2021年1月31日日曜日

20210131

10:50 現在、コーヒーはすでに一杯。ミャンマーのナチュラル。なんだか(良い悪いとかではなんく)灯油ストーブを点火して少しして、火が落ち着いた頃のような匂いがする。

中国語の配信の字幕をルーズリーフに書き写し、Google 翻訳と中日辞典で発音と意味を調べた上で改めて音声とすり合わせていく作業をした。必ず一字一音節である中国語は(ピンインさえ与えられていればだが)紙の辞書を引くのが他とは桁違いに楽であると言うのは中国語をはじめるまで気が付かなかった。最初は途方もないなあと思っていたが、少しずつノリが見えてきたようにも思う。

バスマティ米の食べかけが残っていたので鯛の頭を解凍してカレーにした。コンロが片方手持ち無沙汰だったので大根をクミンと鰹節で炒めた。

日曜のわりに車の往来が激しいような気がする。ゴムがアスファルトを擦る音が乾いた空気の上でたなびいている。

2021年1月30日土曜日

20210130

11:45 現在、コーヒーはすでに一杯。

なんでもない住宅街と言って良いと思うのだが何でこう騒々しいのだろうかこのあたりは

だいぶ昔に見たことのある夢のリメイクを見たような気がするが、その「だいぶ昔に見た」という記憶自体が昨晩の睡眠時に帰せられる夢の産物であるような気もする。こういうことはしばしばあるけれど、毎度不思議な心地にさせられる。ついでに言うと夢の中でも私は夢うつつで授業を聞いたりしていた。

窓から差す日光が潮のようにずらずら鈍い音立てて引いて行く。その跡に顔を覗かせた濡れ砂が吐き出す気泡のように、薄暗がりが粟立っては皮下に潜り込んで感覚を鈍麻させる。砂に塗れた汚い流木だ私の身は心は。

2021年1月29日金曜日

20210129 雪ぎ

10:10 現在、コーヒーはすでに二杯。一杯目は昨日開けたエチオピアのナチュラル。
豆の時点で少しねっとりしたフルーツの風味。口に含むと紅茶や干し草を思わせる乾いた芳香を露払いに、苺のような可愛らしい甘味がころころと広がって、最後には喉をくいと軽く引っ掻きながら落ちていく。以前にも買ったことのあるものだが、これこそエチオピアだとつくづく嬉しくなる。こういうのをずっと飲んでいたい。

昨日は昼間のうちに買い出しを済ませてしまおうと外に出ると、思ったよりも強く冷たい雨だ。上着の裾から足元にかけてが染み通りこそしないものの振り掛けたかのように濡れる。いつも通りの大股なので余計に濡れる。手袋を濡らすのが面倒臭いので裸の指がひしゃげる。こんな日でも往来は意外と盛んで理解が行き場を失う。ボコボコの人参、10%引きのモウカサメの切り身、割と高いなといつも素通りしていたパスコのくるみ入り食パン、他。

店を出ると雪だった。つまらない冗句のような展開。雨とは違って落ちた先の路面で跳ねたりすることのない雪は、あたかも地表が偏光板が見せる見せ掛けの間仕切りであるかのように事もなげに貫通して過ぎていくようで、いつも足元が覚束なくなる。そのくせビニール傘にはみぞれと化した雪が妖怪の鱗のようにへばりついて、柄を握る手にその重みが確かだ。黒尽くめの身なりに絡み付く雪片は今年はマスクの白と韻を踏むな、と思いながらに引っ剥がした玄関扉を入るや否や雪を振り払った。

モウカサメはスパイスとヨーグルトに漬け込まれた後、無事カレーになった。中国語が楽しい。

朝の目覚め。昨日のことがもうだいぶ以前のことのようで食パンもすでに割と無い。開けた窓の先、雪がれてか空気が清潔だ。

さすがになあ、とさすがにまあ思っている。 じゃんけんでチョキ出すつもりなら今がさすがに最後だぜ。


2021年1月28日木曜日

20210128 夢

12:20 現在、コーヒーはすでに一杯。

実のところ寝ている間は全くの無なのであって、寝ている間に見ていたのだと思われているところの夢というのは実際には睡眠中のそうした無を無かったことにするために覚醒後に造られる偽の記憶だ、といった説を昔々にどこかで聞いた。その真偽はともかく、この説が私はなんとなく気に入っている。記憶が本物か偽物かというのは大した問題ではなくて(全ての記憶は何らかの形で偽物だ)、むしろ連続した時間というファンタジーを必死に守ろうとするそうした記憶があろうが無かろうがお構いなしに、覚醒の瞬間、その断絶のキワにどっと押し寄せる空っぽな感情の吹き溜りの奇妙なリアリティに惹きつけられる(そうした点では私は新海誠に親和性があるのだろう)。たとえあの日の出会い、あの日の会話の記憶を毫も脳裡に留めて居なかったとしても、あの顔を見るや明らかにあれは不快だ、という感情が込み上げる。歴史抜きの重みだ。目尻の皮膚の捲れ上がりの鮮烈な朱だ。墓という詐術を尻目に、この原に人は骨を撒き散らす。

2021年1月27日水曜日

20210127

13:50 現在、コーヒーはすでに二杯。

 口元にまた出来物が出来た。私からは以上です。

2021年1月26日火曜日

20210126

13:00 現在、コーヒーはすでに二杯。

昨日は買い出し。なんだか記憶がない。月が満月かと見紛うほど明るかった。

中国語で「覚」の字には「覚める」と「眠る」という、一見相反する二つの意味があることを知った。発音をそれぞれ「jue2」「jiao4」と変えることで区別されているらしい。「睡覚 shui4 jiao4」なんて語を見たときは一体何事かと思った。

鈍い陽。曇りガラスは白く発光しているにも関わらず室内は生暗く、指は節々が突っ張るのに肌には厚みのない熱気が煩くチラつく。だるい。

2021年1月25日月曜日

20210125

10:30 現在、コーヒーはすでに二杯。

昨日一昨日の生暗もようやく明けた。逃げそびれていた地表の水気が息急き切って大気中へと立ち昇っていく熱気を外から感じる。

相変わらず唇は荒れに荒れているし、足首は座りが悪く指は鈍い。

そろそろ韓国語のまともな文法書が欲しいと思う。手持ちのものは入門書というよりはむしろエッセイに近いムック本と、あとはなぜか韓国語話者向けの日韓辞典だけだ。

吃るほどの言葉を私は持ちあわせない。

2021年1月24日日曜日

20210124

14:20 現在、コーヒーはすでに一杯。ミャンマーのナチュラル。
表記上は浅煎りとあるが、色ツヤやたっぷりガスを抱いて膨らむ様子は中深煎りのそれに見える。強いロースト香、土っぽく微かにスパイシーな風味は以前余所で買ったミャンマーのハニー・プロセスによく似ていて、この産地の特徴なのだろうかとも思う。そうした強い印象につい気を取られがちだが、テクスチャは意外とスムースで甘く、閃くようになにか青っぽい甘酸っぱさ、キウイかなにかだろうか、を微かに感じた気がする。淹れ方次第でもう少しこちらの印象を強調できるだろうか。

なんとなく予想はついていたけれど、今朝は酷く寝過ごした。未明に一度目が覚めたときには脚の付け根から上下に広がるようにムズムズとして気色が悪かった。夢の中で日本語の音声を背にして無数のハングルが蟻の行列のように幾筋も列なして這い回っていたけれども関係はないと思う。

ずるずると降る雨が生暗い昨日には色々とリズムを崩された。今日も暗く、そもそもすでに色々とたたみ始めるような時間にこれを打っている。




2021年1月23日土曜日

20210123 障わ障わ

 8:45 現在、コーヒーはすでに一杯。ホンジュラスのウォッシュト。

豆の外観はウォッシュトにしては割れ目の銀皮がナチュラルのように褐色化して目立たない。挽く前の香りはコーヒーとしては少し馴染みの薄い印象。刺激の全くない、優しい香ばしさは別のなにかで嗅いだことがあるような気がするが思い出せない。残り香はヒノキだかの木屑のような匂いに変化する。蒸らしの段階ではまた少し変わってフルーツキャンディのような、少し硬質な甘い香りがコロリ。商品説明ではクリーンとあったので、意外とこんがりした仕上がりが若干意外だ。口にすると第一にやはりチョコレート寄りかな、というビターかつ甘い風味、しかしそれが舌上を流れ落ちようとするや、シーソーの片方がパタンと押されたように、一点して何かまるで別の印象の香りが突然ぱっと立って、鼻腔の奥の方にぽんと直接投げ込まれる。不意を突かれてなんだかよく分からなかった。なんだかいろいろと意外性のある豆だ。


昨日は暖かい日だった。iPad のバッテリーがゲンキンなくらいよく充電される。欠片もわからない中国語の配信を二本ばかり観たり(「新年快楽」だけはわかった)して、よくわからないまま日を暗らして、夜に買い出し。妙に落ち着きなく混み合っていた。空っぽのもやしと納豆と食パン売り場がそれらしい。寒の緩みの所為なのか、やけにトゲトゲした身なりの若い男性も何人か闊歩する。人の口もいくつか見た気がする。クミン、スポンジ、単一電池。千円札を3枚だけ引き出す。現金をまるで使わない。有人レジの待ち列、そのすぐ傍らのガラ空きのセルフレジ。月は高く半月で、薄雲に霞んで埃っぽい。


Twitterで拾い上げた、くだけた韓国語の短い一文を唱えて就寝。身体中を蟻が這い回るようだと思っていたら本当に黒い蟻が這っていたので外に出て払い避けようとしましたとさ、そういう夢から夜中目覚めてなおしばらく、身体中を蟻が這い回るような心地にうなされた。外国語を学ぶ感触とはこういう感触かも知れない。

朝はアラームで普通に起床。小馬鹿にするように暗い。妙に殻が固い玉子の黄身がフライパンの上に潰れ広がってとろりと眠たい。




2021年1月22日金曜日

20210122

11:30 現在、コーヒーはすでに一杯。

割と遅めの起床。今日はだいぶ暖かいとの予報を聞いた昨晩。

12:00 現在、コーヒーは二杯目。最近ようやくモカっぽさ、キリマンジャロっぽさというやつを捉えつつあるかもしれない。

昨日は中韓の単語や表現をいくつか学んだのが楽しかった。入門書や文法書を初めから順々に進めていくのは(少なくとも私にとっては)利口ではないと、経験から流石に学びつつあるので、今のところはとりあえず目についた語や短い文を辞書をひいたり検索して、各語の「ノリ」に思考を馴染ませようとしている。そうした上で順次時制、態、法みたいなものの概観をインストールして、まずは文全体の構成を大掴み出来るようにする。発音とか活用とかは後回しで良い、そんなつもりだ。

相変わらずだがいろいろと思い出せない。縮尺を間違った地図の中に放り込まれてしまったようだ。日が暮れて、明けて、また暮れて、それを見届ける目の前には夕闇が、頭上には太陽が高く、顧みるとそちらにも夕闇が、あわや一つ目の夕闇を追い越して行ってしまいそうな勢いで迫り来ていましたとさ。

2021年1月21日木曜日

20210121

9:30 現在、コーヒーはすでに一杯。昔三徳で買ったタンザニア。口にするなり、舌上に流れる液とは別に、硬口蓋を直線的にざらりと撫でて喉へと走り去る強い香気がある。

例によって寒い朝。屋外の大気が車の往来の音ともどもに、ずんと霜と降りて押し黙るようだ。寝足りなさが大腿部に澱と積もって麻痺する。

なんだか中国語を学びたい気分だ。文末に軽音で「了」と鳴るあの触れが好きだ。日本語は割りと水気を含んだように重たい言葉であるように思う。


2021年1月20日水曜日

20210120 いやはや

14:00 現在、コーヒーは二杯目。UCCのエチオピア・モカ。

スペシャルティに対する感覚の成長が全く停滞している一方で、最近は200gで500円くらいの低価格帯に対する舌が少し肥えてきたような気がする。駄目なものは当然駄目だとして、中には視点と淹れ方次第で 十分楽しめるものもあるようだと考え直すようになった。そもそも産地や処理法によるキャラクターというのは、見方によっては各々の気候的、技術的、経済的等々の制約の結果物なのであり、だからこそそれは無謬に達成される最高品質の豆よりもむしろ、いくつもの妥協の産物にこそよりよく見出されうる、と考えることもできる(ただしもちろん、コストカットのために強いられる経済搾取や環境汚染等の倫理的な問題については改めて問われる必要があることを直ちに言い加えておかねばならない)。

昨晩は大変遅く寝て、自然今朝は大変遅く起きた。いや、正直これは仕方がないと思う。べつに詳細を記したりはしないけれども、昨晩は唐突にライフライン上のなかなかの恐怖体験をしたのだし。ヤンヌルカナだよこれは。あとiPad のバッテリーもいい加減にしてくれ。

夕食にはチキンカレーを作った。調理器具の衛生管理にここ半年ばかり殊に過敏だ。ゾーニング、洗浄、熱湯消毒、禊。

いやはや、とそう独り言ちたい。届く耳の宛てなしに、いやはや、と音はしばし低く棚引いて、いやはや、とそれはそのまま消えていくだろう。いやはや。

2021年1月19日火曜日

20210119

12:00 現在、コーヒーはすでに二杯。

昨日はかなり遅く布団に入り、経験に学んで目覚ましを掛けずに寝たのだが、結局いつも通りか、むしろ少し早いくらいに目覚めた。本を少し読んで、ナマクラになっていた包丁も研いでしまった。

手持ちの砥石はやはりいまいちであるように思う。むしろ刃がガタガタに零れるか、そうでなければマクレが千切れて金属の細い糸屑が出来てしまう。だいぶ前から濡らした砥石に耐水ペーパーを張り付けて研いでいる。

昨日は昼過ぎから買い出しに出てしまった。歩道橋のペンキの水色がぽけっと眩い。スーパーの店先に赤リンゴと青リンゴが隣り合わせで並べられている驚きだ。こちらから潜り込むか、向こうから押し入って来るかの夜の街並みとはまるで違った、そこにあればそれはあるだろう、とばかりの自然主義的な開けだ。

買い出しで日中の後ろ半分が終わってしまったような気がする。
松本隆『韓国語から見えてくる日本語』を読んでいる。在日コリアンの間で使われる混交表現の例として、もともと朝鮮語には見られない、日本語の「〜してもらう」(行為の受け手を主語とする)に相当する表現が生み出された事例が挙げられている。もともと朝鮮語の「パッタ(もらう)」は何か具体的なものの受領についてしか使われないのだが、これを日本語の「〜して・もらう」と同様、動詞の後ろに補助動詞的に付加してしまうのだそうだ。

と、上の数行足らずのの説明文を日本語で、しかも元テキストがあるにもかかわらず、記すだけで何十分もかかってしまった私は一体なんなのだろうと思う。言葉は兎角、水平に長い。これが酷くおそろしい。頭に気を取られていると知らぬ間に尻尾が捻れている。慌てて取り繕って顧みた頃には首が捩じ切れていたりする。동에 번쩍 서에 번쩍 (東dong へひょいと、西seo へひょいと)というわけには行かない。川の流れには、それに流されることでしか介入出来ない。時間を辿り返したと思って、ふと壁に掛かった時計を見るとご丁寧にも踵を返した回数分がすでにそこから差し引かれており窓の外は真っ暗だ。

呻き声も漏れるというものだろう。その呼気が喉を擦ったその向きこそが正確に、彼の生かされる向きそのものだ。




2021年1月18日月曜日

20210118

11:00 現在、コーヒーはすでに一杯。コロンビアのフリー・ウォッシュト。

昨日は珍しく、明るいうちから本を少し読めた。シヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史』を読んでいる。

YouTubeに流れてきたメレンゲ・アクションの真似をしてみる。出す脚の側の骨盤を(上げるのではなく)下げるなんて動き、今まで考えたこともなかった。骨盤が発熱する。

これまでなんとなく興味が湧かなかった韓国語だが、ここ数日で突然気になるようになり、とりあえず昔どこかで手に入れてあった薄い入門書を引っ張り出した。よくある語学テキストというよりは、日韓語の比較を通して日本語を見つめ直そう、という趣旨で編まれた本だ。語学テキストにありがちな、右も左も分からないうちからいきなり発音規則やら決まり文句やらの丸呑みを要求してくるものよりも余程良いと思う。

そういえば大学時代にとったラテン語の授業では、死語ゆえの特徴だが、そもそも定まった発音法も挨拶も無く、いきなりゴリゴリの文法事項に突っ込んでいったのはとても良かったといまでも思う。

脱輪していくことは大事だ。滑らかな鋼鉄の車体は傷を負って初めて自らの重さに気付く。元来た道を振り返り、光の性質に従って、途中にあったはずの分岐点は現在からはもはや視界に映らない。だからこそ現在を踏み外すことは常に大事だ。プレゼンスを動揺させることは常に大事だ。

2021年1月17日日曜日

20210117

10:00 現在、コーヒーは一杯。エチオピア・モカ。

 昨日の夜はいくらか本を読めた。睡眠。起床。なにかの夢。曇天。日曜の住宅街の人の気配のむず痒く広がる。唾液腺。

キャベツの繊維のしゃくりしゃくりと並び延びるか


2021年1月16日土曜日

20210116 遺影、許々袁々呂々

12:00 現在、コーヒーはすでに二杯。

いくらか寝坊。
夢を見た。喋る飛行艇2艇と一緒に陸路、旅をしている。私は片方の足下におり(フロート付きの水上機との区別は付いていない)そいつの姿は腹しか見えない。もう片方は時々ちいさなタンクローリーの姿に変わっていたりする。土の湿っぽい、視界の開けた土地を突っ切る夜の一本道にヘッドライトを投げかけて隊列組んで走ったり、あたりに何もない夜の駐車場でターンの練習をしたり、妙に急斜面になった細い裏路地を滑空し、その先でざっくりと厚手の生地で拵えた、背負子みたいなおおきな布カバンを買ったりした。

末端と肌は鈍く冷やすのに、肌上一寸に馴れ馴れしく生暖かい日だ。どうにもむず痒く、コンロ周りを掃除した。ケミカルに殺す。

最近近所でよく立ち話している若い男子の声質がどうも苦手だ。かなり正確に一定の間隔をおいて繰り返し、「いひひ」と笑う。会話の内容に対する反応というよりは、中身に関係なしに会話をとにかく継続させるための相槌として、「いひひ」とそれは線路を敷くようだ。

昨日も飽くまで駄目だったが、夜は幾らか本を読めた。ネット回線が酷く鈍い。音声がどうにも鬱陶しい。押し込めるように食べすぎる。

人の名を知るほどに、それだけ多くの訃報が目につくようになる。死んだとの報で初めて知る名前は少なくない。灰となって初めて届く。灰として初めて残り続ける。記憶は常に死臭を伴う。慎重に血肉を洗浄消毒された、ケミカルで清潔な、薄青紫色の死臭だ。

ネットの海に漂う無数の肖像写真、それは名声、賞典、ポルノ、親しみ、透明性、犯罪等々のかたちでクリップされて、あるいは毛穴のひとつひとつも露わに、あるいは親指の爪ほどに薄ら白くぼやけた面で、そのすべては潜在的になにかの遺影だろう。底も無いのに降り積り沈澱し、あるいは圧し固められ、変質し、また何かの拍子に掘り返されて、それは果たしてよく燃えるだろうか。そんなことを思う。

ネットは長いこと広大な海に喩えられて、つまりそこには陸地は無かった。いつの日か、降り積もった遺影の泥土、それにちょっとした地殻変動に揺すり動かされて許々袁々呂々と、そこに幾らかの陸土が生まれるだろうか。青紫の薄雲たなびく地にどこからか鈴の音がさやかに走る。






2021年1月15日金曜日

202101115

9:30 現在、コーヒーはすでに一杯。

昨晩も買い出し。なにやらパン類が大量に値引きされていた。マースダム・チーズも買った。スイスのエメンタールに対抗してオランダで作られた、比較的歴史の浅い、大量生産向きのチーズらしい。薄くスライスされた穴あきチーズ。均質に柔らかいのがファストな印象だが、ミルクにナッツの苦み。

10:30 現在、コーヒーは二杯。ペルーのウォッシュト。青リンゴ系の爽やかな印象だが、後味にナッツの戻り香か。

月もなく星も鈍い、暗い夜だった。視界の全てが質感についてのっぺり均質だ。

朝は割と早く起きた。曇って薄暗く、車の往来する音やらがよく響く湿りだ。最近蛇口の締まりが悪い。

コーヒーは飲めないけれど豆を挽いた香りだけ楽しむという人の話を聞いて感心した(それもなかなかの上質な豆だ)。

出た分だけしか出ない言葉だ。


2021年1月14日木曜日

20210114

11:30 現在、コーヒーはすでに一杯。

潜在的に誰もが病気だ。むしろ病が全ての基礎としてあるのだろう。無数の病が互いに押し合い圧し合いバッティングし合ったところに生じる危うげな真空地帯、それが主体のポジションなのだろう。

郵便物が届いた。一時期よくいらしていた、気の良い配達員の方だ。我が家を担当する配達員の方は、だいぶ前から、社を問わず、皆揃って感じが良い方ばかりで頭が上がらない。

2021年1月13日水曜日

20210113

11:00 現在、コーヒーはすでに一杯。

昨日までの曇天も明けて冬晴れの今日、寒さも一緒に幾らか和らいだようにも感じるが、それでもココナッツ油、オリーブ油は当然として、椿油までが白く濁っている。色々な油を凝固点の高い順に並べて観察してみたいと思う。

昨夜の夢。先ほどまでは覚えていた気がするのだが、忘れてしまった。屋外だった気がする。

12:00 現在、コーヒーは二杯。

日記とはなんのために書くものだったのか。いつかの日に現在を思い返すためか。現在から先忘れないためか。過去を現在にあって思い出すためか。現在の、決して少なからぬ時間を、現在ではない時間のために費やすることの意義はどのようなものか。そもそもそんなことがどうして可能だというのか。書くためか。読むためか。残すためか。棄てるためか。

どこかの時点で確かにあったものが毀損されたり、失われたりすることは、初めから何も無いこと、もとより何も無かったことにされることよりも、一般的には遥かに強く嘆かれる。ゴミ袋に突っ込まれた期限切れの弁当、焼け焦げたHDD、泥水に浸された書物や芸術作品、根腐れした松の古木、自ら死を選んだ子供の遺骸、そうしたものを前にして、私たちはともすれば、いっそのこと初めからそれらが生まれたりなどしなければよかったのに、と嘆いたりする。これは不条理といえば不条理だ。喪失の徴し、灰、それは歴史書を常に嵩張らせて止まない夾雑物だ。

2021年1月12日火曜日

20210112

11:00 現在、コーヒーはすでに一杯。グアテマラのウォッシュト。昨日よりも少し甘めになったか。みかんのような甘み、ミルクを加えたチョコレートを澄み切らせたような風味。

昨夜は買い出しに出た。最近繰り返しで聴いている曲のフレーズが脳裏に走っていて、そういえば前回の買い出しの時はこの曲では無かったし、そもそも多分この曲は知らなかった。同じ道を、次回はまた別の曲のフレーズが走っているのだろうと思う。

思い立った時が行動する時とばかりに、スーパーの通路の真ん中に突然カゴを投げ出しては数メートル先の棚を確認しに走る女性がいる。商品棚の間をうろちょろ歩き回っては何かに悪態をつく男性がいる。

帰って家事やら片付けた後は何やらずいぶんと疲れていて、アラームもセットせずに勝手に目覚めるがままにした。

夢がもはやネタに走っていて、いわゆるレンタル彼女的な、所定の時間美女が行動を共にするサービスなのだが、遊園地のボートライド・アトラクションのように水路に二人、船もなしに直接浮かべられて流されるシステムだ。振り向くと他のペアもまた同様に流されているのが見える。少しして気付くと美女は消えていて、学校脇を流れる、鉄格子で蓋をされた水路を一人流されており、ずぶ濡れのままロッカーへと荷物を取りに戻る。

起きた時間は割と普通で、数日前からの口内炎だかが吸い付くようで鬱陶しい。暗い室内に昨日買った食べかけの伊予柑のオレンジ色だけが眩い。 



2021年1月11日月曜日

20210111

11:30 現在、コーヒーはすでに一杯。

昨夜はこんなことあるかというくらいだらだらと寝付けなかった。けれど今朝目を覚ました事実がある以上どこかの時点では眠りについたのだろう。90%オーバーのiPhone のバッテリー残量がものの15分でたらずで30%代まで急降下する。昨晩もiPad のバッテリーが9%から上に動かず、やむなく太腿と掛け布団の間でしばし温めることで(太腿の冷えと引き換えに)復活させた。この事実からも寒さが主要な原因であることはほぼ確定なのだけれど、それにしたって東京の、それなりに日当たりも良い室内ぞと、それでも一応部屋の中のもろもろの表面温度を赤外線温度計で測ってみると、どれもおよそ2℃、3℃といったところだった。あーだわ。もはや気温を寒さとしてリアルタイムに感じられない。

12:30 現在、コーヒーは二杯目。今しがた届いたグアテマラ・アンティグアのウォッシュト。このグアテマラはとてもクリーンな印象だ。挽き豆の状態でどこか、蒲焼に振られた山椒のような、甘さ、香ばしさに下支えされた香味。強さに関してはともすればそれがピークで、抽出後には余計な焙煎臭が一切なく、初めから残り香のように滑らかで清潔に立っては薄らいでいく。

今朝は、食後だが、ガス台の上に乗せるタイプの焼き網で餅を焼いた。こんなもので中まで火が通るものか懐疑的だったのだけれど、なかなかどうして。

機械のために空調を入れるのは、少なくとも今のところは、全く考えていない。気温のためとはいえ、こうもバッテリーがしょぼくれるものなのか、問い合わせは改めてしてみようとは思う。ああ。


2021年1月10日日曜日

20210110

12:00 現在、コーヒーはすでに一杯。

11時間ばかりの睡眠。


また夢を見た。きっとまた学校。分厚いH形鋼を組み合わせた、太々と角柱状に立ち上がる校舎。外周部分を廊下が環状に巡り、リノニウム張りの床材の色が壁や天井に反射して一面に緑色だ。所々が小さな吹き抜けになったり、半階分高くなったりして、鉄製の手摺りと長短の狭い階段が至る所に絡み合う。通路はしばしば小部屋に塞がれて、扉を潜ったの内側は鉄錆臭い廊下と対照的に、使い込まれた木張りが薄暗く、段ボール箱や書類の山で居心地良くとっ散らかっている。廊下に周囲を囲われたフロアの中心部分は1メートルほど低くなったところにやはり緑の保護ネットを巡らして、野球部やらの練習場やらなんやらになっているようだ。


一昨日夜更かししたにも関わらず普通の時間に起床した昨日は全く体調が優れなかった。起きた直後こそ、してやったりと得意なのだが、その後丸一日の生産性はいつもに輪を二、三に掛けて最悪だ。

最近YouTube で公開された講義を少し流し聞きしたりした。この春以来、多くのこうしたコンテンツが一挙に容易に手の届くものになった。それ自体は、それを求める側にとっては良いことなのだろうが、同時に正直、少し空恐ろしい。

ご存知だろうか、18時から始めて2時間の講義の映像を視聴したとして、終わる頃にはなんともう20時なのだ。これは私には戦慄すべき事実であると思われる。現地に足を運ぶとは、そうした戦慄をなんとか宥め誤魔化すためにするものなのだろうとさえ思う。まだ外がいくらか明るいうちに現地入りし、そして出た頃にはとうに真っ暗だ。その暗闇にはなんだかよくわからない類いの高揚感に紛れて、あらゆる種類の諦めがどろどろと流し込まれている。


やはりYouTube上で、こちらはリアルタイムに配信されたギャラリートークも聞いた。仙台の広瀬川右岸、青葉山公園の立ち退き問題。私が2年前、2019年の3月に少し歩いたあたりからいくらか下流の一帯だ。

ここ10年来の私にとっての日本のイメージは、関東、常磐線沿い、そして岐阜でほぼ完結している気がする。

もう15時だ。一体なんなのだろう。






2021年1月9日土曜日

20210109

10:45 現在、コーヒーはすでに二杯。


起床時間は普通。寒い。夢を見た。やたらと変な角度で折れ曲がり入り組みドアだらけの学校の廊下のような空間を何人かでぞろぞろ歩いていたような気がする。昼時、移動式のデスクの天板に剥き出しのパンをいくつも無造作に転がした売店が出ていて、私は右手前に並んだ四角いサンドイッチ3種の中から蒸し鶏か何かが挟まれたものを選んだ。他のは鶏の照り焼きだった。裸のサンドイッチを掴んだまま小銭を探るのに難儀していると、店主である東南アジア系らしい面立ちの小柄な女性が見かねたように小銭を全部寄越してみろと掌を突き出し、一拍遅れでその意を解して応じようとした私はうっかり小銭を辺りにぶち撒けた。店主さんは爆笑していた。


昨日の夜は一本の論文を途中まで読んで、何かの弾みで流れ込んできた小顔体操を真似して血の味を味わって、踊って、また何か、布団に潜ったのち論文の続きを読み終えて寝たのだったと思う。 

夕食には玄米と味噌汁、とろみをつけた炒め物は失敗して、あとはホウボウを塩焼き。

コーヒー豆を注文した。

何かもう少し書くことがあったような気がするのだが。生きた側から生きてなどいなかったことになっているかのようだ。

2021年1月8日金曜日

20210108

12:30 現在、コーヒーはすでに二杯。スーパーの棚の最下段で埃を被っていたエチオピアはやはり相応の味だった。

昨晩は宣言発出の中継を空虚な思いで聞いてからの買い出し。良くも悪くも、さすがに今回は目立った混乱も見られない。強いて言うなら、いつも通りもやしと納豆が品薄なのと、イオンの売り場の目立つ位置に築かれたティッシュ箱の小さな山が在庫を誇示するためのものであったかもしれないくらいか。

pdf 文章の閲覧にiPad アプリのLiquidText を使ってみている。単語だろうが文章だろうが、気になった任意の部分をほいほい選択しては傍らに放り込んでおける、それ以上に余計な意味づけを差し当たりしないで済む、というのはありがたい。ただし代償として、元文章からのクリップ置き場の独立性が高すぎてアプリ外に持ち出して活用する術がなく、そのため使っている間は良いのだが、一歩離れた途端にとても前時代的な、閉鎖的なアプリに見えてしまったりもする。難しいところだ。


暴風の話題も東京にある身にはどこ吹くか、年末のような冬晴れの朝だった。胚芽米を炊き味噌汁をつくりノドグロの丸干しを焼いた。

2021年1月7日木曜日

20210107

10:00 現在、コーヒーはすでに一杯。エチオピアのナチュラル。

 昨晩は久々にいくらか本を読めた。説明するのが若干憚られる類いの音声をヘッドホンで垂れ流しながら文章に向かうという曲芸めいた方法が効いたのかもしれない。作業中の音楽などは一切受け付けない質の私にも、中身がほとんどないこれだと大分。

古本をいくつか注文。

今朝は比較的普通に起きた。背に荒天が控えているという噂の暖かい日だ。Amazonで注文しておいたCDが届く。以前から気になっていた3776の「歳時記」。新年に相応しい買い物だ。

年が明けたらまた上野にコーヒー豆を買いに行こうかとぼんやり思っていたが、まったくそれしか用事がないし、情勢的なのもあってなかなかだるいなあと思案。カルディの豆って美味しいのだろうか。

宣言とか暴動とか、まるで天界の諍い話のように聞こえるけれど、あれはあれで、彼ら自身私と同じような心地なのを、なんとか自分達の言葉へと繋ぎ留めようと必死なのかもしれない。それが前衛でもなんでもないということは変わらないけれど。

2021年1月6日水曜日

20210106

13:00 現在、コーヒーはすでに二杯。

今朝もだいぶ遅く起きた。反応しかない。世界の沈黙に正確に同期して私もまた沈黙していくことだろう。

2021年1月5日火曜日

20210105 澱

11:00 現在、コーヒーは一杯。グアテマラのウォッシュト。

昨日は体調が優れなかったので今朝は遅く起きた。どうにも視界にひん曲がった眼鏡は目測でひん曲げ返した。バッテリー残量乱高下のiPhone は布団に入れた。「乱高下」を「らんこうげ」と読むことをいま初めて知った。最近買ったシャンプーがどうも合ってない気がする。妙にオイリーで洗い流すのに毎度難儀するのもあって毛髪が混乱する。

昨晩もまた買い出し。すでにいつもと変わりない夜道だ。猫が横切りお互いに路上に固まる。門前の正月飾りはまだあちこちに未練がましく残っていて、どれも松の青いであろう葉の細かい影だ。幼稚園だかの門前に据えられた門松の断面が真っ直ぐではなく、わざわざ少し膨らませて切断されていることに気付く。これにどういう効果があるのかは知らないが、手間はだいぶ掛かっているように思う。

今日が今年初の営業だった方の店の店内は案の定、もやしや納豆、パンのようなケチりどころの食材がスッカラカンで、なぜか玉子は激安だった。他の店では半額にされて一袋だけ残されていた巨大なのし餅の板を買って帰った。

月は見えない。空はなんだか掠れたように白けて見える。これはあるいはマスクの色なのかもしれない。視界がとても狭い一年だったと思う。夜の街に静寂が戻り、ヴェネツィアの運河が澄み切ったところで、人間の生存域は言うまでもなく汚泥が沈み積もる水底のほうだ。

2021年1月4日月曜日

20210104

12:30 現在、コーヒーはすでに二杯。

昨晩体調がいよいよでズブに寝た。iPadもiPhoneも眼鏡も植物もズブズブだ。金にものを言わせて何もかも外注してしまいたい。葬式とかまじでいらないからさ。ただアヒルのオモチャの声だけ宜しく。





2021年1月3日日曜日

20210103

10:30 現在、コーヒーはすでに二杯。グアテマラのウォッシュトとエチオピアのナチュラル。グアテマラはスーパーの専門コーナーの安いやつだったので正直どうかなと思ったが、香りは若干焦げっぽさがあるものの、口にした第一印象は意外に柔らかい質感、ただしその後軟口蓋を焦げっぽさがかすかにざらりと擦っていく。少し混乱が窺える印象。エチオピアは心なしか干した帆立のような旨みを感じる。

昨日は日中どうにもだるかった。そこに加えて夕方からは新年早々階下の物音だ。ヘッドフォンのノイズキャンセリングを走らせて縮籠る他ない。ものの配置などはとくになにも変えてはいないのだが、ここのところ室内がなんとなくガチャついているように感じる。パサついた埃が絡む。

昨夜は買い出しに出た。何やら客層がいつもとまるで違う。大学生くらいの同年代の連れだちとか、女性と、いかにも連れてこられたような風のその夫との足並み揃わぬ二人組とか。予想はしていたが、相変わらず野菜はほとんど見たらない。真空パックの赤い干し魚やら縄で縛られたカニやらの正月向けの魚介類はまだ割と値崩れを踏み止まっているように見える。のし餅はすっかり固くなっていた。地元の豆餅を久しぶりにまた食べたいと少し思った。

帰り道の東の空の低みに伏せ隠れるように、大きな月が照っていた。夜も更けてからのぼる越した月はなんだかいつものっぺりと黄色くて、箸で摘んでも崩れない卵黄だとか、栄養ドリンクを飲んだ次の朝の尿だとか(知らないけれど)、そうした生々しさを感じてしまう。こちらの視界の中心に月を係留する放射線が住宅街の電線と擦れ合った軌跡が黄色く光っている。

どろどろとした睡眠の明け。年も明けて三日目だ。

2021年1月2日土曜日

20210102

11:00 現在、コーヒーはすでに一杯。エチオピアのウォッシュト。多めの豆で淹れた。マンゴーやらのねっとりした甘みがより強調される。

寝過ごした。だるい。音というものはうるさい。

2021年1月1日金曜日

20210101 コントラポスト

11:00 現在、コーヒーは一杯。エチオピア・イディドのナチュラル。エチオピアらしい(のだろうか)、舌の上で一瞬姿を眩ますような質感に若干狼狽える。そうする間にも口内に蜜柑のはじけるような甘み、油柑のぎゅっと絞まるような酸味が弾んでいく。


まあ折角なのでと、少しだけおせちらしいものをいくらか用意した。

・玄米(残り物)

・雑煮(昆布と鰹節/鶏肉、人参、蕪、ほうれん草、高野豆腐)

・身欠き鰊の甘露煮(一昨日作ったやつ)

・出汁がらの炒り煮(昆布、鰹節、人参、高野豆腐)

・ブラックアイビーンズのトマト煮(残り物)

・だし巻き玉子

雑煮は鰹節から削って、出汁を引き、あり合わせの肉と野菜。餅は買ってないので高野豆腐。昨日の夕食の豆のトマト煮は南米めいているけれど、色が赤いのでめでたかろう。出汁の一部を取り分けて作った玉子は少しシャバシャバにしすぎた。


静かな年末の夜だった。隙を埋めるように大気がくっと締まるように冷たく、コーヒーが淹れたそばからそれを追って冷えていき、ビーカーの中で霜をおろして白く濁っていく。

それでもなお人のあるとは。0に1加えてあるそれが独りでなお人であるとは。2に飛んで21年のコントラポスト。