2020年12月11日金曜日

20201211 肉、毛髪、芸術

10:30 現在、コーヒーはすでに二杯。いずれもエチオピア・グジのウォッシュト。この二つの豆はもともと同じ農園の同じ処理のもので、ただし片方は焙煎の際にうっかり狙いを外してしまったものらしく、訳あり品として安く販売されていた。面白いので比較用に正規品と併せて買ってみたものだ。エチオピアらしい、小粒で固く締まった豆が頼もしい。今回は蒸らしの湯量少なめ、抽出は3分以上かけてだいぶじりじり淹れてみる。

正規品はライムやイチゴ?といったフルーツの甘み(しかし酸味は意外にもあまり全面に出てこない)が、しかし混じり合うのではなく、たとえば民俗玩具のパタパタの板が上から順にひっくり返っていくように、くるくると印象を翻していく。
訳ありの方は成る程、ライムのような青々としたな印象は引っ込んで、熟成してたっぷりとまとまった甘みになっている。加えて酸味もこちらの方により強く感じるのだが、その中にどこか、よく焙煎されたきな粉を思わせるような(香ばしさというわけではない)風味。木酢と言ってしまってよいのか分からないけれど。


かったるいながらも昨晩も買い出しに出る。二日ぶりに外に出て、足を前に出す動きが少し良くなった気がする。すっと真っ直ぐに軽くのびてそのまま足裏は染み込むように路面を捉えて、上体もそれにごく自然に付き従う。
呼吸も悪くない。背筋の反りを少し調整した。今までは重心を落としているつもりで少し反りを強くしすぎて、それが腹の方に突き刺さって呼吸を圧迫していた。実のところそれは喩えるなら閉じた傘の柄の部分を握ると先端部分は自然と少し斜めを向いて地面に突き刺さっていくような状態で、力点がむしろ上の方、肩のあたりに寄ってしまっていたのだと思う。
対して今はバットの細い方の端を手のひらに乗せて立てると安定するように、上体の重みが無理なく脚まですっと降りていく。胸の圧迫を避けるためとしても張り過ぎず、背骨はそれを釣り鐘のように支えるとしても誤ってそれに凭れかかることなく、椎骨の隙間の開閉を自由にするつもりに楽にして、肺の伸縮に順う。横隔膜を押し下げようと肋骨や肩甲骨周辺の筋肉を変に力ませるのも良くない。


身体は割りかし容易に書き換わる。それが良いところだとする向きも、それを危険視する向きもあるだろう。ドゥルーズのドラッグやマラブーのプラスティックの文脈の中でたとえば千葉雅也が筋トレするのは全く筋の通ったことだ、そうなのだけれど、これについては正直どうなのだろうと思うところもある。

哲学の歴史の中で、しばしば人間は世界の「ダブつき」として定義されてきた。そのダブつきにおいてたとえば重かったり暗かったりするその世界=私の一致から、不意にぷつりと切り離されたものとして生み落とされるのが、シェリング的な意味での芸術作品だろう。それは私たちをある種の隔たりの中へと突き放す。この隔たりにおいて芸術作品はあるいは高く屹立し、あるいは他愛ない散文として忘却の内に吹き曝されていく。


絶え間ない細胞分裂の波に湧き立つ身体から脱落した爪や毛髪といった附帯物は、生から脱落している、それゆえに身体を置き去りにして永遠である。磨き上げた大理石の床の片隅に、風呂場の排水溝に、古本の見開きに、それは街路のあらゆる微細な隙間に深く絡み付いている。



  







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