくるはずだ)。

人がなぜ作品の作者名を気にかけるのかという問いの答えはシンプルで、それは「好みの作品を効率的に探す」ことを目的に据えた場合、それを検索するタグとして作者名が最も手っ取り早いからにほかならない。それほどまでに作者は、作者の人格とその反映としての作風の一貫性という発想は、信頼されている。名は強い。美術なり、文学なり、少なくともその枠組みに関心を寄せる者たちにとって、その枠組の内部において。

Twitterをはじめ、SNSはユーザーアカウントという「人」を単位として設計されるのがもはや当たり前というようにさえ思える。そして「人」ベースである以上、いつかそれらはその源の死を迎えることになる。サーバーに静かに降り積もる無数のアカウントの抜け殻。


それほどまでに作家主義の世界観は深く根付いている。しかしそれは絶対のものではないはずだ。
(未だにどういうものかよくわからない上に出処が不確かな情報で申し訳ないが)どこかで耳にした誰かの発言に、Tik Tok の優れた点のひとつとして、そのコンテンツが面白くさえあれば、著名度などなくても勝手に盛り上がる場を作ったという点を挙げているがあった。個々のお題の下に、ごく短い動画が無数に群がる。

はてな匿名ダイアリーだってその名の通り「匿名」なわけだし、もっと遡れば「2ch」(とそのコピペ)という文化とてそちら側にある。また個々数年のいわゆる「なろう系」文化にみられる、その小説の売りどころを叫ぶ短文をそのまま題名にしてしまうような身も蓋もない振る舞いも、そうした環境への適応の帰結に他ならない。 

あるいは美術の文脈で言うならば、コーリン・ロウとマイケル・フリードを受けて岡崎乾二郎たちが唱えた「場所をあてにしないこと」とも(「場所」という語の用語法の相違ゆえに逆に見えるが、まあ部分的には)ある程度関わってくることだとも思う。

あるいは「誰でも15分間はスターになれる」というウォーホルの言葉は、そうした場の発展と、そこにうごめく無数の名無したちの姿を予告するものではなかったか。

べつにそうした「場」の生成をあるべき未来として期待しているわけではない。むしろそれは少なからず殺伐として、息苦しく、世界に容易に転がり込みうるものだと思う。しかしそれでもどこか期待しているのだろう。住所録の書き直しに、敷地を区分ける線の引き直しに。あるいはその果て、一切の作者(人間か、そうでないかを問わず、一切の制作主体)を無しに、ただひとりでにふつふつとものが湧き出す場どもに。そうした破局への開かれに。


○補遺?○

ここまで書いておいてなんだが、この「人/場」という対への位置づけは絶対的なものではない。

上の例についてもたとえば「ブランド名」について、メルカリというプラットフォームにおける位置づけとして「場=topic」として扱ったが、それは衣料ブランド全体という枠組みとの関係においてそれは言うまでもなく「人=author」の側に位置づけられる。

またファッション業界において創業者の名を関したブランドのデザイナーが創業者の引退を待たずしてたびたび変わったり、あろうことか自身の名を冠するブランドを抱えながら他所のブランドのデザインを請け負ったりすることはよくあることであり、たとえば「エルメスのマルジェラ期」(*)と表現されるときの人名「マルジェラ」は、ブランド名「エルメス」を枠とした「場=topic」として機能しているとも言える。

*創業者エルメスは当然ながらもはや関与していない「エルメス」のデザイナーを1997年から2003にかけて担当したマルタン・マルジェラの名を関する「メゾン・マルジェラ」のディレクターを2014年以降努めているのは、その3年前「ジョン・ガリアーノ」のデザイナーを解任されて以来沈黙していたジョン・ガリアーノであり、また「エルメス」におけるマルジェラの後継としてはかつてマルジェラが働いた「ジャン=ポール・ゴルチエ」のデザイナーであるジャン=ポール・ゴルチエが兼任という形で就任している。

こういったあたりを見る限り、「人/場」という対そのものよりも、むしろその一方から他方への投射、移行の方に注目すべきなのかもしれない。


0 件のコメント:

コメントを投稿