子供の頃に『サトラレ』を観て以来、たぶん私には思考というものが無い。
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『サトラレ』は自分の思っていることが片っ端から周囲に伝わってしまう特異体質(=サトラレ)を持つ主人公と、その事実を本人に隠しつつ周囲とのトラブルを調整する「対策委員会」他の人々たちの物語だ。
もとは佐藤マコトによる漫画作品で、2001年には映画化、2002年にはテレビドラマ化されている。私が観たのはこのテレビドラマ版だった。
この作品の設定は当時小学4年生だった私に静かな、しかし今に至るまで決して絶えることない根深い恐怖心を植え付けた。
私がサトラレだったとしたら?私のこの虚勢も怠惰も、薄い悲哀も、安い快も、余すところなく筒抜けだったとしたら?なにより、そうした一片の素朴な想像に対して子供なりに裏の裏のそのまた裏をとったつもりの疑念を弄したところで、さらにはたとえその疑念になんらかの結論が与えられようとも、そのはてに私に残された安寧など端から有りはせず、全てはただはじめの恐怖だけをそのままにひとり相撲に終わるのだという、逃げ場のない絶望が、物心のようやく芽生えて間もない子供にとっていかばかりのものか(まあ、昔から思い込みが激しい子供だったのだ)。
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そうした恐怖は私の思考の習慣にはっきりと変化をもたらした。「私がサトラレだったとしたら?」知られるに気恥ずかしい趣味嗜好や悪戯、悪行などとは違って、隠蔽工作は何の役にも立たない。なんといっても「隠せないこと」それ自体がその特徴なのだから。
思考の内容に検討を加えることは可能でも、思考それ自体を別の思考によって操作することは不可能だ。思考を無みする思考は存在しない。
そこで私が選んだ道はといえば、思考のすべてを「なんちゃって」化することだった(*)。すべての思考を等しく「思ってみただけ」として、その中身を他の任意の思考に交換可能な括弧で囲い、際限なく増殖させること。「本心」を隠匿するのではなく、あたかも全球が点灯状態の電光掲示板のように、なんとでも読める以上何も意味しない「なんちゃって」の飽和のうちに「本心」そのものを塗り潰し抹殺すること。
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『サトラレ』を観て以来、たぶん私には思考というものがない。あるのはただ明滅する印象ばかりで、口が、手が、私の外側からそれらを掬い上げては、音に、文字に託つけて、それらを辛うじて縫い留めていく。
*ちなみに永井均があらゆる言語活動の可能性の条件として提唱している「超越論的なんちゃってビリティ」という概念のことを知ったのは高校生の頃、なんとなく木村大治『括弧の意味論』を読んでのことだったか(もちろん当時はこれらを関連付けたことはなかったけれど)。
――wikipedia「超越論的なんちゃってビリティ」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E8%B6%8A%E8%AB%96%E7%9A%84%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3
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