11:00現在、コーヒーは一杯。コロンビアのウォッシュト。カップの底に少し残った冷めたものもまたシロッピーでおいしい。
今朝は寝過ごした。昨晩水につけておいた豆をキャベツと煮込たスープ、食パン、目玉焼き。
ずいぶん前、多分1年くらい前に安売りで買った米国産の黒目豆(black eyed pea)なる豆で、使い所がわからなくて放置してあった。サイズ感としては大振りの小豆くらいで、実際ササゲの仲間らしい。しかしあいつらのような頑なな外皮は持ち合わせておらず、薄黄の肌の臍周りに黒い斑があるその外観は見るからに軟弱で、数時間おいただけであっさりボヨボヨ膨張していた。いかにも新大陸の豆という風体で、キドニービーンズの中身のような白くボソッとした肉はスパイスやハーブを効かせたスープと相性が良さそうだ。テクスメクス、移民の味だ。
昨日なんとなく自分の声をチューナーに聴かせてみたところ、どうも実際の声は体感の1オクターブくらい低いようだった。喉を震わしていちばん自然にでる声は高低いずれもおよそA(ラ)の、220Hzと110Hz。ちなみにピアノの調律の基準とされるのがさらに1オクターブ高い440HzのAらしい。赤ん坊の泣き声は万国共通でこの440Hzだというまことしやかなお話は聞いたことがあったが、まあなんというか、愉快なことだ。
昨晩は鯛の頭のカレー。近所のイオンは宴会料理の仕出しでも請け負っているのか、鯛の頭がしばしば夕方の店頭に大量に並び、大量に売れ残り、重ね重ねの値引き表示で真っ赤に染まる。自然、私はそれをよく買って帰るし、大抵それはカレーになる。骨が多く入り組んでいるので正直箸で食べる方が楽である。
ところで鯛には「鯛の九つ道具」というものがある、これは鯛が体内に持つ、それぞれに独特な形をした9つの骨ほか(鯛中鯛、大龍、小龍、鯛石、三つ道具、鋤形、竹馬、鳴門骨、鯛の福玉)の総称で、縁起物とされている。そのうちのひとつ、「鯛石」とは解剖学的には耳石と呼べれるものにあたり、哺乳類などでは体の平衡感覚を司る器官の一部をなすものだが、いわゆる「耳」を持たない魚類はこれを聴覚器官としても用いる。扁平な皿のような形を持つ耳石は、それを支える無数の微細な繊毛を通じて聴神経へと繋がっており、耳石の振動を音として脳に伝える。ちなみに昨日の日記で記したように、一部の種には浮き袋をこの振動の増幅器として利用するものがいる。
ただし、哺乳類のような蝸牛管を持たない魚類は音波について周波数分解能を持たない、ということは彼らは音色を知らないとされている。ということは、もし彼らに声があったなら、彼らは、「自分の声」の不気味さを知らないのだろうか。彼らは気道音と骨導音との、少なくとも質的なギャップを知らない、すなわちそのギャップにおいて生まれるあの不気味な私を、知らないのだろうか。
そういえば、まだ読んだことはまだないのだが、デリダ『絵画における真理』中、ヴァレリオ・アダミが描いた魚のデッサンの読解に際して、彼はドイツ語の「私 Ich」とギリシア語の「魚 ichthys」との類似に着目し、そのデッサンに「Ichという出来事」を読み取っていた。
いうまでもなく、魚はキリスト教の文脈においては重要な意味を担うシンボルのひとつであり、そこに「私」の署名を読み取ることがデリダの戦略なのだろうと思っていたが、そこには同時に彼の「私の声を聞く」という音声中心主義批判の文脈も編み込まれていたのかもしれないなどと思ったりもする。読んでないけれど。
13:30現在、いくらか前にコーヒーは二杯。イオンPBのグアテマラ。昨日のものとは違って、こちらは馴染み深い、どっしり構えるグアテマラだ。昨日とは違って、天気は良い、今日は日曜日のようだ。
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