2019年9月6日金曜日

白々しさの使用価値

昔観たときにはただただ白々しいばかりで見るに堪えないと思っていた映画などを、何年か経て改めて見直したところなかなかどうして面白い、と思い直すことが、この頃何度かあった。

背後にある難解なテーマを解せるようになった、というような殊勝な話ではない。ただ、かつて私を襲った白々しさは、実のところそれ自体が十分個々に検討するに値する指標であり、そしてその何割かは確かにそれを惹起したところの作品において、主要な役目を果たしていたらしい、ということだ。

私たちに「白々しい」と思わせる作品とは、ひとまず私たちに「手の内が見えている」と思わせる作品である。ありきたりな紋切り型、その型に照らせば展開なり帰結なりが白々と見え透いており、あらためて眼前のその作品による実演を待つまでもない。

見るまでもなく見え透いている、それゆえ見ている時間が勿体無い……そうなのだろうか?順番が逆なのではないか。いま眼前にしている作品の向こうに、いやむしろ手前に、そうした型を見て取っている、見て取ってしまう私がいること、「白々しさ」が私たちを導くのはそうした現実への反省ではないか。


アニメ版『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の主人公のヘタレっぷりや『天気の子』の喧しいまでのスジ違いは畢竟、自らの拠って立つ足場に他ならない物語という制度そのものを一旦御破算にせんという宣言、「俺はこれを物語にはするまい」というもごもごとした叫びではなかったか。

白々しさは私たちに逆行を促す。逆行がもはや逆行とは呼ばれ得ない時点、順行/逆行の別そのものの起源への遡行を促す。


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