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2020年11月25日水曜日

20201125 高層、廃道、無国籍

9:00 現在、コーヒーはすでに二杯。タンザニアのウォッシュト(キリマンジャロ)と、コロンビアのウォッシュト(ゲイシャ)。

タンザニアはキリマンジャロと名乗るも酸味は控えめ。華やかさとも豊潤とも刺激とも距離をおく、どこか枯れて鄙びた印象。コロンビアは口にすると一瞬の空白ののち、ゲイシャ種によく言われるような紅茶というよりはむしろ中国茶のような、少し湿って微発酵した葉っぱのような風味が、すこしバタつきつつもふっと口の中に広がり、そこに加えていくらかの渋みを舌に残して去っていく。


昨日は銀座に最近できたUNIQLOに初めて入った。地下2階の「ビゴの店」にパンを買いに行くたびにずっと工事やってるなあ、とは思っていたが、既存の建物の1階から4階にかけての床をぶち抜いて吹き抜けにした改修はヘルツォーク&ド・ムーロンのデザインによるものらしい。近くのSONYビル跡地下もそうだけれど、正直私はコンクリートのこういう切断面に弱い。マッタ=クラークが好きなのもその幾らかは案外そんな理由によるものなのかもしれない。

高層ビルの吹き抜けというのはなんとなく妙だ。平面を高さ方向に連続的に操作する能力というのをもとより私は人間に期待していないのかもしれない。同じ平面を判で押したように反復するので精一杯だろう、と。しかし「高層 multi-story」とはいうけれど、それって並行世界ではないよなあ、と思う。それらのストーリーは無数の水道管に貫かれている。

そういえばコールハースの『錯乱のニューヨーク』、読んでないな。


八重洲の飲み屋街一帯で大々的に再開発が始まっており慄く。いくつもの街区を鉄板がまるっと囲い込んでいる。聳え立つ屏風状の扉の奥に閉鎖された道路が見える。道が潰れるというのは、建物が潰れるのとは全く別種のインパクトがある。なんだかんだで私たち(少なくとも、現代日本に住んでいる私たち)はやはりどこに行くにもあらかじめ道の存在を前提してしまっているし、その上を歩き、それに区切られた有限の範囲内でそれを捉えることに慣れてしまっている。そうしたフレームそれ自体が操作の対象として、オブジェクトとしていざ眼前に現れてくると途端に目が眩んでしまう。そうしたフレームは同時に私たち自身を定義するフレームでもあるから。経験として、私たちはどうしようもなく世界と相関しているから。


この平面=計画 plan の内側でなんとかやっていきましょう、そういう話だったでしょう、それが私たち、そういう私たちだったでしょう、それを今更、どうして、流石にそれは私たちの手に余る、手に負えない、もう沢山だ!


上野はアメ横でコーヒー豆と紅棗夾核桃を買う。ナツメの実を切り開いて中にクルミを挟んだお菓子で、昔バイト先の中国の方にお土産に頂いたことがある。どのくらいの歴史をもつお菓子なのか、私は知らないけれど、これはミニマルに悪魔的なお菓子だと思う。ここで「悪魔的」というのは「手段を選ばない」「なんでもあり」「こんなの美味いに決まっている」くらいの意味で、 「ミニマル」というのはそれがしかし味付けも何もなく、ナツメとクルミというわずかに二つの食材だけで構成されているからだ。これはズルい。最大効率にズルい美味しさだ。

私たちは常に何かしらのルールの内側、何かしらのリングの内側で戦っている。フランス料理ならフランス料理、和食なら和食、トルコ料理ならトルコ料理の内側で。ひとつの評価軸、ひとつのフレームの内に留まる。それが良識=常識 bon-sens というものだ。

それを横断するのは両方向に危うい行為だ。リングの外側に放り出されて、評価する側も、される側も、どう身動きをとっていいかわからない。まるで砂漠に投げ出されたかのようなものだ。最高に自由で、最高に道無しだ。先に「こっちだ」と言ったもん勝ちのような気もするし、そうして迷って野垂れ死ぬのもまたそいつの勝手だ。それはとてもとてもズルい、美味しい行いだ。それはあまりに手に余る、あまりに滅法な、それはあたかも空虚=バカンスのごとき豊かさだ。


朝は雨が降っていた。薄暗くて投げやりに寒い。ユニクロのダウンを買おうかと思っている(+J のダウンはいまだに実物を拝めていない)。冷蔵庫のスペアリブをどうしたものか。腹腔を支えるアーチ。11月も終盤だ。


追記

途中からフォントが妙になっちゃったけれど許してほしい。



2020年11月18日水曜日

20201118

9:15 現在、コーヒーは二杯目。パプアニューギニアのウォッシュト。


昨晩の夕食


・白米

・筑前煮(人参、大根、蓮根、里芋、こんにゃく、干し椎茸、鶏むね肉)

・鯖の味噌煮

・人参の葉の煎ったもの

・蕪の葉と玉ねぎのキッシュ風


買い出し翌日の献立の混乱は常とはいえ、昨日はまた随分とごりごりとこれに取り組み、午後一杯を潰した。最後のキッシュ風というのはベジタリアン仕様のもので、昔あちこちから書き写していたレシピのメモのなかから見つけた。玉子とチーズのかわりに厚揚げと白味噌を使うという、まあこのジャンルの常套手段ではあるのだが、あらためて材料と工程を並べられると、これがキッシュ風と呼ばれうるものになることの奇妙さはやはり大きい。

みじん切りした蕪の葉と玉ねぎを炒め、水切りした豆腐(厚揚げはなかったので)と白味噌はミキサーで潰す。これら全てと塩胡椒を混ぜて型に流し、オーブンで焼く。以上。

果たして、流石にキッシュのようにはしっかり固まりこそしないものの、風味は驚くほどに蒸し焼きされて固まった玉子とチーズのそれだった。蕪の葉はだいぶ緑も濃く育ち切ったもので、青臭く筋っぽくなりはしまいかと心配だったが、玉ねぎの甘みと合わさって良い具合にほどけている。なにかのソースに良いのではと思う(見た目はサイゼリヤの「ディアボラ風」ソースに似ている、食べたことはない)。


ベジタリアンやマクロビオティシャン向けの「もどき料理」、だいぶ昔に興味を持って、しかしえてして若干手に入れづらい、もしくはそんなに使うものでもない、材料をわざわざ買ってくるのも億劫だったので、大抵は代用のあの手この手を面白がって見て回るだけだったジャンルだ。

料理に正統な変化の系統というのがもしあったとして、そこから踏み外した、割と鬼っ子の部類に入るのがこの流れだと思う。ある食材が持つもろもろの性質を目や舌の上において模倣すべく、あちらこちらから文脈も節操もなしに召喚されてくる素材たち。高野豆腐、アーモンドプードル、タヒニ、テンペ、ココナッツ、各地の豆や雑穀、調味料…。これはこれでなかなかにグローバリズムの産物だ。そもそもこの調理技術の発展は、それが「もどき」である以上、すでに肉や乳酪や精製糖と小麦のケーキを食べた経験がある舌によって方向づけられている。その舌、酸いも甘いも噛み分けるその舌で、我々はこちらを選ぶ、というわけだ。


夜、『斜陽』を読み終えた。アメリカ製のグリーンピースの缶詰でつくったポタージュからはじまる小説だ。更級日記もローザ・ルクセンブルクも聴き齧る主人公だ。

 

人間は、みな、同じものだ。

  なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。

(太宰治『斜陽』)


地形






2020年11月17日火曜日

20201117 黴臭い、葉の影、引き延ばし

8:00 現在、コーヒーは一杯。パプアニューギニアのウォッシュト。焙煎後しばらく経って香りが馴染んできたからか、ドリッパーと抽出法の変更のためか、以前より表情がよく伺える。意外にも紅茶のような、枯れ葉の組織からじわりと滲み出すような芳香がある。フルーツでありながらも、どこか弾けきらない、地に臥せったように鬱屈した酸味、昨日食べたラズベリーを思わせる酸味がある。


Raspberry 
--The lightly sweet, fruity, floral, slightly sour and musty aromatic associated with raspberries.

World Coffee Research, Sensory Lexicon (First Edit, 2016) 


フリーズドライでもジャムでも冷凍でもない、生のラズベリーを食べたのはこれが初めてだったかもしれない。赤い液の詰まった幾つもの小胞がビッシリと配列して全体をつくり、果床の跡が大きく窪んでいるので、まるで培養液の中で細胞分裂して育ったミニチュアの臓器のようにみえる。房と房の間からは同じ数だけの毛が生えている。

ラズベリーを見るとまたIKEAのフードコートに行きたくなる。円を一方向に引き伸ばしたような形の白い皿にのせられたチーズケーキの、室温にゆっくりと解けていくクリームチーズとぽろぽろ溢れるクランブルに塗れて皿に纏わりついたラズベリー・ソース。日中の照明はガラス越しの日光に押されてかえって薄暗く、赤いソースの表面に曖昧なハイライトを寄越している。誰もがめいめい勝手な席で、勝手なことを、勝手な方向に向かって話している、これはまだ年が明けて幾月と経たない頃の光景だったか。


9:30 現在、コーヒーは二杯。ホンジュラスのハニー・プロセス。コメントに「グレープフルーツ」とあったのが、実際に口にしての滑らかに甘い第一印象からはいまいち納得できなかったが、しばらくおいて冷めてみると、どこから湧いたのか、グレープフルーツの皮のかすかに渋い酸味が確かにはっきり現れている。


昨晩は買い出しに出た。スーパーマーケットに向かう道中、いつも見上げる好きな樹がある。くたびれた民家の片隅に立つくたびれた樹で、敷地の片隅からだいぶ路上にはみ出して、足下のブロック塀には番地表示のプレート、その傍らに電柱が立ち、幹から分かれた枝先は電線と半ば絡まりそうになっている。電柱の上の方には街灯の頭が挿げられており、夜、私が買い出しに出る時間にはそれが樹の木末に斜めに差し込んでいる。葉の縁周りは黄味に透かされ、その内側はすっと青く発光し、それが互いに折り重なって、ザクザクと筆を重ねるように斑らに暗緑へと沈もうとするが、葉が微かに揺れるたびにそれがまた解けて蛍光する緑が零れ出たりする。そうした葉叢に突き立つ枝はいよいよ黒黒として、樹下のこちらが視点を少し動かすほどに光を蔽いまた洩らしの縞々だ。夏の間はこんもりと茂った枝葉が複雑に光線を応酬していたこの樹も、いまは光源に近くの枝先に僅かに葉を保持するばかりで、幹は以前より少し灯を多く受け、自らの木末の黒い網目がそれを細かに刻んでいる。

3Dグラフィックにおいて、セルフ・シャドウの扱いはひとつの悩みの種であったという。遮蔽幕としての自らが、投影幕としての自らに落とす影。その語の二重の意味でスクリーンとしてのオブジェクト。影とは太陽の視界の残余であり、そこにおいてオブジェクトは自らの内で細かに分裂している。太陽と一対一で差し向かう限りでの自らを、太陽の目に向けて余す所なく照り輝かせながら、その裏側では微細な陰影の経済が自己のあらわれを無限に引き延ばしている。太陽の目を盗み盗み、その引き延ばしのうちにあるのがこの世界だ。






2020年11月15日日曜日

20201115 手

12:00 現在コーヒーはすでに2杯だったか。なんか作って食べて皿洗ってそのまままた作って食べて洗ってとかやっていて今はもう昼だ。昨日に引き続き雲ひとつない秋空ってやつ。

昨日の夕食

・白米
・小松菜のサーグ(クミン、ターメリック)
・カブと里芋のサブジ(クミン、ターメリックやや強め、チリ、青唐辛子)
・チャナマサラ(玉ねぎ、トマト/コリアンダー、クミン、チリ、ターメリック、青唐辛子、黒胡椒)

ちなみにこちらは仕込んだばかりでまだ食べないけれど

・大根のウールガイ

一昨日の買い出しで新米が何故だか値引きされていたのを買ってしまって、久々に白米を炊く。あまりに白くてもはや青くて少し気色悪くすら感じる。
火口は二口あるとはいえ、さして広いわけでもない台所で複数品をいかに同時進行で調理するかは常に悩ましい。

まず、まあ冷めてもいいし割と放って置くだけの小松菜を片方の火にかける。玉ねぎとスパイスの準備が要るがあとは放って置くだけ、かつ再加熱に堪え、仕上がりは粘性があるので冷めにくいチャナマサラをもう片方にかける。小松菜が仕上がり次第フライパンを退けて炊飯の土鍋に火を譲り、カブと里芋の用意が整い次第、サーグは容器に移し、フライパンをサブジに使い回す。チャナは途中退席、凍ったままのココナッツミルクを放り込んでおく。カブと芋に火が通るのを待つうちに皿も洗い、米も炊きあがり蒸らしに移行、先のチャナマサラを軽く潰しながら温め直す。

おおよそジャストに仕上がると少し嬉しくも思う。


ドリップフィルターのリンスの効能にはずっと懐疑的だったが、せっかくの抽出成分を紙に奪われるのを防ぎ、また粉と湯の接触時間を長くするために、有効な面もあるのかもしれないと思い始める。実際抽出後のフィルター上部の着色はかなり減るようだ。

最近めっきり遠のいていた落書きをまた少しする。他人の良い絵をざっくりと別の紙、別の画材に移しとってみる。

料理したり、地図を眺めたり、色を置いたり、身体を動かしたり、小説を読んだり、コーヒーを淹れたり、まったく違うことを数日おきに、なんとなくはまっては、またなんとなく飽きて放ったらかしたりを繰り返して、その中断の明けるたびごとにしかし必ず何かしらのちいさな変化に気付く。どれもが互いに確かに影響を及ぼし合っているのを感じる。いや、まあ、だってさ。結局どれも私の手なんだそれは。


2020年11月13日金曜日

20201113 夢、大気、PS5

9:30 現在、コーヒーは一杯。パプアニューギニアのウォッシュト。

ここしばらく、「コーヒーが好きであり、自分なりに色々読んだり試したりするように心掛けている」と言ってもよいかな、というくらいの振る舞いをしていたつもりだけれど(躊躇いなしにそう言えるだけのものを私はこれまでひとつとして持たないままに今まであった)、とんでもない、私は本当に何も知らないのだという分かりきった事実が改めて闖入してくる。Kindleで200円で買った200ページばかりの初心者向けムックさえ、知らない内容で一杯だ。


キャベツのトーレン。汗を吹いてふやけた薄緑とターメリックの黄色が馴染み、そこに褐色のマスタードとココナッツファインの白色。塩辛い。バスマティ・ライスを炊く。この米に特徴的という香りも私の鼻にはいまだにぴんとこない。もとより視界に映らぬものを探すのはとてもつらい。


昨夜の夢でもまた私は誰かと喧嘩していた。日中の私には決して湧き上がることのない弛まぬむかつきの滞留。「怒りが爆発する」とは言うけれど、怒りはそれ以前にまず、ある種の持続力を要求するものだ。突沸してたちまちにおさまるような怒りは怒りとも呼べまい。

20201020 果実、頭、怒り続ける  )

何かを追う夢、何かに追われる夢をよく見る。いよいよ迫る破滅の影に、しかし私の脚はプールの水を掻くようにのろのろとして進まない。あるいはもっとずっと昔、子供の頃には、よく平泳ぎで空を飛ぶ夢を見た。脚の内側に大気を絡め取るようにして、じわりじわりと浮かび上がった地上5メートルばかりの上空から路上を見遣る。どちらの夢でも、その大気は普段呼吸しているものよりもずっと私に濃密で、四肢の運動に払い遣られることもなく、むしろその中でもがく私をいよいよ絡め取って滞留させる。

この滞留のうちに、片栗粉でとろみのついた汁に落とした溶き卵が房を成して凝り固まるように、夢の中の私の怒りもまた可能になっているのではないかと思う。


昨日、熾烈な抽選を勝ち抜いてPS5を手に入れた人たちのTweetが流れてきたのだが、その中のある報告に胸がざわついた。なんでも、PS5のコントローラー表面と本体のパネル裏面は細かい梨目加工になっているのだが、それをよくよくみると、その梨目は実は細かい○×△□マークがビッシリちりばめられたものなのだという。これはもう、いかにもなにかの悪夢にありそうな質感のお話ではないか。

この悪夢的な不気味さの源はなにかといって、まあ、まずはそのスケールによるものだ。私たちが自らの手で何かを作り上げようとするとき、ふつうそのデザインは、私たち自身の生身が持つ分解能の範囲内で成される。色は可視光、音は可聴域から。目に模様として映るスケールはこれくらい、操作表示としてならこれくらい、握り締めるならこの程度だし、その上を歩き回るならあのくらい。そうしたスケール設定を期待して向かった先でしかし踏み外すとき、私たちはすぐ、自分が何かを間違えたことを悟り、間合いを取り直そうと距離を置く。 

しかしそれだけであればよくあることだ。用途を間違えていたのかもしれないし、あるいはそもそもそれは「技術」の産物ではなかった、「自然」の所産だったということかもしれない。私たちがその内に住っている環世界の外部には、広大な「わからなさ=自然」の海がタガも何も無しに無限に広がっている。私に対して他者として立ち現れることさえないそのノッペラボウの自然をしかし私たちは、あたかもそれがはじめから私たちに向けて書かれていたかの体で、抜け抜けと読み上げては自身の球体の内側に組み込んでいく。

問題となるのは、そうした自然への探索作業のさなかに、不意に、全くお呼びでないタイミングで、ふたたび技術の痕跡に突き当たってしまう時だ。全てを自家薬籠中に取り込んでいく厚かましさを振るう余地も無いほどに、はなからこちらに見るべく与えられているかのように、開けっ広げに眼前に姿を現してくるとき、それは不気味だ。火星表面に横たわる2.5kmに及ぶ人面岩であるとか、遺骨の海綿質を顕微鏡で拡大していった先に映り込む微小なシリアル・ナンバー(『ブレードランナー2049』)は、私たちの目に不気味だ。

そうした場違いな品=オーパーツ(Out-Of-Place-ARTifactS)に出くわすとき、これまで揃っていた私たちの歩みは激しく動揺する。足幅はばらつき、足並みが乱れる。常識=良識 bon sens のスケールが揺らぎ、リズムが破綻する。私たちはその場に渋滞し、滞留する。逃れようとするも脚はすでに縺れ、ぶよぶよと膨張し、もはや足裏の冴えた感覚も確かなグリップも期待すべくもない。

「なんということだ、そうだ、これはなにかの悪い夢だ、私たちは見られている、私たちのこの醜態を見てほくそ笑んでいる誰かがいる、それは神か?私たち自身か?」


私たちの目に小さすぎる○×△□に出会したときの悪夢的光景とはこのようなものだろう。この地球、「私たちのために創造された」この地球の大気は、いうまでもなく、他でもなく、"私たち"の四肢に、呼吸器に、それこそ「空気のように」透明で、軽やかで、無味無臭だ。大気のこの透明感は、"私たち"の同質性にこそ保証され、同質なる私たちを中心に、同心円状に広がっている。しかし円環の片隅が不意に何か、別の円環と衝突するとき、同質性の円は揺らぐ。したがって大気は濁り、澱み、それまで意にも介さなかった重みが肩へとのし掛かる。こうしたズレ、こうした澱みの中に、例えば私は泳ぎ、脚を掬われ、怒り続けるのだ。




2020年11月10日火曜日

20201110 amla

9:00 現在、コーヒーは一杯、エチオピアのナチュラルもほとんどこれで最後だ。イルガチェフェの美味しさに再開した思い。

昨日の夕食;玄米、蕪の味噌汁、大根と蕪の葉の煎り、秋刀魚の灰干し、鯛の頭の塩焼き、鯛の頭のカレー。相変わらず組み合わせがシッチャカメッチャカなのは我が家の献立が食卓上のバランスではなく冷蔵庫の在庫のほうに基準を置いているから。

夕食後には放ったらかしてあったアムラをアチャールにしてみた。アムラは油で炒めて、ニンニクも加え、スパイスはフェヌグリークとマスタードシード、チリ、ターメリックを加え、最後にレモン汁。
今回のレシピではなんと、スパイスは火を止めた後に加えて混ぜるだけで、余熱以上の火は通さない。多くの場合加熱で揮発させてしまうマスタードの辛味やターメリックの土っぽさをかなり残した仕上げになりそうだ。とはいえこの組み合わせ、マスタードとチリの辛味、レモンの酸味、フェヌグリークのほのかな甘み、加熱したアムラの食感、加えてチリの赤色、これらが相俟って、案外これってあれか、ホットドックに乗ったマスタード、ケチャップ、ピクルスの構成要素か。

ちなみに先日アムラをスグリ(グーズベリー)とは別物らしいと書いたけれど、ネット上の英語のレシピなんかを見ると案外「amla(Indian Gooseberry)」なんて表記されていたりする。

3日ほど待って完成という。今日はまた外出の予定。

2020年11月6日金曜日

20201106

10:00 現在、コーヒーはすでに一杯、コロンビアのウォッシュト。1投目と2投目の湯量のいずれを多めに取るかで仕上がりの酸味/甘味のバランスを調節出来るとの話を聞き齧り、試しに酸味を出すべく1投目多めにしてみる。変わった気はする。

先日買ってきたアムチュール・パウダーを舐めてみる。青マンゴーを乾燥させて粉末にしたものだというので、爽やかな酸味が微かに香る感じかなと予想していたが、開封してみると思いの外パンチの効いた香りが漂う。まず連想したのは「梅干し味」で、それも最近の出来が良いのではなく、一昔前の駄菓子とかふりかけのような、ジャンキーなもの。味もまた然りで、塩が添加されているのではないかと疑うほどだ。乾燥しているのに酸味があるってだけでジャンクな印象になるのは経験的なものなのだろうか、通販サイトの説明には水分量を増やさず酸味を加えられると売り込んでいたけれど、たしかに天ぷらに添えたりといった用途にもよさそうだ(というかマンゴー塩みたいな調味料があったような気がしていたのだけれど、検索しても出て来なかった)。

今日はなんともはっきりしない曇空だ、こう言う日は変な冷えかたをする。空気の熱が妙に肌にしつこいのに、不意に身体がぎくりと震えたりする。指も筋っぽい。視界もさらに狭くなる。


2020年11月5日木曜日

20201105 花道、花街、青梅の味

10:00 現在、コーヒーはすでに二杯目、昨日買ったエチオピアのナチュラル。

口にした途端、液の重さがふっと消えて、 細いスリットから差す光のように、舌の上に一すじの道が走るような感覚。そして闇に目が慣れていくように、開演を待つ客席の熱気が静かに高まっていくように、そのランウェイを中心に、次第に、思い出したとでもいうように、さまざまな印象がじわりと浮かぶ。吸水中の粉からすでに漂っていた、少し青臭いマンゴーか何かの酸味。重い木のテーブルにグラスがことりと置かれるような、静かな苦味。砂糖が水分を吸ってさらりとほどけていくようななめらかなテクスチュア。


今朝の朝食、ご飯と、なめこ、大根、高野豆腐の味噌汁は昨日の残り。加えて厚焼き卵。一時期どうしてもくっついてしまうようになり、作るのをやめていたのが、最近久々に試してみたらまた綺麗に焼けるようになっていた。卵焼き器の方が拗ねていたのかもしれない。

昨晩炊いた玄米は、浸水を忘れていて、せっかくの塩鮭があるので譲れず久々に引っ張り出した圧力鍋でごり押しで炊いたところ、お赤飯もかくやのもちもちに仕上がったのがおもしろく、笑ってしまった。水分量も適当に米と水とを1.5カップずつで、強火スタート、加圧後弱火の20分、放置10分みたいな感じだったのだが。せっかくだししばらくこちらで炊いてみようと思う。中身を確認出来ない点、圧力鍋は闇鍋だ。


もはや主食の座を奪っていた煎餅やらを食べるのをぱたりとやめてひと月あまり、買い出し時の出費が意外なほどコンパクトになり、食事を用意する時の気構えもいい意味でテキトーになった。疲れ切って帰った昨日もほいほいと汁物まで用意したのだから、我ながら立派なものだ。


昨日出たのはまたしても上野のほうで、着いてまず寄るつもりだった店はまだ開店30分前で、待つ間に向かったビタールはなぜかシャッターが下りていた。遣る方なくずらずらと足を引き摺り東に向かう。

手摺り越しに差し向かう隅田川の水面はいつも私のへそぐらいまでぐっと高く競り上がって見える。秋の日射が川面に落とす両国橋の影は対岸には冴え冴えと、此岸に寄るほどに境目を波にほどかれて色々のモザイク細工のようだ。陽が差し込む側に回ると、川の鏡面が橋に翳されて押し黙ったところに水中からの光が浮かび上がり、そこだけ古いガラス瓶のように藻緑色で。水の重たさ。


蔵前のアンビカで諸々の食材を調達する。5kg入りのバスマティが格安で、余程ひっ提げて帰ろうかとも思ったが、断念。値札のない、ピンポン玉よりひとふた回り小さい何かの果実か冷蔵庫に山積みになっていた。微かに梨肌の黄緑色の果皮は薄く、透き通っており、中に液胞を抱え込んでいるかのようだったので注意深く摘み上げたが、思いの外丈夫なようだ。以前とあるコーヒーのカッピングコメントにあったセイヨウスグリに少し似ているな、と思いつつ、おそるおそるふたつをかごに転がした。


当初は隅田川沿いを三ノ輪方面に歩けたらと(永井荷風ルート)思っていたが、先に果たせなかった予定を済ますべく、上野へと引き返す。ビタールはやはり閉まっていた。これからどうしたものかと思ったが、不忍池にはまだ蓮の葉が残り、そういえば駒込あたりにまだ通販でしか利用したことのなかいコーヒー屋があったことを思い出し、そこに寄りしな歩いて帰ることにする。結果として上野から3時間近く掛かった。5kg入りの米袋など買わないで良かったと思う。


外出した日の夜はいつも不思議と時間がある。夜寝る前、永井荷風の『すみだ川』を読む。永井のかなり若い頃の作品で、書いたのは明治42年(1909年)のこととある。明治42年といえば、荒川(当時はそのほとんど全流が隅田川に注いでいた)流域を水浸しにした明治40年洪水の直後であり、また翌年には(翌年着工の荒川放水路建設決定のダメ押しになったであろう)明治43年洪水を控えている頃だ。永井自身は序文中でこれらの洪水に直接言及してはいないけれど、急速に移ろいゆく江戸-東京の風景の水際としての川という場所感はこの時点から既に強くあらわれている。

ところで作中の主人公のひとり、若い長吉は、芸者修行に葭町(現・人形町付近)へと移り住んだ幼馴染のお糸の影を追い、今戸橋(山谷堀の隅田川との合流点)の自宅から隅田川沿いを延々下っていく。葭町はかつて元吉原があった地で、1668年に吉原が現在の浅草裏に移ってからはそこに芸妓が移り住み、戦後しばらくまで花街として栄えることになる。

普段東京にいても意識することはほとんどないが、こうした花街、廓街の跡地(というのは、しばしば政府の命によって街ごと作られ、街ごと移転された跡地)は案外あちこちに残っていたりする。

またしても話は戻って昨日の上野の帰り、東京大学裏の入り組んだ住宅街を分け行った先、根津神社の鳥居に行き当たった。それまでは聞き齧ったことがあるばかりだったが、このあたりにもかつて根津遊郭という廓街が広がっていたらしい。吉原大火の際には逃れてきた吉原の遊女も受け入れたが、東京大学の近辺ゆえに問題視されたこともあり(東大の出の坪内逍遥の妻はこの地で見染めた遊女)、1888年には東京湾の埋立地に構えた洲崎遊郭へと移転を命じられる(『濹東綺譚』の主人公はこの洲崎遊郭を舞台にした小説を書いたことがあるとの描写があった。『元八まん』中の永井も、電車(城東電気軌道?)の洲崎大門前で下車して遊郭へと帰っていく遊女を目撃している)。こちらも現在ではその街区割りを残して他には見る影もないことは言うまでもない。


読み終わった頃には0時を回っていたが、今朝は案外普通に起きて、朝食をとり、コーヒーを試し、晴れていたのでぬるま湯でぬいぐるみを洗った。


アンビカで買った果実は、レシートの印字には「amla」とあった。調べると、和名をユカン(油柑)といい、主にインド圏で食用に栽培されているらしい。スグリとは全く関係がなかった。包丁を入れると想像よりも遥かに固く、ざらりとした感触で、中心に種があるらしく、これが固くて割ることもできず、またリンゴやアボカドを剥くときのように捻って種を外すことも出来ない。仕方がないので直に齧り付くと、皮と実に境の無い、細目の紙やすりのようなザラリとした歯触りで、歯切れは非常に悪い。そして強い酸味と渋み。問題の種と実とはしっかり絡み合っている。あえて例えるならば、とても若い青梅の、実の部分を全て突き固めた皮に置き換えたような感じだろうか。歯触りの悪さゆえ、スライスするのが適当かと思う。インドではおもに漬物(ウールガイの類だろうか)にするという。

外からは焼かれたアスファルトの臭いが漂ってくる。スコップを震わせる振動が大なり小なり、不規則にぶつかり弾けては鉄板をジタバタまだらに鳴らしている。










2020年10月31日土曜日

20201031アングレ

9:30 現在、コーヒーは一杯、ブラジルのナチュラル。いまだに少し煎りがダークになるだけで味わい分けの物差しが全く迷子になってしまう。チョコレート、はよいとして、そこから微かにのぞく酸味にベリー?としか言えなかった私は、付属のノートによれば全くお門違いで、シトラス、アプリコットといった名が並ぶ。

「酸味がおだやか」といった文句で売り込まれるコーヒーを見るたびに我が事のように歯痒く感じてしまうのは、実際そこに私が私自身の志向と能力の乖離を見ているからなのだろう(そしてそれは全く大きなお世話だ、コーヒーに考えられる限りの最上の酸味を知ったところでなおも「おだやか」の方を好んで選ぶ人間などいくらでもいるだろう)。


バナナの酸味というものに気づいたのはごく最近のことだ。日本酒の酸味というのはまだまるでピンと来ない。この夏に買った小瓶入りの信州の白ワインは甘酸っぱの中に日本酒みたいな膨らみを含んでいて驚いた。日本の生ビールはどうにも葬式臭くて好かない。緑の分厚いガラスにエンボス加工という瓶のデザインと安さに釣られて買った麒麟のハートランドはフルーティさが気に入ってしばらく買ったが、何本かめで甘さが気になるようになって止めてしまった。フランス?美味しい。チリ?美味しい。でも正直いうと赤ワインと紅茶の後味の渋みは、いまでも半分苦手に思う。コーヒーを飲んだ後の口の臭いは案外臭いと気付く。タバコの煙は流れているうちは気にならないが、服に染み付く臭いは全く鬱陶しい。でも蚊取り線香の臭いも同じくらい鬱陶しい。粘膜に浮いた血のにおい、段ボールに積もって乾いた埃のにおい、近所の住人がふかす自動車の排ガスのにおい、古い八百屋の店裏で野菜の残骸が腐ったにおい、ガスコンロの上に転がった玉子の殻の裏側の薄皮が焦げ付くにおい、


昨日はクリームシチュー。ほとんど初めてホワイトソースというものを作った。油に篩入れた小麦粉はメイラード反応に芳香を放ちつつブヨブヨ膨張して、自分が粉であったことを忘れる。水にだってあっさり馴染む。クリームにまみれたイチゴは汚いのにホワイトソースに埋まるニンジンは美しく見えるのは何故なのか。エッヂが立っていないからか。


英国史を少し。現在でいうドイツ北岸の出のゲルマン人と、ゲルマン第二波・デンマークのデーン人と、ノルマンディーに寄ってフランス化したのち200年ばかり遅れて攻め入るノルマン人。それらの狭間狭間に瞬くローマあるいはケルト・キリスト教会の影。


この間ユニクロ馬鹿にしたけれど、この秋復活のJil Sander コラボ「+J」は普通に気になる。過去に出たダッフルコート、あれだけは持っており、あれは重くて良いものだった。


12:00 現在、コーヒーは二杯目。昨日と同じエチオピアのナチュラル。淹れたてにはきなこねじりのような風味と焙煎香、その螺旋のから延ばした一本の接線の先にベリーがあり、冷めるにつれてこちらが前面に出てくる。収斂感はしかしひかえめに、より横広に開けた酸味はむしろ柑橘に寄っていく。


世間では連休初日、車のドアの音。



2020年10月30日金曜日

20201030

10:30 現在、コーヒーはすでに一杯。昨日届いたエチオピアのナチュラル。口に含むとクリーンなのに一癖ひねりの効いた印象。ええと、ベリー、とまでとりあえず無難に答えてそのあとはハテナばかりが浮かぶ、少しセクシーな夜闇?、苦味なのか酸味なのかも判然としない。これがナチュラルのフレーバーだっただろうか。付属のノートには「ラフランス、ベリー、ライム、ラベンダー」とある。ああ、記憶もおぼろげだがもしかしたら成る程それはラベンダーの、微粉で目止めしたような、ほのかにしっとりとした花弁の表面から発せられる、仄かだが密度は高い息の詰まるような薄々紫(そこにライムを一絞り)、そんなものなのか。

私は五感を受け取るのを拒否する方向に育ってきてしまった人間で、肌は傷や乾燥や火傷を押し殺して縮み固まり、鼓膜は重く、網膜は鈍く、イマージュは半干し大根みたいに脳裡に干されては排出される。

そんな人間が酒とかコーヒーとかスパイスとか、あるいは絵画とか音楽とか、なんでもいい、官能的な評価軸を扱うことを避けえない方面に興味を抱くとどうなるかといって、割と地獄であることはもう嫌というほど思い知らされているわけなのだけれど、なんなんなんなんだろうね人間ってやつは。

コーヒーとかワイン用のテイスティングトレーニング用のアロマセットなんてものがあるんだけれども、50種入って5万円とかの世界なのですよね。それはそれとしてJo Malone とZara のコラボ香水4ml 8種入り3000円というのは少し気になる。


昨日は買い出しに出た、十三夜の月で、漠然と夜闇を鈍らせる叢雲の垣間垣間からそれでも煌々と眩しく思う。

月が見えるとはどう言うことなのかと思う。闇のしめやかな広がりを鈍らせる、太陽はそのシミであり、またそれは私たちの視覚の全き条件だ。他方大地は、私たちの存在の地平であると同時に、太陽を自らの背へと隠すことで闇のいくらかを取り戻そうとする。夜闇とはすでに毀損された闇の残骸で、それはいくらか肌にねばつく。水底に沈んだ澱のように、凪には静かに私たちの視界に帳を下ろすが、それもじきに敢えなく掻き乱されて、また朝がくる。月もまた夜闇へと差し込む闖入者には違いないが、しかしそれは(まるで初めにあった闇のような光ではないか


ウユニ塩湖はあまりに平らで、100km 四方に50cm ほどの高低差しかないという。それは空を映し、その下に眠る地はいよいよ夜だろう、貼り合わせは多分白く締まって、熱く、






2020年10月26日月曜日

20201026 人、 、人

8:45 現在、コーヒーは一杯。ケニアのウォッシュト。

今朝は米と、高野豆腐とわかめの味噌汁と、塩サバと、あと大豆を炊く。米は玄米で、酒を少し加えた。

この塩サバは何だか工業用みたいな油が表面に浮いてはジクジクと焦げついて纏わりつくようだ。それでなくても半身で売られている塩サバって。大抵骨も綺麗に取り除かれてふにゃりと柔らかく、何だか工業製品のようで薄気味悪いところがある。

昨日の日記に書いたように、昨日は日記を書いた。一昨日と昨日の日記だ。今日は同じ轍を踏まないように。休日も明けたことだし、いい加減服とか要り用のものとかを調達に街に下りようかという声がある。

いやだなー

外出しないことにこの上ない言い訳が与えられたこの時世にいよいよ思う、人が人を掻き分けながら歩くのを強いられることのなんと気色悪いことか。人の間とかいて人間、だと、知りませんがな、

もうちょっと、もうちょと、どうにかならなかったのかなー、人間!

2020年10月24日土曜日

20201024 ワン、ルー、ム

9:00 現在、コーヒーは一杯、UCCのザンビア。

久々に牛乳を買ったので、朝はフレンチトーストを食べた。今年になってから、フレンチトーストは甘くないほうが余程美味しいと気付き、以来味付けは塩とカルダモンだけになっている。

一昨日の買い出しの成果を踏まえ、昨日は牛スネ肉を野菜と一緒にをワインで煮たのと、人参の葉っぱ他のかき揚げ。使わないのでめんつゆは持っていないのだが、天ぷらのつゆとしてポン酢を使うのは案外違和感がないと気付く。酸味は油に中和されてほとんど目立たず、変に甘ったるくない分むしろ良いという人もいるかもしれない。食べた後どうせならとガス台ごとどかして掃除したのでやり切った感がある。

10:00 現在、コーヒーは二杯目。ケニアのウォッシュト。


昨日のProcessing ではプログラムの構造化について少し読んだ。初期化関数 void setup() とメインループ void draw() 。この二つを軸として、そこから必要に応じて外部の各種の関数に引数 argument を吹っかけたり、戻り値 return value を受け取ったりすることで一つのプログラムとして機能する。やたらに入り組みがちなプログラムをこうして機能ごとにモジュール化することで、その設計や点検が容易になり、また、殊、専らヴィジュアル・イメージ等を扱うことに特化したProcessing の場合、構造化に伴う反復構造は、アニメーション表現の実現において必要不可欠なものである(らしい。正直まだあまり納得がいっていない)。


今読んでいる入門書(田中孝太郎・前川峻志『Built with Processing デザイン/アートのためのプログラム入門』)は構造化以前のプログラムをワンルームの部屋に、構造化されたプログラムを一戸建ての家に喩えていた。初期化関数とメインループをそれぞれ玄関と居間とし、それを中心にしていくつもの部屋=関数が組織されているのだという。

構造化には、個々の部屋が互いに対して閉じていることが重要だ。一つの部屋で起こった修正が、いちいち他の部屋にまで波及してしまったのでは無駄手間だからだ。受け取った要求には適当な応答を速やかに返し、お互いの内情の機微には立ち入らない。それが円滑に仕事をこなす秘訣である。

アニメーションとは言うが、それは時間が生まれる、ということではなく、むしろその征服なのだろう。たぶん、極限まで構造化されたプログラムがあったとして、そこには時間も空間も存在しない。時間や空間とは私たちの迷いの相関項であり、私たちが迷うのは、無数の部屋が一つの順路によって結ばれたお屋敷などではなくて、むしろ無駄に大きな一つの部屋、そこに散らばるいくつもの事物の余白においてだ。

私は歩き回れる。全くただこの一点において、私は自らを私である、と宣言する。引き籠っている事物から疎外されている限りで、私は他ならぬ、いやむしろ他としての私である。





2020年10月23日金曜日

20201023 取り留めって奴

 8:45 現在、コーヒーはすでに二杯目。UCCのコロンビア・スプレモ。なぜか公式ページに商品記載がなく、集めて応募のマークも付いていない、廉価版シングル・オリジン。

一杯目には昨日開けたブルーボトルのケニアを淹れた。ブルーボトルは間違いなく美味しいのだが、エッヂの立った都会的なチューニングは若干飲み疲れするところがある気もする。


昨晩は買い出し。9月の終わりあたり、それまで惰性で買っては貪っていたせんべい、柿ピーほか菓子類全般をきっぱり買わないことにした。それ以来食費がずいぶん軽くなった気がするし、野菜もたっぷり買える。歯の凹凸に澱粉が詰まっているような不快感もない。これは良い選択だったと思う。昨日は投げ売り状態だった塩サバとブリの切り身とカツオのサクと、それと久しぶりに肉、少し良さげなタスマニアビーフのすね肉を買った。クリームシチューでもつくてみるかなと牛乳もかごに入れたのだが、冷静に考えたらクリームシチューには鶏肉ではなかろうか。ビーフシチューもデミグラスとかよくわからないので赤ワイン煮にでもしようと思う。縦長のトートに突っ込んでなお顎をくすぐる立派な葉付きのにんじんを手に入れた。


不意の思いつきでこの日記?を書供養になってなんと一週間以上経つ。もう長いこと文章を読んだり書いたりすることをやめていたので、そのリハビリと、頭の洗浄と、後は指の運動のつもりで始めたのだろうが、よくもまあまあ続いたものだ、他の人ならともかく、この私については驚くべきことだ。

しかしこれに半日を費やしてしまうのは考えものなので(流石に書き終わるまでずっとキーボードに張り付いているわけではないが、根っからのシングル・タスクな私には保留事項があるというだけで他のことやりながらでも結構バックグラウンドでリソース割いている)、付き合い方を考えていけたらと思っている。


時々昔自分が書いた文章を身返すと、なかなか楽しいことが書かれていたりする。時には慣れない徹夜なんてことをしてなんとか捻くり出したこともあった。なんで当時の自分はこれにこんなに齧り付いていられたのか。バイト時代、夜勤で12時間勤務して、時には歩きながら眠り、電柱にぶつかりそうになりながら帰宅していた私、大学時代、ラテン語の活用表をはじめっから順々に脳に焼き付けようと躍起になっていた私、高校時代、分厚いチャート式の二色刷りの細かい問題文下の空欄を赤筋浮かして睨んでいた私、いずれも幾分の空回りの嫌いは否めないとはいえ、なんであんなことができたのか、いまとなっては不思議でならない。


今日は一際に取り留めないね、今日は妙な折り目がついてしまっていたウールのズボンにアイロンをかけた。包丁も研ごうと思う。音読の練習もまだ続いている。

外は投げやりに雨である。




2020年10月21日水曜日

20201021

 8:30現在、コーヒーは一杯、UCCのブレンド。

日記一週間続いたので今日は休む。

昨晩は鯛の頭を、半割りにされた片方を塩焼きに、片方をフィッシュティッカ風(面倒くさかったのでカレー粉を直振りした上からヨーグルト塗りたくって放置)に焼く。期待以上に美味しくなってしまった。

昔古本屋で買ったprocessing の入門書を開いてみる。他言語に当たり前の、ソース冒頭の謎の前口上が見当たらず、ただ表示領域を「左上から右に何歩、下に何歩」というように

    size(x, y);

とだけ指定して始まり、最後も切りっぱなし同然だというのはたしかに気軽だが変な感じ。まあもう少しだけいじってみようと思う。

WhatYouSeeIsWhatYouGet とはいうけれど

たしかに私は笑顔の下で泣いているのかもしれない。私自身、知った事ではないけれど。しかし差し当たって今、目の前のあなたに向けているのは他でもない、この顔面に貼り付けてあるこの笑顔なのであり、あなたは、少なくとも私の面を前にしている間だけは、その笑顔を受け取っている体であってほしい。それが礼儀というものだろう。

この数月の間に、そうした点で勇気ある人たちを何人も見てきた。自身については幾たびも唾棄した。生身の者はいくらでも内面とやらに逃げ込める。表層で戦う人の、なんと辛い駆け引きを強いられていることか。

その人たちに讃辞をおくりたい。

2020年10月20日火曜日

20201020 果実、頭、怒り続ける

9:00 現在、コーヒーは一杯、インドのナチュラルの残り少しにUCCのブレンドの混合。豆が残り少なくなってきたので、昨日Blue Bottle で注文した。

昨晩は買い出しに出る。日中降っていた雨はすでに止んでおり、

柿がとても安い。一個と言わずもっと買って置いてもよかったかもしれないと今更思う。反対にミニトマトは高騰していた。

9:45現在、珍しく紅茶、ニルギリを淹れる。杏?か何かのフルーツの丸みのある甘みがあり、その両側を走る清涼感がそこに輪郭を与える。初めの一口に収斂感はほとんど感じることはないが、それを完全に呑み込んだ途端、波が引いた後に現れるアサリの目のように、舌に思い出され、それが二口目からの味覚にワンテンポ遅れて干渉する。

そういえばコーヒーの味にフルーツを連想するとき、それは大抵その酸味についてであって、甘味については糖蜜とか、黒糖とかいった別の指標を使うのが普通だけれど、紅茶の果実感といったらその甘味についてだという気がする。紅茶のカッピングをあまり読んだ経験がないのでなんともいえないが。


例によって鯛の頭が安売りしていた。いつもカレーでは流石に芸がないので、たまには塩焼きにしてみルつもりだが、せっかく半割りされているわけだし片方はカレー粉とヨーグルトでも塗って焼いてみようかと思う。

店内に怒っている男を見かける。仕事帰りと思わしき、30代くらいの男で、少し肉のついた体躯がワイシャツの腹を張らせ、そこにしわくちゃの秋物コートが引っかかっている。若干逆立った黒髪と、裸の目と、髭のない顎がぬらりと貧弱である。生鮮品売り場の、雨天ゆえかまだだいぶ在庫が豊富なもやしが並んだあたりをよろめきながら、なんでこんなに何も残っていないのかと、独り怒鳴り散らかしている。店員含め皆遠巻きにしている。


「怒る」というのがいまいち理解できない。人はなぜあんなにも熱心にしぶとく怒り散らすことができるのか。

いらいらする、許しがたく思う、軽蔑する、悲しむ、やり切れない気分になる、折に触れてそういった心の働きが生じるのは理解できる。そうした働きの帰結として、怒声をあげる、声を震わせる、涙を流す、等々の行動に帰結するというのも理解できる。しかしそれが確かに帰結だというならば、それを頂点としてそれはもうおしまい、ではないのか。同様の理由によって「キャー」というような悲鳴も不思議でならない。「あ」と絶句して、それで終わりではないのか。逆にエネルギーを消費していないか。怒りという感情というよりかは、それを行動として、ある程度まとまった時間、継続的に駆動する動力源が一体どこにあるのかがわからない。


泣き続けた経験は、ああでも、子供の頃にある。しかしそのうちだんだん、泣くために泣いている自分に気付いてしまったりして、虚しくなって、それでかえって止むに止まれなくなって頑張って泣いてみるか、そうでなければもう完全に醒めてしまって、赤面を誤魔化しつつへこへこ隅に引っ込む、といった感じだったように思う。

案外怒れる彼らもそんな感じなのではないかと思ったりもする。この苛立ちがおさまってしまいそうな自分に苛立ち、それに抗って一層自らを怒りへとしこしこ鼓舞しているのではないかと思ってしまう。

怒るほどに真剣に何かに身を投じた経験がないからなのではないか、と反論されたら、そうなのかもしれないなあ、と返さざるを得ない、というのもまた正直なところなのではあるが。


あーでもほら、近頃はさ、怒り続ける身体をネットが肩代わりしてくれるからさ、Twitter に流れてきた知りもしない誰かの発言を見て、鍋蓋みたいにポンと怒って、次の瞬間には愛くるしい子豚の動画とか、推しの晴れ姿とかに目移りして頬を緩めていたりするんだれど、その間もリレー式に他の誰かが鍋蓋みたいに怒ってくれていて、タイムラインを遡ると常に誰かしらが自分の代わりに怒ってくれているものだから、みんな少しづつ時間と身体を分け合うことで実質的にみんなずっと怒り続けていられるプラットフォームとしてSNSなんかが機能していたりして、見ていて、まあ、地獄だよね。


12:00 現在、コーヒーは二杯目。UCCのザンビアのシングルオリジンの深煎り。深煎りは正直あまり好みではないのだが、そこで試しに蒸らしもそこそこにかなり太い水量でガシガシ淹れてみる(ドリッパーはコーノ式)。ダークチョコレートの香ばしい風味は抽出しつつ不要な苦味は最小限に、わりかしすっきりした印象になったと思う。こうした調整ができるように、やはり次に買うケトルも(口がパイプ状の)細口ではなく(根本が太い)鶴口タイプが良いなと思うが、なかなか適当なものを探しかねている。

みんなよく飽きないね。


2020年10月18日日曜日

20201018 豆、魚、私の声

11:00現在、コーヒーは一杯。コロンビアのウォッシュト。カップの底に少し残った冷めたものもまたシロッピーでおいしい。

今朝は寝過ごした。昨晩水につけておいた豆をキャベツと煮込たスープ、食パン、目玉焼き。

ずいぶん前、多分1年くらい前に安売りで買った米国産の黒目豆(black eyed pea)なる豆で、使い所がわからなくて放置してあった。サイズ感としては大振りの小豆くらいで、実際ササゲの仲間らしい。しかしあいつらのような頑なな外皮は持ち合わせておらず、薄黄の肌の臍周りに黒い斑があるその外観は見るからに軟弱で、数時間おいただけであっさりボヨボヨ膨張していた。いかにも新大陸の豆という風体で、キドニービーンズの中身のような白くボソッとした肉はスパイスやハーブを効かせたスープと相性が良さそうだ。テクスメクス、移民の味だ。


昨日なんとなく自分の声をチューナーに聴かせてみたところ、どうも実際の声は体感の1オクターブくらい低いようだった。喉を震わしていちばん自然にでる声は高低いずれもおよそA(ラ)の、220Hzと110Hz。ちなみにピアノの調律の基準とされるのがさらに1オクターブ高い440HzのAらしい。赤ん坊の泣き声は万国共通でこの440Hzだというまことしやかなお話は聞いたことがあったが、まあなんというか、愉快なことだ。


昨晩は鯛の頭のカレー。近所のイオンは宴会料理の仕出しでも請け負っているのか、鯛の頭がしばしば夕方の店頭に大量に並び、大量に売れ残り、重ね重ねの値引き表示で真っ赤に染まる。自然、私はそれをよく買って帰るし、大抵それはカレーになる。骨が多く入り組んでいるので正直箸で食べる方が楽である。


ところで鯛には「鯛の九つ道具」というものがある、これは鯛が体内に持つ、それぞれに独特な形をした9つの骨ほか(鯛中鯛、大龍、小龍、鯛石、三つ道具、鋤形、竹馬、鳴門骨、鯛の福玉)の総称で、縁起物とされている。そのうちのひとつ、「鯛石」とは解剖学的には耳石と呼べれるものにあたり、哺乳類などでは体の平衡感覚を司る器官の一部をなすものだが、いわゆる「耳」を持たない魚類はこれを聴覚器官としても用いる。扁平な皿のような形を持つ耳石は、それを支える無数の微細な繊毛を通じて聴神経へと繋がっており、耳石の振動を音として脳に伝える。ちなみに昨日の日記で記したように、一部の種には浮き袋をこの振動の増幅器として利用するものがいる。

ただし、哺乳類のような蝸牛管を持たない魚類は音波について周波数分解能を持たない、ということは彼らは音色を知らないとされている。ということは、もし彼らに声があったなら、彼らは、「自分の声」の不気味さを知らないのだろうか。彼らは気道音と骨導音との、少なくとも質的なギャップを知らない、すなわちそのギャップにおいて生まれるあの不気味な私を、知らないのだろうか。


そういえば、まだ読んだことはまだないのだが、デリダ『絵画における真理』中、ヴァレリオ・アダミが描いた魚のデッサンの読解に際して、彼はドイツ語の「私 Ich」とギリシア語の「魚 ichthys」との類似に着目し、そのデッサンに「Ichという出来事」を読み取っていた。

いうまでもなく、魚はキリスト教の文脈においては重要な意味を担うシンボルのひとつであり、そこに「私」の署名を読み取ることがデリダの戦略なのだろうと思っていたが、そこには同時に彼の「私の声を聞く」という音声中心主義批判の文脈も編み込まれていたのかもしれないなどと思ったりもする。読んでないけれど。


13:30現在、いくらか前にコーヒーは二杯。イオンPBのグアテマラ。昨日のものとは違って、こちらは馴染み深い、どっしり構えるグアテマラだ。昨日とは違って、天気は良い、今日は日曜日のようだ。




2020年10月17日土曜日

20201017 秋雨、女生徒、浮き袋

 7:30現在、コーヒーはまだ淹れてはいない。米を炊いている。玄米の、私は白米よりもこちらの確かなフィールドの方が好きだ。火にかける時間は長い。

たった今味噌汁を用意した。昨晩浸しておいた煮干しに、もやしの残りに、冷凍庫に一年以上放置されていた油揚げ、湯通しして、あとしめじとえのき。小さなミルクパンにいっぱい。

昨日買ってきたサンマもじきに焼くだろう。クチバシから何か飛び出しているのは寄生虫か何かだろうか。


昨晩は買い出しに出た。上着を羽織るのは夏が明けてから初めてだったか。イオンは最近、備え付けのスマートフォンでバーコード読み取り、セルフ会計できるようになり、このご時世にはとても気楽でありがたい。

土鍋の底でぱちぱち鳴き出した米をもう少し追い込みつつ、魚焼きグリルに火を入れる。味噌汁は少しおいてキノコと油揚げの味が汁に馴染んできたようだ。

昨晩は色々な食材がずいぶん安く手に入って嬉しい。先のサンマは3尾で150円だった。それと一尾分のゴマサバの切り身80円、鯛の頭30円。それとキャベツやら、もやしやら。柿もひとつ。

サンマは今朝の分一尾を残して冷凍した。適当な大きさの保存袋を探した結果、メゾン・カイザーのポリ袋に無事収まったので、少し笑ってしまった。相当昔にもらったはずの、バゲット保存用のものだ。パン屋にももうながいこと入っていない。

サンマがぶすぶす身を焦がす音を寄越している。


8:30現在、コーヒーは一杯。コロンビアのウォッシュト。なめらかな質感に華やかな酸味が心地よい。外で濡れたアスファルトを轢き回す車輪の音の寒々しさと斜交う。

朝食と洗い物はすでに済ませた。サンマのクチバシに飛び出した硬い鋭角はどうやら頭蓋の一部だった。

昨日音読したのは太宰治の「女生徒」冒頭、「得意である。」のところまで、を2回。いずれも10分と少し。私はあの小説が好きだ、朝、目を覚まして以来ぽちぽち去来する諸々が、移り気の都度に、お仕舞い、と断ち切られるのではなく、句点を跨いで、喰み出しあって、斑らけをなす、あるいはポリリズム。その意味で、朗読に向いた作品かもしれない。グリルの網の上、裂けた横腹から覗く魚の肋骨を数えるように。移した皿の上で、白く凝固した肉を解して骨を梳き取るように。


魚の浮きぶくろはもともと、肺が変化したものなのだという。古代の魚類が海水から淡水へと進出するに従い、空気中から酸素を得る器官として獲得したのが肺であり、その役割を保持したま現代に至るのが、ズバリの名を持つハイギョのような肺を持つ魚類、淡水からさらに陸へと上がった両生類、そしてその他あらゆる四肢動物である。翻って淡水から再び海へと戻り、その際に肺を浮力の調整器官、すなわち浮き袋として転用したのが私たちに馴染みある魚類の大多数である。その中には再び淡水へと踵を返した淡水魚や、海底での生活に特化して浮き袋を失ったヒラメやホッケようなものもいる。

コイやナマズ、ニシンの仲間はこの浮き袋に反響する音を聴覚の補助に利用するという。彼らは音を腹で聴くのだ。


もしかれらに声があったならば、かれらは自らの声をどのように聴くだろうか。耳栓をして声を発する、あのくぐもった声が頭蓋いっぱいに反響してどうしようもなくむず痒い、あの感覚を思い出しながら。


「女生徒」冒頭には短い語の反復が数多く現れる。どきどき、むかむか、また、また、とうとうおしまいに。濁って、濁って、しらじらしい、いやだ、いやだ。

その反復は、第一声に、ひとつ遅れて第二声をまた重ねるその反覆は、行き着く先もないままに、ただ内向きに落ち込んでいく内語の、内省の、出鱈目な反響の輻輳する果てに、場末の吹き溜まりのように現れる「私」の、(そうだ、「我思う、故に…」が頑なに隠匿しようとした、)あまりに遣る瀬無いあらわれの形象だろう。私は、私が口を開く、発せられた「あ」に、ひとつ遅れて反響する耳骨の、鼓膜の、はみ出した傍らおいて私として、「あさ、眼をさます」のだろう、水底に沈澱する澱粉のように。そしておそらく彼女の子宮を介して、母と娘の反覆のなかに私としてあさ、眼をさますのだろう。

そうしたやりきれない反復のなかにある私に抗うように、ふと、「お父さん」などと、小さい声で呼んでみる。大空を一杯に映すような美しい目に憧れてみる。憧れて、自分の目のたどんのように光を押し殺す多孔質な表面を、いっそのこと涙で湿してしとやかに覆ってしまいたいと思ったりする。

そんなことを脈絡なしに夢想しながらも、日はまた暮れて、またあけて、また、あさ、眼をさますのだろう。


10:30現在、コーヒーは二杯目。グアテマラのウォッシュト。この産地には意外なほどの繊細な、皮に覆われたままの桃を嗅いだような清醇な香気。一歩退いたやさしい酸味。しかし去り際、不意に焚き火の煙が一瞬鼻先をよぎったような感覚があり、なつかしくて少し泣きそうになる。


外は雨である。

2020年10月15日木曜日

20201015

10:00現在、コーヒーは一杯。エチオピアのナチュラル。

開封したてのころの、梅干しやゆかりを思わせるような香りもいまはだいぶ薄れたとはいえ、それでもまるみを帯びた輪郭の片隅に、ぽっかりと空いた風穴のように、あの香味の痕跡がかすかに呼吸しているのが感じられる。

11:00現在、コーヒーは二杯目。同じくエチオピアの、今度はウォッシュト。同じ農園の処理方式違いであるナチュラルの驚きの陰に隠れてしまっていたところもあったけれど、落ち着いてみるとこれもまたまるく、なにかをくすぐる、これもまた記憶だ、なにかの、すこしのよろこばしさとくすぐったさ、皿の片隅にのこされたなにか、一体なんだったのか、白い、これは記憶だ、わたしもしくは誰かの、口腔を滑り落ちる忘却の風が巻き上げる後塵によって、ただそれだけが浮かび上がらせる曖昧な輪郭だ。


今朝の目玉焼き、冷凍のグリーンピースに混じってフライパンの上に横たわるサワラの切れっ端は昨日の残り、隣の火口で温め直されるスープもまた昨日の残り。昨晩の夕食の残り。


昨晩の夕食。なにやら珍しく夕食らしい夕食だったもので。


・鰆の塩焼き

・鰆のムニエル

・もやしと豆苗の炒め

・キャベツとベーコンのスープ

・クスクス


値引きに値引きを重ね重ねの末の3切れ250円のサワラの切り身の、とはいえきれいな薄緋の肉が業務用の粘っこいラップをまとってひらただ。ラップを剥いで塩を振ってまたラップをして放置する。焼くあるいは胡椒も振って小麦粉も纏わせてバターで焼く。小麦の粒子は塩に呼ばれたサワラの体液にまた熱せられて金肌を覆うバターに溶けるだろうかそして剥き出しの肉をまた被覆する肌となるだろうか肉はふくらと柔らかだった。


キャベツは美味しい。


記憶が耳骨に響くはやさはどれくらいか、頭蓋にこだまする、エチオピアの土を覆うコーヒーの木とプールと港の鈍いエッヂが箸と交わる、その角度はどれくらいか、