以下は2016年7月3日から4日にかけて筆者がTwitter に投稿した一連のツイートに対して頂いた中ザワヒデキ( @nakaZAWAHIDEKI )さんのご反応を受け、筆者が2016年7月14日から15日にかけて投稿した一連のツイートの備忘記録です。本ページへの再掲にあたり本文への加筆修正は基本的になされておりません(元ツイートはTwilog 経由で参照可能)。
http://twilog.org/nakaZAWAHIDEKI/date-160704
2015年7月14日付のTwitter投稿(twilog)
2015年7月15日付のTwitter投稿(twilog)
私の至らぬ理解に色々と思うところも多かろうところ、仔細なお返事大変恐れ入ります。疑問のいくつかに導きを得るとともに、二三の新たな疑問の問いかけをお許し下さい。
まず、美学/芸術の対称的位置づけについての指摘が、一つ合点がいった点でした。中ザワさんは美学が「先に」あるという表現をされていますが、この点あるいは私の主張と表裏の関係にあるのかもしれません。
すなわち、無時間的かつ無限に広がる潜勢的な場としての芸術と、その只中にあって舵取り現働化する制限因としての美学、という構図を想定するならば、そのいずれの側から語るかの違いとして中ザワさんと私との両主張を整理できるのだろうかと思いました。
あとひとつ、私がAI芸術による循環史観の失効シナリオについて問うた時、中ザワさんはAIが書く美術史について言及されました。
私はつい、人間の美術史からAIの美術史への転換、という「劇的」な想定をしてしまいましたし、また多くの人びとも同じでしょう。
私はつい、人間の美術史からAIの美術史への転換、という「劇的」な想定をしてしまいましたし、また多くの人びとも同じでしょう。
しかし人類が後世の芸術概念を以って原始時代の壁画等を遡行的に芸術と見做し美術史の片隅に書き込むように、人工知能もまた彼の芸術観を遡行的に適用し、日時計の芸術、ポケベルの芸術をその美術史の中に位置付けていくことでしょう。
そしてこれは、人間と人工知能の美術史とが、ある時点で排他的に切り替わる関係にあるのではなく、むしろ並行的なものとして共存可能であること、人工知能の美術史は人間のそれの息の根を止めることはないことを示してはいないでしょうか。
すると、私達のそれと交わること無い並行史をあえて覗き見することになんの意義があるのか、というかそもそもそんなことが可能なものか、正直私にはわからなくなってきています。
確かに前述のように、この相対化は 植民主義的に、人間中心主義を外側から補強する働きをもち、その意味では「役に立つ」ものです。しかし、あくまで憶測ですが、私には中ザワさんの目的が、少なくとも表向きには、そこにあるとは思えません。
この想定は、人工知能芸術の「ポップな」方の魅力に水差すものです。なあなあと生き永らえてしまう人類史は劇的展開からはほど遠いものです。
そして中ザワさんは、自身の意図とは離れた「ポップさ」を密かに大いに利用している方であると私は認識しています。
そして中ザワさんは、自身の意図とは離れた「ポップさ」を密かに大いに利用している方であると私は認識しています。
末筆ながら、今回の宣言の殆どサービス過剰なまでのポップさ、その裏(と呼ぶのはあまりに素朴かつ不適切でしょうが)で中ザワさんが見据える先を、これから徐々に明らかにされていくであろう今後のAI美芸研と、なにより中ザワさんの活動を楽しみにしております。