2020年12月8日火曜日

20201208

11:30 現在、コーヒーはすでに一杯。コロンビア のウォッシュト。高高度の薄い空気を思わせる、なめらかで冷たい熱のポテンシャル。

寝過ごした。暖かい日だ。iPad の放電を済ませて間もないところなのでこれはiPhone で打っている。

昨日は久々にギャラリーに入った気がする。10ヶ月ぶりといったところではなかろうか。岡崎乾二郎「TOPICA PICTUS きょうばし」(南天子画廊、2020. 11. 6 - 12. 12)。


12:00 現在、コーヒーは二杯。また別のコロンビア。なんだかフルーツ味のキャンディのような甘酸っぱさが出てきた。

iPad とキーボードに切り替えた。息継ぎのスパンとかが小さい画面にフリック入力の時とはまるで異なる。 


白い壁に並ぶ小さな画面の数々、そのそれぞれにおいて色々の絵の具の応酬が静かに盛り上がっている。画面に押し付けられた絵の具がキャンバスの織り目を拾って細かく粒立ったところから、そのままぐっと盛り上がって他のストロークを飲み込んで画面の端に達する。ストロークの終端に小さく突き出た角は天井からの照明を受けて、白い壁面に弁当のバランのような影を薄く落としている。ストロークのエッヂはその上に更に絵の具を盛られてひしゃげたり、その下に既に広がっていた絵の具をソリッドに横切って後背の色面へと落ち着かせたりする。絵の具が支持体と媒体の間をしきりに往復し、互いを部分的に拾いあげては翻案して放り投げていく様は、まるで連歌のようだ。それらの応酬の成果は、少し離れた位置からふっと振り返った時にはまた目に鮮烈で、たとえば車窓のそばを過ぎ去っていく雑多な民家が不意に途切れた先に覗き見える海のきらめきのようで、なにか放り出されたような心地を覚える。


ここ数日、すこしづつパオロ・ダンジェロ『風景の哲学 芸術・環境・共同体』を読んでいる。風景をめぐる議論が重要なのは、それが全性よりもむしろ個別性を、それもその都度更新され続ける個別性、その揺れ動く枠組みを扱うからなのだろうと思う。




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