2020年10月29日木曜日

20201029

8:00 現在、コーヒーは一杯、コロンビアのゲイシャ。粒度を細かくしたのもあるのか、また違った印象。もともと、紅茶を思わせるフレーバーというのが、その枯れ草の香りと収斂味の産物なのか、どこか舌の上の一帯に、さーっと広大な空白の域(たとえば一滴の洗剤がフライパンに浮いた油を一瞬で淵の方へと押し遣るような、疎水性の域)が開き、そこに鈍く雨の予感を含み込んだ風が吹き抜けるような感覚を与えるとすれば、今回はその風が凪いでおり、置き放たれた空白に立ち尽くして、露を落とす大気の微かな湿り気を皮膚に感じている。書いていてなんとなくDeath Stranding の風景を思い出してしまった。


昨日はなんだったんだ。平倉圭「動物に命令すること」を読んだ。2015年1月開催のシンポジウム「新たな普遍性をもとめてーー小林康夫との対話」での短い論文で、いまとなってはweb 上での在処がわからなくなってしまっているのが残念だ。

動物と話すこと。動物に命令すること。動物を名前で呼ぶこと。言葉が縁取ろうとするそのひろがりの際の未だ見通せぬ約束へと、ともに飛び込むこと。

言語の内で話す限り、私たちは常に他者の口で語り、私たちは常に過去の反復として語る。異種間の対話とは、そうした反復の外部において、全く即興的に都度やり取りされる試みの前線である。相手はおろか、私の身体がいま、果たして何を言っているのか、「何かを」言っているのかさえも一向にわからないままに繰り広げられる、それはダンスだ。

それは言語以前の経験である、のみならず、時間以前のひとつの出会いだろう。

「探せ!」…しかし何を?「フライデー!」…しかしそれは誰のことだ?すでに全てが確定した未来から今を振り返る素振りをして、「それは何であったことになるだろう」などと言うことは出来ない。それはその未来に向けて、投げやりなまでに開かれており、私たちはそれを囲い込むことなく、訳のわからぬままに、目の前の他者をそっと名前で読んでみる。


ジャック・デリダの『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』の参照があったのかどうかを私は知らないけれど、  


あ駄目だ日記つらい


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