2020年12月6日日曜日

20201206 埃

11:00 現在、コーヒーはすでに二杯。在庫が底をついているので明日にでも買いに行けたらと思う。

買ってまだ数月のiPad のバッテリー表示がなぜか60パーセント代から上に上がらなくなってしまい悲しい。仮にバッテリー保護のための仕様だとしても、まさかなんの通知もないというのは考えにくいと思うのだけれど。完全放電すべしという意見が見受けられるので一度試してみようかと思う。iPhone もこの夏頃から急にバッテリーの消費がはやくなったし、今朝気付けば靴下の踵に穴が空いていた。部屋着のズボンの膝も先日裂けた。

昨日の夜は事情あって急遽ドカバコ部屋の一角の整理をした。段ボールに積もった埃の質感というのはなぜああもざらざらと胸を抉ってくるのだろうか。微細な粒子状の虚無が指紋に絡みついてはぽろぽろ脱落していく。

撫でる指が離れたそばから忘れていく。その空白に次の文字が滑り込んではまた揮発していく。私の指は目は耳はむかしから上滑りするそれらで、絵画とかに興味を持った(ということになった)のも、きっとまたそれゆえのことだった。その線や色斑のひとつひとつにどんな意図や願いや呪詛が込められていようと、「私には知ったことではない」。ただそれに指を掛けて攀じ登れるかが全てだ。

画面の埃を払う払わないの判断は、その作者の側に許されているのと同程度にそれは鑑賞者の側にもまた許されている。いや逆だろうか、どちらにも判断は許されてはいないのかもしれない。どちらにしても同じことだ。どのような形であれ、ある作品に関わる人間の横暴を、降り積もる埃は曝け出す。

踏み出そうと踏み止まろうと、埃は騒ぎ立てる。埃に覆われたフィールドを前にして、私たちは罪の意識に苛まれる。白々しい自責だ。落ちた涙が床を覆う埃に絡みとられて、その輪郭を微細に毛羽立たせながらじりじりと薄く広がっていく。乾いた跡は木肌を透かしてわずかに黒い。崩折れるがよい。立ち退くがよい。それもまた野だ、山だ。


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