9:30 現在、コーヒーは一杯。パプアニューギニアのウォッシュト。
ここしばらく、「コーヒーが好きであり、自分なりに色々読んだり試したりするように心掛けている」と言ってもよいかな、というくらいの振る舞いをしていたつもりだけれど(躊躇いなしにそう言えるだけのものを私はこれまでひとつとして持たないままに今まであった)、とんでもない、私は本当に何も知らないのだという分かりきった事実が改めて闖入してくる。Kindleで200円で買った200ページばかりの初心者向けムックさえ、知らない内容で一杯だ。
キャベツのトーレン。汗を吹いてふやけた薄緑とターメリックの黄色が馴染み、そこに褐色のマスタードとココナッツファインの白色。塩辛い。バスマティ・ライスを炊く。この米に特徴的という香りも私の鼻にはいまだにぴんとこない。もとより視界に映らぬものを探すのはとてもつらい。
昨夜の夢でもまた私は誰かと喧嘩していた。日中の私には決して湧き上がることのない弛まぬむかつきの滞留。「怒りが爆発する」とは言うけれど、怒りはそれ以前にまず、ある種の持続力を要求するものだ。突沸してたちまちにおさまるような怒りは怒りとも呼べまい。
何かを追う夢、何かに追われる夢をよく見る。いよいよ迫る破滅の影に、しかし私の脚はプールの水を掻くようにのろのろとして進まない。あるいはもっとずっと昔、子供の頃には、よく平泳ぎで空を飛ぶ夢を見た。脚の内側に大気を絡め取るようにして、じわりじわりと浮かび上がった地上5メートルばかりの上空から路上を見遣る。どちらの夢でも、その大気は普段呼吸しているものよりもずっと私に濃密で、四肢の運動に払い遣られることもなく、むしろその中でもがく私をいよいよ絡め取って滞留させる。
この滞留のうちに、片栗粉でとろみのついた汁に落とした溶き卵が房を成して凝り固まるように、夢の中の私の怒りもまた可能になっているのではないかと思う。
昨日、熾烈な抽選を勝ち抜いてPS5を手に入れた人たちのTweetが流れてきたのだが、その中のある報告に胸がざわついた。なんでも、PS5のコントローラー表面と本体のパネル裏面は細かい梨目加工になっているのだが、それをよくよくみると、その梨目は実は細かい○×△□マークがビッシリちりばめられたものなのだという。これはもう、いかにもなにかの悪夢にありそうな質感のお話ではないか。
この悪夢的な不気味さの源はなにかといって、まあ、まずはそのスケールによるものだ。私たちが自らの手で何かを作り上げようとするとき、ふつうそのデザインは、私たち自身の生身が持つ分解能の範囲内で成される。色は可視光、音は可聴域から。目に模様として映るスケールはこれくらい、操作表示としてならこれくらい、握り締めるならこの程度だし、その上を歩き回るならあのくらい。そうしたスケール設定を期待して向かった先でしかし踏み外すとき、私たちはすぐ、自分が何かを間違えたことを悟り、間合いを取り直そうと距離を置く。
しかしそれだけであればよくあることだ。用途を間違えていたのかもしれないし、あるいはそもそもそれは「技術」の産物ではなかった、「自然」の所産だったということかもしれない。私たちがその内に住っている環世界の外部には、広大な「わからなさ=自然」の海がタガも何も無しに無限に広がっている。私に対して他者として立ち現れることさえないそのノッペラボウの自然をしかし私たちは、あたかもそれがはじめから私たちに向けて書かれていたかの体で、抜け抜けと読み上げては自身の球体の内側に組み込んでいく。
問題となるのは、そうした自然への探索作業のさなかに、不意に、全くお呼びでないタイミングで、ふたたび技術の痕跡に突き当たってしまう時だ。全てを自家薬籠中に取り込んでいく厚かましさを振るう余地も無いほどに、はなからこちらに見るべく与えられているかのように、開けっ広げに眼前に姿を現してくるとき、それは不気味だ。火星表面に横たわる2.5kmに及ぶ人面岩であるとか、遺骨の海綿質を顕微鏡で拡大していった先に映り込む微小なシリアル・ナンバー(『ブレードランナー2049』)は、私たちの目に不気味だ。
そうした場違いな品=オーパーツ(Out-Of-Place-ARTifactS)に出くわすとき、これまで揃っていた私たちの歩みは激しく動揺する。足幅はばらつき、足並みが乱れる。常識=良識 bon sens のスケールが揺らぎ、リズムが破綻する。私たちはその場に渋滞し、滞留する。逃れようとするも脚はすでに縺れ、ぶよぶよと膨張し、もはや足裏の冴えた感覚も確かなグリップも期待すべくもない。
「なんということだ、そうだ、これはなにかの悪い夢だ、私たちは見られている、私たちのこの醜態を見てほくそ笑んでいる誰かがいる、それは神か?私たち自身か?」
私たちの目に小さすぎる○×△□に出会したときの悪夢的光景とはこのようなものだろう。この地球、「私たちのために創造された」この地球の大気は、いうまでもなく、他でもなく、"私たち"の四肢に、呼吸器に、それこそ「空気のように」透明で、軽やかで、無味無臭だ。大気のこの透明感は、"私たち"の同質性にこそ保証され、同質なる私たちを中心に、同心円状に広がっている。しかし円環の片隅が不意に何か、別の円環と衝突するとき、同質性の円は揺らぐ。したがって大気は濁り、澱み、それまで意にも介さなかった重みが肩へとのし掛かる。こうしたズレ、こうした澱みの中に、例えば私は泳ぎ、脚を掬われ、怒り続けるのだ。
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