2020年10月15日木曜日

20201015

10:00現在、コーヒーは一杯。エチオピアのナチュラル。

開封したてのころの、梅干しやゆかりを思わせるような香りもいまはだいぶ薄れたとはいえ、それでもまるみを帯びた輪郭の片隅に、ぽっかりと空いた風穴のように、あの香味の痕跡がかすかに呼吸しているのが感じられる。

11:00現在、コーヒーは二杯目。同じくエチオピアの、今度はウォッシュト。同じ農園の処理方式違いであるナチュラルの驚きの陰に隠れてしまっていたところもあったけれど、落ち着いてみるとこれもまたまるく、なにかをくすぐる、これもまた記憶だ、なにかの、すこしのよろこばしさとくすぐったさ、皿の片隅にのこされたなにか、一体なんだったのか、白い、これは記憶だ、わたしもしくは誰かの、口腔を滑り落ちる忘却の風が巻き上げる後塵によって、ただそれだけが浮かび上がらせる曖昧な輪郭だ。


今朝の目玉焼き、冷凍のグリーンピースに混じってフライパンの上に横たわるサワラの切れっ端は昨日の残り、隣の火口で温め直されるスープもまた昨日の残り。昨晩の夕食の残り。


昨晩の夕食。なにやら珍しく夕食らしい夕食だったもので。


・鰆の塩焼き

・鰆のムニエル

・もやしと豆苗の炒め

・キャベツとベーコンのスープ

・クスクス


値引きに値引きを重ね重ねの末の3切れ250円のサワラの切り身の、とはいえきれいな薄緋の肉が業務用の粘っこいラップをまとってひらただ。ラップを剥いで塩を振ってまたラップをして放置する。焼くあるいは胡椒も振って小麦粉も纏わせてバターで焼く。小麦の粒子は塩に呼ばれたサワラの体液にまた熱せられて金肌を覆うバターに溶けるだろうかそして剥き出しの肉をまた被覆する肌となるだろうか肉はふくらと柔らかだった。


キャベツは美味しい。


記憶が耳骨に響くはやさはどれくらいか、頭蓋にこだまする、エチオピアの土を覆うコーヒーの木とプールと港の鈍いエッヂが箸と交わる、その角度はどれくらいか、


0 件のコメント:

コメントを投稿