9:15 現在、コーヒーは二杯目。パプアニューギニアのウォッシュト。
昨晩の夕食
・白米
・筑前煮(人参、大根、蓮根、里芋、こんにゃく、干し椎茸、鶏むね肉)
・鯖の味噌煮
・人参の葉の煎ったもの
・蕪の葉と玉ねぎのキッシュ風
買い出し翌日の献立の混乱は常とはいえ、昨日はまた随分とごりごりとこれに取り組み、午後一杯を潰した。最後のキッシュ風というのはベジタリアン仕様のもので、昔あちこちから書き写していたレシピのメモのなかから見つけた。玉子とチーズのかわりに厚揚げと白味噌を使うという、まあこのジャンルの常套手段ではあるのだが、あらためて材料と工程を並べられると、これがキッシュ風と呼ばれうるものになることの奇妙さはやはり大きい。
みじん切りした蕪の葉と玉ねぎを炒め、水切りした豆腐(厚揚げはなかったので)と白味噌はミキサーで潰す。これら全てと塩胡椒を混ぜて型に流し、オーブンで焼く。以上。
果たして、流石にキッシュのようにはしっかり固まりこそしないものの、風味は驚くほどに蒸し焼きされて固まった玉子とチーズのそれだった。蕪の葉はだいぶ緑も濃く育ち切ったもので、青臭く筋っぽくなりはしまいかと心配だったが、玉ねぎの甘みと合わさって良い具合にほどけている。なにかのソースに良いのではと思う(見た目はサイゼリヤの「ディアボラ風」ソースに似ている、食べたことはない)。
ベジタリアンやマクロビオティシャン向けの「もどき料理」、だいぶ昔に興味を持って、しかしえてして若干手に入れづらい、もしくはそんなに使うものでもない、材料をわざわざ買ってくるのも億劫だったので、大抵は代用のあの手この手を面白がって見て回るだけだったジャンルだ。
料理に正統な変化の系統というのがもしあったとして、そこから踏み外した、割と鬼っ子の部類に入るのがこの流れだと思う。ある食材が持つもろもろの性質を目や舌の上において模倣すべく、あちらこちらから文脈も節操もなしに召喚されてくる素材たち。高野豆腐、アーモンドプードル、タヒニ、テンペ、ココナッツ、各地の豆や雑穀、調味料…。これはこれでなかなかにグローバリズムの産物だ。そもそもこの調理技術の発展は、それが「もどき」である以上、すでに肉や乳酪や精製糖と小麦のケーキを食べた経験がある舌によって方向づけられている。その舌、酸いも甘いも噛み分けるその舌で、我々はこちらを選ぶ、というわけだ。
夜、『斜陽』を読み終えた。アメリカ製のグリーンピースの缶詰でつくったポタージュからはじまる小説だ。更級日記もローザ・ルクセンブルクも聴き齧る主人公だ。
人間は、みな、同じものだ。
なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。
(太宰治『斜陽』)
地形
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