昨日はかなり遅く布団に入り、経験に学んで目覚ましを掛けずに寝たのだが、結局いつも通りか、むしろ少し早いくらいに目覚めた。本を少し読んで、ナマクラになっていた包丁も研いでしまった。
手持ちの砥石はやはりいまいちであるように思う。むしろ刃がガタガタに零れるか、そうでなければマクレが千切れて金属の細い糸屑が出来てしまう。だいぶ前から濡らした砥石に耐水ペーパーを張り付けて研いでいる。
昨日は昼過ぎから買い出しに出てしまった。歩道橋のペンキの水色がぽけっと眩い。スーパーの店先に赤リンゴと青リンゴが隣り合わせで並べられている驚きだ。こちらから潜り込むか、向こうから押し入って来るかの夜の街並みとはまるで違った、そこにあればそれはあるだろう、とばかりの自然主義的な開けだ。
買い出しで日中の後ろ半分が終わってしまったような気がする。
松本隆『韓国語から見えてくる日本語』を読んでいる。在日コリアンの間で使われる混交表現の例として、もともと朝鮮語には見られない、日本語の「〜してもらう」(行為の受け手を主語とする)に相当する表現が生み出された事例が挙げられている。もともと朝鮮語の「パッタ(もらう)」は何か具体的なものの受領についてしか使われないのだが、これを日本語の「〜して・もらう」と同様、動詞の後ろに補助動詞的に付加してしまうのだそうだ。
と、上の数行足らずのの説明文を日本語で、しかも元テキストがあるにもかかわらず、記すだけで何十分もかかってしまった私は一体なんなのだろうと思う。言葉は兎角、水平に長い。これが酷くおそろしい。頭に気を取られていると知らぬ間に尻尾が捻れている。慌てて取り繕って顧みた頃には首が捩じ切れていたりする。동에 번쩍 서에 번쩍 (東dong へひょいと、西seo へひょいと)というわけには行かない。川の流れには、それに流されることでしか介入出来ない。時間を辿り返したと思って、ふと壁に掛かった時計を見るとご丁寧にも踵を返した回数分がすでにそこから差し引かれており窓の外は真っ暗だ。
呻き声も漏れるというものだろう。その呼気が喉を擦ったその向きこそが正確に、彼の生かされる向きそのものだ。
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