2019年9月17日火曜日

とてもながいなにかに名前をつけること:関真奈美「敷地|Site」


国分寺駅から武蔵美を目指していくらか歩いたところで、どうやら尋ねられ顔をしている私はその日もひとりの女性に「線路ってどこかしら」と呼び止められた。

困った。駅ならともかく線路となると長すぎて指差すわけにもいかないし、かてて加えて生憎ここらはJRは中央線と武蔵野線とが十文字を成す上そこに西武の国分寺線と多摩湖線とが互いに煮え切らない角度に広がりながら交わったり交わらなかったりしており、なおのこと答えるにあぶなっかしい。
まあ私自身ほんのその十数分前に得たばかりだったそんな知識は結果としてそれなりに役に立ち、そこから西武多摩湖線に突き当たる一本の道を示してことなきを得た。

玉川上水づたいにようやく辿り着いた武蔵美の閑散とした食堂で海南鶏飯(らしい)を食べた後、同敷地内のGallery of The Fine Art Laboratory にて関真奈美「敷地|Site」を見る。

真四角でワンルームの展示空間をどう廻るべきかは鑑賞者にとっていつだって最大の悩みの種のひとつであるけれど、その点について言えばこの展示はいくらか親切で、壁に貼られた写真のその傍らにはそれぞれに短い文章が添えられており、その文章は横書きで、しぜん私はその向きに付き従って室内を時計回りに廻り始める。しかし間もなく、室内に点在する台座の上のオブジェのそれぞれが壁の写真と対応していることに気づいたりして、仕方がないので壁づたいは適当なところで中断されて、時折台座の間を彷徨い歩くことになる。

私たちの視野と記憶はかなり狭く限られており、次のオブジェに向かって歩を進めた瞬間には大抵すでに前のオブジェの記憶の大半は霧散していて、だから私たちはそれがまだ目前にあるうちに写真を撮ってお守りにしておいたりするのだが、オブジェが写真になったところで結局最後に見るのが私であることには変わりなく、結局のところそれらを適当にブツ切りして消化を促すよりほかにない。

部分部分にブツ切りされた対象は、しかしそのままでは腕はただ腕であり脚はただ脚であるばかりであって互いに関係を結ばない。モナドには互いに目配せする窓がないのであり、何かしらの外部の力に依ってそれらを和え纏める必要がある。かつては神へと丸投げできたその役目も、今となってはその間接因果の構図はそのままに、人間の経験の方へと裏返されている。私たちは世界を、まるで自らの身体のように区切り、またまとめ上げる。

この室内に散らばる諸々を「敷地|Site」というひとつの展示へとまとめ上げるのもまたその経験を通してである。まずはもちろん鑑賞者の身体のそれではあるが、しかしこの展示においてはそれに先回りするもうひとつの身体、台座の上の棒人間たちの身体を見逃すことはできないだろう。
室内に点在する台座のそれぞれには幾筋かの針金が、互いに凭れ掛かり合うようにして、なかば崩折れながらも立っている。そしてその傍らに添えられた写真が示すのは、その針金がかつて棒人形状に人型を成しており、壁に掲げられた写真に映る人物を模したポーズでその壁際に立っていた、いつかの時点の記録である。
 
ここで壁際にポーズを決める棒人間の姿とは、写真の画面の色の布置を背景を立地 position として直立し、特定の姿 posture の内に静止 pause する 「人物写真」として切り出し=統合する鑑賞者の姿であり、それと同時にその身体を成している絡み合う5本の針金とは「四肢+一胴=五体」という五人一組 member から成る肢体 membrum へと分節された身体に他ならない。
かつて彼らがその内にあったポーズはすでに見る影もなく失われても、絡まりあう針金の数は依然5本のままであり、その肢体の文節はなお維持されている。鑑賞者によっていま再びかつての、あるいはあらたな、ポーズの内に読み返されるれるのを待ち伏せている。
 

ここで藪から棒にひとつの疑問がある。名付けるとは、対象の全貌をいちどに視界におさめ、それをひとつの統一として、その輪郭を言葉で縁取ることだとすれば、しかしそれが叶わぬほどに「とてもながいなにか」を名付けるには一体どうすればよいのだろうか。例えば私が小平市の広がりやかたちを知るべく Google Maps の画面を拡縮するように、対象の一望が可能になる距離まで視点を後退させればよいだろうか。

しかしここでの悩ましき対象は「おおきい」のではなく「ながい」のであった。
JR中央線の全容を視界に収めようと地図をズームアウトするほどに、東京を東西に貫くその用地はいよいよおぼろげな線となり、しまいにはその名を示す文字とともに消えてしまう。ズームインしたらそれはそれで、線路を表す薄灰色の長い長い線沿いのどこに路線名が記されているものかと画面をこねくりまわす羽目になる。


とてもながい、とは、たとえば立方体が次元をまたいだ反復を逆向きに辿り返す(ズームアウトする)ことでなめらかに針穴へと解消されてしまうのと逆の有り様であろう。常に他の次元へとつっかい棒を差し挟んで抵抗するような有り様、ひとつの敷地がひとつの語、ひとつの住所へと解消されることを拒み、いくつもの敷地を横切り、それらを横目に疾駆していく、場所なき場所としての鉄道のような有り様。消失点(それの担い手が神であれ、あるいはそれと画面を挟んで向かい合う私たちであれ)から発してすべてを飲み込みながら花開く一点透視図法の錐体を絶えず食み出していくこと。

再び今回の展示空間の有り様に立ち戻るなら、たとえば第一の鑑賞者としての針金たちが立つ台座のそれぞれは、それに対応する壁際の写真等々を視界のうちに捉えるべく、まず一旦は透視図法の錐体の場に乗って後退る。しかし部屋の広さは限られている以上、ワンルームの壁面三方から部屋中央に向けて背中合わせに押し込まれたそれらはしまいにはすれ違いあい、結果壁面と台座を結ぶ錐体は互いに交差し侵食しあうことになる(思い出すのは先述の、4路線に囲まれたなか「線路はどこ?」と問われる困惑だ)。

あるいは展示室の一面がまるまるガラス張りになっているのを良いことに、いっそのこと部屋から数歩後退ったところから、この部屋そのものをまるごとひとつのオブジェクトとして回収しようとする者があるかもしれない。ところが周到なことに、ガラス面と向き合う壁面には「うしろ」の文字が、"鏡文字で"記されている。すなわち、「室内から見られる限りで鏡として機能するところのガラス張り」を作品の構造の内にあらかじめ組み込む仕掛けが施してある。


意味作用の差し引き零への清算をひたすら先送りにする滞留は、隠喩的特異によってサイト−スペシフィックに絶ち貫かれることもなく、ものとものとを隣接させつつそれらの間をすり抜けていく。
「敷地|Site」の名状しがたさ。それは自らを自らへと食み出させるように、無限に訴えることなく、無限を待つまでもなく、ただここにおいて逃れようのない横溢である。



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