2016年8月14日日曜日

中ザワヒデキ「人工知能美学芸術宣言」関連(Twitter記録)

以下は2016年7月3日から4日にかけて筆者がTwitter に投稿した一連のツイートに対して頂いた中ザワヒデキ( @nakaZAWAHIDEKI )さんのご反応を受け、筆者が2016年7月14日から15日にかけて投稿した一連のツイートの備忘記録です。本ページへの再掲にあたり本文への加筆修正は基本的になされておりません(元ツイートはTwilog 経由で参照可能)。

2015年7月4日付の中ザワヒデキ( @nakaZAWAHIDEKI )さんによるTwitter投稿(twilog)
http://twilog.org/nakaZAWAHIDEKI/date-160704


2015年7月14日付のTwitter投稿(twilog)

2015年7月15日付のTwitter投稿(twilog)



私の至らぬ理解に色々と思うところも多かろうところ、仔細なお返事大変恐れ入ります。疑問のいくつかに導きを得るとともに、二三の新たな疑問の問いかけをお許し下さい。

まず、美学/芸術の対称的位置づけについての指摘が、一つ合点がいった点でした。中ザワさんは美学が「先に」あるという表現をされていますが、この点あるいは私の主張と表裏の関係にあるのかもしれません。


すなわち、無時間的かつ無限に広がる潜勢的な場としての芸術と、その只中にあって舵取り現働化する制限因としての美学、という構図を想定するならば、そのいずれの側から語るかの違いとして中ザワさんと私との両主張を整理できるのだろうかと思いました。


あとひとつ、私がAI芸術による循環史観の失効シナリオについて問うた時、中ザワさんはAIが書く美術史について言及されました。
私はつい、人間の美術史からAIの美術史への転換、という「劇的」な想定をしてしまいましたし、また多くの人びとも同じでしょう。


しかし人類が後世の芸術概念を以って原始時代の壁画等を遡行的に芸術と見做し美術史の片隅に書き込むように、人工知能もまた彼の芸術観を遡行的に適用し、日時計の芸術、ポケベルの芸術をその美術史の中に位置付けていくことでしょう。


そしてこれは、人間と人工知能の美術史とが、ある時点で排他的に切り替わる関係にあるのではなく、むしろ並行的なものとして共存可能であること、人工知能の美術史は人間のそれの息の根を止めることはないことを示してはいないでしょうか。


すると、私達のそれと交わること無い並行史をあえて覗き見することになんの意義があるのか、というかそもそもそんなことが可能なものか、正直私にはわからなくなってきています。


確かに前述のように、この相対化は 植民主義的に、人間中心主義を外側から補強する働きをもち、その意味では「役に立つ」ものです。しかし、あくまで憶測ですが、私には中ザワさんの目的が、少なくとも表向きには、そこにあるとは思えません。


この想定は、人工知能芸術の「ポップな」方の魅力に水差すものです。なあなあと生き永らえてしまう人類史は劇的展開からはほど遠いものです。
そして中ザワさんは、自身の意図とは離れた「ポップさ」を密かに大いに利用している方であると私は認識しています。


末筆ながら、今回の宣言の殆どサービス過剰なまでのポップさ、その裏(と呼ぶのはあまりに素朴かつ不適切でしょうが)で中ザワさんが見据える先を、これから徐々に明らかにされていくであろう今後のAI美芸研と、なにより中ザワさんの活動を楽しみにしております。

2016年8月13日土曜日

中ザワヒデキ「人工知能美学美術宣言」感想の続き(Twitter 記録)

以下は2016年7月3日から4日にかけてTwitter に投稿した一連の投稿の備忘記録です。本ページへの再掲にあたり本文への加筆修正は基本的になされておりません(元ツイートはTwilog 経由で参照可能)。



2015年7月3日付のTwitter投稿(twilog)

2015年7月4日付のTwitter投稿(twilog)



今年5月1日に中ザワヒデキ氏起草で発表された「人工知能美学芸術宣言」は私にとって、端的におよそ同意も許容もできない内容であった旨、以前も少しつぶやいたが( nanka-sono.blogspot.jp/2016/06/twitte )6月19日にAI美芸研での講演を聞いたこともあり、改めて二三確認したい。


「人工知能美学芸術宣言」( aloalo.co.jp/nakazawa/2016/ )
「第1回AI美芸研(人工知能美学研究会)」( aloalo.co.jp/ai/research/r0 )


まず、当宣言の想定する美学と芸術は「人工知能が自ら行う美学と芸術」であり、そしてそれが現状実現されていないのは、「端的に、自律性を兼ね備えた汎用人工知能が実現できていないから」である。即ち人工知能の自律性は芸術制作の条件である。


宣言中で「認識能力、判断能力、創造能力」「創造性と直観」等表現されるところの「自律性」は、しかし明らかにある種の人間観を前提としている。即ち自ら認識し、判断し、そして自らを表現するところの人間という、現代においてはあまりに普及し、自明とさえされている「自律した人間」観である。


そのような人間観、そしてそれに基づく芸術観はしかし、歴史的にはルネサンス以降の西洋社会において作品の制作者たちが、神から垂迹する芸術の憑り代であることを止め、その源としての権威を次第に神の懐から掠め取り「芸術家」という地位を確立していった頃にようやく成立したものではなかったか。


人工知能による芸術の条件として人工知能の自律性を語ることで、当宣言は逆向きに「人間の」自律性を前提化する。
たとえ人工知能が人間に取って代わるにしても、それは人間の力能を継承する限りでの人工知能であり、本質的には人間の力能の何も脅かすことはなく、むしろ強化しようとさえするだろう。


以上は当宣言における人間観の保守性の指摘であったが、しかし当宣言はさらに芸術観においても保守性を示している。即ち、(人間であれ人工知能であれ)制作主体の行為対象としてのみ可能になるところの芸術(作品)という、人間中心主義的芸術観である。


先の「自律性」という発想は、外部からの刺激を待つことなく自発的に行動を展開するという意味で「主体性」と言い換えても良いだろう。事実今回の研究会では「主体」という語がたびたび登壇者の口に登っている。主体がまず先にあり、その客体として芸術(作品)が生まれる、というわけだ。


ここではその発想の是非に深く立入ることは避け、中ザワ本人の従来の立場との齟齬の指摘に留めたい。
共に彼の手による「人工知能美学芸術宣言」と「方法主義宣言」との最大の違いは、その主語として「芸術」を措定する後者に対して、前者はそれに芸術作品の「制作主体」が取って代わる点である。


この違いは大きい。というのも、制作主体について問うた途端に、前宣言における自己展開する芸術観では問われることがなかった問い、すなわち「ではその制作主体に値するのは如何なる主体か?」という問いに必然的に帰着するからである。


また中ザワは美術史を前衛、反芸術、多様性という3つの段階の反復として説明する独自の循環史観の提唱者でもある。循環史観は芸術自体があたかも一つの生命体のように自己展開するという発想に基づいており、それは個々の作家から美術を語る主体主義と相反する。


驚くことに、今回中ザワは人間の相対化を語る。芸術に対する従来の人間の傲慢と楽観を打ち破る、「反芸術」の戦略の一環として。しかし「相対化」こそ、中ザワの使う例を借りるなら、不完全性定理、自己言及による自壊という惨事を避けるための外部を確保するべく用意された方便ではないか。


ここにきて中ザワの主張は、例えば動物の権利団体が挙げるような主張と限りなく接近するように見える。人工知能という主体が行う芸術の可能性を人間と並行的に語ることで、人間という主体の地位の危機を回避するような、迂回的な人間中心主義。


そもそも「人工知能に芸術は可能か」という問いそれ自体、人間が判断基準になっているのは明らかである。今この瞬間も100円ショップの電卓の集積回路の中で、時計の文字盤の上で、縷縷と行われているかもしれないなにかを、現状、たまたま、私達が芸術と呼ばないだけのことではないか。


芸術にとってその制作者とは、例えば作曲家チャールズ・アイヴズにとっての「十本の指」と構造的に等しい。そしてその制作者が人間であろうが人工知能であろうが(指が十本であろうが五十本であろうが)、いずれも制限因子であるという意味で、芸術の側からすればそこになんら違いは無い。


(参考:中ザワヒデキ「作曲の領域:シュトックハウゼン、ナンカロウ」 aloalo.co.jp/nakazawa/2016/ )


真に人工知能によるカタストロフを考えるためには、人工知能が無限に「速く」なった地点、人工知能と芸術とが一致する地点を想定する必要があるだろう。しかしそれが人工知能である必然性は全く無いし、また仮に一致したところで有限なる人間の感覚器にはあいも変わらずその残像が映るばかりである。


ところで「仮想空間の中で石を落としてその挙動を予測するよりも、自然界で石を落とす方が余程手軽で早い」という至極もっともな判断から「自然現象として計算を行えばよい」と言ってのけたのは『Self-Reference ENGINE』の円城塔である。


「巨大知性体のネットワークが、論理回路の集積物であることをやめて、自然現象そのものと一体化した」世界、しかしその世界にあってもやはり人間は割りとのうのうと日々を送っているのだ。


あるいは当宣言はそのような地点をとうに見越した上での必要悪として放たれたのかもしれないとは思う。しかしこれを受けて、たとえポーズでも反発の声が殆ど皆無であることに、私は強い危惧と憤りを覚える。ここ最近の友達ムード、これは美術界全体の問題だ。